三重県伊賀市、亀山市の廃校休校巡り(2018/10/07) | haiko-riderのブログ

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2010年春から現在まで、趣味で廃校休校巡りをしてます。
これまでに訪れた校舎や思い出を記事にしてます。
無分別な廃墟探索とは全く異なりますので、誤解無きように。

伊賀市は、三重県の北西部に位置する都市です。

2004年11月1日、上野市・阿山郡伊賀町・島ヶ原村・阿山町・大山田村・

名賀郡青山町が合併して伊賀市が誕生しました。

古来より都(飛鳥、奈良、京都など)に隣接する地域として、
また、交通の要衝として、江戸時代には藤堂家の城下町や

伊勢神宮への参宮者の宿場町として栄えてきました。

 

亀山市は、三重県中北部に位置する都市です。 

江戸時代には伊勢亀山藩の城下町として、東海道で鈴鹿峠越えを

控えた亀山宿の宿場町として栄えました。 

シャープ亀山工場では、世界初の液晶パネルからテレビまでの

一貫生産が行われ、世界の亀山モデル」というキャッチコピーで

売り出され、「亀山」の名が世に知れ渡りました。

 

伊賀市、亀山市ともに何度も訪れておりますが、

7~8年振りの学校もあり、新たな発見もありました。。

先に向かったのは伊賀市南部の旧青山町です。

 

伊賀市街から国道422号を南下、国道165号との交差点で県道29号を

直進、種生(たなお)地区に入ると県道691号に折れて進みます。

沿道の小高い丘に美しい木造校舎が建っています。

 

初めて訪れたのは、2011年4月、松阪市へ行く途中に立ち寄りましたが、

7年半経っても美しい外観は変わりません。当時の記事は⇒こちら

地元の方々によって綺麗に保たれているのが分かります。

 

「博要の丘」の石碑

廃校となった小学校は整備され「博要の丘」として再生しました。

6月上旬にはホタル鑑賞会などのイベントが催されるそうです。

「博要」は地名ではなくこの辺りの地区の呼称となっています。

 

バーベキュー場も併設されています。

 

伊賀市内で唯一残っている1916年(大正5年)築の木造校舎

 

端正な玄関ポーチ

 

木工品のような手造り感が漂う校章

 

前回は気が付きませんでしたが、奥にも平屋校舎がありました。

 

瓦屋根を2段階に組み合わせて繋いだ下に階段があります。

 

けっこう急な階段です。

 

手前の校舎が表校舎、奥の校舎は裏校舎と呼んでいたようですね。

?マークは意味不明です。。

再び表校舎に戻ります。

 

人の気配はありませんが、左端のガレージにトラックが1台停まっています。

 

ドアに「青山太鼓」の文字

旧青山町の住民らでつくる「青山太鼓保存会」(平成6年結成)が

各地のイベントに出向く際、和太鼓の運搬用に使用しているトラックです。

ということは、校舎で和太鼓の練習しているのでしょうか。。

和太鼓のトラックと廃校は、愛知県北設楽郡東栄町の旧東薗目小学校を

思い出します。

山深い場所にある廃校舎ですが、プロの創作和太鼓集団 「志多ら」が

活動拠点として使用されていました。

その記事は⇒こちら

 

錆びた朝礼台

 

ペンキの剥げた雲梯

 

子どもに替わって雑草に遊ばれているジャングルジム

 

高さの異なる古タイヤの遊具

 

校庭の反対側にも鉄筋平屋の建物が見えます。

 

かつて博要保育所でしたが、現在は博要地区市民センター として

使用されています。

 

県道の反対側に芝生の校庭、奥に体育館が見えます。

 

青山博要体育館です。

 

博要小学校(2004年閉校)

閉校後は、「博要の丘」として整備されました。

主に、都会に住む子どもたちの田舎暮らしの体験場所として、
夏には野球チームのキャンプやスポーツ少年団などたくさんの

子どもたちが訪れているそうです。

当日は人の気配もなく静まり返っていました。

秋風に枯れ葉の舞う音だけが耳に残っています。。

1991年度の全校児童は22名、閉校時は16名でした。

旧青山町では、阿保、上津、矢生、博要、高尾の5小学校が

青山小学校への統合により同時期に閉校となっています。

引き続き県道691号を進み、県道39号を南下、高尾地区に入ります。

手前に体育館、奥に見えるのが校舎です。

 

校庭へのスロープをゆっくり進むと、

右手の芝生の斜面に往時の表札がどっしりと鎮座しています。

台座の縁石や玉砂利は新しく見えたので、近年改修されたのかもしれません。

 

体育館の庭先に水車小屋が建っていますが、

山からの湧き水で回っているようです。。

外観は朽ちた様子はなく、閉校後に新築したものでしょう。

 

正面玄関

3階の壁に校章が見えますね。

錆びた防護フェンス越しの不揃いのヤシの木は、

生気が感じられません。

 

やや彫の深い顔の二宮尊徳像

 

高尾小学校は2010年に訪れて以来8年振りですが、

当時存在していたものが無くなっています。。

 

体育館と校舎の間の高台に木造校舎があったのです。

ちょうど写真中央の白く塗りつぶした場所です。

 

解体前の木造校舎(2010年10月24日撮影)

風情ある平屋木造校舎でしたが、残念ながら老朽化により

解体されてしまったのです。。

 

高尾小学校(2004年閉校)

傍を流れる前深瀬川のせせらぎが心地よい山あいの集落にあります。

木造校舎は数年前に解体されましたが、鉄筋校舎は倉庫となっているそうです。

校庭は地域の行事や交流の場として使用されています。

 

沿道の観光案内板

伊賀市の最南端の集落が高尾です。

さらに南下すれば、東海自然歩道が尼ケ岳へと続いています。

尼ケ岳は津市との境にある伊賀盆地の最高峰で(957.6m)

別名「伊賀富士」と呼ばれています。

 

県道39号を南下し上高尾集落に入ります。

沿道の地名標識にカワセミのイラスト、野鳥が生息する自然豊かで

水のきれいな場所であることを示していますね。。

 

川岸に2棟の建物が見えてきました。

 

フェンスの横断幕に「ハナレ」

 

手前は、高尾生活改善センター兼公民館、奥の木造建物が「ハナレ」です。

「ハナレ」は地方創生事業の一環として、廃校となった校舎の外装を

リノベーションして週末レストランや 交流拠点として活用されている施設です。

(取り壊してはいないそうです。)

「ハナレ」は、大阪と上高尾のメンバーによって構成されたグループ名でもあり、

様々なイベントを通して 交流を行い、限界集落の再生、地区の活性化に

取り組んでいるそうです。

 

敷地内にある窯は、陶芸用かピザ用でしょうか。。

 

矢生(やお)中学校上高尾分校(1961年廃校)

上高尾は旧青山町最南端に位置する限界集落です。

かつて矢持村と種生村が共同で矢生中学校を設立しましたが、

校舎は種生に建てられたため、上高尾からは児童の通学が

遠くて困難とのことから分校を設置したようです。

最盛期には30名ほどの児童がいましたが、過疎少子化により

廃校を余儀なくされました。

 

県道39号を引き返し旧高尾小学校を過ぎて県道693号経由、

県道29号を進むと、腰山地区に閉校校舎が残っています。

正門の表札は「矢持地区市民センター」に入れ替わっていました。

 

こちらも山深い集落にある校舎です。

 

黒ずんだ銘板に年季が感じられますが、校名が何とか読み取れます。

「青山町立 矢持小学校」

 

正面玄関

天井はボロボロです。

扉の上の絵画は、古代エジプト壁画のように見えますが

卒業記念作品です。

左右の窓には、「風と土のふれあい芸術祭in伊賀2018」のポスターが

貼ってありました。

毎年恒例のイベントで、風(地域外)と土(地元地域)の作家たちが

織りなす展覧会です。

今年は10月27日に開催されました。

 

廊下の様子

 

木工品「やもちの里」

 

木工品(ふくろう、うさぎ、知恵の輪?)

 

木の文字を綺麗に貼って校歌にしています。

1996年度(平成8年)の卒業記念制作品です。

 

矢持小学校(2004年閉校)

山に囲まれた静かな学校ですが、当日は校庭にテントが設営され

地元の方々が大勢集まり賑わっていました。

校舎のベランダに掲げた標語からは、故郷を大切に思う村人たちの

熱い心が伝わってきます。

「みなおそう自然」「深めよう絆」「伝えよう誇り」「矢持の郷」

 

名阪国道を東へ進み亀山IC下車後、シャープ亀山工場を

横目に見ながら北上、白木地区を進むと平屋木造校舎が残っています。

初めて訪れたのは8年程前のことです。

当時の記事は⇒こちら

外観に変化はありませんでした。

前回もそうでしたが、逆光で上手く撮れませんでした。。

 

シンメトリー(左右対称)、切り妻屋根に下見板張りの平屋木造校舎です。(写真は北棟)

1954年(昭和29年)に現在の木造校舎、南北2棟が建設され、

2009年(平成 21年)8月に国登録有形文化財に登録指定されました。

校舎は1992年(平成4年)に改修、2015年(平成27年)に耐震工事完了を

経てもなお、創建当時の面影を保っています。

 

国登録有形文化財の登録記念碑

 

校舎の前に広がる花壇

 

「友愛」と刻んだ石碑は、学校花壇総理大臣賞受賞記念碑です。

1987年(昭和62年)6月受賞。

 

白川小学校(現役)

亀山市中部の山間に位置し、校区にはシャープ亀山工場があります。

白木地区と小川地区とを合わせて白川地区と称し、校名の由来となっています。

1991年度の全校児童は92名、2018年(平成30年)は40名と半減しているのは、

過疎少子化を如実に表していますが、同時に亀山ブランドの栄枯盛衰を

象徴しているかのようです。

 

次に向かったのは、滋賀県境に近い亀山市関町沓掛(くつかけ)に

建つ木造校舎です。

国道1号沓掛交差点から脇道に入るとすぐです。

こちらも、約8年振りの訪問ですが、相も変らぬ美しい校舎ですね。。

 

正面玄関

戸口に子供たちの靴が並んでいます。

教室からは、楽器の調べが聴こえてきました。

音楽発表会の練習をしているのでしょうか。。

 

素朴な表札

廃校後は、「鈴鹿峠自然の家」という研修宿泊施設となっております。

 

国登録有形文化財であることを示す庭先の標柱

 

銘板もしっかりと玄関の壁に取り付けてあります。

 

見取り図を見ると奥にもう一棟ありましたが、前回は気付かず

後にしました。。

 

同じパステルピンクの平屋校舎です。

 

2棟は渡り廊下で繋がっています。

 

昭和の面影を残す廊下

 

障子戸の和室も完備されています。

 

創立百周年記念式典の写真

1976年(昭和51年)2月18日に執り行われました。

1876年(明治9年)創立ということになりますが、

モノクロ写真が時代を感じますね。。

 

お弾きのような小さな丸いタイルをたくさん埋め込んで作った孔雀

製作年は不明ですが、昭和の卒業記念作品でしょう。。

 

三重県地図の模型

1970年(昭和45年)の卒業記念制作です。

滋賀県境の鈴鹿山脈に「坂下」小学校マークの記載がありますね。

 

ドラマ「二十四の瞳」のロケ地になりました。

大石先生を演じた松下奈緒さんのサイン色紙。

 

瀬戸内海に浮かぶ小豆島(香川県)が小説の舞台ですが、

幾つかのシーンはここで撮影されたようです。

2013年(平成25年)7月2日~7月3日にロケ、同年8月4日の

ドラマスペシャルで放映されました。

 

その隣には、倍賞美津子さんと木村祐一さんのサイン色紙が。

映画「ニセ札」のロケ地になっていました。

2008年(平成20年)7月2日~7月11日にロケ、2009年4月11日に上映されました。

 

キム兄が初めて長編映画の監督に挑んだ作品だったそうですが、

観ていない映画なので、木造校舎がどういう設定で使用されたのかは

分かりません。。

 

校舎の右手前にも、瓦屋根に薄いピンクの板張りの建物が見えますが、

左から用務員室、歴史民俗資料館、倉庫となっています。

 

校庭を振り返れば鈴鹿山麓が間近に迫る。。

 

校庭の端部に設置された天文台「童夢」(どーむ)

前回来た際は気が付きませんでしたが、綺麗な星空が観測できるという

坂下地域の特性を生かして、亀山市が2010年3月に設置した天文台です。

 

(旧)坂下小学校(1979年廃校)

1938年(昭和13年)に坂下尋常小学校として建てられた、

木造平屋建、瓦葺のレトロな校舎です。

息を呑むほどの美しい外観も、昭和の面影を伝える味わい深い構内も

すべてが良好に保たれています。

映画やドラマの撮影に使用されているのも頷けます。。

何度でも訪れて、変わらぬ美しさを確認したくなる魅力的な校舎です。。