今回の(後篇)では、広渡廃寺からは根性歩きで周辺寺院をめぐります。
まず西に向かって加古川を渡り、JR加古川線河合西駅を越えて、大寺(おおでら)の集落へ。集落南端の道路脇に大寺廃寺の案内碑があります。
加古川に園児たちのこいのぼり。2023年のこどもの日はちょっと寒々とした空
大寺廃寺(おおでらはいじ)
兵庫県小野市新部町
訪問オススメ度 ★
大寺廃寺は、案内碑とは反対側の現在の集落がその寺域だったと推定され、発掘により広渡廃寺と同じく双塔式の伽藍だっ
たことが判明しています。
道路わきの案内碑
南側から大寺の集落を望む。案内碑は写真左端にあり
かつては集落内に礎石や基壇の跡らしきものが残存していたようですが、東塔の心礎とされる巨石が民家の庭に残っている以外は消滅。集落内を回ってみましたが、瓦片なども見つからず。古代寺院を偲ぶものは案内碑のみという状況でした。
集落内の空き地。廃寺跡らしきオーラは感じますが....
ところで、双塔式伽藍の嚆矢となったのは藤原京の元薬師寺とされていますが、この形式の配置が登場した理由はわかっていません。よく言われるのが、仏塔が伽藍の中心的施設から装飾的な要素に変化したということ。
そのほかに「伽藍を三尊仏に見立てたのではないか」という考えもあります。金堂すなわち本尊の両脇に、「脇侍として塔を配した」ということなのです。いやいや「それってあなたの感想ですよね」と言いたくもなりますが、実はこの考えを裏付けるような遺物が少し離れた古法華寺にあるのです。
こちらをご覧ください。私は現物を見たことはないのですが、精巧なレプリカが奈良県の飛鳥資料館に展示されています。
国重要文化財「浮彫三尊仏龕」(白鳳時代)のレプリカ
三尊仏のアップ。実物もお顔は削られていますが理由は不明
なんと両脇侍の上に三重塔がありますね! もちろん、これだけで根拠とすることは難しいのかもしれませんが、当時の人々の塔に対する思考を知るうえで非常に興味深いものだと思います。
河合西廃寺(かわいにしはいじ)
兵庫県小野市河合西町
訪問オススメ度 ★
大寺廃寺から北東方向、「堀井城址ふれあい公園」の近くにある八王子神社に来ました。この一帯にあったというのが河合西廃寺。この寺院は平安期の創建とされ、本ブログで取り上げている古代寺院からは少し年代が下るのですが、河合廃寺に向かうルート上にあるので立ち寄ってみました。
神社に隣接広場の端に案内碑がありました
小野市のウェブページによれば「伽藍配置は、主要建物前面に庭園としての池を配する浄土伽藍と想定」とのこと。神社の南、道路を挟んだ反対側に池の跡のような大きな窪みがありますが、これが浄土式庭園の名残でしょうか。
ここが浄土式庭園だった?
浄土伽藍がいかなるものか勉強不足(というかしていない)なのですが、最大公約数的には、池の西側に阿弥陀堂を設けるという配置形式のようです。興味深いのは、平安期に入るまでの古代寺院の伽藍の構成要素に「池」は必須ではなかったこと、また平安期以降に伽藍に取り入れられた「池」は、自然にあるような形を再現していて、それまでの伽藍のようなグリッド状の整った形状ではなくなっているということでしょうか。真面目に追究すると面白いネタになりそうです。
有名な浄瑠璃寺の浄土式庭園
さて、社殿の北側には自然地形ではなさそうな土盛りが残っていました。ここでピコーン! 堂宇の基壇跡ではと思って観察すると....ありました! 布目の付いた瓦片らしきものです。
本日の一本目
瓦片を見つけたところで次に行きましょう。
堀井城址ふれあい公園からふたたびJR線を越え、のどかな田園風景を楽しみながらさらに北東へ。
ここにきてようやく雲が晴れ、五月らしい天気に
トラクターと並んで歩くトリさん。耕された土の中の虫でも狙っているのでしょうか
河合廃寺(かわいはいじ)
兵庫県小野市河合中町
訪問オススメ度 ★★
加古川のそばまでやってきて、ここが本国の最終目的地、河合廃寺です。薬師堂がある場所に金堂跡、その西の田んぼの中に塔跡があり、法隆寺式伽藍配置だったことが判明しています。
河合廃寺跡。中央が金堂跡、右側に埋没している塔跡
現地の案内板
塔跡は発掘後に埋め戻されていて、現在はそれとはわかりません。対して金堂跡は、薬師堂まわりが基壇の名残となっていて、いくつかの礎石が残るほか、あたりには瓦片もかなりの量が散布しているような状況でした。
金堂の基壇跡
礎石らしき石
あちこちに散布する瓦片
寺域はちょうど河岸段丘の端部に位置しており、いかにも古代寺院らしい立地場所です。河合廃寺は加古川流域で最古級の寺院とのことで、出土した鴟尾片などが小野市好古館に展示されているようです。
北側から河合廃寺を望む
今回の古代寺院巡りはこれで終了。河合西駅の一つ北の青野ヶ原駅まで歩いて、帰途につきました。
周辺寺院の統廃合?~浄土寺の起源
今回は訪れませんでしたが、小野市で有名な寺院といえば浄土寺ですね。国宝の浄土堂と快慶作阿弥陀三尊像で知られ、教科書にも出てくるほど。
浄土寺は鎌倉初期の創建ですが、意外なことに古代寺院ともつながりがあるようなのです。というのは、このお寺に伝わる『浄土寺縁起』に、「破壊」された「廣渡寺」(広渡廃寺の当時の寺号か)をはじめとするこの地域の荒廃した寺院を統合したとの記述がみられるのです。
広渡廃寺ガイダンスホールの解説パネル
さらに、浄土寺の薬師堂に当初祀られていた薬師如来像は、1498年に薬師堂もろとも焼失してしまったのですが、それは廣渡寺からもたらされたとも書かれているのだとか。ほほう。
現在の薬師堂は1517年の再建。浄土堂と似ていますがこちらは5間四方の柱割り
浄土寺の伽藍配置は、池を挟んで同規模の薬師堂と浄土堂を対峙させるというコンセプト。東に現世利益の薬師如来。西に来世の極楽浄土の阿弥陀如来。これも古代寺院には見られないシンプルで明快な構成で面白いですね。
今回、私は広渡廃寺からは歩いて回りましたが、このコースに浄土寺まで組み込むのはさすがに無理があって断念。クルマや自転車利用でめぐるのであれば、ぜひ浄土寺もルートに加えたいところです。
なお、小野駅の南にある小野市立好古館では、常設展示で河合廃寺跡や広渡廃寺跡出土の瓦や、浄土寺の模型などの展示があるようです。私はまだ未訪間ですが、ぜひ訪れてみたいと思っています。
今回の記事は以上です。
[訪問日]2023.5.5(一部2007.3.10)