~第八章 死の克服~
『死せるヨガ行者、今猶生く』とは、カリフォルニア州ロスアンゼルスにある『真我実現の会』の創立者パラムハンサ・ヨガナンダの逝去を報じたロスアンゼルスの各新聞の見出しでした。新聞の記事にはこうあります。『パラムハンサ・ヨガナンダの遺体はこの地の本部に静かに横たわっている。遺体安置所の係官達は本日故人について驚くべきことを発表した。
氏の肉体は死後二十四日にもなるが、専門的立場から見ればまだ死んではいないという。ビルトモアー・ホテルでスピーチをしているうちに急逝した故人の遺体は、青銅の棺に納められた後に密封され、三月七日より同二十七日まで毎日係官たちの観察下に安置されていたと、遺体安置所長ははっきり言っている。
「パラムハンサ・ヨガナンダの遺体に視覚的には何ら腐敗の徴候がないのは、われわれの経験上最も異常な例であると、遺体安置所長は公証書の中で述べている』(1)。さてそのヨガナンダの遺体のことですが、これは何も奇蹟ではありません。わたしたちは何でも六百年もの間動きを止めたまま横たわっているという人体を見たことがあります。
わたしの曾祖父も随分前にそういう人体を一つ観ています。それは丁度今のカシミールとパキスタンの国境線の北にあり、今でもずっとそこにあります。その行(ぎょう)は勿論インドで惹起された色々の事件、始めは回教徒のインド国内侵入、次には幼児婚姻制度、更にインドに根深いカースト制の押付けなどへの抗議として為されたもので、それ以来ずっとそこにあるわけです。
わたしが見てからでも、かれこれ十四年になりますが、わたしは第一次世界大戦の時、ずっとその近くにいたものです。丁度その頃、この地方の北にある山脈で約二百名の英国兵が敵のワナにかかってとじ込められたので、パキスタン国内を安全に脱出しようと企てていました。結局、インド国内にやっと入ったのですが、その時に彼らはこの人体を見たのです。
隊長の大尉はインドで永年過ごした人だけあって、インド人を大変尊敬し、インド人もまた大尉を尊敬していました。それで大尉は部下たちに、もしこの人体を観たければ此処で隊を一時休憩して観せてもよいが、絶対にその人体には触れぬこと、土地の人々の気持ちを尊重して触れぬと誓うこと、などを注意したのでした。
この兵隊達以外にも平素からこの肉体を観に行く人があんまり多過ぎる為人体の横たわっている場所にある天蓋の周りの敷石が磨滅しているほどです。さて兵士一同が観終ると、部隊はそこから少し前進して夜営のキャンプを張ることになりました。キャンプの準備が終ると、或る軍曹が隊長に外出の許可を求めてきました(この話はわたしが隊長から直接聞いたものです)。
隊長は軍曹にこう言いました、『わしにはお前のもくろんでいるのが解っている。お前は例の人体に触ってみたいんだろう。いいか、お前がそれに触らぬと誓わぬ限り、わしはお前の申請を認めん』。そこで軍曹は誓いを立ててようやく外出許可を貰い、例の人体を観に出かけました。その頃の将校達は小さな通称乗馬鞭を持ち歩いたものですが、軍曹はその人体のところに寄ると例の乗馬鞭で触ろうとしたところが、突然ぶっ倒れてそのまま死んでしまいました。
大尉が人にこの話を打明けたのは私が初めてでした。勿論この話を聞いた時最初わたしに閃いたのは、誰かがその場の様子を窺(うかが)っていて、復讐のために軍曹を射ったのではないかということでしたが、大尉の話では、大尉自身すぐそこへ駆けつけて軍曹の死体を丹念に調べたが、それらしい痕はなかったそうです。この事件はすぐにロンドンの陸軍省に報告されたので、今でも記録に残っている筈です。
話は変わり、わたしたちは実験室でいわゆる死の状態について、実験をやってみました。このテストはわたしたちが考え出したものではないが、とにかく一台のカメラごとに一秒間で数千回の露出を行っての実験です。これによって急速に動く一個の光点に一個の像を結ばせます。撮影をすましたフィルムには無数の光点の集団が現れ、それから完全な像が出来上ります。
次にはこれを大きく拡大して再生し、今度は倍率を落して普通のスクリーンにかけられるようにすると撮影ができて、一個の生命素の完全な形が現れてきます。後数時間の寿命しかないと自分でも覚悟している病人達が相当私達の許(もと)へやってきて、観察の対象になる事を申し入れてきましたが、そういう場合まず担当医者が普通いわゆる死の起きた時間を本人が死んでから調べます。
その体重を秤ってみると約十一オンス減っていることが秤の上に現れます。その時秤の真上に死体から出た光の放射体(2)が見えます。この生命素(3)には智慧と運動と意志とがあって、これに干渉するとスルリと抜けて、まっすぐ上にあがります。天井をつきぬけてあがります。わたしたちは四台のカメラを別々に据えてそれを調べてみました。
床の上においてあるカメラに生命(4)が写らなくなると、上のカメラに現れまだエネルギー(5)を放射している証拠がはっきりします。そこでもう一度干渉すると横に動き、放射体は壁をぬけて行き、こちら側のカメラに写らなくても向こう側のカメラが捕捉します。そこでわたしたちは、生命素が逃げないようにしよう(6)と思って、アルミニュウムと鉛の箔で出来た円錐形の干渉函を造って、死体の上にかぶせてみることにしました。
すると干渉函を置いて一分もたたぬ内に死体が生き返っています。ところが生き返ってみると、もとの肉体には前の病気の様子は全然なくなって、明らかにその病気には免疫になっています。しかし、その理由はわかりません(7)。現在、或るグループがこの実験をしていますが、その将来に期待している次第です。
いずれその時には、生命素が大きなエネルギーをもっているのは、肉体に戻ってきた場合、肉体更新するためである(8)ことが明らかにされるでしょう。先程話した死から蘇った三人は、実は皆ペスト患者でした。その中一人は自分が免疫になったことを示すために、今ではペスト関係の仕事に携わって出歩いています。
今一人はペストを恐れているため、外出を強く勧めたことはありませんが、生き返ってから七年もたった今日、まだ再感染したことはありません。三番目の男はわたしたちの仕事に全く理解がないので、これはもうどうにもしようがありません。さて、この生命素が病人の肉体から出て行く前には、ヴァイブレーションが低くなって肉体内にとどまっていられなくなり、やがて完全に押し出されてしまいます。
しかし、それでも生命素とともに創造された時の意志があるので、押し出される時にエネルギーを同化し始めます。こうして極めて短時間の中に、どういう状態の下でも新しい身体の形をとることができます。以上が間違いのない事実だと断言は致しかねますが、死後二時間から三時間後には沢山の身体が新しく組み立て返されるものと信じています(9)。
例の六百年もの間動きを止めたまま横たわっている人体のことですが、肉体に宿っていた本人の霊が別の肉体に宿って盛んに活動している話を或る人から聞いたので、わたしたちは二番目のものとされている肉体を持って生きているその現場をようやく探しあてて、彼の写真を撮し、停止している方の身体の写真と比べたところが、寸分違わず似ていました。
この霊の更にまた別の肉体も見ました。結局、わたしたちは彼の肉体を別々に四つも見つけた事でした。ところがインドには自分の肉体を別の場所に普通の人よりもずっと速く移動させることのできる人が沢山いる事をかねがね知っていたので、われわれは外部から何らかの形で影響を受けるおそれのない男を四名撰び、それぞれカメラを持たして正確に同時刻に同一人の別々の肉体を撮影する手筈をきめました。
こうして出来上がった写真を一緒に突き合わしてみると、四つの肉体と活動停止状態のまま横たわっている肉体とは全く一致していました。わたしたちは肉体は組み立て直せるものだと幾度も聞かされてきています。仮に或る人の定命(じょうみょう)が尽きて死の状態がやってきても、死体はそのままにしておいてすぐに新しい肉体を組み立て直すこともできるわけです(11)。
従ってわれわれは、死の関門を通ることに対しては、今までとは違った考え方をしなければならない理由がこれでもわかります。死とは自分で自分自身に招き寄せた一つの状態なのであるから、われわれはもっと大きな可能性のあるもっとすばらしい状態に入ることもできるのです。人は自分が崇拝するものに成ると、イエスは度々わたしたちに教えて下さいました。
もしわたしたちが何らかの「限られた状態」に入り込んでいるとすればわたしたちは限定を崇拝している訳です。しかし完全を崇拝し得ない人間は一人もいないのだから、完全を崇拝することによって限定から抜け出せるのであります。現在では、人間の身体は本来はどのような状態にも抵抗し得るものだといわれています。
もしわれわれが自分の想念を神なる原理に向けて動揺することがなければ、われわれは自分の周囲にある力を発動し、更にそれを強化して何ものにも侵されないようにすることができるのです。凡ゆる種類の完全なる状態が常に存在し常に生動しています。それと一体になれば直ちにそれは作動し始めます。さて、人間の身体から光が放射しているのをわれわれは沢山見ています。
その場合、これを撮影すると光が写真に現れもします。光(ライト)即ち生命(ライフ)です。別の言い方をすれば、光は生命が存在し得る媒体であります。もしわれわれがこれまでのように、老齢を終着駅とすることなく若さを以て目標とし、断乎たる積極的態度でこの目標に向かって前進するならば、青春を再現することができましょう。
今日の男女は永遠の若さを成就しつつあります。『人間がこれまで老年を崇拝してきたように、今度は迷うことなく若さ・美・純粋・完全を崇拝するならば、その通りになる。事実それ以外になりようはないのである』と、多くの東洋の哲人たちは言っています。しかし、こう申したからといって、何も老年をくさすわけでは決してありません。人間を老化させる物の考え方をただ示しているだけです。
人間を尊敬するのは結構だが、人間に現れている老齢を尊敬するよりは、彼が若さ・美・完全さを表現している程度に応じて、彼を尊敬する方がはるかによいのではないでしょうか。元来肉体は創造主の像(すがた)に似せて造られたということになっているが、理想はこの肉体にも当てはまるのであって、神性こそ人間の本質であると認容しても、肉体の上に若さと美しさと純粋さとが実現しなければ神性が十分に発現したことにはならないのであります。
大体人間は勝手に自分でいろいろな状態を描き出しておいて自分からそれに隷従しているものです。従って考え方が間違っておれば、行動まで間違ってしまう事もあり得るわけです。しかし又、「完全」に向かって努力すれば完全が出てくることは間違いありません。他のことは一切忘れて目的と一つにならない限り、人間は何事も成就し得ません。
非常に簡単な内容のものに至っては、その実現すべき内容を断乎として明確に言明するだけで直ちに成就するものです。故にただ一点、ただ一方向あるのみです。自分の想念を一瞬たりとも何か消極的な方向にゆがめたりしてはなりません。ただの一言も発しなくとも多くの変化が生じ、癒しが行われること、すなわち消極的状態から積極的状態の出てくるのをわれわれは目撃しました。
この事実はわたしたちにとって、積極的考え方と態度のあるところに必ず原理は顕現するという証拠になりました。但し、想念は確実に積極的でなければなりません。このようなことを自由自在に成就する力を現した方々がいわゆる大師がたであります。かく申し上げる所以(ゆえん)は自然の諸勢力を支配しておられるからです。この方々は完全な状態を何か稀な事象ででもあるかのような取り扱い方はなさいません。
完全とは、自然の決めたことに従う――それも常に従う――ことによって達せられる自然の状態なのです。この肉体は本来破壊し得ざるものです。それをわれわれが勝手に破壊させているのです。われわれが肉体に押しつけている想念と感情こそが、老衰・疾病(しっぺい)・腐朽を造り出しているのです。肉体の細胞はすべて一年もたたぬうちに更新されることは、今では周知の事実です。
およそ人類に押し付けられた誤謬のうち、最も大いなるものの一つは人間の定命を七十歳としたことです。ところがわれわれは齢(よわい)二千年以上にも達する男女を知っています(12)。二千年も生きられるのなら永久に生きられる筈です。『最後に征服される敵は死である』とイエスが言われたのは、まさにこのことだったのです。
イエスは、天の父とは、依って以て人類が成就すべき原理であること、生命を生きなければならぬこと、イエスの行いと教えとには何ら神秘とすべきもののないことを教えられたのであります。原理には変化があり得ない。その積りになれば、原理を故意に永久に見落すこともできるが、原理に戻った瞬間に、人は完全な状態に戻ったことになります。
そのどちらを撰ぶか、撰んだ結果はあなたの肉体が引き受けるのです。この原理を知り且つ活用する人は躊躇(ちゅうちょ)することなく水上でも歩行するでしょう。或る一人の人間が努力の継続によって或る事を成就し得たのであれば、誰にも同じ事が出来るものであると、あなたがたは度々聞いた筈です。その力は常に存在したし、又これからも常に存在します。
ところが実際にはその力がわれわれから引き離されているのは何故でしょう。われわれが不信の壁をつくりあげているからです。機械装置を発明する力は、同時に又、その装置が造り出す状態を瞬時にして出現させうる筈です。例えば、われわれは電話で遠距離を超えて話すことができます。しかし何らの仕掛もなしに遠距離を超えて話すことのできる人々も沢山いるのです。
精神感応(テレパシー)は明確な事実として認められています。テレパシーには大いなる力が潜在しています。それは神が神に語りかけることです。こんなことをいえば神を冒涜するものだとおっしゃる人も沢山おられるでしょうが、実はそれはわれわれが今生きているというのと同様に事実なんです。人間は四六時中、積極的な雰囲気の中で生活した方が遙かによいことを人類は結局学び取らなければなりません。
そうして初めて人類は大いなる前進をなすでありましょう。以上はわたしたちグループだけの結論ではありません。その他にも多くの人々やグループたちがこの線に沿うて働いております。以上の事実を活用すれば完全な調和、完全な自他一体(ユニティー)が実現されるでしょう。その時始めて人間は完成の極に達したことになるのであります。
以上のことを人類全体が信ずるか信じないかは、もはや問題ではありません。何故なら、以上を証明する明々白々な事実が多く出ているからです。イエスが『わたしは死を克服した』と言われたのは真理です。幾千万もの人々が真理を悟って、この肉体が不滅・純粋・完全且つ破壊し得ざるものであることを知るでしょう。
もはや神秘とされたものは去り、われわれは今や完全なる覚知の閾(しきい)の上に立っているのであります。
質 疑 応 答
問 大師たち以外に老化と死とを完全に超克に達した人を誰か知っていますか。
答 知っています。沢山います。しかし、あなたご自身にもできるのです。それには既に超克していると悟ることです、そうすればその通りになります。左様、年の頃は多分六十歳位で既に白髪、見るからに老人臭かった者が完全に逆戻りしたのを知っています。彼らは誕生日とか、年とかいうものなど、一切考えることを捨ててしまい、今では四十歳位にしか見えません。
問 子供達が学校にあがるようになってから、学校ではああ教え、教会ではこう教え、家庭は家庭で真理なるものを教えるというわけで、まちまちになるとどうしたらよいでしょうか。子供達はこんがらがりはしないでしょうか。
答 子供たちが真理を間違えないよう、こんがらがらぬようにしてあげることが出来ますよ。子供達にはまず真理に関する非常に簡単な言葉から聞かしてあげれば、意味内容を呑み込んで他の場合よりも深く理解するものです。例えば、『キリストはまさに自分の中にいらっしゃる』などね。子供達が遂にはそれにどういう反応をするか見ものですよ。大体が子供達は、大方の大人の思っている以上に大きな把握力を備えているものです。
問 あなたは第三巻の中で、もしわたしたちが自分のヴィジョンをもう少し高め、同時に注意を自分の中に向けるならば、わたしたちはイエスを本当に拝することができるようになるという意味のことを述べておられますが?
答 できますとも。而(しか)もイエスを拝してみれば、イエスとは即ちキリストであり、キリストは同時に又自分の接するすべての人々の中、すべての場所にましますことが分かるでしょう。
問 あなたは本当にイエスをご覧になり又話しもしたのですか、それともそれは心が造った幻影だったのですか。
答 いや、幻影ではありません。人間イエスは現に生きておられ、われわれは丁度あなたを写すように、イエスを写真で撮すことだってできるんです。
問 人間は本質的には霊的存在であって、常に光りを求めてはいますが、余りにも種々様々な信仰や教え、又それらに対する反対の多い現代では、どうすれば本当の真理を見分けることができるでしょうか。
答 人間は霊そのものです。霊に対してどのような反対がつきつけられようと問題ではありません。実相人間は常に不変のまま実在しているのです。それには反対も何もありません。ただ人々の我(が)の思いが反対しているだけです。
問 わたしたちが助けを求めキリストを呼べば、キリストは来られて祈りに聞き給う、というのは本当ですか。答 そのことについては、キリストのみ言葉にこうあります、『裡なるキリストを呼べ』と。キリストよりもそれがあなたに近いのです。それとはあなた自身、実相・神我のことです。では裡なるキリストを呼ぶことです。キリストは何時も人類全体と一緒に働いておられるのであるから、新しくキリストを呼んだからとてキリストは構いはされません。大体わたしたちがキリストを外に求めることがそもそもの誤りなのです。先ず第一に常に裡なるキリストを呼ぶことです。するとそれは外に出て全宇宙に拡がり、わたしたちの求めるものは何でも自分のものとなるのです。
訳者註
(1) 一九五二年三月七日ロスアンゼルスでインド大使ビネイ氏を主賓とする宴会場で一場の挨拶をのべた後に急逝した。詳しくはp.4,"Autobiography of a Yogi"by P. Yogananda,日本語訳『ヨガ行者の一生』関書院刊・巻頭三頁参照。
(2) 幽体を始めとする諸体。
(3) 「生命素」という原著者の用語は、この場合、極めて不適当であるが暫く原著者に従う。
(4) 生命そのものはいかなる機器にも捕捉されぬ。ここでは肉体を離脱した幽体・霊体を含む「生命体」の意。
(5) この場合、主として、光りに転化したエネルギーのこと。
(6) 幽体は半物質であり、死後三十六時間では瓦解し消散する。半物質体故、分子と分子との結合が極めて緻密である容器の中に閉じこめることは可能と思われる。しかし幽体消滅後は不可能。
(7) このような場合は、他界の高級霊が機能の破壊された肉体機構を修理したものと思われる。
(8) 一旦、死体より離脱した生命(霊魂)は、高度の悟りを短時間に開くか、他界の高級霊による修復を得ぬ限り、自力での死体更新は不可能であろう。
(9) 例えば、前掲の『ヨガ行者の一生』にもその例が二、三記載されている。
(10) 「分身」現象は本叢書第一巻第四章参照。日本では、徳川末期より明治初期まで生存した神人・国安普明師が著名。ハワイのヨガ指導者、当山益氏は農耕中自己の分身を視ている(御本人の直話)。
(11) 本叢書第二巻第三・七・八章参照。
(12) 特に本叢書第一巻第十六・二十・二十三章等参照。