和歌山県高野町、かつらぎ町の廃校休校巡り(2024/3/30) | haiko-riderのブログ

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2010年春から現在まで、趣味で廃校休校巡りをしてます。
これまでに訪れた校舎や思い出を記事にしてます。
無分別な廃墟探索とは全く異なりますので、誤解無きように。

今回は、和歌山県高野町、かつらぎ町の廃校休校巡りですが、

両町ともに過去に訪れたこともあり、久しぶりの訪問となりました。

過去の記事は以下をご覧ください↓

和歌山県中北部(高野町、紀の川市、紀美野町)の廃校休校巡り(2011/01/10)

和歌山県北東部の木造校舎と廃校休校巡り(2014/11/16)

随分前に訪れたのですが、前回と変わらない校舎もあれば、大きく変わった

校舎もありました。。

 

具体的には、上図のとおりです、

なお、行程の中に近隣の九度山町で小中学校1校、高野町で

1校の現役校を含んでおりますこと、ご了解ください。

 

京奈和自動車道、高野口IC下車後、紀ノ川を渡り、九度山町に入ると、

国道370号を南下、途中から県道118号に折れて河根(かね)地区に

着きました。

 

校門の桜は満開、3階建て校舎は前回訪問時と変わっていません。

 

正面右手の半円形の玄関屋根の建物は、河根幼稚園です。

 

手前の庭にはカラフルな滑り台、ジャングルジムも見えます。

 

小学校の校舎の3階には、開校150周年記念の横断幕が掲げてあります。

 

花壇の植栽は綺麗に手入れされていました。

刈り込まれた植栽と校舎のバルコニー、どちらも丸みを帯びて

調和していますね。。

 

校庭側から撮った校舎の全景

こちらは、定規を当てたような長方形です。

 

校門からスロープを下りて行く途中に、赤い屋根の体育館があります。

 

体育館の全景

 

校庭の様子

片隅に佇む遊具たち

 

プールの壁に描かれた絵画

 

近付いてみると、令和5年度の卒業記念制作でした。

壁画(縦4メートル、横8メートル)は、6年生2人が

プールの壁をキャンパスに見立て、地元の豊かな自然を

懸命に描いたそうです。

幾日費やしたのでしょうか。。

立派な出来栄えですね!

 

古タイヤの跳び箱

 

二宮尊徳像

 

温和な表情を浮かべておられます。。

 

幼稚園、小学校、中学校の竣工記念碑

1987年(昭和62年)11月22日

併設していた校舎を分離したとのことです。

 

竣工記念の手形

 

河根小学校(現役)

沿革をみると、

1873年(明治6年)日輪寺を仮校舎として塩生小学校が創立
1894年(明治27年)河根小学校と改名
1947年(昭和22年)河根小学校と校名改称
1971年(昭和46年)プール竣工
1987年(昭和62年)小学校新校舎完成、全校児童33名
幼稚園・小学校・中学校校舎総合竣工式
2008年(平成20年)小中一貫教育スタート 小学校校庭芝生化
2023年(令和5年)年2月 河根小学校創立150周年記念式典を実施
全校児童6名

河根地区は、江戸時代には高野山参詣者の宿場町として栄えていましたが、
明治になり電車が開通すると、街道を通る参詣者の姿もなくなり

人口も減少していきました。
平成に入るとさらに過疎化が進み、平成7年には丹生川小学校が、

平成18年には久保小学校が休校となり、河根地区内は河根小学校1校のみと

なりました。

地元の方によると、近年は地域外からも子供たちを受け入れて

存続を図っているそうです。

 

 

先ほど見た体育館から坂道を下りて行くと、中学校があります。

校舎の全景1

小学校よりもやや大きい校舎です。

 

校舎の全景2

かつては、それなりに多くの生徒が学んでいたことでしょう。。

校舎の全景3

玄関への導線沿いに校庭との境界線が花壇となっています。

 

校庭の様子

 

2023年(令和5年度)卒業記念樹

河根中学校(現役)

沿革をみると、

1947年(昭和22年)河根中学校創立
1951年(昭和26年)中学校新校舎完成
1959年(昭和34年)中学校歌制定
1986年(昭和61年)中学校新校舎・屋内運動場完成
1987年(昭和62年)中学校舎、「ふるさと建築景観賞」受賞
幼稚園・小学校・中学校校舎総合竣工式 全校生徒32名

2023年(令和5年)全校生徒14名

小学校と同様に生徒の減少が進行しているようです。

 

河根地区から丹生川を越えて高野町西郷(にしごう)地区の

林道を紀伊神谷駅方面へ南下していきます。

ほとんど車の往来はありませんが、かつては高野山へ向かう

最短ルートだったようです。

往時を偲ばせる古い民家が街道沿いに残っています。

心細い道程ですが、満開の枝垂れ桜に心が和みます。。

 

鬱蒼とした樹林の中を40分くらい走ると、沿道に何かの案内板が

忽然と出現しました。

 

日本最後の「高野の仇討ち」

1871年(明治4年)2月30日にこの地で仇討がありましたが、

赤穂藩内の藩主らと尊攘派の内紛で、暗殺された藩主らの遺児一族が

尊攘派に仇討ちをしたものです。

当日は河根宿に泊まり復讐の決意を固めたそうです。

以後は仇討禁止となったため、最後の仇討の地となりました。

 

さらに街道を10分ほど進むと、集落に着きます。

白藤の里と呼ばれ、古くは高野山へ参詣するのに、最も近い宿場として

栄えたところです。

 

廃校となった校舎は指定避難場所となっています。

元白藤小学校です。

 

高野神谷地区のイラストマップ

 

校舎の前は細い街道が続いています。

 

13年前にも発見した独特の標識

「学校あり」と「こども飛び出し注意」を合体したような標識ですね。。

 

玄関の前の幟は、前回はありませんでした。

この10年ほどの間にカフェに変わっていました。


玄関の様子

 

白っぽく色褪せた木板の表札

往時のまま残っていました。

 

平屋の木造校舎がL字型に連なっています。

 

中庭の様子

前回訪問時にあった鉄棒は撤去され、憩いの場となっています。

 

校舎の一段下にある校庭

 

体育館

 

再び玄関の戻り、構内を見学します。

 

一週間の目標を記載する黒板と立体的な日本地図

 

廊下の様子

木枠の窓、摺りガラス、天井を支える梁が奥まで続いています。

味わい深い眺めです。

 

教室の様子

往時の黒板と椅子が並べてあります。

 

教育目標の掲示

 

黒電話とスクールベル

 

廊下の突き当りに直売所がありました。

 

竹の子、乾燥椎茸、南高梅等を販売しています。

 

さて、本題のカフェに入ってみます。

その名も「しらふじ」です。

 

店内の様子

職員室をリノベーションしています。

 

黒板にメニュー、コーヒーは400円です。

 

オーナーは刀祢(とね)さんという方です。

温厚で優しい笑顔が印象的でした。

控えめな口調ながら、お話好きな方だと感じました。

 

刀祢さんから頂いた名刺

先ほど見た白藤の里の案内板、高野山と九度山への道しるべの

イラストが添えてあります。

 

刀祢さんは、中学2年生の時に神谷地区に移住してきて、関西の

コーヒー店が出店するイベント「ジャパンコーヒーフェスティバル」を

通じて知り合った喫茶店のオーナーらに、豆の煎り方やコーヒーの淹れ方を

教わり、2021年(令和3年)に同店をオープンしました。
 

まろやかで優しいコーヒーでした。。

陶器のカップもほっこりさせられます。

他に、練り込んだサツマイモを挟んだトーストを頂きましたが、

これが格別に美味しかったです。

 

具志堅用高さんが取材に来られたのですが、残念ながら、

時期的にはカフェのオープン前だったそうです。。

 

白藤小学校(2008年廃校)

沿革をみると、

1878年(明治11年)3月 神谷小学校として開校
1892年(明治25年)他校との合併により「神谷尋常小学校」に改称
1902年(明治35年)4月 白藤尋常小学校と改称
1911年(明治44年)7月 白藤尋常高等小学校に改称
1926年(大正15年)7月 白藤青年訓練所となる
1927年(昭和2年)全校児童152名
1947年(昭和22年)4月 高野町立白藤小学校に改称
1987年(昭和62年)全校児童9名
1991年(平成3年)全校児童6名
1997年(平成9年)休校
2008年(平成20年)廃校

2021年(令和3年)「Coffeeしらふじ」をオープン

高野参詣道沿いに残る木造校舎ですが、人口減少により廃校と

なってしまいました。

1929年(昭和4年)南海・神谷駅~極楽橋駅間が開通し難波駅から

全通した後、高野参詣ルートは「徒歩」から「鉄道」に移り
たちまち人影の少ない山里に戻ってしまったそうです。

長らく会社員生活をしてきた刀祢さんらは約5年前に白藤の会をつくり、

町の委託を受けて、廃校となった旧白藤小の保全活動に取り組んで

おられるそうです。

一度足を運んでみてはいかがでしょうか。

ノスタルジックな気分に浸り、温かいコーヒーでも一杯。。

きっと疲れた心を癒してくれることでしょう。

名称    Coffeeしらふじ
所在地    和歌山県伊都郡高野町大字西郷463
営業時間    9:00~17:00
営業日 土日祝 不定休
駐車場    あり

 

白藤小学校から徒歩10分で、秘境駅で有名な南海高野線、

紀伊神谷駅に着きます。

森の中にある古い駅舎です。

電車で Coffeeしらふじに行く方は、この駅で下車して

歩いて行くことになります。

 

構内の路線図と時刻表

毎時間、1本~3本の停車しますので、以外にも本数が

あります。

 

ホームと線路

周りは何もありません。。

 

1日の平均乗降人員は2020年から10人を割り、9人となりました。

2023年(令和5年)10月10日:駅員巡回強化指定駅となり

無人駅化されています。

 

紀伊神谷駅から不動谷川沿いに紀伊細川駅まで戻り、

高野街道を南下した細川集落に廃校となった校舎があります。

 

元西細川小学校です。

コンクリートのスロープが玄関入口に続いています。

 

小学校の文字盤と校章

 

玄関の戸口に「和紙の会」

開催日は第一土曜日午後とあります。

後日調べたところ、この辺りの地域では、平安時代から

紙漉きが行われており、高野紙(こうやがみ)と呼ばれ

古くは寺院の写経に使用されましたが、江戸時代になると

大衆に広まり傘紙、障子紙などに用いられました。

ユネスコの無形文化遺産「細川紙」(埼玉県)のルーツは

「高野紙」にあったと云われています。

 

玄関から奥に校舎が続きます。

 

1階は用具倉庫、2階と3階が教室でしょうか。。

体育館のようにも見えます。

 

シャッターには子供らの描いたが並んでいます。

地元の豊かな自然や学校生活の思い出が溢れています。

 

校庭の様子

 

蔓に絡まれたサッカーゴール

 

古タイヤを埋め込んだ跳び箱

 

創立百周年記念碑

1980年(昭和55年)12月建立ですから、

1880年(明治13年)創立でしょうか。。

 

西細川小学校(2005年閉校)

南海高野線、紀伊細川駅から約1㎞ほどの集落にあります。

1987年(昭和62年)全校児童16名

1991年(平成3年)全校児童9名

現在は「和紙の会」の会場として使用されており、洋紙の

普及拡大により衰えていた高野紙の最後の生産者から伝統技法を

学び受け継いだ絵漉き師の飯野尚子さんが、伝統技術を守り

伝える活動をされているそうです。

 

国道37号を南下、細川地区から花坂地区に入ります。

沿道に体育館の横顔が見えたました。

 

花坂小学校(現役)です。
 

体育館の全景

 

体育館の奥に校舎が繋がっています。

 

校舎の端部

スロープを下りると校庭です。

 

校庭からみた校舎

 

校庭から玄関へと階段を上って行きます。

 

玄関前は敷地が狭いため、このようなアングルになります。

 

 

玄関の近景

 

赤レンガの壁に立派な銘板

 

輝きを放つ校章

 

校舎から見た校庭

2012年に芝生化された校庭では、秋になると村の祭りに合わせ、

地域住民と合同で運動会が行われるそうです。

奥の丸窓の建物は、花坂保育所跡です。

(高野山保育所に統合されました。)

 

片隅に佇む遊具たち

 

百葉箱

 

かつて野鳥を飼育していたのでしょうが、空っぽになっていました。

 

地名、校名から「花」を入れたキャッチフレーズ

 

華やかな銘板

2010年(平成22年)度の卒業記念制作です。

体育館の壁に掲げてありました。
 

創立百周年記念碑

巨石は苔生しており年季を感じました。

 

花坂小学校(現役)

花坂は高野街道の宿場として栄えたところですが、人口減少に

より静かな山里となっています。

1987年(昭和62年)全校児童25名

2023年(令和5年)全校児童8名

元来より小規模校ですが、近年は児童数は一桁で推移しています。

学校は地域の灯であり、子どもは地域の宝。

地域一体となって学校の存続に努めておられると感じました。

 

引き続き国道370号を南下、かつらぎ町新城(しんじょう)地区に

入ります。

川向うの集落に学校跡らしき建物が見えます。

 

前回は見かけなかった看板です。

「水とみどりの美術館 すぎのこ」

 

往時のコンクリートの門柱は残っていましたが、表札は外して

ありました。

 

かつての校舎は解体、平屋の建物が新築されています。

 

破風には「新城地域交流センター」とあります。

 

解体前の新城小学校

大きめの民家のようで趣のある外観でした。。

玄関付近の2階部分を撤去・新築し、教室部分を改築したようです。

 

「水とみどりの美術館 すぎのこ」のリーフレット

国内外で活躍する独立美術協会会員を中心とした作家の大作を

常設展示してあります。

今回は、館内には入りませんでした。

 

周囲に目を遣ると、ピンクの山ツツジが満開です。

 

創立百周年記念碑

相当の年季が入っていますね。。

1977年(昭和52年)3月6日建立されておりますので、

1877年(明治10年)創立ですね。
 

高野山に近い山間の小規模校ですが、ピーク時には100名を

超える児童がいたそうです。

1982年(昭和57年)から西日本で初めて山村留学制度を

取り入れ、30年間で延べ200名以上の児童を送り出しました。

 

新城小学校(2012年閉校)

1877年(明治10年)創立

1982年(昭和57年)山村留学制度実施

1987年(昭和62年)全校児童26名

2012年(平成24年)笠田小学校への統合に伴い閉校 

最後の児童は5名。

山村留学制度を実施し存続を図っていましたが、人口減少により

閉校となってしまいました。

2017年(平成29年)に校舎を増改築し地域交流センターとして

地域の交流拠点となっています。

同時に、「水とみどりの美術館 すぎのこ」がオープン。

現代作家の作品が展示されています。


新城小学校跡から国道370号を跨いで脇道に入ります。

上の写真の中央部に見える、細い林道です。

 

 

入口に新城地区の案内マップがありますが、現在地の地点から

湯子川沿いに林道を進みます。

 

左側の川沿いの細い山道です。

 

湯子川の清流
 

かつらぎ町から高野町に入り、しばらく進むと、

沿道に丹生神社の鳥居があります。

こんな山奥にも参詣する方がおられるのですね。。

 

林道を隔てた向かいに廃校舎が残っています。

 

3回目になりますが、廃墟感は増しているようです。

苔生した屋根瓦が、亀の甲羅のように長い最月を物語っています。

いずれ崩壊する運命なのでしょうが、じっと耐えているように

みえる廃校舎が訪れた者の心を掴んで離さないのです。。

 

校舎の全景

林道から眼下にひっそりと佇む木造平屋校舎、樹林に

埋もれんばかりです。

このアングルがTHE廃校と呼ぶに相応しい眺めですね。。

 

校舎の近景

 

校舎のすぐ前にブランコ

 

教室のガラス窓に並ぶ文字盤は、「先ず健康」

 

この石膏像は卒業記念制作でしょうか。

表情が無いので分かりませんが、希望を胸に未来へ羽ばたく

姿を表しているようにみえます。

一体だけに目立ちます。

 

向かって左側へと校舎は続いており、森林の陰で昼間でも

暗く不気味に感じます。

 

階段を下りてみると、2階建てになっていることが分かりました。

 

谷間は背の高い杉で日差しが遮られ、足を踏み入れることが

憚れます。

 

校舎裏の様子

子ども用の自転車が無造作に放置してありました。

 

正面玄関近景

 

木板の表札

 

校庭の様子1

分校の校庭とはいえ、非常に狭いです。。

 

校庭の様子2

反対側にも新しい建物があります。

 

湯川集会所です。

周りには民家が見当たりませんが、住民がおられるようです。

 

花坂小学校湯川分校(1989年休校、2004年廃校)

前回は夕暮れ前に来たこともあり、あまりにも寂寥感溢れる場所で

早く帰りたいという気持ちになりました。

今回のように昼間に来ても、深い樹林に覆われた場所は、

訪れる者を拒んでいるように感じます。

周りに民家も無く神社と集会所のみという点がそう感じさせるのでしょう。。

休校になる前の1987年(昭和62年)は先生一人、女子児童一人の

寂しい分校となっていました。

お二人はどのように過ごしていたのでしょうか。

校舎の前のブランコに腰掛け、一日の出来事やお出かけしたきことなど

楽しく語り合っていたのでしょうか。。

叶うなら、当時の思い出をそっと聞いてみたいですね。。

 

再び国道370号に戻り北上、志賀高野山トンネルを抜けて

国道480号(西高野街道)を進むと、川向いに大きな鉄筋校舎が

目に入ります。

 

隣に木造の講堂です。

 

真国川を跨いで撮った校舎

側面は茶色のレンガ貼りです。

 

同じレンガ貼りの塀に往時の銘板

 

鉄筋3階建ての重厚な校舎です。

 

校庭から撮った校舎の全景

 

玄関は端部にあります。

校舎の隣にある講堂

 

講堂の裏側

 

校舎から講堂を結ぶ渡り廊下

 

講堂の内部1

屋内体育館と兼用とされていたようです。

 

講堂の内部2

えんじ色の一文字幕やカーテンは、学校のステージには

お馴染みの光景ですね。

窓のカーテンには校旗が掲示されていました。

 

校庭脇のプール

小プールは低学年用でしょうか。。

 

校庭脇の遊具

 

うつむいて書物を読み耽る二宮尊徳

 

志賀小学校(2012年閉校)

児童数減少により、四郷小学校、四邑小学校、新城小学校
とともに笠田小学校への統合に伴い閉校となりました。

最後の児童は11名でした。