~第十一章 思念の交流~ 

話を本筋から離してしまった私の身勝手さを、読者はきっとお許し下さると思う。

遙かなる遠き古代にいくつかの文明が存在していたこと、その芸術、文明及びそれらを極めて高度のものにした思想や原動力等を直接に物語っている記録が、多くの場所で広範囲にわたって発見されたのであるが、その場所のうちごく一部をできるだけ簡明に読者に示すためには、このような逸脱が必要と思われたのである。

ところで今猶、これらの高度の進化を成し遂げている人々のグループが少数ながら存在している。彼らはその業蹟によって、或る程度人類を指導する炬火(たいまつ)となっている。かくして人類は文明進化の過程において更に高き地点に向かって進んで行く。その反面、迷妄の中にある人々も少数あり、彼らの迷妄が大多数の受け容れるところとなって再び大衆を圧倒し、長期にわたって大衆を忘却の中に押し流して行くかどうかは、これから決まることである。

現在が将来の一切を握っているというのが、われわれのヴィジョンである。現在成就したもの以外に、未来を形成するものはない。かくして人類には一本の道があるのみである。即ち、現在を完全なるものとすれば、未来もまた必然的に完全となるということである。完全な未来は、現在完成し得るものを将来完成されるまで延ばすことではなく、現在を意識的に完全にすることによって実現するのである。

どこに行っても現在を完全に生きた人々がいるものである。彼らの場合、全未来は現在成し遂げたことと完全に一致したのであって、未来がそれ以外の方向をとることはあり得なかったのである。『未来のことを思い煩うことなかれ』という教訓はここから生まれたのである。これらの人々の教えは皆、『現在を真実に生きよ、未来は現在あるが如し』ということに尽きる。

彼らの民話、歌、祈り(1)(祈祷車に書かれたもの)には、この考え方が描かれている。チベット人たちが非常に気軽に加わる悪魔踊りも、もとはといえば、このような彼らの民族的な観念や意識を破壊したことのある悪者をおどかして祓(はら)うことから始まったのである。そのうちただの慣習になり、ただの悪霊祓いの儀式に退行してしまった。彼らは低級霊にのみ夢中になり、一切を包容する大霊を忘れてしまったのである。

このことは、一つの種族や一つの宗教だけに限られず、すべての種族、すべての宗教についてもいえる。一番始めの舞踊は、美と純粋とを至高のものとして完全に描いたものであり、悪が入りこんで取って代わる隙は微塵もなかった。わたしたちは「砂の海」(ゴビ砂漠の中国名)からきた妖怪物語を調べてみた。ゴビ砂漠には妙な声の聞こえる地域が多い。わたしたちも自分の名前を呼ぶ声を幾度もきいている。

まるで大勢の人間がすぐ側にでも立っているようなガヤガヤという声も聞いた。又、甘い美しい声で唱っている歌と共に色々の楽器の音も聞いたし、たくさんの蜃気桜を見、移動する砂の音も聞いた。これは砂漠の上空を或る距離まで上がると、空気の層(複数)が大へん澄明となっていて、時として条件が全部揃うとそれが音響板となり、地上で発出したヴァイブレーションを反響させているとわたしたちは確信している。

つまり空気の層が丁度蜃気楼の場合のように、これらのヴァイブレーションを一旦受けてから反射する音響板の役割をするわけである。さて、わたしたちは仕事に夢中になっていたので時間はまるで羽が生えているみたいであった。老ラマ僧の指揮の下にわたしたちは写しを取ったり、たくさんの書板やその他の記録の図面を調べたりした。

やがて、わたしたちの出発の朝がカラリと明けわたり、シガツエへ向かう出発の用意は万端整った。ダライ・ラマ宮殿内の人々には全部挨拶を済ましてあった。街路は人々で一杯だった。彼らはそれほどまでに熱心に、別れを言いに来てくれたのである。至るところでサヨナラと手を振ってくれ、又、わたしたちの安全のための祈りも捧げられた。

一団の使者が幾つかの長い竿に祈檮本を取りつけて祈りながら何哩も先行するし、五十人もの人々がブラフマプトラ河上流のシガツエまで同行してくれた。チベット第二の都会であるこの町に近づくにつれて、町から約一哩離れたところにあるタシ・ランポ僧院が見えてきた。この僧院から派遣された代表団が三哩先まで出迎えに来て、僧院の賓客として滞在するようにと招待してくれた。

わたしたちは会う人ごとに温かい歓迎を受けた。僧院に入ると、何か大いなるものの在ますがごとき静けさと平和とが各広間に満ち満ちているのがすぐに感じられた。ドルマ湖とサンラワールへと旅立つ前の休息所としては、ここはまことに理想的な場所である。実はわたしたちにしても、この僧院の記録をゆっくり調べたかったのである。

一方ポラ・タト・サンガ廟のバガヴァンズィ師に会う手配もすでにしてあったので、先を急ぐ気もあった。ラマ僧たちとの夕食がすむと、わたしたちは多くの美しい廟について話し合い、そのうち話が自ずと各宗教上の信条間の相違に移っていった。或る非常に年のいったラマ僧はこう語った。

「ラマ僧とヨギ(2)とでは信仰を同じゅうするわけにはゆきません。ヨギたちは、教えを垂れる人がたとえどんなに偉い人であっても、その人の教えが最終のものだとは信じないのです。彼らはすべての知識は自分自身に内在するものであって、人間は皆それが獲得できると解釈しています。しかし、ラマ僧は仏陀だけを信奉します。

人間は十中八九までは各々(おのおの)自分自身の中にある大いなるものを開顕し実現するでしょう。キリスト教徒はキリスト意識に、仏教徒は仏陀の悟境に到達し、その他の宗教においてもそれぞれに同様なことでしょう。すべてがそれぞれの神を信奉しています。そして至るところで神は人をその像(すがた)に似せて造り給うたと聞かされています。

すべての国々すべての国民は、それぞれ異なった自分達なりの神々を奉じています。火の神を奉ずるのもあれば、収穫の神を崇めるものもあるといった按配式です。銘々が他の同胞よりも善き神を奉じている積りでいます。こうして、あちらでもこちらでも銘々の神を立てている以上、どうしてわたしに神が自らに似せて人を創ったと理解できますか。

むしろ私としては、人間各自が彼自身の、人間自身の像に似せて神を創ったと言いたい」。一グループの僧たちの先頭に、放浪ラマ僧といわれる六人のラマ僧のいるのに気づいた。この人々は財布も頭蛇袋(づだぶくろ)も持たずに、ここかしこと歩き廻るのである。彼らは決して物乞いもせず、施しも乞わず、何人からも食も金も受け取らない。

いつもお互い同志連繋を保ち、僧院にいる六名とも連繋を保っている。この僧団には三つの分団があって、各分団ごとに一人の首長が居り、責任者は結局僧院の六名も入れて合計九人となっている。この三人の分団長は離れ離れになって、別々の土地にいる場合もある。分団員は外に出てもめいめいがその分団長と直接に連絡し、分団長はまた六名と連絡する。

意志疎通に彼らが用いる方法は、適当な言葉がないので、思念伝達というておくが、それは他の伝達方法に比べて遙かに精妙であり、遙かに明確である。彼らはそれをアトマと言い、元来魂という意味であるが、何らの媒介手段も要せず、魂と魂とが語り合うのである。わたしたちは、このようなラマ僧六人に会ったわけで、その翌日彼らと昼食を共にした。

老ラマ僧は、わたしたちの仕事が済んだらポラ・タト・サンガ廟まで同行したいといってくれた。彼はもともとわたしたちの案内と通訳の役をしておられる牟尼の友人なので、その申し出を受けることにした。このラマ僧たちも牟尼も、あらゆる方法で記録書類のことで、わたしたちを援助してくれたのである。この老ラマ僧が会話の途中で、何気なくこう言ったものである。

「昨年の夏あなた方と別れた二人のお仲間は、今日の一時三〇分にカルカッタに着きますよ。もしその方たちと連絡したければ出来るんですよ」。そこで隊長は彼ら当てに、まっすぐダージリンに行って或る用務の処理に当たり、わたしたち一行が八月二十四日に到着するのを待つように指示した一書を認め、日附を書き入れて別にその写しを取っておいてから、原文の方をラマ僧に渡した。

ラマ僧はそれを読むと、注意深く折り畳んでから捨ててしまった。この同僚たちは八月二十四日にダージリンでわれわれを迎えたのだが、彼らがカルカッタに到着後二十分も経たぬうちに彼らの手にことづけが手渡されたそうで、二十四日にわれわれに会った時にそれを見せてくれた。彼らはわたしたちがこの人に伝言をつけて予めダージリンによこしたものと思っていた。

これらのラマ僧たちには、このような特殊の能力を持っている人もいるという具体的証拠をわたしたちは得たわけであるが、このような能力を或る方向に伸ばすことが出来るのであれば、あらゆる方向に伸ばし得ない道理はないわけである。今頃の季節には、たくさんの人がポラ・タト・サンガ廟に集まると考えられるので、わたしたちは急いでそこへ行きたかった。

そのためにも今は非常に好適な時期である。わたしたちはギャンツェ経由で行ったのであるが、通称『笑いの弟子』として皆んなに知られている非常によい弟子が見つかる筈だといわれた。その男の笑いと歌は、本人や同僚たちを元気づけて多くの難所を越えさせ、また歌で多くの人々を癒したともいう。

さて、ラマ廟の構内にはいると、非常に立派な姿勢のよい或る男が、わたしたちに心からの歓迎を示しながら近づいてきて、この村にわたしたちが滞在するうちは、この僧院を家にして貰えるものと期待していますといってくれた。わたしたちは、午前中にフャリ峠に強行したいとその男に答えた。

「ええ、あなた方がポラ・タト・サンガへ行く途中であることは知っています。わたしも午前中にそちらへ戻ります。お望みなら喜んで同行しましょう」その申し出をわたしたちは受けることにした。彼は嬉しくてたまらない様子で笑いながら、僧院の大きなホールの中にある宿所に案内してくれた。わたしたちを寛(くつろ)がしてくれると、お寝みと挨拶し、朝早く又お目にかかりましょうといって出て行った。

彼は歩いて行きながらも調子の良く整った好い声で歌を唱うのであった。翌日の朝早く、朝食の用意のできていることを知らせる彼の歌で一同は目がさめた。わたしたちはラマ僧たちに別れを告げ、彼らの祝福を受けた。フャリ峠越えの準備は一切整っていた。そのお蔭でフャリとカン・ラの幾つかの嶺も越えることができた。全体としては困難な山登りではあったが、難所にさしかかると例の弟子が笑いを飛ばし歌を唱いながら先頭に立つのであった。

難所であればあるほどに彼の歌声は高鳴り、そのお蔭でさしもの難所も何の苦もなしに飛び越えられる感がしたものである。こうして午後三時には峠のてっぺんに到着した。ところが驚いたことには、どうせわれわれの眼前には峨々たる山々が連なっているものと思いきや、実に美しい谷が拡がっていたのである。この谷はチュビと名づけられ、海抜一万六千呎にも拘わらず、谷の両側は緑したたる森でかこまれている。

前方には美しい幾つもの廟のある村々が見えた。わたしたちは谷を通らずにタチチョジョン経由の近径をとってポラ・タト・サンガへ向かうことにした。この山径にしてもイザ通ってみると、案外歩きやすかった。そう遠くも進まぬうちに、小河で囲まれた美しい森に入った。さえずる鳥や野禽(やきん)が沢山見かけられた。しかし全行程を通じて一匹の肉食獣にも出合わなかったのは、多分野生の生物が多いためと思われる。

次の休止場所はマハ・ムニだった。要塞を思わせるその廟はわたしたちの興味をそそった。例によって此処でも温かい歓迎を受けた。しかし係の人々は、ブリジ師が、ヨギや修行僧や導師たちが大勢集まってきているポラ・タト・サンガ廟に行って留守でもあり、われわれの今度の旅行の最後の日には立派な方々の仲間入りをするだろうから、長期の滞在をとお願いしても無駄でしょうね、というのであった。

翌日は朝早くから巡礼隊が集った。いずれもプリジ大使との会合の約束を守るために先を急ぐ人々である。その上、みんなポラ・タト・サンガを他の誰よりも一番先に見たがっている。彼らの表現を借りれば、この廟は『岩に嵌めこまれた宝石』であり、世界の寺院の中でも一番高い処にあるという。『かかる大いなる宝石、まさに眼前にその姿を現わさんとするに、われら便々としてマハ・ムニにとどまりうるや。』

と「笑いの弟子」は歌う。『否々、さらばマハ・ムニよ、われら汝を愛す、やがて又、汝の優しき抱擁のもとに帰らん。ポラ・タト・サンガへの旅の魅力には抗いえず』。こうして一行は、馬に乗って出発したのである。大エヴェレストが、迫りくる暁の光の中に純白の衣を纏って、毅然として眼前に聳(そび)え立っている。あたかも、二足三足進み出て手を伸ばし、わが衣のへりにふれてみよ、と招くが如くである。

しかし、実際に二足三足踏み出してみると、この巨塊(マス)はすでにわれわれからのがれ出ている。われわれが越えてきた二万四千呎の隣山チョモハリも、この目前の巨大なものに比すれば一個の矮人(わいじん)としか映じない。さて、その両側にある径(こみち)は石だらけの危険なものに違いないと恐れていたのだが、今すでにわれわれはその大部分を四つん這いをしながら、乗り越えたのである。

例の弟子の歌と笑いは、依然としてわれわれを、翼に乗るかの如くに前へ前へと進めて行く。夢中になっているうちに、いつしか数々の危険も忘れてしまった。さすがの難所も、瞬時にして征服し尽くしたかの如くである。やがて太陽が出ると、一またぎさえすれば大エヴェレストに触れるかと思ったあの幻覚も解消し、それとともに雄大なる景観が啓き示された。

その美しさはいかなる言葉で叙述してみても、所詮、戯画にしかならぬ。見渡せば東西南北四維(ゆい)、水晶を戴いた数々の自然の堂塔伽藍が連なっている。しかし、猶且つ大エヴェレストは、これら群山を従え吾人の前に聳え立つ。

月明の中に安らぎ、やがて暁闇の蕾を開く初光を受け、さし昇る旭日(きょくじつ)の初発の光条による接吻をその美しき額に受け、真昼ともなれば、太陽は爛々とその上に照りつけ、やがて陽光傾くとともに光は褪せ、夜の別れを告げつつも最後の光を燦然と浴びせればそれに応えるかの如くに、その大いなる山巓(さんてん)は天に向かって余光を放つ。

かくて時と共に移り変わる大エヴェレストの姿をわれわれはこの目でしかと見たのである。親愛なる読者諸氏、この日わたしたちがこの山径の長さも感ぜず、困難をも覚えなかった理由がお分かりであろう。それらすべては瞬時のうちに過ぎてしまったのである。

数々の廟から常に発せられている力と平和と調和のヴァイブレーションも、また実に旅人をしてこれらの山々を指して急行せしめるに与(あずか)って力があったのである。ヒマラヤの山脈(やまなみ)が何らの危惧(おそれ)をも人に懐かしめないのが、読者諸氏には不思議に思われるであろうか。詩人たちがその大いなる美しさを謳(うた)いつづけて倦(う)まないのが、いぶかしくあるだろうか。

遂に夜に至って径をことごとく踏破し、わたしたちは相当に広いテーブルのような平たい岩の上に喘ぎながらも立つことができたのである。目前、遙かかなたに多くの寺廟が望まれる。しかし、かの宝石ポラ・タト・サンガは、目眩(めくるめ)く光を浴びつつも尚、二千呎頭上に聳え立っている。それは恰も直立する岩壁の凹みに置かれた一ヶの大アーク燈にも似て、周辺の岩と廟の群(むれ)とを照らしている。

わたしたちの立っている岩の上には半円形劇場があり、そこに男女の大群集が集って来ている。女性がこの参詣隊に参加を禁じられなかったのは驚きであった。希望者は誰でもすべて参加できたのである。ここには偉大なるリシ(教師)方が住んでいた事がある。リシ・ニリもこの径を通って行かれた。

五人の聖兄弟方も三度、一度は自分たちだけ、一度はかの偉大なる母君と、また一度は全女性の誇りであり偉大さを象徴する優しきダルパティ女と共にこの径を越えられた。その土地に今、偉大にして純粋、しかも謙遜深きヨギ・サンテイ師が、深い三昧に入って坐っておられる。

「この偉い方々は、一体どうして住家や食物を得られるのだろう」それとなくわたしたちは尋ねてみた、「食物や住家のことなど気にしなさんな。皆の食物や住家や衣服など豊富にありますよ」と、笑いの弟子が答えてくれた。「皆さん、お坐り下さい」例の弟子の非常に甘美な声がし、一同が坐るか坐らないかに、栄養豊かな温かい食事の入った大きな鉢が現れ出た。サンティ師が起ち上がり、弟子や他の人達の介添えで食物を廻し始めた。

やがて空腹がおさまると、一同は起ってそれぞれに固まり、近隣のいくつかの寺廟に夜を過ごすために案内されていった。弟子がわたしたちを案内して行く廟は、今わたしたちや他の人達のいる所より約七十五呎も上にある切り立ったテーブルのような岩棚の上にあった。近づいてみると、一本の長い竿のあるのに気がついた。根もとはわたしたちの立っている岩の上に立ち、てっぺんは上の棚のような岩についている。

どうやらこれだけが唯一の交通機関らしい。わたしたちは根もとの方に集まって上を見上げた。そうしているうちに、他のグループもやってきて一緒になった。手前から一番目の岩棚の真上には又岩棚が幾つかあって、その間にできた凹みに幾つかの廟がある。われわれが今夜そこに宿泊出来るかどうかは、どうやらこの棒を上り下り出来るかどうかにかかっているらしい。

その時、例の弟子が口をきいた。「急ぐことはありません」。そうして爆発するように彼の歌が出た、「おお敬愛する師よ、われらおん身を通じ、祝福されたる今宵の宿を求む」。その瞬間、周りにいた一同は沈黙して、暫くそのまま立っていた。やがて彼らは、次の言葉をダイナミックな力で声をそろえて発声した。『かくのごときが神の力なり、アウム(3)』。

その瞬間、一同は上の岩に立っていた。われわれは他の人々と共にめいめいの廟に向かって行った。割り当てられた廟に着いてみると、疲れはあとかたもなく消え去っている。その夜はまるで赤児のように寝た。あのグループの方々の放射する見えぬ力は、向けようによっては山々だって平坦にしてしまうだろうと思われた。

訳者註
(1) 祈りを数多くあげるほど効果があるという信仰から珠数が生まれたわけだが、口で祈りを唱える労を省くために、小さな手廻し車に祈梼文を書いておき、手でそれを廻すようになっているもの。チベットの俗信仰の一形式。
(2) ヨガを行ずる者。
(3) インドで最も聖なる音とされる。『呵吽』はその当て字。略してオーム。正しく発声すれば種々の神秘的功徳があるが、誤れば反って大きな災いを招く。