奈良県野迫川村南部の廃校休校巡り(2017/09/10) | haiko-riderのブログ

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2010年春から現在まで、趣味で廃校休校巡りをしてます。
これまでに訪れた校舎や思い出を記事にしてます。
無分別な廃墟探索とは全く異なりますので、誤解無きように。

野迫川村(のせがわむら)は、奈良県南部に位置する村です。

奈良県の自治体の中では最も人口が少なく、
近畿地方の自治体の中でも和歌山県東牟婁郡北山村に

次いで人口が少ない村です。

410人(推計人口、2017年10月1日)
山間部に位置するため、多くの道路が狭隘で交通が

不便であり村へのアクセスが困難なことから

過疎少子化が顕著な地域です。

前回は、北部を主に廻りましたが、↓

奈良県野迫川村北部の廃校休校巡り(2017/09/03)

https://ameblo.jp/hiho-haiko/entry-12344123247.html

今回は南部を主に廻っています。

 

山深い野迫川村を走っていると野生動物に遭遇することが

あります。

3頭の小鹿は、しばらくこちらを見つめていましたが、

興味がないとわかると、

視線を反らす者も表れ、その場から走り去ってしまいました。

3頭は兄弟だったのでしょうね。。

仲良さそうでした。

 

野迫川村役場から北股川に沿って県道733号を南下します。

3kmほど進んだ集落に校舎跡があります。

銘板の校名は保護色可しているので

近付いてみないと読み難いですね。。

 

白い砂利の奥に建つ2階建てモルタル校舎です。

 

碧い屋根の玄関は、増築した小屋のような違和感がありました。

 

やはり、隣のトタン屋根の入口が玄関でした。

 

こちらに往時の表札が掛っていました。

 

増築した棟のガレージには軽トラの消防車が停まっています。

 

別の表札が掛っており、地区の造林会社が使用しているようです。

 

卒業記念製作のトーテムポール

覆面レスラーのような木彫の顔が3面、卒業生は3名だったのでしょうか。。

何だか低いですが、途中で折れたのでしょうか。

 

こちらは、1980年(昭和55年)の卒業記念作品です。

卒業生は2名だったようです。

 

2011年(平成23年)に発生した台風21号は日本列島を縦断し

これに起因する豪雨により、特に紀伊半島(和歌山県・奈良県・三重県)に

おいて甚大な被害をもたらしました。

校舎の前は、山崩れの復旧工事跡が残っています。

 

避難復帰を記念し復興を願って建立された石碑

記録的な大水害により地区の住民は2年10か月にも及ぶ避難生活を

余儀なくされ、避難指示が解除されたのは2014年(平成26年)7月1日でした。

 

北股小学校(2004年閉校)

前回訪れたのは、大水害の1年前だったので、

今回は台風の爪痕を思い知らされました。

台風から6年余り経過しましたが、人ん気配も活気も感じられず

完全復興には至っていないようです。

外部との交流や定住に向けた取り組みは今も続いています。

 

県道733号を南下し、平集落に入ります。

源平合戦で敗れた平清盛の孫である平維盛が熊野・吉野の山中を

さまよい歩き、終焉を迎えた地と伝えられています。

毎年夏には、村の一大イベントである「平維盛の大祭」が催され、

御霊祭、お楽しみイベント、燈火会、花火大会など多くの観光客で

賑わいます。

 

維盛歴史の里の看板の隣に立つ危険区域を表示した地図を見ると

中央部分に小学校が記されています。

(中央に2棟並んだ建物の右側の傾いた長方形です。拡大して頂くと分かると思います。)

 

振り返ると石垣上に平屋の木造校舎が見えます。

窓はサッシに取り換えられ改装されていました。

 

玄関の近景

 

高台に上がって撮った校舎の側面

壁際にバスケットゴールがポツンと立っています。

校舎よりも大きなイチョウの木が存在感を示していました。

 

平小学校(1971年休校)

定期的に手入れされているようです。

約7年振りの訪問ですが、それほど老朽化は見られませんでした。

 

県道733号をさらに進むと、北股川に沿った北今西集落に着きます。

近くに温泉ホテルもあり開けた場所です。

 

北股川に架かる橋から、県道沿いに赤い屋根の校舎を見ることができます。

山と川の間の狭い敷地に建っていることが分かります。

 

沿道から見た校舎

正門の塀と県道が隣接していますが、

往時からこのような危険な位置に立っていたのでしょうか。

 

厳つい銘板ですが、表札は残っています。

 

狭い県道からは校舎の全景を撮ることは困難です。
 

校庭側から撮った校舎

 

校庭の片隅に残る卒業記念製作のトーテムポール

柱は途中で折れていました。

台風の影響でしょうか。。

 

コンクリートブロックを積み重ねた卒業記念作品

1980年(昭和55年)度に製作したようです。

卒業児童の大切に思う言葉と四季の美しい自然が記されています。

卒業生は2名だったのでしょう。。

 

北今西小学校(1990年休校)

赤い屋根と薄いピンクの壁の校舎は幼稚園のような可愛らしい外観です。

村の廃校舎の中では鉄筋2階建ての近代的な建物です。

かつては木造校舎でしたが建て替えられたようです。

休校ですが、実質的には廃校となっています。

 

野迫川温泉「奥高野のせ川温泉郷」

北今西小学校の近隣の川沿い位置しており、

建物の色調はよく似ていました。

人里から離れた静かな温泉ホテルです。

 

野迫川南部の秘境集落が桧股(ひのきまた)です。

 

今回約7年振りに野迫川村を訪問したいと思った大きな理由は、

この小さな校舎がどうなっているか、現存しているかを確認したかったからです。

それほど、印象に残った校舎でした。

 

赤いトタン屋根、白い木枠の窓のこじんまりとした平屋校舎です。

期待に違わず、山奥にひっそりと佇まいをみせていました。

 

長らく使用されず錆びついた鉄棒

 

こちらは、草むらに埋もれそうなシーソー。

ぶら下がり型のシーソーは最近あまり見ないですね。。

 

壁の標語は、文字が一部抜けていますが、

完成形を想像してみてください。

最初に訪問した時の記事では推測して書きましたが、

https://ameblo.jp/hiho-haiko/entry-11468371722.html

後日、往時の校舎を写真で確認したところ、その通りでした。。

 

教室は建築資材置き場となっていました。

 

児童6名の自画像のレリーフ

1981年(昭和56年)度の卒業制作です。

 

こちらは貼り絵のようですが、かなり劣化しており

何を描いてあるのか不明です。

 

桧股小学校(1984年休校)

野迫川村では、立里に次ぐ少数集落です。

桧股小学校は、分校のような小さな校舎と校庭です。
前回と変わっていない様子に安堵しました。
次はいつ来れるか分かりませんが、

かつて児童が学び遊んでいた情景を想いながら後にしました。

 

弓手原川に沿って奥に入ると、野迫川村南部の最果ての集落となります。

 

集落の中を進むと、フェンス越しに一般民家のような建物があります。

 

入母屋屋根の古民家を改装したように見えますが、

往時の小学校です。

 

創立百周年記念碑

 

1975年(昭和50年)建立ですから、1875年(明治8年)創立ということになります。

秘境集落でありながら、教育の場が古くから整えられていたことに感心します。

 

校庭の反対側の高台に別棟があります。

 

こちらは、へき地集会室で体育や音楽に用いられた学校の施設です。

講堂のようなものですね。

弓手原小学校(1984年休校)

弓手原地区では、夏休み期間中、外部からの子供たちとの交流を行っており、

宿泊したり、虫取りや川遊びなどの自然体験学習の場として活用されています。

集落の住民たちも毎年楽しみにされているそうです。