奈良県十津川村北部の廃校休校巡り(2017/09/24) | haiko-riderのブログ

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2010年春から現在まで、趣味で廃校休校巡りをしてます。
これまでに訪れた校舎や思い出を記事にしてます。
無分別な廃墟探索とは全く異なりますので、誤解無きように。

十津川村(とつかわむら)は奈良県最南端に位置し、和歌山県境に隣接する村です。

奈良県の面積の5分の1を占め、国内最大面積の村として知られています。(672㎢)

東京23区より大きい面積を有しています。

一方、村の96%が山林であり、人口は3,382人です。(推計人口、2017年10月1日)

紀伊山地の奥に位置するためアクセスも不便であり、公共交通機関は一日3本の

路線バスしかありません。

かつては集落ごとに小学校があり、1955年(昭和30年)には、小学校27校、分校3校でしたが、

ほとんどが廃校となり、現在は十津川村立第一小学校、第二小学校の2校のみです。

十津川村はこれまでも訪れました。↓

奈良県十津川村、和歌山県龍神村の廃校休校巡り(2011/05/02)

https://ameblo.jp/hiho-haiko/entry-11581129491.html

奈良県十津川村の風景と廃校休校巡り(2014/10/26)

https://ameblo.jp/hiho-haiko/entry-11947198467.html

今回は、3年振りの訪問となります。

すでに訪れた学校跡も記載していますが、ご了解ください。

平家落人伝説の残る秘境であり、廃校の多い十津川村は、

小生にとって魅力の尽きない村の一つです。

 

五條市内から国道168号を南下、天辻(てんつじ)峠のトンネルを抜け

天誅組本陣遺跡の立て看板を目印に坂道を上がると小さな公園があります。

 

天誅組本陣跡の石碑

天誅組(てんちゅうぐみ)は、幕末に公卿中山忠光を主将に志士達で

構成された尊皇攘夷派の武装集団です。
大和国で挙兵し、交通の要地である天辻峠に本陣を構え激しい討幕運動を展開しましたが、

幕府軍の追討を受けて壊滅しました。

 

本陣跡は、維新歴史公園として五條市(旧大塔村)が整備しています。

 

天誅組より援軍を求められ十津川郷士を率いた野崎主計(かずえ)の辞世の句碑

政変により天誅組はすでに「賊徒」とされており、多くの十津川郷士は離脱。

責めが郷里におよばぬよう謝罪書を残し自刃しました。

 

公園の片隅に立つ石碑は、天辻小学校跡碑です。

校舎も何も残っておらず、石碑だけポツンと佇んでいました。

天辻(てんつじ)小学校(1977年休校、2004年廃校)

 

天辻峠に連なる山々

維新の先駆けとなった天誅組、この山中を駆け抜けて行ったのでしょうか。。

 

五條市大塔町を過ぎて吉野郡十津川村に入ります。

上野地地区で観光名所の谷瀬(たにぜ)の吊り橋に久しぶりに立ち寄りました。

 

手前は上野地、対岸は谷瀬地区です。

巨大なつり橋は、長さ297m、高さ54mあります。

 

当日は家族連れやカップルが訪れていました。

日本一と記されていますが、その後次々と近代的な吊り橋が建設されています。

・茨城県常陸太田市の竜神大吊橋(りゅうじんおおつりばし)

長さは375m、高さが100m 1994年4月に完成
歩行者専用の橋としては本州一の長さを誇ります。
・大分県九重町の九重“夢”大吊橋(ここのえ“ゆめ”おおつりはし)

長さ390m、高さ173m(水面より) 2006年10月完成
・静岡県三島市の箱根西麓・三島大吊橋(はこねせいろく・みしまおおつりばし)

長さ400m、高さ70.6m、2015年12月完成

 

20人以上渡ることはできないため、ゴールデンウィークやお盆等の

混雑時には一方通行規制となるそうです。

生活道路橋なので、地元の方や郵便配達員はバイクで通行できますが、

一般観光客は徒歩のみとなります。

 

網状のロープが張り巡らされていますが、空いた隙間に足が震えますね。。

 

橋上からの眺め

昔から十津川の洪水によって丸木橋が流されてきたため、

谷瀬の村人たちが大金を出し合って1954年(昭和29年)に

村の協力を得て建設したものです。

村人たちの多大な尽力によって完成した歴史や

集落を結ぶ生活道路橋としての素朴な佇まいは日本一と言えるでしょう。。

 

谷瀬の吊り橋から旧国道を下りた河原沿いの集落に

閉校となった校舎が残っています。

往時は小学校、中学校が併設されていました。

表札も確認できました。

 

約6年ぶりに立ち寄りましたが、校舎と体育館は残存していました。

 

赤と黒い屋根の棟が連結された校舎が中学校です。

正面玄関の近景

前回は八重桜が満開でしたが、今回はキンモクセイの芳香が漂っていました。

 

錆びた朝礼台

 

6年前(2011年5月)には鉄筋3階建ての小学校(2010年閉校)がありましたが、

解体されてしまったようです。

閉校時の全校児童は17名でした。

正面の茶色の建物は土木事務所の棟です。

 

往時の学校スローガンはバックネットに掛ったままです。

 

上野地(うえのじ)中学校(2012年閉校)

同村の小原・折立・西川中学校とともに十津川中学校への統合に伴い

閉校となりました。

今回は、小学校校舎が無くなったためか、校庭が以前よりも広く感じました。

中学校校舎は特に手入れもされていない様子ですが、

小学校同様に解体される運命なのでしょうか。

できれば残してもらいたいと思います。

 

国道168号をさらに南下し川津地区に入ります。

県道733号との分岐点の高台に校舎が残っています。

 

鉄筋2階建ての重厚な校舎です。

 

玄関の表札から、現在は公民館として使用されているようです。

 

小学校跡の石碑

 

梅田雲浜(うんびん)は、幕末の儒学者であり、若狭国小浜の出身で

維新の代表的な志士です。

十津川郷士の質実剛健な気質を知り、朝廷の護衛にあたらせよう考え、

野崎主計と交わり、尊皇攘夷を求める志士たちの先鋒となりましたが、

安政の大獄で処罰されました。

傍らには、川津生まれの野崎主計碑が立っています。

 

川津小学校(1964年閉校)

風屋ダム建設により水没したため、1959年(昭和34年)現在地に移転しましたが、
ダム建設で児童数が減り、二村小学校(2010年閉校)への統合に伴い閉校となりました。

閉校後、「川津ユースホステル」に転用されましたが、
1982(昭和57年)年に閉鎖、現在は、「川津公民館」として活用されています。

 

風屋ダムを過ぎてほどなく滝川に沿って脇道を進みます。

三叉路では、標識を見て内原(ないはら)方面に右折します。

 

山の斜面に家屋が並んだ集落が内原です。

中央に2階建て校舎らしき建物が見えます。

バイク1台がやっと通れるコンクリート橋を渡り対岸へ向かいます。
 

横から見るとローカル線の鉄道橋のようですね。。

 

滝川の清流は透明度が高く、底の石の色や形までハッキリ映し出しています。

 

近付いてきました。

校舎の確証はありませんが、半信半疑で歩を進めます。

 

かつて板張りだった外壁はすべて薄茶色のトタン張りになっています。

 

玄関ポーチは木造校舎によく見られる造りです。

建物の形状も校舎そのものですね。

 

柱の表札を確認してホッとしました。

正真正銘の小学校跡です。

年季の入った銘板にしっかりと校名が記されています。

現在は、内原公民館として使用されています。

 

敷地の一角に建つ小学校跡の石碑

寺跡も併記されています。

 

1873年(明治6年)お寺を廃した跡地に

1874年(明治7年)創立、1964年(昭和39年)に二村小学校への

統合により廃校となりました。

十津川郷にはかつて51の寺があったのだそうですが、村の有力者が

神道的思想に傾き、明治4年から6年にかけて すべての寺が廃寺となり、

跡地は田畑や集会所や学校などに変わったようです。

 

校地から撮った対岸の風景

さきほど通ったコンクリート橋や家屋が見えます。

長閑な光景ですね。。

 

内原(ないはら)小学校(1964年廃校)

国道から外れた小さな集落にあり、気づきにくい廃校です。

教育委員会の方に残存する廃校校舎を尋ねて教えていただきました。

できれば、トタン張りになる前の校舎を見たかったです。。

 

再び国道168号に戻り、風屋大橋を渡り南下します。

 

川沿いに建つ鉄筋校舎は2010年に閉校となった二村小学校です。

これまでも国道を走るたびに確認してきましたので、立ち寄らずに

先を急ぎます。

 

国道168号を引き続き南下し、村役場の手前の橋を渡ってすぐに左折し

山側へ上って行きます。

10分ほどで開けた場所に旧武蔵小学校の案内板と複数の棟が現れます。

 

奥に入ると、寄棟屋根の立派な校舎が建っています。

明治時代の建築様式は、1995年(平成7年)に村の有形文化財に

指定されています。

 

明治8年開校、1970年(昭和45年)統合により廃校となり、

1996年(平成8年)12月に「十津川村教育資料館」として開館しました。

 

風格のある正面玄関

屋根には「學」の文字が見えます。

 

こちらも廃寺となった跡地に開校したのでしょうか。

 

中に入ってみます。

尋常小學校時代の表札です。

 

学校の沿革

光明寺を校舎として創立したようです。

 

童謡のチューリップが壁に貼ってありますが、

1年生の教室だったのでしょう。

 

往時を復元した教室
全校児童は多い時は約80名を数えましたが、
学年の人数にすると少数のため、複式学級だったようです。
 

埃を被り白くなった地球儀とオルガン

 

「ダルマストーブ」は、明治から昭和中期まで使用されていました。

 

野長瀬正夫は、十津川村出身の児童文学作家です。

 

校歌も野長瀬正夫が書いたのですね。

 

1969年(昭和44年)の時間割表や児童数が貼ってあります。

在籍児童は男子21名、女子12名の計33名でした。

壁時計も往時使用していたものでしょう。

 

文久3年(1863年)朝廷から「菱(ひし)十(じゅう)」を賜り、

それが十津川郷の郷章となっています。

忠孝は十津川郷士の気質を表したものでしょう。

 

資料展示室には、数多くの教育機器や備品が置かれています。

 

廃校になった校舎の写真です。

往時の木造校舎は取り壊されて現存していないものが多く、

小生にとっては非常に興味深いものでした。

 

往時はほとんどが木造校舎でしたが、

モノクロ写真で見ると、よりノスタルジックな気分になりますね。。

 

武蔵小学校(1970年閉校)

現在は、十津川村教育資料館として活用されています。
興味のある方は是非お訪ねください。

開館日時:4月から11月までの 第2・第4日曜日
開館時間:AM10:00~PM4:00
入館料:無料

なお、十津川村役場の向かいの高台に歴史民俗資料館も

ありますので併せて訪れてみてはいかがでしょうか。