「没頭していたい」 | 消防設備士かく語りき

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川崎の消防設備士、平成め組代表のブログ

 

昨日のブログでも触れた通り16歳~21歳にかけて地元の定時制高校に通っていた私。

 

本来4年間通うべきところを1年生を1度「留年」したことで結果5年間定時制に通った。

そしてその「2度目の1年生」の際に誘われる形で剣道部に入部したのであるが…

 

これまで実に様々な武道を嗜んできた私。

そうした中でも結果的に自身にとって剣道こそが最も注力した競技でもあった。

ただ、だからと言って特別に「剣道が好き」ということはない。

 

少林寺拳法、柔道、テコンドー(ITF系)、極真カラテとやってきた中でたまたま剣道が「継続しやすい環境」であったに過ぎない。

 

あくまでも「学校の部活」という形であったからこそ続けられただけで、これが例えば「道場に通う」などであれば直ぐに辞めていたことだろう。

どうせ学生生活を送るのであれば何かしらに没頭していた方が有意義だと思ったのだ。

 

いずれにせよ、そうして様々な武道を嗜む中で各武道の良し悪しも如実に感じてきた。

もう15年近く昔のことだが、かつて開設していたブログ上で少林寺拳法のことを散々叩き、少林寺愛好家、少林寺否定派の人物たちから100件以上の賛否両論のコメントを頂戴したこともある。

 

「叩く」というのは、あくまでも技術的な問題点を自分なりの考え方に基づき否定的な文章で綴ったということであるが、その文章の中で同武道について「タコ踊り」などとも書いた。

 

それが愛好家の逆鱗に触れたのか「村田この野郎! 俺と勝負しろ!!」と直接自宅に電話をかけてきた者もいた。

一方で当時書いた内容は過激ではありつつも、しかし我ながら的を得た考えであったと今でも思っている。

 

武道とは所詮は人間が体系化したものであるし、また「体系化する」というのは見方を変えれば「これを多くの人に学んでもらう」ということであり、それは同時にその武道の「商売化」でもある。

 

多くの武道に設けられた段級制度は練習生の「今後の目標」になる一方、運営側にとっても審査費用、そして合格後は登録料といった名目で定期的な収入が見込める。

その体系化の為に無意味な「型」も沢山作って練習生に学ばせている、という側面も私はあると考えている。

 

中には昇級試験の度に合宿への参加を半ば強要する団体もあり、合宿費と審査費合わせて数万円を要求してくる団体もあった。

テコンドーについても昇段すると稽古着が「ほんの少し」変わるので、やはり新たな稽古着を購入する必要があった。

 

また剣道の場合、事実上の最上位は八段であるが、審査費用は2万円、更に合格すると登録料として7万円もかかるが、しかし合格者は皆、合格した喜び故か、その支払いを躊躇する者はいない。(因みに合格率は1%未満)

 

 

ところで少林寺拳法についてかつて「弱い」と断じたが、無論最終的にはどの武道にも「強さ」など存在していないと言って良い。

あくまでも「強くなるきっかけ」を与えてくれるに過ぎず、後は本人の努力次第である。

少なくとも週2~3回、合計で6~7時間程度の練習だけをいくら継続しても人は強くなれない。

 

「強い人」は普段から身体を鍛えたりするなど、むしろそうした「自主トレーニング」こそに強くなる根拠を見出している。

純粋に「強くなる」ことを目標とするなら段位の上では私は初段までいけばもう十分だろうと思う。

それはともかくとして…

 

さて、そんなわけで高校時代の4年間、剣道の練習に明け暮れていた私。

過去何度か取り上げたことがあるが、剣道には実は「二刀流」というのが存在しており、私自身も部活動時代の後半は二刀流で普段練習していた。

 

 

と言っても二刀流は「別流派」などではなく、ごく一般的な剣道の中に確かに存在している。

ただ「やる人」が極端に少ないだけの話である。

私の場合、単純に「カッコイイから」という理由だけで始めたのだが、当時顧問に「二刀流をやりたい」と言ったら「おう、いいよ」とあっさり承諾してくれ、やることとなった。

 

一見して「2本持ってるから強そう」と思われるかも知れないが、しかし現実は全く逆で、竹刀を片手で扱うので連続技が殆ど出せず、むしろ二刀流を始めると誰でも最初は「途方も無く弱くなる」ことからスタートする。

 

「二刀流の祖」、宮本武蔵は太鼓のバチの叩く様子を見て二刀流を思いついた、などという話もあるが、しかし大小2本の竹刀をバチの様に連続で振り下ろすのはほぼ不可能である。

 

戦前は二刀流の選手が比較的多かったようであるが、当時は「5対5」の団体戦の際など3人目となる中堅に二刀流の選手を配置することで、もしも先鋒、次鋒と立て続けに敗れた場合の「流れの止め役」として二刀流の選手が活用された、とも言われる。

 

二刀流選手(右側)の試合風景。現在でも極まれに出場する。

 

実際、試合の際には剣道歴の長い人物ほど二刀流と出くわすと変に身構えてしまいあっさり二刀流の前に打ち負かされる。

むしろ予備知識の少ない少年剣士の方が二刀流の選手にとっては強敵と言って良い。

 

だが当時を振り返り、改めて二刀流について思うのは「二刀流の方が公平である」ということ。

と言うのも剣道の場合、基本は右足が前であり、また竹刀を握る際も右腕が上に来る。

しかしこれは右利きの人間には構えやすいが、一方で左利きの人間には非常にやりにくい。

 

ボクシングの場合、右利き、左利き、それぞれの構えが存在しているが、しかし剣道は誰であっても「右利き構え」を強要する。

つまり剣道には「サウスポー」という概念自体が存在しない。

 

一方で二刀流には「右大刀左足前」、「右大刀右足前」、「左大刀左足前」、「左大刀右足前」と、4通りの構えが自然解釈的に認められていた。

 

「自然解釈」と書いたが、厳密には「左大刀右足前」こそが本来の二刀流の構えであるという考え方が「あるらしい」のだが、しかしそこまで厳格に言及することは剣道界としてもなされてはいなかった。(少なくとも当時は)

 

因みに当時の私は「左大刀左足前」という構えを使っていた。

顧問曰く、「自分から見て右側に大刀がある方がやりにくい」とのことであったが、それは恐らく通常の1本構えの剣士からすると「自身の背中側から大刀が振り降ろされる」イメージであったからだと思われる。

 

   この様に左手に大刀を持つ構えを「逆二刀」などとも呼ぶ

 

自身の利き腕と相談しつつ、4種の構えから選択できた二刀流はそうした意味でも「公平」と感じたわけである。

とは言え、繰り返すが当時も今も取り立てて剣道が「好き」でもなく、この先の人生で竹刀を振ることは恐らくもうないだろう。

 

だが当時、そうして「没頭出来るもの」と出会えたことは自分にとって非常に幸運であったと今でも思う。

何かにそうして没頭すると自然と自身の生活にもメリハリがつき、快活な日々が送れる、とでも言おうか。

 

その「没頭出来る何か」が賭け事やテレビゲームでは人生を無駄に使うに過ぎないが、しかしそれがスポーツや学問、あるいは仕事に関することであったのなら生きる上での喜びが増すことに繋がる、と私は考えている。

 

 

思えばここまでの47年間の人生を振り返ると私は常に何かに没頭してきたように思う。

17歳~21歳にかけてはそれが「剣道であった」ということだろう。

そして47歳の今も、「ロープ高所作業」という新たに没頭出来るものと出会えた。

 

自分で言うのも好きだが、私はよく人から「若い」(見た目が)と言われる。

実際、仕事で会う同世代の人々は皆一様に年上に見え、どう接すれば良いのか迷う時がある。

でも私が若く見えるのはある意味当然だ。

 

いつだって大好きな何かに「没頭」しているのだから。

没頭しているその間、人は時の流れを意識しない。

心が時間を意識しないと身体も時間の経過を忘れて行く。

だから若くいられる…などと思ったり。

 

没頭出来る何か、貴方はお持ちだろうか?

 

 

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