『銃後の風景』=中学生の視線=その2
【まえがき】
兄に当たる年代層は、夜郎自大(やろうじだい)な天皇国家の時代に生まれあわせて戦争に狩り出され、近隣諸国で二千万人ほどの命を奪う羽目になり、自国民三百万人も落命の憂き目にあいました。
もの心ついた少年期から軍国主義を叩き込まれ、他に選択肢がなかったわたしたちの”銃後”―”前線”に対置された言葉で後備の意―体験を若い人たちに知って欲しいという衝動があります。戦争に過ぎる非人間性はありません。
居た場所の違いだけで沖縄では、同い年の中学生が肉弾で敵陣に突入しました。そうさせたものに今も憤りは消えず、時を隔てた今も心は音を立てて軋みます。
またぞれキナ臭い硝煙が漂い始めたのでしょうか。若者が再び銃を執って、”殺し殺され”に出掛けることのないように願っています。人生の初心(うぶ)な頃に坩堝(るつぼ)に投げ込まれて、どこまで煮え滾(たぎ)ったのか自分でも分かりませんが、一途(いちず)だった中学生の記憶の点描です。
2007年1月 Y/M(氏名) 七十六歳
目次
・まえがき
・筆者プロフィール
(1)スローガン・標語
(2)名誉の家
(3)「訓練」空襲警報
(4)中学受験
(5)”非”国民
(6)殴る教師像
(7)「予科練へ行けエ」
(8)少年戦士
(9)星に桜にヤミに顔
(10)超満員電車
(11)牛に牽(ひ)かれて飛行場
(12)空襲光景
(13)徴用令
(14)給食・蠅(ハエ)の軍団
(15)雲の上の人たち
(16)地震と空襲のあと
(17)東海軍管区情報
(18)機銃掃射
(19)崇拝と恐怖の懸隔(けんかく)
(20)ダニ・虱(シラミ)・DDT
(21)負けたあの暑い日
(22)尽忠報国(じんちゅうほうこく)精神とギブミーシガレット
(23)アメリカかぶれに変身
(24)老人の今の心配ごと
【筆者プロフィール】(注・父のプロフィールです)
◇ 名古屋市生まれ。支那事変(と称す=注1)勃発の年に小学校1年、敗戦の年に中学3年(注2)だった戦争っ子。
◇ 中学2年で学徒動員。勉強は全部なげうって、海軍機「彗星(すいせい)」ほかを作った愛知航空機永徳工場(現・名古屋市港区野跡) に通勤。
◇ 1944年秋から降伏までの9ヶ月間を重爆撃機B29のじゅうたん爆撃、戦闘機の反覆機銃掃射を浴びて、戦場の恐ろしさをたんのうする。
* * *
中学生は少年戦士ですから、学童疎開はありません。空襲が激しくなってから、今日が生き死にの別れ目になるか、せめて1、2日でもしのげるようにと親心の非常食―石のように固めた小麦粉の焼団子を雑嚢(ざつのう=注3)に入れていました。
家は焼かれ、爆風に吹き倒されもし、敵機の進路と仰角を読んで爆弾の落下地点を覚る知恵を身につけ、頭上に降りそそぐ時は地にひれ伏して神仏にすがり、明日の命が予定できない日々でした。
注1「支那事変」・・・1937年(昭和12年)7月7日に発生した日本軍と中華民国軍の軍事衝突「盧溝橋事件」を発端に発生した日中戦争(1945年8月、太平洋戦争と同時に日本の全面降伏により終結)の当時の日本側の呼称。当時はまだ日本政府にも本格的な戦争に発展させたくないとの意識があり、「事変」と呼ばれました。
注2「中学3年」・・・「旧制中学校3年生」戦前・戦中の義務教育は尋常小学校(1940年勃発の太平洋戦争中は「国民学校初等科」と呼ばれた)のみで、尋常小学校には授業料はありませんでした。その後、希望者は授業料が必要な2年制の高等小学校(戦時中は「国民学校高等科」、入試はなし)、または入学試験を受けてより高度な教育を受ける5年制の中学校に進みました。旧制中学は、現代でいえば中学と高校を併せたような学校で1947年に学校教育法が施行されるまで続きました。
注3「雑嚢」・・・現代風にいえばショルダーバッグ。雑多なものを入れる布製の肩掛けかばん。兵士に支給されるほか学生も良く使っていました。ちなみに昭和50年代に中学生だった僕も、当時の学校指定通学用かばんは布製ショルダーでした。もっと昔なら雑嚢と呼ばれていたでしょうね。