『銃後の風景』=中学生の視線=その10【最終回】

9年前に亡くなった父が生前に書き残した手記の紹介の続き(最終回)です。
文章は極力、父が書いた原文を書き写しますが、個人名などは伏せます。
文中の(注)は、ぼくが書いた脚注です。
飛び飛び更新でしたが、これで最後です。戦地には行かずとも戦争に巻き込まれた少年がどんな思いで暮らしていたのか、戦争の時代がどれほど苦しいものか、空襲がどれほど恐ろしいものか、僕も想像するしかできませんが、少しでも多くの人々に親たちの世代が経験したことが伝わればと思います。
 

【負けたあの暑い日】

 敵の
本土上陸を予期していましたが、竹やりで米兵と刺し違える覚悟と、今にとてつもない秘密兵器―「原子爆弾」(注1)という新兵器を仁科博士が発明中とだけは知っていた―が登場して怨敵撃退だという少年の期待とがないまぜでした。
 炎天の
8月15日正午、全工場2万人が広場で玉音(注15)に接するもマイク(※原文ママ、スピーカーの誤りでしょうはガーガーピーピー。”汝臣民一層奮励努力セヨ”の勅語だと思い込んで解散。職場へ戻ってほどもなく日本が降伏したというデマが流れて腹を立てていると、教師が「無条件降伏の勅語だった」と告げて歩きました。
 ぼくたちに
欠落していた概念の”降伏”という意味を探り合い、意味がつかめてそれからが茫然自失。平素は喋(しゃべ)りまくっていずにいられない中学生が一様に押し黙って時間が過ぎていきました。
 家に着くと、隣組の人びとが路上にうずくまって語り合っていました。
「男は足を鎖でつながれ鞭で打たれて終身労働だ」「女は強姦されっぱなしの性の奴隷だ」「山中に逃げ込んだとて餓死か発見されて射殺がオチだ」「天皇や大臣や大将は銃殺される前に切腹か」(注3明日の予測がつく人はおらず、話は途切れとぎれになるのでした。
 そして1ヶ月もしたら、
パンパンガール(注4)という新人類がアメリカ兵の腕にぶら下がって歩き、「ギブミー・チョコレート」と兵隊にくっついて歩く大人・子供を見るようになりました。

 

 注1「原子爆弾」・・・当時、日本も原爆を開発してましたが成功はしませんでした。

 注2「玉音」・・・いわゆる「玉音放送」、玉音は天皇の肉声という意味です。
 注3「男は~」「~切腹か」・・・当然、こういうことは一切起きませんでした。それにしても多数の国民、諸外国の人びとを死なせておきながら、国のトップたちは潔く切腹もせず、A級戦犯容疑で逮捕されながらも起訴されず後に総理大臣まで昇りつめた者もいました。そのお孫さんが現在の安倍晋三首相というのもなんだかなー。
 注4「パンパンガール」・・・進駐軍の米兵相手に売春をしていた女性たちです。戦後の生活苦が原因ですが、一般に世間からは蔑みの目で見らていました。中には米兵と結婚して渡米した人もいたようですが、当時アメリカには日本人への敵対感情も強く残っていたと思われ、その後の苦労がしのばれます。


【尽忠報国精神とギブミーシガレット】

 ぼくたちは本当に戦意に燃えていたのでしょうか。
確かに鬼畜米英は人間の部類ではないと思っていたし、聖戦なのだから正義が最後に勝つと思っていました。”欲しがりません勝つまでは”だったが、そもそもが贅沢の味を知らなかったし、敵は物量豊富だとしても大和魂には勝てはしないと叩き込まれ、それを信じていました。
 アッツ島(注5)、サイパン島(注6)、硫黄島(注7)が次々に玉砕して、フィリピンが奪還され、沖縄も危機あることは承知してはいたが、「勝ち抜く」以外の選択肢は持たされておらず、敗北意識はありませんでした。三国同盟のイタリア、ドイツは降参したが神国日本は別だという信念も、まさに教育宣伝の効果だったのでしょう。
 一方で、大人―ぼくの母など―は、
サイパン全滅の頃から「日本は負けだ」と、お上をはばからず家族や近所の人に言い散らして、それに反発するぼくに対して、父は無言の同意を母に与えていました。本土上陸してきたら竹槍で勝負するしかなかろうが、殺される瞬間の恐怖を思っていました。
 元寇(げんこう)の役(えき)だ、神風が吹いて怨敵一層だぞと願う半面で、負けたら皆殺しになるのだから”竹槍”特攻隊をやるにせよ、その刹那の来ること1日も遅かれ、神風よ早く吹かんかと待ちこがれつつも、本当に吹くのか敵艦隊が吹っ飛ぶほどの神風が・・・と疑う気持ちも十分ありました。

 

 アングラの厭戦歌(えんせんか)を級友間ではおおっぴらに歌っていました。皆が気持ちをそらすためだったように思えます。
  
♪いやじゃありませんか軍隊は/カネの茶碗にカネの箸(注8)・・・・・
  ♪お国のためとは言いながら/人のいやがる軍隊へ・・・・・

 

 今なら整理して言えますが、尽忠報国精神は押し付けの付け焼刃だったわけで、内から沸(わ)き上がるガッツではなかったのでした。狩り出された兵士の多くとて同様だったでしょう。
 けれども
「生キテ虜囚ノ辱シメヲ受ケズ」という戦陣訓に呪縛(じゅばく)されて、傷ついて動きが取れない兵士が自殺を選び、サイパン島や硫黄島のようにあえて殲滅(せんめつ)されるために圧倒的に強力な下記の前に突入した兵士が何万人いたことか。沖縄では、ぼくと同年の中学3年生が素手(すで)同様で敵陣に突貫して命を散らしました。
 降伏した直後の感想は、「電灯がつけられると喜んだ」とあとで言った人も多かったが、ぼくらは「男は鎖につながれ終身労働」という恐怖感を最初に持ちました。新聞・ラジオが進駐軍(占領軍の言い換え、同様に敗戦は終戦)は友好的だと報道を重ねたので半月そこそこの杞憂でしたが。少なからずあったらしい略奪・暴行は報道厳禁だったから、米兵はフランクで親切だという印象を持つに至りました。
 それで9月に入って、
名古屋港へ米軍が上陸するのを見物に行きました。それまでのぼくらの常識―あれはいったい何だったのか。軍隊の上陸は、重い背嚢(はいのう)(注9)と銃を背負った兵隊が船腹の網を伝ってハシケに乗り移り、馬に腹帯当てて滑車で吊り下げて運ぶという常識は。
 
米軍のLST(上陸用舟艇)は岸壁にタテに接岸して、船首の蓋(ふた)が開くと―即―桟橋(さんばし)となり、船内から装甲車・トラック・ジープが猛速で飛び出す。自動小銃を車上で軽々とひねくるGI(兵士の俗称)。ぼくはおったまげて叫びました。「負けてあったり前だあ」
 走る車上からGIがタバコやガムやチョコレートをばら撒くと、這(は)いずり回って拾う大人と子供。ためらいもないその素早い動き―日本人ってこうだったのだと恥ずかしさで体がこわばりました。
 つい半月前までの「東亜の盟主」「鬼畜米英、撃ちてし止まむ」精神と今日の較差(かくさ)を目の当たりにして、我が同胞の変わり身の早さに唖然とし、付け焼刃の尽忠報国の裏側をまざまざと見たしだいです。
 また日本人のお行儀として天地開闢(かいびゃく)以来で驚天動地。白昼の路上、GIに腰を抱えられキッスされつつ歩く女性の姿を見るに至ったのは間もなくです。中学3年生にして人間学の初歩を現場検証で勉強したことになりましたね。


 
注5「アッツ島」・・・アッツ島は米国アラスカ州アリューシャン列島の島。一時、日本軍が占領したものの昭和18年(1943年5月29日)に米軍の攻撃により全滅。  注6「サイパン島」・・・サイパンは米領北マリアナ諸島の中心的な島、現在は日本人にも人気のリゾート地ですが、敗戦時までは日本の委任統治領であり日本軍にとって太平洋の最重要拠点でした。昭和19年(1944年6月)、米軍の上陸攻撃により多数の現地住民、日本や朝鮮からの移住者を巻き込んだ戦闘となり、日本軍は7月9日に全滅。  注7「硫黄島」・・・硫黄島は今日の東京都小笠原諸島の南端近くの島、戦争末期、日本本土の最終防衛ラインと位置付けられましたが、昭和20年(1945年)2月~3月の米軍の上陸攻撃により全滅。戦死者は日本軍約2万名、米軍約7千名で太平洋戦争最大の激戦地の1つとされています。アメリカからの返還後は自衛隊基地のみが置かれ、戦没者遺骨収容事業以外での民間人立ち入りが禁止されています。なお、この遺骨収容は主にNPO法人や民間ボランティアの手により行われていましたが、日本政府として本格的な支援を開始したのは、2010年(平成22年)に旧・民主党の菅直人首相が指示を出してからです。
 注8「カネの茶碗にカネの箸」・・・この後に続けて「♪仏さまではあるまいし・・・」と父が歌っていたのを聞いたことが何度もあります。軍隊に行ったら、帰ってくるときは仏さま(お骨)になっているという暗喩もあったのではないでしょうか。
 注9「背嚢」・・・リュックサックの訳語。元はドイツの狩人が使っていたのが軍事用やアウトドア用に普及したもの。バックパック(米語)、ナップサック(イギリス英語)もドイツ語からの訳語とされます。


【アメリカかぶれに変身】

 
ぼくらは教師の180度転換に不信感を持ちました。それは言わされてきたにせよ、あれほど”お国のため””神国日本”を鼓吹(こすい)した教師で生徒の前で懺悔(ざんげ)した者はいませんでした。もっともほとんどの国民が―ごく少数の海外有識者を除けば―価値観のコペルニクス的転回に呆然自失の体(てい)だったとも言えますが。
 
大多数の人はその日その日の食糧難、明日どころか今日の食物を確保するための戦いに疲れ果てていました。
 マスコミは、事実上の軍政下で報道管制をされてもいたが、占領軍を解放軍のごとくに賛美しました。
 害虫駆除にDDTを配布してくれて抜群の効果が上がり、1千万人餓死説さえ飛び交った食糧ピンチに大量の粉末食糧を放出してくれたりで―〈その恩顧からも日米軍事同盟、イラク出兵(注10)は当然と公明党は創価学会員を与党に誘導〉―民心を引きつけたからか、また映画やジャズを通じてアメリカ文明を垣間(かいま)見る程度のことだったけれども、日本人はあっという間にアメリカかぶれしていきました。
      *

 軍国少年だった中学生の体験を、出来るだけ感傷を抑えて叙事的に書き記したつもりですが、どうお読み下さいましたか。

 注10「イラク出兵」・・・2003年(平成15年)12月から2009年(平成21年)2月までの自衛隊イラク派遣のこと。

【老人の今の心配ごと】

 地球上から戦争を放逐することは究極の理想であり、
この国の敗戦が契機で生まれた不戦平和憲法は掛け替えのない世界的財産です。
 ところが今の政府(注11)憲法を変えよう―歴史を見直して戦争が出来る国にしよう―と公言しています。その動機が軍備拡張指向の金もうけであるにせよないにせよ、武力誇示でリーダーシップを取ろうとする帝国主義的アメリカの驥尾(きび)に伏して列強の地位を占めようとしていること、これは世界平和に背中を向けた振舞いでしょう。
 また政府は臨戦態勢のための思想統一の手立てとして、矢継ぎ早に種々の法案(注12)を準備していると言えます。
 また戦争知らずの若い世代が漫画・劇画のようなスポーツ感覚で戦争を見勝ちなところにつけ込む石原慎太郎
(注13)のごとき、低次元だが扇動に巧みな政治家が続出しそうです。
 昔のように”井の中の蛙大海(世界)知らず”ではないにせよ、
若い世代が巻き込まれて弾み次第でファシズムの再来(注14)を招き兼ねないことを、”ああ、遅かりし”となり兼ねないことを、わたしは真から心配しています。 (終)
 
 
注11「今の政府」・・・この手記は2007年1月時点のものですから、「第1次安倍内閣」(2006年9月~2007年8月)当時のことです。安倍さんはずっと憲法破壊、戦争肯定、アメリカ追従の姿勢が変わっていませんね。
 注12「種々の法案」・・・第1次安倍内閣時代に「改正教育基本法」(国粋主義的な道徳教育等)、「国民投票法」(憲法改悪手続きのハードルを下げる準備)、現在の第2次安倍内閣となって、「特定秘密保護法」(政府が隠したいことは何でも隠せる法律)、「安保法制」(集団的自衛権=他国の戦争に”自衛”の名目で参戦できる法律)、「共謀罪」(未遂でも計画しただけで犯罪とされる。拡大解釈でデモの禁止や参加者の逮捕などが行われる危惧)、「改正労働法」(高度プロフェッショナルの名の下に残業代ゼロ、長時間労働化促進の恐れ)などなど、まさに稀代の悪法がどんどんと成立しています。
 注13「石原慎太郎」氏・・・当時、東京都知事(在任期間1999年4月~2012年10月)、この手記のあとの退任直前には中国との領土問題で揉める「尖閣諸島」を都有化しようと画策して、結局、民主党野田内閣による「尖閣国有化」を招いて、日中関係を戦後最悪の混乱に追い込んだ責任は明記されるべきでしょう。中国側の姿勢が強硬に過ぎるとは思いますが、それ以前に提案されていた共同開発など、もっと柔軟な姿勢での話し合いの余地はあったのではないかと考えます。
 注14「ファシズムの再来」・・・ここ何年来かのネット上の「保守派」の言論は、安倍首相礼賛で、民主的・自由主義的な意見・主張を封殺しようという気配、社会主義を悪と決めつける雰囲気が濃くなったように感じます。まさにファシズムの再来という空気になってはいないでしょうか。危険すぎる兆候だと思います。

(おわり)

 

 

(前回)『銃後の風景』(9)

(初回)『銃後の風景』(1)

 

『銃後の風景』=中学生の視線=その9

9年前に亡くなった父が生前に書き残した手記の紹介の続き(本編第8回)です。
文章は極力、父が書いた原文を書き写しますが、個人名などは伏せます。
文中の(注)は、ぼくが書いた脚注です。
 

【機銃掃射】

 制空権も制海権も奪われて、近海を敵艦隊が自由気儘(きまま)に遊弋(ゆうよく)し始めたのは、敗戦の年の4月だったか。まるで日帰りピクニックのように艦載機がやってきて
遊びのように機銃掃射をしました。操縦士の顔が見えるほどの低空まで来て地上の獲物をいたぶって行きます。ひたすら物陰に隠れるしか手がありません。
 大曽根駅で、防空壕(薄い板に土をかぶせたチャチなもの)に駆け込んだ
女学生何十人かが狙い撃ちにあって、壕の中で全滅しました。走る列車を目がけて掃射もしました。
 浜松の艦砲射撃は、数十キロかなたから40センチ級の巨砲を打ち込んだが、無予告だからこれほど恐ろしいことはなかったでしょう。空襲と違って空を見上げていても分かりませんからね。奥深い横穴を掘って逃げ込む方法しかないが、浜松ではかなり北へ行かなければ山はありませんしね。

【崇拝と恐怖の懸隔(けんかく)】

 
「天皇の赤子(せきし)」という言葉がよく使われて、赤子って赤ん坊だろ、天皇陛下は大人も赤ん坊のように可愛がって下さるのか、けれど一人ひとりの国民をどうやって?と思ったのは小学生の頃。
 「奉安殿」「御真影」を読み書き出来ない低学年でも言葉は知っていたものです。登下校には奉安殿に姿勢を正して脱帽敬礼をします。児童がいない時の先生がお辞儀を省略して通るのを見て、これはずるいやと先生の目を誤魔化せる時は、こちらもシツレイをばして通りました。中学に入っても同様でしたがシツレイが見つかると、小学校と違って張り倒されかねないから要注意でした。
 公式の席上で天皇を話題にするには「恐れ多くも」の枕ことばがあって、声がかかると一斉に〈不動の姿勢〉を取らなければなりません。
 ぼくらにとって
天皇は「崇拝」というよりは「恐怖」の象徴でした。皇国臣民に生まれたからには生命を天皇に捧げよ、それが皇恩に報いる道だと頭ごなしの押し付けで、学校は”臣道実践”の暴力道場でした。否定・疑問は―即―国賊・非国民というわけ。実際には「天チャンはいいな、地下何十メートルという防空壕にいて爆弾など屁でもないさ」などと級友間で語り合っていたし、どの家庭でもいちいち”皇恩”を意識はしないし、食卓でも話題にもしないし、報恩精神が国民の血肉となっていたわけではありません
 今、将軍様
(注1)のため、将軍様に喜んでいただくと異口同音に唱える国がありますが、ぼくらのあの時代と共通するかしないか、ちょっとわかりかねます。
 注1「将軍様」・・・かの隣国の先代指導者様のこと。世襲3代目が米国大統領と仲良くなったようですが、平和主義者と言われていた兄上を暗殺した(あくまで疑惑ですが)くらいですし、裏で何を考えているのか何とも言えません。

【ダニ・虱(しらみ)・DDT】

 都市生活には一般に井戸がなく、
空襲で水道設備がやられて毎日が断水状態。糸のように細々と出る水はバケツ1杯に1時間も洗濯もままならず、夜間空襲に備えて着たままで寝るから垢まみれ。
 蚤(ノミ)は言うに及ばず、虱(シラミ)、ダニが、シャツにも布団にも毛髪にもうごめき、寝ても覚めても痒(かゆ)い痒いです。銭湯は週に1度ほどだがまた追加を貰ってきます。暇さえあれば猿の蚤取りの図。
 
ほとんどの人が皮癬(ヒゼン)という皮膚病に取り付かれ、猛烈に痒くて指の股を掻きむしるので年中赤くただれていました。ついでに言うと、釘を踏み抜いた足に赤チン(注2)を塗って布で縛っておくだけだから、ぼんぼんに腫(は)れ上がったあと膿(う)み崩れウジが傷口にたむろしましたが、案外気楽に打っちゃっておいたもの。
 敗戦後に米軍支給の、今は
猛毒とされているDDTの粉末を全身に頭からかぶせられたら、あれだけの虫どもが瞬時に全滅して、あちらの科学力にあれにはたまげました。
 
注2「赤チン」・・・正式名「マーキュロクロム液」、昭和40年代頃までどこの家庭にも常備してあった外用殺菌消毒薬です。同じく殺菌剤の「ヨードチンキ」(褐色)と区別して、真っ赤な色から「赤いチンキ」と呼ばれたのが略されたものです。非常に安価で日常的(ヤンチャの男の子はほぼ毎日)に使われましたが、製造過程で排出される水銀が問題視され、昭和50年代ごろからほとんど使われなくなりました。

(つづく)

 

 

(前回)『銃後の風景』(8)

 

(初回)『銃後の風景』(1)

『銃後の風景』=中学生の視線=その8

9年前に亡くなった父が生前に書き残した手記の紹介の続き(本編第7回)です。
文章は極力、父が書いた原文を書き写しますが、個人名などは伏せます。
文中の(注)は、ぼくが書いた脚注です。
 

【地震と空襲のあと】

 1944年12月と翌1月に震度6か7の大地震工場は埋立地なので地割れ・断層がいっぱい。据え付けた大型機械が傾いて生産はガタ落ち。2回の空襲で広い工場の半分ほど炎上片付けも手につかず、出勤すれどぶらぶら遊んで日をつぶしました。
 5月頃から工場疎開が始まって、リヤカーに山ほど積んで市電終点まで運び、無蓋車(むがいしゃ)にした電車に乗せて名古屋港まで同乗。国鉄臨港線
(注1)の貨物列車に積み替える。

それが敗戦となる日までのぼくらの仕事でした。これは重労働で毎日へとへとになりました。中央線大曽根駅から名鉄瀬戸線に積み替え瀬戸市郊外の秘密地下工場へ運ぶんだとか。未完了のまま敗戦ストップ。

 

 注1「国鉄臨港線」・・・現在のJR東海道本線貨物支線(通称・名古屋港線)。中川区の尾頭橋駅付近の山王信号場から中央線に接続し、大曽根駅では昭和50年ごろまで名鉄瀬戸線との貨物列車相互乗り入れが行われていました。元々、大曽根駅は瀬戸物(陶磁器)の貨物輸送のため、瀬戸線との接続駅として設置されたものでしたが、その後、瀬戸線は名古屋のベッドタウン化した沿線住民の旅客専用路線となり、貨物列車の相互乗り入れは廃止されました。

【給食・蠅の軍団】

 仕上げ工場に配属されて、鋳物の粗型に鑢(やすり)をかけるのですがおシャカ(失敗作)ばかり。あれが使えたのかな。
 工場では給食が出て弁当不要でした。
ひもじさは戦時中より戦ですね。豆粕入り飯、菜っ葉煮、小女子(こうなご)煮のワンパターンで飽きがきましたが、今思えば栄養不足ではないようでした。
 工員・学生と社員とは食堂も献立も別で、いつだったか課長級の弁当を女事務員が運んできたのをチラと見てびっくり仰天。何年間も目にしたこともなかったビフテキだったから。
 空襲で食堂設備がやられてからは、ふかした馬鈴薯10ヶほど(それだけ)が一人前の食事となりました。遠目で見ると真っ黒な色をした木箱を当番の物が受け取りに行きます。
真っ黒なのは蠅の軍団音を立てて群がってくるヤツばらを追い払いますが、口に飛び込んできていっしょに食ってしまったことも何度かありました。

【東海軍管区情報】


 「大本営発表」(注2)とは嘘の公式発表のことだと現代語解釈ですが、日本軍は負けが込むと嘘八百を並べたことはご存知ですね。
 「東海軍管区情報」というのがあって敵機来襲のニュース速報をラジオ放送しました。これは嘘八百ではありませんが精度があてになりません「敵機編隊が志摩半島から侵入し素鈴鹿方面に北上中・・・」と放送している時にはもう名古屋がバカスカ爆撃されていたりして。日本軍には実験中のはあったとかだが実用のレーダーがなくて、志摩半島先端の聴音機で敵機飛来を聞き取り、望遠鏡で眺めてからの有線電話情報です。誤報のせいであたらたくさんの人命が露と化したこと。
 1945年6月9日午前、愛知航空機船方工場では、空襲警報解除のサイレンで工場外へ避難していた工員・学生が持ち場に帰着したその時、数十機が飛来して爆弾の雨を降らせました。犠牲者2000人。ぼくらの一学年上の中学4年生がこの工場に動員されていて200人中6人と教師1人が瞬時に消え去りました。
 職場の友人のIさんの姉さん(女学校4年生)もこの日この場所で亡くなりましたTさんの姉さんは降伏の日の数日前に豊川海軍工廠で爆死したとのこと。

 

 注12「大本営発表」・・・大本営は戦時に陸海軍を統括した軍の最高機関で天皇直属。「大本営発表」は、戦局の悪化する中で、あたかも戦況が好転しているかのように事実を都合よく捻じ曲げた発表を繰り返しました。現在の内閣や財務省、日銀なども同じようなことをしていませんか。

(つづく)

 

 

(初回)『銃後の風景』(1)

『銃後の風景』=中学生の視線=その7

前回から間が空いてしまいましたが、
9年前に亡くなった父が生前に書き残した手記の紹介の続き(本編第6回)です。
文章は極力、父が書いた原文を書き写しますが、個人名などは伏せます。
文中の(注)は、ぼくが書いた脚注です。
 

【空襲光景】

記録によると
名古屋に大空襲は、敗戦の前年十二月から翌年七月までに22回〈爆弾15回、焼夷弾7回〉(出典『愛知県の歴史』)
救援編隊の小空襲は日課のごとくです。市街密集地の三分の二が焼かれ被災死八千人余。春以後は艦載機による機銃掃射と小型爆弾。
 ぼくは名古屋を離れたことがないので空襲地獄をつぶさに味わっています。昼間は一万メートル、夜は三千メートルの高度で二十機ほどの編隊のB29が十群も二十群〈多い時は四百機〉も襲いかかり、夜間は花火のような奇麗な色どりで何千何万と爆弾・焼夷弾の雨を降らせます。風よりも速い砲弾炸裂の中、身動きもならず地面にひれ伏して、我が身にそれが突き刺さる瞬間を、今なのか次かと待つ時間の長さ。どうせなら家族全部が揃っている所を一発でやってくれえという気持ちでした。
 直撃弾を食うと衣服が全部もぎ取られてヌード状態になり、
手足も首、胴もバラバラに散らかりました。何キロ四方も焼けた跡は、いつまでも異臭がただよい、そこかしこで炭の固まりのような焼死体が見られました。
 名古屋上空でB29が三回撃墜されて、御器所(ごきそ)、萩山公園、守山(注1)へ落ちたのを、そのつど遠路をかまわず残骸見物に足を運びました。萩山公園では、胴と手足が離れたソーセージを二つに折ったようなアメリカ兵の屍体を見ました。「コン畜生、コン畜生」と屍体に何度も石を投げつけるおじさんがいました。おじさんの行為をおぞましいという目で見る人は割に少なかったという印象を記憶しています。
 注「御器所、萩山公園、守山」…御器所は昭和区の地名、萩山公園は瑞穂区にあった公園で現在の名古屋市瑞穂公園(名古屋グランパス・ホームスタジアムのパロマ瑞穂スタジアムなどがあります)、守山は守山区(当時は守山市)


【徴用令】

 父は労働紹介所(現職業安定所)の下っ端役人(戦争末期に定年)でした。明治維新で零落した津藩士の家に生まれて貧乏育ち。愛知県巡査となり、脱サラ商売に失敗し、再度役所勤めをしました。
 無口で若年のことは聞いていないが、笈(きゅう)を負って上京し苦学したが学成らずじまい。
 小学校五年生の頃か、父がポツリと言うには「弁護士の鬼丸義斎さん〈戦後に参議院議員〉とは巡査時代の同僚だ。猛勉強して高等文官試験に合格して出世したお人だ。お前は中学に入ったら鬼丸家に書生で住み込め」と。僕は黙りこくっていたっけ。
 
戦争たけなわで徴用が開始されてから、未知の人がこっそり夜間に訪ねてきて、徴用を逃れる手はなかろうか、表向きだけ就職できる会社はないか、娘が徴用されたが通勤できる場所へ何とかして、などと相談をかけるのでした。依頼に応じられたかどうか中学生の僕は知りません。
 
米屋やら薬局やら生活必需の店を除く商店は全部、企業でも不要不急と見なされるものは休廃業させられ、「召集令状」の代わりの「徴用」が舞い込んで軍、需工場へ強制配属されたのでした。
 それに学校卒業後の無職(家事)の女性も、また会社勤めでも不急の職種なら徴用されました。


【雲の上の人たち】

 愛知航空機
(注2)の社長は、青木鎌太郎という著名な財界人とのことでした。空襲警報が入ると、海軍士官を交えた数人のお供を従えて、よぼよぼした老人―通称アオカマ―が、近頃珍しい背広姿だが本館からかなりの距離の庄内川河口まで乗用車で駆けつけて、モーターボートで川上へ避難して行きました。乗用車もモーターボートも当時はたいそう珍しく、雲の上の人たちという感じで眺めていました。海軍士官と言えば、時々巡回してくる監督官はひたすら怖いばかりで、通りすがりにも避けて道の端を歩いたもの。
 戦争に負けたとたん、米軍が進駐してくる僅かの間に
将校らが工場出入りの運送屋と結託して、莫大な残存物資―鉄材、アルミ、ゴム、ガソリン、糧食などを隠匿して大儲けしたとは後で聞いた話。あのここな罰当たりの"隠退蔵物資"泥棒成金め。
 注2「愛知航空機」・・・愛知時計電機の航空機部門として設立され、水上機・艦載機などの海軍用戦闘機を製造。現在は愛知機械工業と社名変更して日産系列の自動車部品メーカーとなっている。青木鎌太郎は愛知時計電機及び愛知航空機などの経営者であり、当時の名古屋商工会議所会頭でした。

(つづく)

 

 

(初回)『銃後の風景』(1)

『銃後の風景』=中学生の視線=その6

9年前に亡くなった父が生前に書き残した手記の紹介の続き(本編第5回)です。
文章は極力、父が書いた原文を書き写しますが、個人名などは伏せます。
文中の(注)は、ぼくが書いた脚注です。
 
【星に桜にヤミに顔】
 
 米と衣料品は戦争が始まって早くから配給年に百点とかいう衣料切符制で新調など滅多に出来ず、テレビの"朝ドラ"などで写す戦時中の服装のモンペなど、よそ行きのように整い過ぎて違和があります。
 
 米はしだいに減量され、更に主食代用の麦・藷(いも)もだんだん遅配・欠配続きとなりました。野菜も魚も味噌も醤油も塩もマッチも薪炭(注1)も、生きてゆくものすべて僅かな配給店屋のオヤジもカミさんも役人のように威張りくさっ、客がゴマをすりました。
 主婦は何が買えるか今日の僥倖(ぎょうこう)を願ってあちこちと行列して、魚の切り身の大小を目の色を変えて争い、隣組同志の仲違いがよく起きると母の愚痴でした。たまの少量の酒・煙草の配給に男は取り乱す
 
 もちろん裏の世界があり、"星に桜にヤミに顔"(注2)と唄われ、軍人、役人、闇商人、軍需関係者は、配給などどこ吹く風で豪勢に暮らしたとのこと。"バカ者だけが行列をする"と言われていました。

 
注1「薪炭」・・・当時は名古屋市内でもまだガスの普及は進まず、煮炊き用の燃料は薪や炭でした。終戦から20年以上後の昭和40年代になっても祖母の家には使わないけど薪窯がありましたし、お風呂を薪で沸かしている家もけっこうありました。
 注2「星に桜に~」・・・「星」は軍人の徽章、「桜」はお役所の象徴、「顔」は軍隊に顔が効くとの意味。また経済統制の目を逃れて商品を隠し、高値で売りさばく闇業者も暗躍しました。

【超満員電車】
 
 市電の話。朝晩のラッシュ、割れたままの窓ガラスから風雨が遠慮なく吹き込み、車内は芋こじで上げた手もままならず。車掌はここが専用席だとばかり、晴雨にかかわらず車外でつかまり立ちをしていました。はみ出し客は手すり棒をつかんでぶら下がり体は車外です。ぶら下がり客の帽子を車掌がつまんで路上に投げ捨て、拾いに降りたその隙に車掌がそれッと発車の合図をします。
 
空襲で架線がもろくなって、毎日どこかで部分不通車掌の号令一下、乗客全員が電流が通じている次のセクションまで何百メートルかを電車を押して歩きます。
 
乗務員不足で動員されて中学3年生が市電の運転手を、女学校三年生は車掌をしました。体格の大きい生徒は選抜されてトラックの運転手に。職場組合の分会長だったOさんは刈谷中学四年生で、日通の運転手をしました。昭和19年取得の免許証を見せられたことがあります。


【牛に牽かれて飛行場】

 
吉村昭さんの名著『零式戦闘機』に、その奇妙なシーンが活写されています。港区大江の三菱(注3)から、科学の粋の飛行機が翼と胴と分離して牛車(ぎっしゃ)に積まれ、飛行場に運ばれる様子がです。名古屋の真ん中を通り抜けて、岐阜の各務原飛行場まで石コロ道48キロを二十四時間かけてエッチラオッチラ。馬よりのろいが力があるから牛なのです。
 ちなみに『ゼロ戦』は、翼巾11メートル、胴長8メートル、自重1.6トン、1対1の格闘力は世界無比だったと言いますが、終には訓練不足で操縦士の腕もガタ落ち。
 吉村さんの記述には「機体をカバーして厳重に覆って」とありましたが、ぼくたちが日頃見ていたの
機体は裸のままでした。
 南方でジャングルを切り開いて簡単な飛行場を作る際に、
日本軍は鋸・シャベル・つるはし・もっこ。米軍はチェーンソー・ショベルカー・クレーン車等々。前者は数ヶ月、後者は1週間か10日で出来上がると後で聞きましたが、その違いも分からず戦争していたわけですな。

 
注3「大江の三菱」・・・三菱重工名古屋航空機製作所。零戦をはじめ当時の三菱の戦闘機開発の拠点であり、現在も航空機部品やロケット部品を製造しています。

(つづく)

 

(初回)『銃後の風景』(1)

『銃後の風景』=中学生の視線=その5

9年前に亡くなった父が生前に書き残した手記の紹介の続き(本編第4回)です。
文章は極力、父が書いた原文を書き写しますが、個人名などは伏せます。
文中の(注)は、ぼくが書いた脚注です。
 
【殴る教師像】

 中学生にとって教師は恐怖と憎悪の対象と言ってもよいほど、殴らない教師は例外的に少なくて、殴るのを楽しんでいるサディスティックなやつもいて校内はおろか
校外でも大勢の人前でも殴るのです。
 敬礼をしなかった、服装が乱れているなどと難癖をつけて。近い将来に軍隊に入るお前たちのためという名分があり親も苦情を入れられず。往復ビンタを何発も喰らい顔が腫れあがっても泣き寝入り
 
 上級生は下級生を殴るのを”特権”のように振舞っていました。軍隊で古兵が新兵を殴って鍛える、学校では教師が生徒を殴り、職場では先輩が後輩を殴る、警官は人民を殴る、世間にはそれを取り立てて問題にする風潮がありませんでした。
 
 当時は差別フリーとでも言うか、強烈な吃音(きつおん)の子にスピーチを指名して立ち往生するのを大笑いする教師やら、特別ミニな子に「起立せよと言っとるんだ、それで立ったのか」とからかう教師など、人権感覚はまるでなし
 
 生徒は敏感に見抜くものです。あいつは意地悪で好きで殴る、あれはしょうことなしに殴ると。毎年卒業式のあと悪玉教師に仕返しをしようと常連犠牲者の新卒業生(ヒーローでもある)がつけ狙います。
 復讐成功率はあまり高くないのですが、あのヤロウ職員室にまだ隠れている、あいつ真っさおな顔で逃げ回っていたぞと情報を入れる生徒を取り囲んで、在校生もウップンを晴らしました。

【予科練へ行けエ】

 ぼくの中学の校長は兼かに鳴り響いた
軍国主義者〈戦後公職追放(注1)で軍人学校へ、生徒が志願するのをたいそう喜びました。
 陸軍士官学校海軍兵学校は、超難関コースで、我が校からの合格は年に1人かそこらでしたが、予科練(海軍飛行予科練習生(注2)は、学力平凡でも体力・視力が上等なら合格しました。校長は不良っぽいと目をつけた3、4年生(受験資格年齢)に「お前は予科練へ行けエ」と有名な大音声で強引に誘導したので一度に10人、15人と入校していきました。
 むろん永久に帰らぬ子もあり。ぼくのクラスメイトも少年兵を志願して早々に、登場した潜水艦が撃沈されて短い人生を終えました。
 
 「我が家は士族だ、名を挙げ」よと言う父の命令もだしがく、陸軍幼年学校(受験資格1、2年生、(注3)を受けました。
 受験当日は風邪で高熱、頭クラクラ、体フラフラだったのに秀才でもないぼくが学科試験にパスしたのはあれはフロックだったかい。
 担任教師が知らせに我が家へ駆けつけてしばらくはご近所で噂のタネ。
 二次選考でアウトとなり、運動神経に難あり文武両道向きでないぼくは内心やれやれ。オヤジは「将校や資産家の子弟が優先だ、うちは貧乏人だから」と僻んでいたっけ。ウフフ・・・。

 
注1「公職追放」・・・1946年(昭和21)1月4日付の連合国最高司令官覚書「公務従事に適しない者の公職からの除去に関する件」によって、戦争犯罪人や職業軍人のほか、強い軍国主義思想を持つ者たちが公職(公務員や社会的影響力の強い企業・マスコミなど)から追放され、その数は20万人以上に上ったといいます。1952年(昭和27)の「サンフランシスコ講和条約」成立と同時に解除。
 
 注2「予科練」・・・日本海軍のパイロット養成校。戦時中の戦闘機乗りの不足に応じて大量に採用されました。戦前に採用されたパイロットは戦死率が高く、特攻隊員として亡くなった人も多いといいます。末期の予科練生は戦闘機も残り少なく、採用されても基地建設や塹壕掘りの作業員とされることの方が多かったようです。
 
 注6「陸軍幼年学校」・・・陸軍のエリート士官養成のため、陸軍士官学校進学を前提に作られた軍の学校で、学年では旧制中学に相当。卒業生は試験なしで陸軍士官学校予科(教育内容は一般の旧制高校に軍事教練が加わった内容)に入学しました。予科練よりステータスは高かったようです。
 

(初回)『銃後の風景』(1)

『銃後の風景』=中学生の視線=その4

9年前に亡くなった父が生前に書き残した手記の紹介の続き(本編第3回)です。
文章は極力、父が書いた原文を書き写しますが、個人名などは伏せます。
文中の(注)は、ぼくが書いた脚注です。
 
 

【「訓練」空襲警報】

 アメリカと戦争を始めてから空襲に備えて「訓練」をしました。町役は昔も今も敬遠され勝ちですが、ぼくの町で厚生車(自転車タクシー)引きの親爺に警防団長役が回ったところ、おっさんはとたんに舞い上がって威張り始めました。
「訓練空襲警報」警防団長がメガホンで連呼すると主婦が家から飛び出してきて、号令一下竹竿の下に縄をたらした「火叩き」を振り回し、発煙筒の煙にバケツリレーで水を掛けます。おっさんは好み(自分の好き嫌い)の家に発煙筒をぶつけるので嫌われました。
 演習後に臨場していた町内会長、警官、在郷軍人会長が「焼夷弾など恐れるに足りぬ」と演説をぶちました。

 

 初空襲は6年生(1942年)になった春4月、日曜日だったか午前中。見慣れないのが2機―B17とか―低空を名古屋市の真ん中を南西に向けて飛びました。
 空襲本番になって、翼巾43㍍あるという世界最大の爆撃機B29が20機30機と編隊を組んで、
油脂の燃え盛る鉄筒(焼夷弾)を豆俵をぶちゃけたような数量を投下するから何百軒も同時に燃え上がり、火叩きなんぞは子供のオモチャにもならず、町内会長は先んじて田舎へ疎開し、権威失墜した警防団長氏はションボリと歩いていました。


【中学受験】

 小学校は尋常科6年が義務教育で高等科2年は任意。大半の子は高等科へ進んでから商店の小僧か職人見習い、会社の給仕などに就きました。

 

 中等学校(中学、商業校、工業校、女学校)へ進むのは都会地で2、3割。親の資力にも比例していました。
 中学入学はその前年から戦時体制ということで学科試験がなく内申を基としました。口頭試問と体力テストがありました。態度にメリハリがあるかないかがポイントだと聞いていました。
 お彼岸の時期なのに終日雪模様の寒い日でブルブル震えていました。校長が試験官で
「海行かば」を暗誦せよとテストされました。ぼくはすらすらと暗誦しました。

 

 海行かば/水漬(みず)く屍(かばね)/山行かば/草蒸す屍/大君の辺(へ)にこそ死なめ/顧みはせじ

 

 我が家は他家と比較して豊かでないと承知していました。中学の月謝は4円60銭でした。父の給料は知りませんでしたが母も姉もいつも手内職をしていました。学費が十円で足りるかなあと母が溜め息混じりだった覚えです。


【”非”国民】

 
国民精神総動員で、戦意を示すために男のファッションは坊主刈り、戦闘帽、国民服(詰襟、カーキ色)、ゲートル着用(注3)がおきまり。

 中学へ入った1943年(昭和18)の春は、ホワイトカラーの教師の服装は背広、ネクタイ、中折帽子が普通でした。父の服装もそうでした。お上(かみ)の指導でその年か次の年までにファッションが急速に変わったのでした。

 

 まれに長髪、背広姿がいると、怪しい奴だ、非国民だと、愛国心のカタマリを自負するいささか頭の軽いおじさんたちが「この非常時を何と心得るか」と不審尋問をしているのを見かけました。

 

 女の場合、同性には辛らつで、白いエプロンに国防婦人会のタスキを掛けたおばさんグループが町を練り歩き、道行く女性の洋髪は敵性だからとパーマネントの髪をハサミで刈り取り、贅沢も敵だからお嬢さんの振袖をちょん切ったそうです。

 

 末期の女性は、一様に暗色の上衣をモンペにたくし込み、化粧っ気はゼロで、手作りの布製バッグと防空頭巾をたすき掛けにしていました。老若男女、手製の”認識票”―住所氏名、年齢、血液型―を胸に縫い付けていました。

 

 負けぎわの頃は物資すべてが窮乏で、ぼくもツギハギだらけで脱ぎ捨てても惜しくないような学生服だったし、底がバクバクに開いたズック靴を履き、靴は下駄に変わり、煎餅(せんべい)下駄がタテに割れて路傍に捨てて裸足で戻ると、「薪になるのになぜ捨てたか」と親が小言を言いましたね。終にはワラジが常用になりました。

 注3「ゲートル」・・・動きやすくするほか怪我の防止などを目的にズボンの裾に巻き付ける布。戦闘服によく使われました。

(つづく)

 

(前回)『銃後の風景』(3)

(初回)『銃後の風景』(1)

『銃後の風景』=中学生の視線=その3

9年前に亡くなった父が生前に書き残した手記の紹介の続き(本編第2回)です。
文章は極力、父が書いた原文を書き写しますが、個人名などは伏せます。
文中の(注)は、ぼくが書いた脚注です。
 

【スローガン・標語】

 (記憶の箱から取り出した分です・・・)
 贅沢は敵だ/産めよ殖(ふ)やせよ/ ちてし止まむ(ん)
 欲しがりません勝つまでは/進め一億火の玉だ
 一億一心/八紘一宇(はっこういちう)/臣道実践/滅私奉公尽忠報国
 国民皆兵/神州不滅/大政翼賛/鬼畜米英/
 前線銃後国民精神総動員/悠久の大義/大東亜共栄圏/東亜の盟主
 大御陵威(おおみいつ)/上御一人(かみごいちにん)/醜の御盾(しこのみたて)
 
(注)・・・なんだか今もどこか右の方から同じような声が聞こえてくるような気がしてなりませんね。
 
【名誉の家】

 「出征軍人の家戦死者の「名誉の家」と門標があって、登下校の小学生は名誉の家で立ち止まり、脱帽敬礼をしたのでした。これらの家は表向きは名誉でも、働き手を失ったところで生活保証があるでなし。
 招集された兵士を、親戚、友人、町内、在郷軍人が幟(のぼり)を日の丸を振って「出征兵士を送る歌」を合唱して送り出しました。
 
 ♪我が大君に 召されたる
  いのち栄(は)えある 朝ぼらけ
  讃えて送る 一億の
  歓呼は高く 天を衝(つ)く
  いざ征(ゆ)け つわもの
  日本男児

 
 戦死して白木の箱に納まって帰郷すると、婦人会や小学生が動員され、道路に整列して遺骨の行進に拝礼しました。こんな行事は戦争初期のことで、あとになると空襲の恐怖、疎開の心配、食糧の買い出しなど、気持ちがささくれだって他人のことなどかまっておられず、そんな風景は全く途絶えました。 
 

『銃後の風景』=中学生の視線=その2

9年前に亡くなった父が生前に書き残した手記の紹介(本編その1)です。
文章は極力、父が書いた原文を書き写しますが、個人名などは伏せます。
文中の(注)は、ぼくが書いた脚注です。
 

【まえがき】

 兄に当たる年代層は、夜郎自大(やろうじだい)な天皇国家の時代に生まれあわせて戦争に狩り出され、近隣諸国で二千万人ほどの命を奪う羽目になり、自国民三百万人も落命の憂き目にあいました。

 もの心ついた少年期から
軍国主義を叩き込まれ、他に選択肢がなかったわたしたちの”銃後”―”前線”に対置された言葉で後備の意―体験を若い人たちに知って欲しいという衝動があります。戦争に過ぎる非人間性はありません。

 居た場所の違いだけで
沖縄では、同い年の中学生が肉弾で敵陣に突入しました。そうさせたものに今も憤りは消えず、時を隔てた今も心は音を立てて軋みます。

 またぞれキナ臭い硝煙が漂い始めたのでしょうか。若者が再び銃を執って、”殺し殺され”に出掛けることのないように願っています。人生の初心(うぶ)な頃に坩堝(るつぼ)に投げ込まれて、どこまで煮え滾(たぎ)ったのか自分でも分かりませんが、一途(いちず)だった中学生の記憶の点描です。

 
2007年1月 Y/M(氏名) 七十六歳

目次
 ・まえがき
 ・筆者プロフィール
 (1)スローガン・標語
 (2)名誉の家
 (3)「訓練」空襲警報
 (4)中学受験
 (5)”非”国民
 (6)殴る教師像
 (7)「予科練へ行けエ」
 (8)少年戦士
 (9)星に桜にヤミに顔
 (10)超満員電車
 (11)牛に牽(ひ)かれて飛行場
 (12)空襲光景
 (13)徴用令
 (14)給食・蠅(ハエ)の軍団
 (15)雲の上の人たち
 (16)地震と空襲のあと
 (17)東海軍管区情報
 (18)機銃掃射
 (19)崇拝と恐怖の懸隔(けんかく)
 (20)ダニ・虱(シラミ)・DDT
 (21)負けたあの暑い日
 (22)尽忠報国(じんちゅうほうこく)精神とギブミーシガレット
 (23)アメリカかぶれに変身
 (24)老人の今の心配ごと



【筆者プロフィール】(注・父のプロフィールです)
 ◇ 名古屋市生まれ。支那事変(と称す=注1)勃発の年に小学校1年、敗戦の年に中学3年(注2)だった戦争っ子。
 ◇ 中学2年で学徒動員。勉強は全部なげうって、海軍機「彗星(すいせい)」ほかを作った愛知航空機永徳工場(現・名古屋市港区野跡) に通勤。
 ◇ 1944年秋から降伏までの9ヶ月間を重爆撃機B29のじゅうたん爆撃、戦闘機の反覆機銃掃射を浴びて、戦場の恐ろしさをたんのうする。

 

   *       *      *
 

中学生は少年戦士ですから、学童疎開はありません。空襲が激しくなってから、今日が生き死にの別れ目になるか、せめて1、2日でもしのげるようにと親心の非常食―石のように固めた小麦粉の焼団子を雑嚢(ざつのう=注3)に入れていました。
 家は焼かれ、爆風に吹き倒されもし、敵機の進路と仰角を読んで爆弾の落下地点を覚る知恵を身につけ、頭上に降りそそぐ時は地にひれ伏して神仏にすがり、明日の命が予定できない日々でした。


 注1「支那事変」・・・1937年(昭和12年)7月7日に発生した日本軍と中華民国軍の軍事衝突「盧溝橋事件」を発端に発生した日中戦争(1945年8月、太平洋戦争と同時に日本の全面降伏により終結)の当時の日本側の呼称。当時はまだ日本政府にも本格的な戦争に発展させたくないとの意識があり、「事変」と呼ばれました。
 注2「中学3年」・・・「旧制中学校3年生」戦前・戦中の義務教育は尋常小学校(1940年勃発の太平洋戦争中は「国民学校初等科」と呼ばれた)のみで、尋常小学校には授業料はありませんでした。その後、希望者は授業料が必要な2年制の高等小学校(戦時中は「国民学校高等科」、入試はなし)、または入学試験を受けてより高度な教育を受ける5年制の中学校に進みました。旧制中学は、現代でいえば中学と高校を併せたような学校で1947年に学校教育法が施行されるまで続きました。
 注3「雑嚢」・・・現代風にいえばショルダーバッグ。雑多なものを入れる布製の肩掛けかばん。兵士に支給されるほか学生も良く使っていました。ちなみに昭和50年代に中学生だった僕も、当時の学校指定通学用かばんは布製ショルダーでした。もっと昔なら雑嚢と呼ばれていたでしょうね。

(つづく)

 

『銃後の風景』(1)へ

『銃後の風景』(3)へ

『銃後の風景』=中学生の視点=

 【この手記について】

 この手記は、父が亡くなる3年前、現在から11年ほど前にまとめたものです。
 存命なら87歳になる父が、当時は長年の不摂生から人工透析を余儀なくされ、余命が長くないことも悟っていたのでしょう。

二度と日本が悲惨で残酷な戦争をしないことを願い、第二次大戦の終わりに15歳の中学生(旧制中学1年生)だった当時の記憶を綴ったものです。

 元々、知人や親戚向けに配ったものなので個人名はイニシャルのみの匿名としました。
 
手記の【まえがき】の中にもありますが、「銃後」は戦争の「前線」(戦闘が起こっている場所)に対して、「銃の後ろで備える場所」という意味で、戦時下の日本国土全体や一般国民のことです。直接、戦闘をしてはいなくても国民全体が戦争に携わり、全国土が戦場であることを表現しており、まさに”軍国主義”を象徴する言葉でしょう。

 また「15歳の少年が見た戦時下の風景」いう意味も込められているのでしょう。
 

 舞台は名古屋―。戦争末期の大都市の多くが米軍の空襲に晒されましたが、名古屋には軍需工場が集中していたことから、3回の大空襲により約8600人が亡くなったとされますが、空襲が原因でその後に亡くなった人などを含めれば、1万人以上もの死者が出たとされています。
 これは都市別では、原爆を落とされた広島(死者約9万~12万人)、長崎(死者約7万5千人)、東京大空襲(死者10万人以上)、神戸(死者約8800人)に次ぐ規模の被害とされています。

 当時、中村区にあった父の家は空襲で焼かれて、北区大曽根の狭い長屋に引っ越しを余儀なくされましたが、そこでも、爆弾の破片が屋根に落ち、あわや火事になりそうなところを近所の方々が総出で必死に消し止めてくれたそうです。

 この家の近所は奇跡的に焼け残りましたが、その爆弾の破片は近くにあった三菱の工場(現在のナゴヤドーム周辺)が攻撃されたときの流れ弾です。 そこでは戦闘機のエンジンを作っていたので、米軍の攻撃目標になり、学徒動員されていた数百人もの父と同年代の中学生や、女性たちも亡くなりました。
 

また、父より1つ年下の母は、名古屋の中心部にほど近い商店街に住んでいましたが、空襲で焼け出され、戦後の栄養不良の影響からか、弟・妹を相次いで病気で亡くすという悲劇も味わったそうです。 母は今も昔の家があったあたりを通りかかると、当時のつらい思い出を語ります。

 父が手記を書いてから10年余が経ちましたが、安倍政権は「海外派兵」への道を開く「安保法制」を成立させたのに続き、今度は”憲法改正”の名の下、「緊急事態条項」の盛り込みや「自衛隊明文化」など、日本を
大戦時のような「国家総動員」を可能にする体制に戻そうとしているようです。父の存命中の懸念は、薄まるどころかますます色濃くなっていこうとしています。

 僕の前置きはさておき、次回から本題の手記『銃後の風景』を進めていきます。
 (2018年8月 HN:冬月 輝)

 

『銃後の風景』(2) 

『銃後の風景』(3)