面積は奈良県の約1/5を占め、日本一広い村ですが、96%は山林です。
人口は3,674人です。 (2014年10月1日現在)
十津川は、奈良からも京都からも遠くはなれ、陸の孤島と言われるほど山深い、
厳しい環境の中にあるにもかかわらず、日本の歴史のさまざまな場面に
その名は見られます。
幕末には200名近くの十津川郷士が交替で京都御所の守衛をしていました。
文久3年(1863年)朝廷から「菱(ひし)十(じゅう)」を賜り、それが十津川郷の郷章となって、
今日の村章に、そして明治22年の水害で北海道へ移住した「新十津川町」の町章にもなっています。
十津川郷士は武士団として歴史も古く、古来より数々の国事にかかわってきました。
都から遠く離れた山間の地に安住しながらも、事が起これば国事に
尽くすという気慨は常に失われず、誇り高い十津川郷士の心は
現在も脈々と受け継がれています。
風屋大橋と風屋ダム
大阪から十津川村へは国道168号を南下するルートが一般的です。
十津川村は、2011年5月にも訪問しており記事に掲載していますが、
http://ameblo.jp/hiho-haiko/entry-11581129491.html
当時見れなかった廃校休校もあり、
久しぶりの訪問となりました。
風屋ダム湖は電源開発を目的として造られた重力式ダムです。
1960年(昭和35年)完成。 週末には多くのブラックバス釣り客が訪れるそうです。
当日の風屋ダムは水門が閉じられ川の水量も減っていました。
川の色は乳白色を含んだグリーンで神秘的な雰囲気でした。
2度目の訪問ですが、前回と特に変わった様子はありませんでした。
ベランダ付の重厚な鉄筋校舎と銀杏や楠の大木が、
静かに佇んでいます。
正面玄関や離れのコンクリートブロックには、往時のスローガンが
そのまま残っていました。
1991年度の在校生徒は28名でした。
風屋に隣接する山崎集落にあります。
国道168号を山崎トンネルの手前の脇道に入っていくと
高台の広場に平屋建ての木造校舎があります。
水色に塗られた奥の建物は、サッシに変えられ改装されています。
L字型に連結された手前の古い建物は、講堂だったようです。
草葉に埋もれそうな学校跡記念碑は、明治5年創立、昭和39年二村小学校へ
統合により廃校とありました。
創立から何度か建替えられたものと思われますが、
歴史のある学校だったのですね。
国道168号を南下し、十津川村役場を通過し
国道425号に入ります。
紀伊山地を横断する国道425号は、道幅も狭く
見通しの悪い酷道として有名です。
市街地より一足早く色づき始めていました。
下葛川集落
国道425号から分かれて、瀞峡方面へと下りて行く途中に
いくつか廃校が残っています。
平地が無く山の斜面に民家が雛壇のように並んでいます。
斜面に連なる下葛川集落の中に、校庭と校舎があります。
その一段上に講堂と給食室が渡り廊下で繋がっていました。
2011年にも訪問しましたが、当時は少年達が校庭で草野球を
して遊んでいました。
下見板張りの2階建木造校舎の外観は変わっていませんが、
人影も無く寂しい佇まいでした。
骨組みだけの錆びたバスケットボールスタンドが、
骸骨のように立っていました。
1991年度の在校生徒は8名でした。
下葛川集落を経て南下する途中、「大渡」バス停から右の小道に
入ります。一軒家の裏の枯れ木と落ち葉に埋もれた道を
奥に進むと石垣の上に古い校舎が見えました。
石段の傍に学校跡記念碑が立っています。
明治5年創立、昭和42年、葛川小学校に統合に伴い廃校とありますが、
さきほどの山崎小学校と同様に歴史があり、同様の運命を辿っています。
山林の中に埋もれんばかりに残っており、
昼間でも薄暗く湿気の多そうな場所です。
廃校後は、幼稚園として使用されていた形跡がありました。
広場には、錆びたブランコや滑り台が所狭しと並んでいました。
三県境
三重県、奈良県、和歌山県の県境にあたる場所です。
瀞八丁の景勝が目前に迫り、風光明媚な場所ですが、
当日は人影もなく閑散としていました。
ウォータージェット船が水しぶきを上げて峡谷を
駆け抜けていきました。
瀞八丁の崖の上にある、築100年以上の元旅館です。
大正6年「あづまや」として開業し、当初は山で切り出した材木で筏を組んで運ぶ
「筏師(いかだし)」のための宿でした。
昭和初期には「瀞ホテル」という名称となりましたが、当時は他の宿屋も多数あり、
宿泊地として賑わっていたとのことです。
しかし、戦後多くの宿屋は取り壊され、今では「瀞ホテル」だけが、
当時の筏宿の歴史をしっかりととどめているます。
現在は、「食堂・喫茶」として営業されているようです。
旧道を玉置神社方面に分かれ、田戸隊道(トンネル)を潜り
坂道を上っていくと山の中腹に点在する家屋が見えます。
山の斜面の段々畑や近くにみる青空から、
南信州の下栗集落を思い出しました。
集落の広場(空地)の奥に平屋の木造校舎が見えます。
まず、目に入るのが、大きなコンクリートの門柱です。
門柱の表札から、かつて中学校の分校も同敷地に
あったことが判ります。
入口から見た校舎の表側は改装されていますが、裏に回ると
窓の様式は往時の学校のまま残っていました。
現在は、民間所有されており、農機具の倉庫として利用されていました。
国道311号から小川口を木津呂集落に向う途中、
面白い光景を目にしました。
蛇行する北山川に、中洲にこんもりと孤島ができて
このような景色が現れます。
UFOのように見えるそうです。(木津呂HPより)
当日は時間の都合で登れませんでした。。
テレビで放映されてから、脚光を浴び
数十人単位で訪れるようになったそうです。
もちろん、目当ては巨大なUFOです。
木津呂は、三重県紀和町にある小さな山間集落です。
交通も不便で過疎化が進行しています。
平屋の木造校舎ですが、ガラス越しに中を覗いてみると
教室や廊下は綺麗に手入れされていました。
コミュニティの場として現在も使用されているようです。
その入口で見かけたものです。
言い得て妙ですね。
一度訪れたいスポットがあり、立ち寄りました。
七色地区を経て、真紅の柳本橋の手前を左折して細い道を
登って行きます。
この一枚を撮るために立ち寄ったのです。
有名なスポットです。
世界遺産 熊野古道(小辺路)
周囲は果無山脈が連なる山岳地帯です。
地名の由来は、果てし無い山々から来ているのでしょうね。。
都会よりずっと空が真近に見えます。
「天空の郷」と呼ばれる所以です。
吸い込まれるように尾根伝いの小道を進みます。
民家の庭先に古道が通っています。
壁に掛けられた笠や草鞋も心憎い演出です。
山の湧き水でしょうか。。
本宮へ向う途中に、往時の先達も喉を潤したことでしょう。
秋の風物詩ですね。
熊野古道の道標
向って奥を指す方角には、整備された道はありません。
急斜面に畦道のような険しい道しか見えませんでした。
幾多の足で踏み固められた石畳の道と
年季の入った石垣が続きます。
きっと桃源郷に相応しい光景が見られることでしょう。