『銃後の風景』=中学生の視線=その4

9年前に亡くなった父が生前に書き残した手記の紹介の続き(本編第3回)です。
文章は極力、父が書いた原文を書き写しますが、個人名などは伏せます。
文中の(注)は、ぼくが書いた脚注です。
 
 

【「訓練」空襲警報】

 アメリカと戦争を始めてから空襲に備えて「訓練」をしました。町役は昔も今も敬遠され勝ちですが、ぼくの町で厚生車(自転車タクシー)引きの親爺に警防団長役が回ったところ、おっさんはとたんに舞い上がって威張り始めました。
「訓練空襲警報」警防団長がメガホンで連呼すると主婦が家から飛び出してきて、号令一下竹竿の下に縄をたらした「火叩き」を振り回し、発煙筒の煙にバケツリレーで水を掛けます。おっさんは好み(自分の好き嫌い)の家に発煙筒をぶつけるので嫌われました。
 演習後に臨場していた町内会長、警官、在郷軍人会長が「焼夷弾など恐れるに足りぬ」と演説をぶちました。

 

 初空襲は6年生(1942年)になった春4月、日曜日だったか午前中。見慣れないのが2機―B17とか―低空を名古屋市の真ん中を南西に向けて飛びました。
 空襲本番になって、翼巾43㍍あるという世界最大の爆撃機B29が20機30機と編隊を組んで、
油脂の燃え盛る鉄筒(焼夷弾)を豆俵をぶちゃけたような数量を投下するから何百軒も同時に燃え上がり、火叩きなんぞは子供のオモチャにもならず、町内会長は先んじて田舎へ疎開し、権威失墜した警防団長氏はションボリと歩いていました。


【中学受験】

 小学校は尋常科6年が義務教育で高等科2年は任意。大半の子は高等科へ進んでから商店の小僧か職人見習い、会社の給仕などに就きました。

 

 中等学校(中学、商業校、工業校、女学校)へ進むのは都会地で2、3割。親の資力にも比例していました。
 中学入学はその前年から戦時体制ということで学科試験がなく内申を基としました。口頭試問と体力テストがありました。態度にメリハリがあるかないかがポイントだと聞いていました。
 お彼岸の時期なのに終日雪模様の寒い日でブルブル震えていました。校長が試験官で
「海行かば」を暗誦せよとテストされました。ぼくはすらすらと暗誦しました。

 

 海行かば/水漬(みず)く屍(かばね)/山行かば/草蒸す屍/大君の辺(へ)にこそ死なめ/顧みはせじ

 

 我が家は他家と比較して豊かでないと承知していました。中学の月謝は4円60銭でした。父の給料は知りませんでしたが母も姉もいつも手内職をしていました。学費が十円で足りるかなあと母が溜め息混じりだった覚えです。


【”非”国民】

 
国民精神総動員で、戦意を示すために男のファッションは坊主刈り、戦闘帽、国民服(詰襟、カーキ色)、ゲートル着用(注3)がおきまり。

 中学へ入った1943年(昭和18)の春は、ホワイトカラーの教師の服装は背広、ネクタイ、中折帽子が普通でした。父の服装もそうでした。お上(かみ)の指導でその年か次の年までにファッションが急速に変わったのでした。

 

 まれに長髪、背広姿がいると、怪しい奴だ、非国民だと、愛国心のカタマリを自負するいささか頭の軽いおじさんたちが「この非常時を何と心得るか」と不審尋問をしているのを見かけました。

 

 女の場合、同性には辛らつで、白いエプロンに国防婦人会のタスキを掛けたおばさんグループが町を練り歩き、道行く女性の洋髪は敵性だからとパーマネントの髪をハサミで刈り取り、贅沢も敵だからお嬢さんの振袖をちょん切ったそうです。

 

 末期の女性は、一様に暗色の上衣をモンペにたくし込み、化粧っ気はゼロで、手作りの布製バッグと防空頭巾をたすき掛けにしていました。老若男女、手製の”認識票”―住所氏名、年齢、血液型―を胸に縫い付けていました。

 

 負けぎわの頃は物資すべてが窮乏で、ぼくもツギハギだらけで脱ぎ捨てても惜しくないような学生服だったし、底がバクバクに開いたズック靴を履き、靴は下駄に変わり、煎餅(せんべい)下駄がタテに割れて路傍に捨てて裸足で戻ると、「薪になるのになぜ捨てたか」と親が小言を言いましたね。終にはワラジが常用になりました。

 注3「ゲートル」・・・動きやすくするほか怪我の防止などを目的にズボンの裾に巻き付ける布。戦闘服によく使われました。

(つづく)

 

(前回)『銃後の風景』(3)

(初回)『銃後の風景』(1)