~第九章 供給の法則~ 

マントラム(1)を唱えるのは催眠的なものであつて、その力に頼ることになって自己限定を起してしまいます。『わたしは○○の状態でありたい』などと言えば、その瞬間に、今まで存在はしていたがみとめなかったもろもろの善き状態に至る他の道を塞いでしまい、実現への道をただ一つに限ることになります。言い表し方が、不断に拡大して行く生命の在り方に全面的に一致しない限り、思いがけない形をとる場合があるものです。

早い話が、欠乏していることを強調すること事態が、供給をもたらすどころか窮乏状態をいよいよ悪化させるものです。正しい表現をすれば滔々(とうとう)と流れ入る筈の質料を、制限するような言い方でその流入を塞げれば、忽ちにしてわたしたちは神の無限なる豊かさの完全実現を妨げてしまいます。それでは、一切の善きものを実現するすぐれた方法は何でしょうか。

それは、『わたしは豊富そのものである』と思い、語り、行うことです。これは神(実相)顕現のあらゆる道を開くもので、逆にこれを閉じるものは何一つありません。それはあらゆるものに神の存在を認め、一切の善きものの根源と自我とか意識的に一体であることを認めます。これがイエスのみ教えでありました。イエスのみ教えは、われわれが常に豊かであり、その豊かさには何らの制限もないことにあったのです。

『わたしは智慧である』。『わたしは調和である』。かくの如く身・口・意に於いて表現していると肉体エネルギーも賦活されて、ほんとうに智慧と調和とが豊かに実在していることに新しく目覚めるものです。日常生活において始終そう言い暮らしているとエネルギーも消耗しません。しかし一人の人間が豊かであるだけではなく、それと同時に他の人々も豊かでなければなりません。

こういう態度を取るようにしていると、一人が豊かでなければ他の人も豊かになれるものではないことが解るようになります。もし自分が繁栄しているとは信じられないなら、それは神のこの滔々たる豊かさの流れより自分から孤立し、窮乏という偶像を立てているからであります。一般に人々は、自分は全体の一部にしか過ぎないと信じ込んでいますが、本当は一人一人が全体の中に融合しているのであります、何故なら、斉一(ユニティー)の中にのみ完全はあるからです。

一人でも外にはみ出ておれば完全ではありえない筈です。われわれが完全なる状態と本来一体であることを悟れば、その状態が外に現れてくるのに気付くのであります。心をこめ、力を尽くして神を拝すれば、一切の制約状態より解放されます。何人(なんびと)も神より孤立する必要はありません。神の無限の豊かさとの一体感に即刻、只今なり切ることが可能なのです。

そのためにはまず各人が、今までに造り上げてきた制約感を折ち破ろうと決心することです。自我を制約から解放するために取るべき手段としては、極めて確実な方法がいろいろあります。およそ克服し得ない状態なるものは存在しません。幸福・繁栄・豊富は皆んなのものなのです。その実現を妨げるものの中でも最大のものが、それを認容しないことです。

弥次馬たちがイエスを嘲笑(あざわら)った時、イエスは少しでもそれに注意を向けたでしょうか。彼らが何か或るものを自分のものにしようとしてアクセクしているのを見給うた時、イエスは、心を静めて主の救いを見よ、と言われ、更に続けて、人間は一切の被造物の主であることを説明し、『平安なれ』と言われました。又、弟子たちには『汝ら、既に自由なるを知れ』と言われました。

このお言葉によって弟子たちは、低い身分とされていた地位より弟子にまでなったのです。イエスが漁師たちの中から弟子となるべき者を一人えらび出したとき、イエスは彼をただの漁師と見たでしょうか。否、『人を漁(すなど)る者』としての弟子と見たのであって、『わたしに従いなさい』と言われたのであります。それは、イエスをしてイエスたらしめた身・口・意の在り方に従えということだったのです。

イエスはすべてものごとを最大のヘリくだり方でなさいました。それは、自己中心主義は天国には決して入り得ないことを明らかにされたのです。今の地球上全体の様子を見廻してみると、見かけが不調和であるため、お互いに隣人と疎遠であり、各自は生存という巨大なる経綸における相互に無関係な個々別々の存在にしか過ぎない、と思うようになり勝ちです。

しかし実は、一人と雖もこの経綸より、疎外されうるものではないし、経綸は依然として本来の調和を顕現し続けているのであります。丁度、分子の構成における原子群の場合と同じように、一人一人が全体の完成に必要なのであります。試みに、在りとしあらゆるもの悉く是一体なり、と言葉に出して言ってみれば、お互いが決して疎遠でもなく、又全体としての一体より疎外されているのでもないことが悟れるのであります。

イエスは分かり易い言葉で、この人生の目的は死ぬことではなく、生命の実相をより大きく顕現することであると教えて下さいました。一人一人が皆んな大調和の中に作動している全体という原理の中の一単位であり、各人がそのままで銘々の領域をもちながら完全調和なのです。従って、イエスの分かり易いみ教えをよく味わってみると、イエス御自身が『わたしは神である』と宣言したのは、実にあらゆる人にそう言わせるためであったことが分かるでしょう。

このことは原理のただの一部分ではなく、実に原理そのものなのです。これまでの宗教上の教義は、みな実践ではなくて、理論をあんまり強調しすぎています(2)。そのような態度を繰り返していると、真理に対する理解が形而下のものだけにしか及ばぬようになり、霊的な意義を見失ってしまうものです。

例えば、イエスが祈りの答えについて質問をされたとき、祈りがきかれないのは、求め方が間違っているからだと答えられました。(この事でも解るように)何時も断乎として(『既に……である』或は『既に希望は実現したり』等と)積極的な言明の仕方をしていると、殊更に祈りの言葉などを用いる必要もないのです。

自分にとって必要な豊かさは既に実存している、と心の中で悟った瞬間、実にその瞬間にそれはあなたの上に実現するものです。従って外部からどうのこうのという示唆など不要なのです。あなたはすでに原理と完全に調和しているのです。或る状態を考えたとき、あなたはすでにそれと一つになっています。だから、或る状態を明確に主張すれば、繰り返して懇願などする必要はありません。

求めざる先に完成しているのです。『彼らが求めている間中、わたしは聞いていた』とイエスは言われました。更に続けて、『言われない先にすでに完成している』とも言われました。一体すでに完成している状態を求め続ける必要があるでしょうか。或る一つの状態をいったい何回完成し得るというのでしょう。既に自分のものになっているものを乞い求める必要が一体あるのでしょうか。否、です。

わが国の偉人達の生涯を辿ってみれば、彼らがいかにして実相界において既に完成しているものを、現象界に現れぬ前に受け取っていたかが分かります。即ち、潜在意識の奥深くに完成の道は既に存在していたのです。彼らは一切の制約感に煩わされることなく、実相の中に既に実存していたものを顕現することができたのであります。

神即全体との分離意識が完全に無くなれば、われわれは原理そのものとして立つことになるのであります。欠乏を立てるのではなく、神を立てればどうして欠乏し得る筈がありましょう。原理とは調和であり、明確な法則(複数)に従って流れるものです。人間はこれらの法則を学ばなければなりません。

          質 疑 応 答 
問 わたしたちは、欲しい〔原語wantには「欠乏している」義もあり、言外に両義を仄かしている-訳者〕ものを願うという因襲に戻ってはいけない、とあなたは言っておられますね。
答 そうです。始めの中は正しい行き方をすると、兎角惑いが出て来がちなものです。しかし構わずに続けていると、疑惑や恐れは克服されてゆきます。思っていることが実相の世界で既に成就しているのでなければ、それを思う筈はないでしょう。

問 言いかえれば、成就を求めよ、すでに成就せりと知れ、しかしてその様を心に描けよ、という訳ですね。答 まさしくその通り、神の心が解決してくれると思うようにすれば、あらゆる道が開かれるのです。ところが自分の我(が)を出せば、自分以外の道は全部閉ざされてしまいます。我(が)は誤ちを犯します。しかし神の心は決して誤ちを犯しません。

問 われわれが或るものを求めて大師たちのように両手を差し出しても、手の中が求めたもので満たされないのは何故でしょう。
答 われわれが満たされないからです。満たされていると言ったってどこにも見えはしないじゃないか、と自分で思うからです。両手を出したら感謝を捧げることです。それがエリヤのしたことです。現在でもその通りにして、幾百万となき様々のものが実現しています。

問 大師たちはどんな風にしてあなたのお仕事を援助して下さったのですか。
答 大師たちの御援助がなくて独力でやるとしたら、この事業は始めることさえ出来なかったでしょう。われわれは家族同様の仲間以外に、何らかの組織や個人に頼る必要は全然ありませんでした。縦令(たとえ)、われわれに財力はあっても大師たちの御援助がなければ事業を進めることは出来なかった筈です。

仕事を自分達だけの考え通りに進めてみたことも随分あるのですが、結局はその都度、大師たちの下される結論に戻らざるを得ませんでした。大師方はその結論を古代文明時代より伝わって大師がたの間で保存されて来た化学智識や機械智識に基づいて、下されたのでした。

訳者註
(1) ヨガ行者・聖者等が助業として(マントラム・ヨガの場合は本業として)発声するサンスクリット語の特定の語句。前章本文中の「オム・マニ・ペーメ・フム・オム」もその一例。本書に指摘してあるような自己催眠の効果をもつものの外に、それ自身の波動が発声者の内外に特定の影響を及ぼすもの、発声者の内部や外部の存在者の力を発動するものはこの限りではない。
(2) 特にキリスト教にその傾向が強いといわれている。キリストの教えをそのまま忠実に実行することよりも、キリストやポーロの教えや行動等についての知性による解釈を施して神学体系の押しつけを主としている。解釈が異なれば神学体系も亦異なる。故に、それをChristianity(キリスト教)ではなくて、Churchianity(教会教)と評する向もある。