『銃後の風景』=中学生の視線=その6

9年前に亡くなった父が生前に書き残した手記の紹介の続き(本編第5回)です。
文章は極力、父が書いた原文を書き写しますが、個人名などは伏せます。
文中の(注)は、ぼくが書いた脚注です。
 
【星に桜にヤミに顔】
 
 米と衣料品は戦争が始まって早くから配給年に百点とかいう衣料切符制で新調など滅多に出来ず、テレビの"朝ドラ"などで写す戦時中の服装のモンペなど、よそ行きのように整い過ぎて違和があります。
 
 米はしだいに減量され、更に主食代用の麦・藷(いも)もだんだん遅配・欠配続きとなりました。野菜も魚も味噌も醤油も塩もマッチも薪炭(注1)も、生きてゆくものすべて僅かな配給店屋のオヤジもカミさんも役人のように威張りくさっ、客がゴマをすりました。
 主婦は何が買えるか今日の僥倖(ぎょうこう)を願ってあちこちと行列して、魚の切り身の大小を目の色を変えて争い、隣組同志の仲違いがよく起きると母の愚痴でした。たまの少量の酒・煙草の配給に男は取り乱す
 
 もちろん裏の世界があり、"星に桜にヤミに顔"(注2)と唄われ、軍人、役人、闇商人、軍需関係者は、配給などどこ吹く風で豪勢に暮らしたとのこと。"バカ者だけが行列をする"と言われていました。

 
注1「薪炭」・・・当時は名古屋市内でもまだガスの普及は進まず、煮炊き用の燃料は薪や炭でした。終戦から20年以上後の昭和40年代になっても祖母の家には使わないけど薪窯がありましたし、お風呂を薪で沸かしている家もけっこうありました。
 注2「星に桜に~」・・・「星」は軍人の徽章、「桜」はお役所の象徴、「顔」は軍隊に顔が効くとの意味。また経済統制の目を逃れて商品を隠し、高値で売りさばく闇業者も暗躍しました。

【超満員電車】
 
 市電の話。朝晩のラッシュ、割れたままの窓ガラスから風雨が遠慮なく吹き込み、車内は芋こじで上げた手もままならず。車掌はここが専用席だとばかり、晴雨にかかわらず車外でつかまり立ちをしていました。はみ出し客は手すり棒をつかんでぶら下がり体は車外です。ぶら下がり客の帽子を車掌がつまんで路上に投げ捨て、拾いに降りたその隙に車掌がそれッと発車の合図をします。
 
空襲で架線がもろくなって、毎日どこかで部分不通車掌の号令一下、乗客全員が電流が通じている次のセクションまで何百メートルかを電車を押して歩きます。
 
乗務員不足で動員されて中学3年生が市電の運転手を、女学校三年生は車掌をしました。体格の大きい生徒は選抜されてトラックの運転手に。職場組合の分会長だったOさんは刈谷中学四年生で、日通の運転手をしました。昭和19年取得の免許証を見せられたことがあります。


【牛に牽かれて飛行場】

 
吉村昭さんの名著『零式戦闘機』に、その奇妙なシーンが活写されています。港区大江の三菱(注3)から、科学の粋の飛行機が翼と胴と分離して牛車(ぎっしゃ)に積まれ、飛行場に運ばれる様子がです。名古屋の真ん中を通り抜けて、岐阜の各務原飛行場まで石コロ道48キロを二十四時間かけてエッチラオッチラ。馬よりのろいが力があるから牛なのです。
 ちなみに『ゼロ戦』は、翼巾11メートル、胴長8メートル、自重1.6トン、1対1の格闘力は世界無比だったと言いますが、終には訓練不足で操縦士の腕もガタ落ち。
 吉村さんの記述には「機体をカバーして厳重に覆って」とありましたが、ぼくたちが日頃見ていたの
機体は裸のままでした。
 南方でジャングルを切り開いて簡単な飛行場を作る際に、
日本軍は鋸・シャベル・つるはし・もっこ。米軍はチェーンソー・ショベルカー・クレーン車等々。前者は数ヶ月、後者は1週間か10日で出来上がると後で聞きましたが、その違いも分からず戦争していたわけですな。

 
注3「大江の三菱」・・・三菱重工名古屋航空機製作所。零戦をはじめ当時の三菱の戦闘機開発の拠点であり、現在も航空機部品やロケット部品を製造しています。

(つづく)

 

(初回)『銃後の風景』(1)