河内六寺自転車巡り(その3)~奈良の大仏のルーツ!? | 日出ヅル處ノ廃寺

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古代寺院跡を訪ねて

河内六寺自転車巡り(その3)は、智識寺跡こと太平寺廃寺(たいへいじはいじ)を中心に大県南廃寺(おおがたみなみはいじ)大県廃寺(おおがたはいじ)平野廃寺(ひらのはいじ)を訪ねます。
 
これで河内六寺はコンプリート。おまけでさらに2寺をご紹介します。
それではレッツラゴー!
 

 

  太平寺廃寺(たいへいじはいじ)
智識寺跡(ちしきじあと)

大阪府指定史跡(金堂跡および東塔跡) 大阪府柏原市太平寺

 

太平寺廃寺は河内六寺の「智識寺」(ちしきじ)に比定されており、六寺の中では鳥坂寺跡以上に話題の豊富な古代寺院跡である。

 

智識寺こと大平寺廃寺は、近鉄大阪線安堂駅から北東方向に徒歩でも10分足らず、現在の大平寺町の古くからある集落一帯がその寺域であったと考えられている。集落のはずれにある石神社(いわじんじゃ)の鳥居前の広場に、太平寺廃寺の案内板が設置されているほか、金堂や塔のあった場所には案内板や標柱などが設けられ、堂塔の位置を確認しながら散策することが可能だ。

 

石神社。鳥居の左わきに塔心礎が据えられている

 

上の写真の手前にある広場に設置された案内板

 

住宅の建替等に伴って実施された数回の発掘調査の結果、薬師寺式珈藍であったことが判明している。河内六寺の中で伽藍配置が明らかとなっているのは鳥坂寺跡とこの太平寺廃寺だけ。出土した瓦の様式から7世紀中頃以降に建立されたようだ。

 

太平寺廃寺の伽藍配置(金堂跡附近の案内板より)。右下が石神社

 

事前のリサーチ不足で行きそびれたが、寺院跡の東側にあたる「歴史の丘展望台公園」に登れば、太平寺廃寺跡を見渡す場所に案内板があって、そこから現在は住宅地に埋没してしまっている当時の堂塔がどのように見えたのかがわかる合成写真が示されているそうだ。


太平寺廃寺の遺構として現地で唯一確認できるのが、石神社入り口脇に置かれた塔心礎。東塔のものだったと伝えられている。元の位置からこの場所に持ち込まれたもので、ここが東塔跡というわけではない。

 

東塔の塔心礎。塔の高さは約50mと推定されるが、これは興福寺の五重塔とほぼ同じ。この規模の双塔式伽藍だったってすごいね

 

そのほかの遺物としては、柏原市歴史資料館で展示されている瓦類と、智識寺所有の備品と伝えられる経机が近くの観音寺に伝えられている(後述)。葡萄唐草文鴟尾というのもあって奈良国立博物館に所蔵されているとのことだ。

 

太平寺廃寺(智識寺)出土の軒先瓦。柏原市歴史資料館より

 

このほかに発掘で判明した伽藍配置を元に、地元の柏原市民歴史クラブが製作した智識寺の精密な模型もあるようだ。現物は見たことはないが、ネットに掲載されている写真を見るとかなり本格的なものである。ぜひ柏原市歴史資料館などで常設展示をしてほしいものです。

 

 

奈良の大仏造立のきっかけとなった智識寺の廬舎那仏

 

さて、この太平寺廃寺こと智識寺には盧舎那仏があって、聖武天皇がここを訪れたことがきっかけとなって東大寺大仏が造立されることになったというのだ。(はぇ~知らんかった....)

 

それは『続日本紀の天平勝宝元年(749年)十二月の記事聖武天皇の回想(740年)の言葉として示されている。孝謙天皇が河内六寺を訪れた756年の16年前のことで、聖武天皇が智識寺を訪れて、自分もこのような盧舎那仏を造立したいと決意したとある。該当部分を示そう。

 

続日本紀巻十七

去にし辰の年、河内國の大縣郡(おおがたのこおり)の智識寺に坐す盧舎那仏を礼奉りて、則ち朕も造り奉らんと思えど、得為さざる間に....

【注】※ 天平12年(740年)

 

ふむ。東大寺大仏は聖武天皇によって天平15年(743年)に発願、造立が始まったのが天平17年(745年)で、完成して開眼供養会が行われたのが天平勝宝4年(752年)ということなので、『続日本紀』の記述の天平勝宝元年(749年)という年は、大仏造立工事も軌道に乗った時期だ。智識寺を訪れて3年後に大仏造立を発願、いろいろとトラブったけど、完成の目途も立ちつつあった時の心境の吐露であろう。

 

太平寺町を見下ろす砂防ダムに描かれた大仏

 

 

 

智識寺の廬舎那仏とはいかなるものだったのか?

 

ところで『続日本紀』では智識寺の仏は「廬舎那仏」であって、大仏とは記されていない。大仏とは記されていないとはいえ、聖武天皇が感銘を受けるくらいだから、そこそこの大きさではなかったか。ちなみにだが「大仏」とは「丈六」(約4.8m)を超える高さ(身長)の仏像なのだそうだ。

 

残念ながら後世の記録には、智識寺の廬舎那仏に関する言及はなさそうで、謎のままとなっている。ただ、智識寺(大平寺廃寺)は高さ50mの巨大な両塔が並ぶ伽藍だったということだから、金堂もそれなりに規模は大きかったのではないかと推測され(でないと伽藍構成上、堂塔のバランスが悪いと思う)、そこに安置された廬舎那仏もある程度の大きさであったとしても不思議ではない。

 

太平寺廃寺の伽藍想像図(金堂跡附近の案内板より)。両塔に比べ金堂が少々小さい気もするが....

 

その肝心の大平寺廃寺の金堂は、規模なども不明のままのようで、金堂の須弥壇などから廬舎那仏の大きさを類推することもできないが、これは今後の発掘や研究に期待したいところだ。

 

太平寺廃寺金堂跡。立派な造りの民家の庭先に案内板がある

 

 

大仏とは巨大な観音立像だったらしい

 

ところで、智識寺には巨大な観音像があったらしい。観音というからにはさきほどの廬舎那仏とは明らかに別物だ。平安時代に書かれたという『七大寺年表』に以下のような一文がある。

 

七大寺年表 天平勝寶七年乙未

(略)二月十日、河內國の智識寺にて觀音造り了(おわ)る。立像で六丈なり。

【注】※ 755年

 

この記事によると、智識寺で高さ6丈(約18m)もの高さの観音立像が造立されたというのだ。東大寺大仏をしのぐ高さである。この高さに関しては異論も出ているが、それはさておき、この記事で重要なのは造立された年である。755年とあるから、756年の孝謙天皇の「河内六寺」行幸の前年になる。740年の聖武天皇行幸の際にはまだなかった(計画はあったかもしれない)。つまり前述の『続日本紀』の盧舎那仏とは、名称もさることながら、年代的にも同一視できないことは明らかだ。

 

さらにこの巨大な観音像は別の文献にも登場する。『扶桑略記』の以下の記事である。

 

扶桑畧記卷三十

同月※1、河內國の智識寺顛倒(てんとう)す。捻像※2大佛碎(くだ)けて微塵の如し云々。長六丈の觀音立像なり。

【注】※1 応徳3年(1086年)6月  ※2 粘土で作った像。塑像

 

智識寺の塑像の「大仏」が堂もろとも倒壊し、木っ端みじんになったという内容だ。1086年に大地震があったという記録は見当たらないが、すでに寺院も荒廃してしまっていて、あるとき自然に崩れ去ったのかもしれない

 

この倒壊した大仏は、高さ6丈の観音立像とあるので、『七大寺年表』の記述にある755年に造立された観音立像のことだと考えられるだろう。それが1086年に倒壊した。両者が同一のものだとすれば、存在していた始期と終期が特定できる珍しい例になる。さらには、塑像だったということも明らかにされたというわけだ。


奈良県明日香村の岡寺の如意輪観音像のポスターから。像高は約4.85mで日本最大の塑像

 

「観音立像」を「大仏」と称しているのは多少違和感があるが、例えば明治期に造立された秋田県の長谷寺(ちょうこくじ)十一面観音立像は「赤田大仏」と呼ばれているらしい。厳密にいうと観音は仏になるために修行中の「菩薩」であって「仏」ではないのだが、その点はこだわらなくてもよいようだ。ふーん(ま、如来以外でも「仏像」と言うしね)。

 

 

廬舎那仏はどうなったのか

 

智識寺の巨大な観音立像の話はこれくらいにして、話を戻そう。聖武天皇が感銘を受けた廬舎那仏は一体どうなってしまったのか? 繰り返すが、この廬舎那仏に関する後世の記録はなさそうだ。ここで、いつもの妄想をしてみよう。

 

廬舎那仏は宇宙の根源とされる唯一無二の存在。それが(すくなくとも日本において)いくつもあっては具合が悪い。ということで、聖武天皇が大仏すなわち廬舎那仏の造立を決意したのと同時に、智識寺の廬舎那仏は御役目御免になったのではないか。その代わりのご褒美として(?)巨大な観音立像が新たに造立された、とは考えられないだろうか。

 

こう書くと「じゃあ唐招提寺の廬舎那仏は何だよ?」となるが、あれは東大寺の大仏の姿を写したものだからオッケー。どういうことかというと、唐招提寺金堂に安置されている廬舎那仏、薬師如来、千手観音という変わった組み合わせは、戒壇のある東大寺、下野薬師寺、筑紫観世音寺の組み合わせを示したものという説があり、つまりは唐招提寺と東大寺の廬舎那仏は同じものという都合の良い解釈をしました。

 

さらに妄想するなら、智識寺の廬舎那仏もいずれ本格的な造仏が政権によってされることを期待した仮のものではなかったかとすら思えてくる。要するに朝廷に向けたプレゼン用のモックアップ。高さは不明だが、例えば東大寺大仏を造立する際の原型と同様なもの、すなわち木材で骨組みを造り、粘土などで外形を整えるハリボテの塑像のようなものであれば、それほどコストもかけずに比較的大きな仏像を造れたのではないだろうか。

 

時代は全く異なりますが(江戸後期)、塑像漆箔造りの「岐阜大仏」。通称「かご大仏」

 

こうした作業が、「知識衆」という民間エリート集団と、かれらに率いられた民衆によって行われたらしいことから、聖武天皇は出来上がった廬舎那仏という存在(日本においてはまさに天皇たる当人だ)もさることながら、むしろこの「民間活力」による公共事業システムに心を奪われたのかもしれない。願望を現実世界で実行する手段として極めて有効であるということを理解したはずだ。

 

講堂跡に設置された標柱。金堂跡の一本北の筋にあります

 

 

智識寺のその後

 

巨大観音の倒壊記事まではしばしば文献上に登場した智識寺だが、その後は再興されずに途絶えてしまったようだ。さて、この智識寺のあった地区には、もう一つ別の名称の寺院があったことがうかがえる。この地区の地名にもなっている「太平寺」だ。

 

太平寺地区の案内板。伝統的な街並みやワイナリーもあって散策するにはいい場所

 

(その1)で述べたように智識寺の前身寺院だった可能性もあるが、荒廃した智識寺に代わってこの地域で隆盛を誇った寺院の名称だったかもしれない。何しろ現代でも広範な地名としてその名を残しているからだが、智識寺との関係(別の寺院なのか同一の寺院なのか)も含め、どのような寺院だったのかはよくわからない。

 

太平寺地区の街並み。中央の山腹に観音寺がある

 

またこの地区には、太平寺とは別に智識寺の法灯を継ぐというお寺がある。智識寺跡の東、太平寺地区を見下ろす山腹にある観音寺である。

 

観音寺の本堂。古代寺院風の鴟尾がかっけー

 

「法灯を継ぐ」というのは言い伝えだけではなく、ちゃんと物的証拠も存在している。観音寺には智識寺の備品だったという経机が所蔵されているのだ。

 

観音寺に伝わる智識寺経机の説明版

 

「観音寺」という寺号も何やら智識寺にあった巨大観音像と関係がありそうだ。正式には「天冠山智識寺中門観音寺」という名称だ。これからまた妄想を膨らませてみよう。

 

山号である「天冠(てんかん・てんがん)とは、仏像がつけている宝冠のことをいうらしい。智識寺の観音像から採ったとしてもおかしくはないだろう。その次の「智識寺中門」。智識寺の名称がそのまま使われている。中門とは何か。智識寺中門付近にあった塔頭だったかのようなニュアンスを感じる

 

つまり観音寺は当初、倒壊した観音菩薩を記憶に残すために、それに似せた観音を本尊として智識寺の中門付近に開基されたのではあるまいか。「天冠山智識寺中門観音寺」はまさにそのような経緯を感じさせるがどうだろうか

 

智識寺の話題は尽きないが、随分と長くなってしまった。いい加減、ここらへんで切り上げることにしましょう。

 

 

 

残るは三寺はさくっと周ります

 

鳥坂寺跡、安堂廃寺そしてこの太平寺廃寺と六寺のうち半分を訪問しました。残るは三寺ですが、これらは遺構の確認が十分にされず、古瓦の出土などからおそらくこのあたりにあっただろうとの推測にとどまっています。

 

三寺から出土した瓦は、柏原市歴史資料館に展示されていますが、現地には訪問済みの三寺と違って案内板などはなく、場所を確かめるには、発掘調査報告書に掲載された地図や写真などから同定しなければならなりません。(めんどくせ~)

 

奥が大県南廃寺(山下寺跡)、右が大県廃寺(大里寺跡)出土の瓦。左は(その2)でご紹介済みの安堂廃寺(家原寺)のもの。柏原市歴史資料館より

 

これらは鳥坂寺跡や太平寺廃寺(智識寺跡)に比べると、続日本紀に名前は残るものの、面白さには欠けるといわざるを得ないので、ハイジストでなければこれら三寺の現地訪問はあまりオススメしません。ということで簡単に見ていくことにしましょう。

 

 

  大県南廃寺(おおがたみなみはいじ)

 大阪府柏原市大県4丁目

訪問オススメ度 ─

 

河内六寺の「山下寺」に比定されている。丘陵地中腹の「皿池」の西側、「山下」との地名が残り、かつては一面のぶどう畑だった場所にあったとされる。宅地化が進んであり、それに伴う発掘調査で瓦や墨書土器などが出土しているほか、掘立て柱の建物の遺構などが確認されているが、寺院跡としての遺構は不明のままとのこと。

 

皿池近辺から望む。御覧のとおり宅地化が進展

 

葡萄坂から。ちなみにこの坂は関西ではヒルクライムの名所になっているらしい

 

 

 

  大県廃寺(おおがたはいじ)

大阪府柏原市大県4丁目

訪問オススメ度 ─

 

河内六寺の「大里寺」に比定。天理教大縣大教会の西側の駐車場がその跡とされる。かつては法起寺式の伽藍配置と想定される遺構が残っていたらしいが、発掘調査はされておらず詳細は不明。

 

大県廃寺。現在は寺院跡とわかるような遺構は見当たらず

 

ここからは鳥坂寺と同じく「大里寺」 と墨書された土器が発見されており、大県廃寺が大里寺であったことはほぼ確実視されている。

 

「大里寺」と墨守された土器。柏原市歴史資料館より

 

また、大県廃寺から出土した礎石は、高井田横穴公園の一角に移設され、展示されている。大県廃寺は鳥坂寺跡や智識寺跡ほどではないにしろ、比較的面白い出土物がある感じだ。

 

高井田横穴公園の「礎石コーナー」。大県廃寺以外のものも混ざっているようだ

 

 

 

  平野廃寺(ひらのはいじ)

大阪府柏原市平野2丁目

訪問オススメ度 ─

 

河内六寺の三宅寺(屯倉寺とも)と考えられ、六寺の中では最北端に位置している。若倭彦神社付近にあったと考えられているが、遺構や遺物に乏しく、所在地としても不明確であり、他にも候補地はいくつかあるようである。

 

若倭彦神社の付近。こちらも古代寺院をうかがわれるようなものは無し

 

 

これで河内六寺(と片山廃寺塔跡)の訪問はコンプリートしました。ついでに同じ柏原市内の古代寺院をあと二つご紹介しておきましょう。

 

 

  船橋廃寺(ふなはしはいじ)

大阪府柏原市

訪問オススメ度 ─

 

ふたたび大和川に戻ってきました。(その1)で触れたように現在の大和川は、石川との合流地点から少し北(下流側)で大きく流路を西に変えているが、これは江戸時代末期に付替え工事を行ったためで、それ以前はそのまま北へ流れていた。土木用の機械もない時代の大工事にはただ感心するばかりだが、そのあおりを食らったのがこの船橋廃寺

 

大和川堤防より。この辺りが船橋廃寺のはずなのだが....

 

もともと平野部の微高地にあった古代寺院跡だったのだが、流路の変更により付替え後の大和川に埋没してしまったのだ(ありゃりゃりゃ)。平成5年の水量の少ない時期に河川敷の発掘が行われ、その際確認された礎石は柏原市の高井田横穴公園の一角に移設されている。伽藍配置などは不明。

 

砂州に降り立つも当然のことながら寺院跡らしきものは見当たらず

 

 

 

今回の自転車を使っての河内六寺巡りでは、さらに衣縫廃寺(いぬいはいじ)と道明寺跡を訪れたのですが、柏原市外ということもあって記事は別の機会に記すことにしましょう。今回とは別の日の訪問になりますが、最後にもう一つご紹介します。

 

 

  田辺廃寺(たなべはいじ)

国指定史跡 大阪府柏原市田辺

訪問オススメ度 ★★

 

柏原市内の大物古代寺院としては、大和川沿いにある国分寺・国分尼寺が挙げられますが、忘れてはいけないのが国指定史跡である田辺廃寺。ここへは、河内六寺巡りとは別の日に近鉄大阪線大阪教育大前駅から徒歩で来ました。駅から丘陵地を歩くこと約20分。

 

春日神社社殿。その右側は田辺廃寺跡埋蔵文化財収蔵庫

 

参道脇の案内板

 

住宅地の一角にある春日神社の境内地が廃寺跡になる。田辺廃寺は発掘により薬師寺式の伽藍であったことがわかっているが、中心伽藍のあった区域は立ち入り禁止になっていて、有刺鉄線の柵の前に立って、生い茂った木々で薄暗い中の様子をうかがうしかない。

 

中心伽藍のあった地区。外からではどこに堂塔があったのかよくわからない。夏場は蚊の猛攻撃を受ける

 

かろうじて神社の拝殿前の中門跡と想定される部分に礎石らしきもの、神社の南端に南大門跡と思われる土壇の高まりらしきものの遺構を部分的ながら確認することができる。春日神社の境内には立派な「田辺廃寺跡埋蔵文化財収蔵庫」があり、瓦などの出土品なども収められていると想像するが、柏原市ホームページによると、あらかじめ春日神社に予約を入れる必要があるとのこと。

 

中門跡の礎石らしきもの

 

田辺廃寺は、藤原不比等と関係がある田辺氏の氏寺とする見方があり、薬師寺式の伽藍配置も判明しているなど、古代寺院のスペックとしては申し分ないと思うのだが、ここは国指定史跡ながら立ち入り禁止措置などもあってどこかよそよそしい雰囲気。訪問しても期待外れ感は正直否定できないが、過去の事件(不届き者の古物商がここの瓦を勝手に掘り出して販売していたらしい)の影響があるのかとも推察され、致し方ない面もあるだろう。

 

南大門跡

 

とはいえ、双塔式の伽藍は土壇や礎石などが整備されたら見応えのあるものになりそうだし、収蔵庫の見学も併せてできれば申し分ないと思います。機会があればぜひ検討していただきたいとは思います。

 

 

 

今回の(その3)の記事は、太平寺廃寺(智識寺)が面白すぎて随分と長くなってしまいました。「河内六寺」(とその周辺寺院)の記事はこれでおしまいです。お付き合いありがとうございました。

 

 

[訪問日]2023.2.18・2023.5.21(田辺廃寺)