『銃後の風景』=中学生の視線=その10【最終回】

9年前に亡くなった父が生前に書き残した手記の紹介の続き(最終回)です。
文章は極力、父が書いた原文を書き写しますが、個人名などは伏せます。
文中の(注)は、ぼくが書いた脚注です。
飛び飛び更新でしたが、これで最後です。戦地には行かずとも戦争に巻き込まれた少年がどんな思いで暮らしていたのか、戦争の時代がどれほど苦しいものか、空襲がどれほど恐ろしいものか、僕も想像するしかできませんが、少しでも多くの人々に親たちの世代が経験したことが伝わればと思います。
 

【負けたあの暑い日】

 敵の
本土上陸を予期していましたが、竹やりで米兵と刺し違える覚悟と、今にとてつもない秘密兵器―「原子爆弾」(注1)という新兵器を仁科博士が発明中とだけは知っていた―が登場して怨敵撃退だという少年の期待とがないまぜでした。
 炎天の
8月15日正午、全工場2万人が広場で玉音(注15)に接するもマイク(※原文ママ、スピーカーの誤りでしょうはガーガーピーピー。”汝臣民一層奮励努力セヨ”の勅語だと思い込んで解散。職場へ戻ってほどもなく日本が降伏したというデマが流れて腹を立てていると、教師が「無条件降伏の勅語だった」と告げて歩きました。
 ぼくたちに
欠落していた概念の”降伏”という意味を探り合い、意味がつかめてそれからが茫然自失。平素は喋(しゃべ)りまくっていずにいられない中学生が一様に押し黙って時間が過ぎていきました。
 家に着くと、隣組の人びとが路上にうずくまって語り合っていました。
「男は足を鎖でつながれ鞭で打たれて終身労働だ」「女は強姦されっぱなしの性の奴隷だ」「山中に逃げ込んだとて餓死か発見されて射殺がオチだ」「天皇や大臣や大将は銃殺される前に切腹か」(注3明日の予測がつく人はおらず、話は途切れとぎれになるのでした。
 そして1ヶ月もしたら、
パンパンガール(注4)という新人類がアメリカ兵の腕にぶら下がって歩き、「ギブミー・チョコレート」と兵隊にくっついて歩く大人・子供を見るようになりました。

 

 注1「原子爆弾」・・・当時、日本も原爆を開発してましたが成功はしませんでした。

 注2「玉音」・・・いわゆる「玉音放送」、玉音は天皇の肉声という意味です。
 注3「男は~」「~切腹か」・・・当然、こういうことは一切起きませんでした。それにしても多数の国民、諸外国の人びとを死なせておきながら、国のトップたちは潔く切腹もせず、A級戦犯容疑で逮捕されながらも起訴されず後に総理大臣まで昇りつめた者もいました。そのお孫さんが現在の安倍晋三首相というのもなんだかなー。
 注4「パンパンガール」・・・進駐軍の米兵相手に売春をしていた女性たちです。戦後の生活苦が原因ですが、一般に世間からは蔑みの目で見らていました。中には米兵と結婚して渡米した人もいたようですが、当時アメリカには日本人への敵対感情も強く残っていたと思われ、その後の苦労がしのばれます。


【尽忠報国精神とギブミーシガレット】

 ぼくたちは本当に戦意に燃えていたのでしょうか。
確かに鬼畜米英は人間の部類ではないと思っていたし、聖戦なのだから正義が最後に勝つと思っていました。”欲しがりません勝つまでは”だったが、そもそもが贅沢の味を知らなかったし、敵は物量豊富だとしても大和魂には勝てはしないと叩き込まれ、それを信じていました。
 アッツ島(注5)、サイパン島(注6)、硫黄島(注7)が次々に玉砕して、フィリピンが奪還され、沖縄も危機あることは承知してはいたが、「勝ち抜く」以外の選択肢は持たされておらず、敗北意識はありませんでした。三国同盟のイタリア、ドイツは降参したが神国日本は別だという信念も、まさに教育宣伝の効果だったのでしょう。
 一方で、大人―ぼくの母など―は、
サイパン全滅の頃から「日本は負けだ」と、お上をはばからず家族や近所の人に言い散らして、それに反発するぼくに対して、父は無言の同意を母に与えていました。本土上陸してきたら竹槍で勝負するしかなかろうが、殺される瞬間の恐怖を思っていました。
 元寇(げんこう)の役(えき)だ、神風が吹いて怨敵一層だぞと願う半面で、負けたら皆殺しになるのだから”竹槍”特攻隊をやるにせよ、その刹那の来ること1日も遅かれ、神風よ早く吹かんかと待ちこがれつつも、本当に吹くのか敵艦隊が吹っ飛ぶほどの神風が・・・と疑う気持ちも十分ありました。

 

 アングラの厭戦歌(えんせんか)を級友間ではおおっぴらに歌っていました。皆が気持ちをそらすためだったように思えます。
  
♪いやじゃありませんか軍隊は/カネの茶碗にカネの箸(注8)・・・・・
  ♪お国のためとは言いながら/人のいやがる軍隊へ・・・・・

 

 今なら整理して言えますが、尽忠報国精神は押し付けの付け焼刃だったわけで、内から沸(わ)き上がるガッツではなかったのでした。狩り出された兵士の多くとて同様だったでしょう。
 けれども
「生キテ虜囚ノ辱シメヲ受ケズ」という戦陣訓に呪縛(じゅばく)されて、傷ついて動きが取れない兵士が自殺を選び、サイパン島や硫黄島のようにあえて殲滅(せんめつ)されるために圧倒的に強力な下記の前に突入した兵士が何万人いたことか。沖縄では、ぼくと同年の中学3年生が素手(すで)同様で敵陣に突貫して命を散らしました。
 降伏した直後の感想は、「電灯がつけられると喜んだ」とあとで言った人も多かったが、ぼくらは「男は鎖につながれ終身労働」という恐怖感を最初に持ちました。新聞・ラジオが進駐軍(占領軍の言い換え、同様に敗戦は終戦)は友好的だと報道を重ねたので半月そこそこの杞憂でしたが。少なからずあったらしい略奪・暴行は報道厳禁だったから、米兵はフランクで親切だという印象を持つに至りました。
 それで9月に入って、
名古屋港へ米軍が上陸するのを見物に行きました。それまでのぼくらの常識―あれはいったい何だったのか。軍隊の上陸は、重い背嚢(はいのう)(注9)と銃を背負った兵隊が船腹の網を伝ってハシケに乗り移り、馬に腹帯当てて滑車で吊り下げて運ぶという常識は。
 
米軍のLST(上陸用舟艇)は岸壁にタテに接岸して、船首の蓋(ふた)が開くと―即―桟橋(さんばし)となり、船内から装甲車・トラック・ジープが猛速で飛び出す。自動小銃を車上で軽々とひねくるGI(兵士の俗称)。ぼくはおったまげて叫びました。「負けてあったり前だあ」
 走る車上からGIがタバコやガムやチョコレートをばら撒くと、這(は)いずり回って拾う大人と子供。ためらいもないその素早い動き―日本人ってこうだったのだと恥ずかしさで体がこわばりました。
 つい半月前までの「東亜の盟主」「鬼畜米英、撃ちてし止まむ」精神と今日の較差(かくさ)を目の当たりにして、我が同胞の変わり身の早さに唖然とし、付け焼刃の尽忠報国の裏側をまざまざと見たしだいです。
 また日本人のお行儀として天地開闢(かいびゃく)以来で驚天動地。白昼の路上、GIに腰を抱えられキッスされつつ歩く女性の姿を見るに至ったのは間もなくです。中学3年生にして人間学の初歩を現場検証で勉強したことになりましたね。


 
注5「アッツ島」・・・アッツ島は米国アラスカ州アリューシャン列島の島。一時、日本軍が占領したものの昭和18年(1943年5月29日)に米軍の攻撃により全滅。  注6「サイパン島」・・・サイパンは米領北マリアナ諸島の中心的な島、現在は日本人にも人気のリゾート地ですが、敗戦時までは日本の委任統治領であり日本軍にとって太平洋の最重要拠点でした。昭和19年(1944年6月)、米軍の上陸攻撃により多数の現地住民、日本や朝鮮からの移住者を巻き込んだ戦闘となり、日本軍は7月9日に全滅。  注7「硫黄島」・・・硫黄島は今日の東京都小笠原諸島の南端近くの島、戦争末期、日本本土の最終防衛ラインと位置付けられましたが、昭和20年(1945年)2月~3月の米軍の上陸攻撃により全滅。戦死者は日本軍約2万名、米軍約7千名で太平洋戦争最大の激戦地の1つとされています。アメリカからの返還後は自衛隊基地のみが置かれ、戦没者遺骨収容事業以外での民間人立ち入りが禁止されています。なお、この遺骨収容は主にNPO法人や民間ボランティアの手により行われていましたが、日本政府として本格的な支援を開始したのは、2010年(平成22年)に旧・民主党の菅直人首相が指示を出してからです。
 注8「カネの茶碗にカネの箸」・・・この後に続けて「♪仏さまではあるまいし・・・」と父が歌っていたのを聞いたことが何度もあります。軍隊に行ったら、帰ってくるときは仏さま(お骨)になっているという暗喩もあったのではないでしょうか。
 注9「背嚢」・・・リュックサックの訳語。元はドイツの狩人が使っていたのが軍事用やアウトドア用に普及したもの。バックパック(米語)、ナップサック(イギリス英語)もドイツ語からの訳語とされます。


【アメリカかぶれに変身】

 
ぼくらは教師の180度転換に不信感を持ちました。それは言わされてきたにせよ、あれほど”お国のため””神国日本”を鼓吹(こすい)した教師で生徒の前で懺悔(ざんげ)した者はいませんでした。もっともほとんどの国民が―ごく少数の海外有識者を除けば―価値観のコペルニクス的転回に呆然自失の体(てい)だったとも言えますが。
 
大多数の人はその日その日の食糧難、明日どころか今日の食物を確保するための戦いに疲れ果てていました。
 マスコミは、事実上の軍政下で報道管制をされてもいたが、占領軍を解放軍のごとくに賛美しました。
 害虫駆除にDDTを配布してくれて抜群の効果が上がり、1千万人餓死説さえ飛び交った食糧ピンチに大量の粉末食糧を放出してくれたりで―〈その恩顧からも日米軍事同盟、イラク出兵(注10)は当然と公明党は創価学会員を与党に誘導〉―民心を引きつけたからか、また映画やジャズを通じてアメリカ文明を垣間(かいま)見る程度のことだったけれども、日本人はあっという間にアメリカかぶれしていきました。
      *

 軍国少年だった中学生の体験を、出来るだけ感傷を抑えて叙事的に書き記したつもりですが、どうお読み下さいましたか。

 注10「イラク出兵」・・・2003年(平成15年)12月から2009年(平成21年)2月までの自衛隊イラク派遣のこと。

【老人の今の心配ごと】

 地球上から戦争を放逐することは究極の理想であり、
この国の敗戦が契機で生まれた不戦平和憲法は掛け替えのない世界的財産です。
 ところが今の政府(注11)憲法を変えよう―歴史を見直して戦争が出来る国にしよう―と公言しています。その動機が軍備拡張指向の金もうけであるにせよないにせよ、武力誇示でリーダーシップを取ろうとする帝国主義的アメリカの驥尾(きび)に伏して列強の地位を占めようとしていること、これは世界平和に背中を向けた振舞いでしょう。
 また政府は臨戦態勢のための思想統一の手立てとして、矢継ぎ早に種々の法案(注12)を準備していると言えます。
 また戦争知らずの若い世代が漫画・劇画のようなスポーツ感覚で戦争を見勝ちなところにつけ込む石原慎太郎
(注13)のごとき、低次元だが扇動に巧みな政治家が続出しそうです。
 昔のように”井の中の蛙大海(世界)知らず”ではないにせよ、
若い世代が巻き込まれて弾み次第でファシズムの再来(注14)を招き兼ねないことを、”ああ、遅かりし”となり兼ねないことを、わたしは真から心配しています。 (終)
 
 
注11「今の政府」・・・この手記は2007年1月時点のものですから、「第1次安倍内閣」(2006年9月~2007年8月)当時のことです。安倍さんはずっと憲法破壊、戦争肯定、アメリカ追従の姿勢が変わっていませんね。
 注12「種々の法案」・・・第1次安倍内閣時代に「改正教育基本法」(国粋主義的な道徳教育等)、「国民投票法」(憲法改悪手続きのハードルを下げる準備)、現在の第2次安倍内閣となって、「特定秘密保護法」(政府が隠したいことは何でも隠せる法律)、「安保法制」(集団的自衛権=他国の戦争に”自衛”の名目で参戦できる法律)、「共謀罪」(未遂でも計画しただけで犯罪とされる。拡大解釈でデモの禁止や参加者の逮捕などが行われる危惧)、「改正労働法」(高度プロフェッショナルの名の下に残業代ゼロ、長時間労働化促進の恐れ)などなど、まさに稀代の悪法がどんどんと成立しています。
 注13「石原慎太郎」氏・・・当時、東京都知事(在任期間1999年4月~2012年10月)、この手記のあとの退任直前には中国との領土問題で揉める「尖閣諸島」を都有化しようと画策して、結局、民主党野田内閣による「尖閣国有化」を招いて、日中関係を戦後最悪の混乱に追い込んだ責任は明記されるべきでしょう。中国側の姿勢が強硬に過ぎるとは思いますが、それ以前に提案されていた共同開発など、もっと柔軟な姿勢での話し合いの余地はあったのではないかと考えます。
 注14「ファシズムの再来」・・・ここ何年来かのネット上の「保守派」の言論は、安倍首相礼賛で、民主的・自由主義的な意見・主張を封殺しようという気配、社会主義を悪と決めつける雰囲気が濃くなったように感じます。まさにファシズムの再来という空気になってはいないでしょうか。危険すぎる兆候だと思います。

(おわり)

 

 

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