~第十二章 肉体の浮揚と真理~
翌日の午前四時、私達は例の弟子の大きな澄み通った歌声で目をさまされた。「自然は今目覚める。故に自然の児らもまた目覚めよ。新しき一日の朝は今明け放たれて行く。一日の自由は汝を待つ。アウム」前の晩まで竿の尖(さき)がついていた岩棚に行ってみたところが、驚いたことには何時の間にか棒の代わりに立派な階段がついているではないか。
その階段を降りて行くと、昨夜は夢でも見ていたのかと、いぶかしくてならなかった。楷段の下で例の弟子と会ったが、彼の曰(いわ)く、「いや、あなた方が夢を見ていたのではありません。実は、昨夜そこに階段の夢が描かれたのです(1)。つまりプリジ師が皆の便宜を図るために階段をそこにつけたのです。それは夢の実現したものなのです」。
二週間のあいだ、この土地に滞在中、わたしたちはずっと温かい栄養のある食事を頂いてきたが、食事の支度を見たことはただの一瞬間もないのに、豊かな饗応に預かったのであった。例の弟子ともう一人の男がポラ・タト・サンガに昇り始めた。先ず初めはいくつもの岩に刻みこまれた原始的な階段を上がり、次には裂目に渡された厚い板を渡るのであるが、その下は深い峡谷がパックリと口を開いている。
又、一部では上の割れ目にしっかり結びつけてある何本かの綱を頼りに昇って行った。二人で二時間もかかったというのに、辿り着いたのが出発点からおよそ五百呎上の二番目の岩棚でしかないので、もうこの先はあきらめる外ないと思った。それでもためらっていると、サンティ師が二人の難儀を知って、「降りて来たらよいじゃないか」と声をかけた。
「そうしようとしているんですが、岩で閊えているんです」これは弟子の答えである。この二人はここでの昇り降りに沢山の体験を積んでいるので、途中で降りるよりは、一旦真直ぐな岩壁を上がってから降りる方がやり易いことを知っている。「それじゃそこにいるんだな」と、師はからかうように言った。「明日喰べ物をもって戻ってくるからね、多分それまでにはてっぺんに着けるだろうよ」。
それでも二人が困難な立場にあるのを知っておられるので、落ち着いて、絶対に動揺しないようにと忠告された。三時間も注意深くあれこれと指図のあと、漸く彼らは又われわれと一緒になった。師は、「こんな風にして青年時代の情熱はすりへってゆくものだ」と、溜息まじりにつぶやかれた。
この青年たちは憧れるように上を見上げて、「プリヂ大師が上に御滞在とすればわれわれが下にいるとは運が悪かったなあ、何しろあの径ではねえ」「心配する必要はない。君ら自身よりも高き者が引き受けて下さるだろう、まあ、休息していなさい。君らの滑り出しは大変よかったんだから」と、これはサンティ師の答えである。
一体何時になったらプリヂ大師にお目にかかれるのだろうと皆んなが聞くと、『今晩』と師は答えてくれた。ポラ・タト・サンガ廟を一体どうやってあの場所に建てたのだろうかと、わたしたちは不思議でならなかった。やがてプリジ大師が見え、夕食中われわれと供に語り合われた。
そのうち例の登攀の企てが失敗に帰したことが話題になると、やり直しをしたんだから成功だと大師は言われた、翌日午後四時、廟の下に一同が集まった。サンティ師は三昧に入った。一行のうち三人が一枚の大きな平たい岩のところに歩いて行き、祈りでも捧げるようにして坐った。暫くすると、その石がひとりでに上がり始め、そのまま一同は上の廟に運ばれた。
それからサンティ師が弟子と他の二人に、「準備はいいか」と聞くと、「はい」と三人が真剱に答えて、師のそばの岩に坐った。その瞬間、岩はしずかに動き出し、一同は廟の屋根に運ばれた。次はわたしたちの番である。わたしたちの場合は、かたまって立っているように言われたので、皆んな立ち上がった。すると廟の人々が屋根にやってきて、アウムを唱えはじめた。
唱和が始まったかと思うと、わたしたちはもう廟の屋根の上に立っていた。かくして数分の間に、皆んな世界でも最高の伽藍の上にそろったのである。わたしたちが席につくと、プリジ師は語り始めた。「皆さんの中には肉体浮揚を見たことのない人も何人かいて、不思議がっています。しかし本当は何の不思議もないのであって、それはもともと人間に備わっている力なのです。
われわれはそれを昔からの『統一(ヨガ)』の英智として崇めています。多くの人々が過去においてその力を使用したし、それを奇蹟と思う者は一人もいませんでした。ゴーダマ仏陀は肉体浮揚によって、多くの遠い土地を訪れられたものです。この肉体浮揚を成し遂げられた方々を幾千人となくわたし自身も見てきました。これ以上の力が実在する偉大なる証拠もあるのです。
この力を完全に支配すれば、山を動かすにも用いうる程の抵抗も出来ない大いなる力の証拠を、いずれあなた方も見ることになるでしょう。あなた方は束縛と恐怖からの解脱を讃美し謳歌する。しかし、「束縛」という考え自体を忘れ切り放してしまわないかぎり、実は、「束縛」が心の中に滲みついていることになるわけで、従って「解脱」の方は忘れられているのです。
純粋『統一』の法は全世界人の完全なる解脱のメッセージであります。先ずア・ウ・ムについて説明するとしよう。英語ではオムという簡単な形が使われているが、ヒンドスタン語の正しい語法ではア・ウ・ムという。故にこの方面から考えることにしよう。さて、A(アー)は喉音である。それを発音してみると、咽喉から出るのがわかる。
U(ウ)を発音するためには、唇を突き出さなければならない。M(ムー)は唇を押さえ合わして、蜂の羽音のような共鳴音を出すことに気づく。かくて聖音アウムは、基本的、包括的、全包容的、且つ無限であることが分かろう。その音域はあらゆる名前と形態とを含む。形あるものがいずれは滅ぶことは御存知の通り。しかし形が現される以前の形無きもの、乃至実在的なもの、即ち霊と名づけられるものは、不滅である。
この理由によって、われわれはこの不滅の実在、アウムを発するのです。そのために、教師はその弟子たちに、「タトウ、マヌ、アシ」(サンスクリット。意味は後出-訳者註)と教えます。弟子たちが深い瞑想と絶対的真理とを通して理解が行くようになると、『ス、ハム』(サンスクリット。意味は後出-訳者註)とだけ答える。
その意味は、教師が生徒に『汝は神なり』というと、生徒は『吾はアレなり(That I am)(2)』と、答えるわけです。今度は、生徒が自分の神性、即ちス・ハムを理解した時に述べることや、答えをもっと深く調べてみよう。このス・ハムは、二つの子音と三つの母音からなっている。二つの子音とはsとh、三つの母音とはa・uと、中間音節のmである。
子音は元来、母音と結びつかなければ発音はできない。従って、音の領域では子音は滅びるものを表し、母音は不滅のものを表す。従ってまた、sとhは滅びるものにつながる。ア-ウ-ムは残りアウムという永遠なるものを形成する。おお、真理の探究者よ、アウムは偉大なる神である。賢者たちはアウムの支持によって、その目的を達成される。
アウムの第一部『ア』について瞑想するものは、目覚めている状態(現在意識-訳者註)で、神について瞑想することになる。第二部、即ち、中間の状態(潜在意識-訳者註)の『ウ』について瞑想するものは、内界を瞥見(べっけん)することを得て大霊となる。第三部『ム』について思索するものは、おのれ自身を神と観じ、光を得て直ちに自由となる。
アウム即ち至高我について思索するものは、一切を包蔵する。わたしは今、遙かに光の大 白色宇宙に見入っている。そこに今、この上なく純粋なる光の簡素なガウンをピタリと纏い、純粋な慈愛の光をその面貌(かお)より放ちつつ立っている姿が見える。その姿の周囲より声が聞こえる。その声は、『汝は久遠の久遠なり』と語っている。その姿が次第に近づいてくる。
再び声がする。『この日この時、初めなく終わりなき全人類の霊的指導者たる聖域を汝に授ける』と。その姿は純粋なる光の無数の放射の中心である。このことは、全人類が等しくその源を神に発することを示す。これは僧団、乃至、同胞団(3)だけの象徴ではなく、同胞団の始まる以前の純乎として純なる人類の象徴である。
この純粋人間の状態は、未だ曾て語られたことはない。これは地球がその大いなる星雲の中に入る遙か以前、この地球がその軌道を要求し、地球に属するもの(地球の構成材料-訳者註)を惹き寄せる遙か以前のものである。これは星雲の原子を結合して地球を形成し始める力一切を、完全に支配することになっている原始人間の形態の投映である。
よく聞くがよい、この姿の周囲の声がこう響いている。『光あれ』と、それは命令である。この命令と共に目も眩むいくつもの白光線が迸り出て、その方がそれらを或る焦点に引き寄せると、地球の星雲が爆発するが如くに実現する。この焦点が星雲の中心太陽である。中心の核がその原子を引き寄せるにつれて、いよいよ光を増す。
この形の背後に意識的に指揮するものがあり、これが無数の光線を焦点に放っている。今その方が語っておられる。わたしたちはその言葉を聞く。それは純黄金色の光の文字で綴られていて、わたしにはそれが読める。即ち曰く、『おお地球よ、吾、汝を見守らんが為に光の大宇宙より来れるなり。汝のものなる粒子を、汝に引き寄せよ。
あらゆる粒子に、久遠の生命なる光、父なる大生命原理に属する光を放射せよ。吾、汝に告ぐ、吾はI AM(神我)なり』この方の招くのが見える。今やその方と共に他の方々が立っている。光の中より一人の方が語る。『父なる神、即ち光宇宙より出づる最愛の者は誰ぞ』。周りから低い囁くような調子で、再び声が響く。
『そは支配せんがために形を現したる吾自身なり、そはわれ支配力を有するが故なり。吾、自らを通じて、吾が支配力は現わるるなり』。観よ、その方はクリシュナ(4)、クリストス(5)、キリストの三者一体である。その方は再び語り、且つ答える。『吾はIAMなり。汝らすべてもTHAT I AM(吾は神なり)』。声は猶つづく、『吾が先の彼方を見よ、神の声、吾を通じて語りたまう。
吾は神なり、しかして汝は神なり。あらゆる魂はその始源の純なる相(すがた)において神なり』。黙せる観者達はその方を通して響く声を聞いて曰く、『見よ、人は神なり。神のキリスト、再び大宇宙より出現す』と。これは気分で言うているのでもなければ、何かに酔って言うているのでもない。それは完全な支配権と主たる資格をもって神より出でし人間の明確、冷静なるヴィジョンなのである。
全人類のもつ主たる資格である。何人たりともそれより除外されるものはない。その姿の背後には純粋な水晶の如き、まばゆいばかりの白光がある。それは純白光から出てきた。それは又、純白光で出来ている故に人間は純白光そのものである。純白光とは、神の生命である。神の生命の純粋光線は、人間を通じてのみ発光、乃至、顕現するのである。
われわれの理想を、瞑想によって固定し一点に集めたとき、ヴィジョンが生命を得て現れ、次第々々に具体化に近づき、遂にヴィジョンと形態とが結びついて、吾々自身となり、吾々と一つになる。そのとき吾々は『あれ(THAT)すなわち神』となる。こうしてわたしたちは全人類に、『わたしはあなた自身であり、ともに神を顕している』というのである。
母親が懐胎する時、この真理を知れば、無原罪懐胎が起きる。しかるとき人は、もはや生まれ変わることはなくなる。これが男女両性(womanhood,manhood)である。男性にして女性(wo-man-hood)なるものが神なのである。それが全人類の真の神である。それがアトマであり、男女両性を含む最高霊である。女性の真の領域は神の肖像(にすがた)と共存し、それと同格である。『一者』が、男女双方の性の理念である。
二つが一緒になってダルパティ(サンスクリット-訳者註)即ち母性の誇り、女性の理想であり協力者兼配偶者として出現した人類の永遠なるものである。それは人間の歴史の背景の中で幾度となく孤立せざるを得なかったが、神の宇宙計画全体の中では、窮極において一体となるべく定められているのである。
女性はその本来の領域においてはキリストなる子を育てて世界に出すために、自分自身の体を生誕の祭壇に捧げる役目を荷なう、これこそが本当の無原罪懐胎である。母が正しい思いと言葉と行いの中にあるとき、その子は決して伝統的キリスト教徒のいうような罪の中に懐胎し、不義の中に生まれたことにはならない。
生まれ出づる子はあくまでも純粋、神聖、且つ神によって懐孕し、神によって生まれたる神の肖像即ち神のキリスト・神人なのである。このような子は決して生まれ変わる必要はない。然るに、この物質世界に生まれたる為に、長上や親達の罪や不調和という肉の思いが浸み込んだのだというのは、肉の考え方であって、そういう考え方のみが生まれ変わりを必要とするのである。
女性が普遍のキリスト、即ち神の子(すべての人間の実相をいう、以下同じ-訳者註)を自分の体内から出現せしめる時、彼女自身がキリスト(神人)であるだけでなく、彼女の子もキリストそのものであり、且つイエスに似たものとなる。その時、彼女は他ならぬ神のキリストと対面したことになるのである。
女(wo-man)即ち男性と女性とを結びつける者、言い換えれば男性と女性とを一緒にする者がその真実に求める声を出す時、彼女の汚れなき体はかの汚れなきもの、即ち普遍のキリストなる子を懐胎する用意が整ったことになる。このような体(女性の実相)は、宇宙創成に当たって、神が現象界に世界を投映して形成する遙か以前に、女性の為に準備され、投映されていたのである」。プリジ氏の話は終わった。
師はわたしたちを、多くのヨギたちが坐したまま三昧に入っている大きな洞穴の中へ、誘ってくれた。わたしたちは廟とこの洞穴の中に九日間暮らした。しかしヨギたちの多くは、ここで幾年となく過ごした後、この隠遁生活より出てくるときは、いろいろの不思議な業を人々の前で行うようになるという。この集会が終わったあと、サンスラワル湖とムクティナス経由で、インドへ帰る方が何名かいることをわたしたちは知った。
ムクティナスからならダージリンまで非常に楽に行けるという。これはよいニュースだった。この聖者方と一緒に旅ができるかと思うと、天にも昇る歓びであった。わたしたちは洞穴から洞穴へとたずねて廻り、多くのヨギやサドウたちと話し合ったが、驚いたことには、この人々は多くが夏も冬もそこで暮らしていることが分かった。
雪には困らぬかと聞いたところが、その附近には雪は全然降っては来ず、嵐も霧もないという(6)。かくて時は、翼の生えたように過ぎ去り、いよいよ出発の前夜となった。
訳者註
(1)想念を発すると、それが母型となって、宇宙に遍満する質料が集ってきて、それを具体化させる。故に、プリジ師が前夜、階段の形を強く描いてくれたために、それが現実化したのである。
(2)(一)印度哲学では、神の属性は無限であって、人間の言語では尽くせぬため、(二)又、古代の宗教においては、神を直接口にすることは恐れ多きものとして、只単に『あれTHAT』と言った。従って、That I amとは『吾はあれ(神)なり』の意。
(3)僧院とは違う特殊の宗教、或いは修養団体等。(4) ヒンズー教の最も普遍的な救世主。その一生はキリストの一生に酷似している。
(5)原義は、(浄められたる者)、転じて「道」、更に転じて「内在の神性」を意味する。
(6)ヨギの中には、裸体で雪中にいても、体温を上げて四辺の雪をとかしてしまう「ツンモ」と称する行法を知っている者もいる。