奈良県野迫川村北部の廃校休校巡り(2017/09/03) | haiko-riderのブログ

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2010年春から現在まで、趣味で廃校休校巡りをしてます。
これまでに訪れた校舎や思い出を記事にしてます。
無分別な廃墟探索とは全く異なりますので、誤解無きように。

野迫川村(のせがわむら)は、奈良県南西部に位置し、
和歌山県と隣接し、古来より和歌山と交流の深い地域です。
奈良県のみならず、近畿地方の自治体の中で最も人口が少なく

410人ほどです。(推計人口、2017年10月1日)

また、面積の98%を急峻な森林が占め、「奈良県のチベット」と呼ばれています。

谷間の僅かばかりの平地に民家が集中しております。

夏は冷涼で避暑地に適していますが、冬は大変に寒冷で降雪や積雪も多い地域です。

かつて村内の各集落には学校が存在しておりましたが、

現在は小学校1校、中学校1校のみです。(野迫川小・中学校)

校舎を統合し、入学式や始業式、終業式なども一緒に行っているようです。

 

野迫川村は、2010年に訪問して以来、おおよそ7年振りの記事ですが、

その頃を懐かしく思い出しながらの廃校休校巡りとなりました。

奈良県野迫川村の廃校休校巡り(2010/08/29)

https://ameblo.jp/hiho-haiko/entry-11468371722.html

今回は、北部を主に廻りました。

 

国道168号を南下、大塔町から県道53号を進み五條市から吉野郡野迫川村に入ります。

ちょうどその境界付近に差し掛かると、大きな案内看板が目を引きます。

村外からの訪問者に好印象を与え、山深い自然に調和した立派な案内板です。

 

境界を越えた最初の集落が「今井」です。

集落の中は車道が通じていないため、車両を停めて

徒歩にて進みます。

石垣の高台に正門と校舎が見えます。

 

往時の正門ですが、表札は外されていました。

 

こじんまりとした平屋校舎は7年前と変わらず、ひっそりとした佇まいです。

 

玄関の近景

破風の格子や両引き戸は武家屋敷のような風格を感じますね。。

 

上部の小窓には、ストーブの煙突を通す穴があります。

冬場の厳しい寒さが想像できます。。

 

裏に廻ってみると赤いトタン屋根が大きく見えます。

表からは背後に隠れて確認できませんでしたが、黒っぽい建物が繋がっていました。

 

校舎裏の近景

さきほどの黒っぽく見えたのはトイレ棟でした。。

 

校舎の表側はサッシ窓に改修されていますが、

裏側は白い木枠の窓、下見板張りの壁のままです。

日陰で湿気が多いためか、劣化が進んでいました。

 

集落を見下ろす小高い丘に校庭があります。

地表はふわふわの雑草に覆われていて

歩くと心地よい自然のクッションです。

 

錆びたブランコの支柱

鎖や足掛け板は事故防止のため取り外されています。

 

今井小学校(1977年休校)

休校扱いのためか、取り壊されずに残っています。

朽ち果てるほどの損傷もみられず、屋根や窓など改修された跡がありました。

校庭も刈り込んだ跡があり、定期的に手入れされている様子です。

過疎少子化集落であることを考えると、

実質的には廃校と思われます。

地区の集会所として利用されていくことでしょう。。

 

県道53号をさらに進み、「中」地区の高台に上がると

立派な2階建て木造校舎が姿を現します。

いつ見てもノスタルジックで魅力ある校舎ですね。。

 

校庭を挟んだ反対側に立つのは体育館です。

鉄筋コンクリート造で使用感がありました。

新旧好対照ですね。。

電車と蒸気機関車が対峙しているみたいです。

 

引き寄せられるように近付いて行きます。

突き出した三角形の袖壁はライオンのタテガミのようで

木造校舎の迫力さえ感じます。

木造体育館によく見られますが、横からの力に耐えられるように

外壁を補強するための建築構造で「バットレス」と言います。

 

正面玄関の近景

 

「奥高野 自然の里」の表札は掛かっていますが、

人の気配も無く使用感はありませんでした。

 

窓越しに撮った館内

改修跡がありますが、かつて教室や廊下だった面影は残っています。

 

校舎裏の近景

板張りの壁をよく見ると、繋ぎ目に幾つも小さな穴が開いていました。

以前は気が付きませんでしたが、これも劣化現象でしょうか。。

 

野川中学校(1973年廃校)

閉校後、「奥高野 自然の里」という簡易宿泊施設として生まれ変わり、

テニスコートやグランドを完備、企業や家族連れ等に利用されていましたが

現在は運用されていないようです。

過疎高齢化の中で維持・管理するのは大変なことと思われます。

廃校活用する後継者が現れるか、さもなくば解体を待つのか

厳しい現状を改めて知りました。

 

旧野川中学校の裏から坂道を下りて行きます。

 

広い校庭に白亜の鉄筋校舎が周辺の緑に映えます。

 

正面玄関の近景

間口が広く重厚な造りです

 

玄関の傍らには二宮尊徳像が立っていますが、

足首から先は台座に埋まっていました。

 

正門に往時の表札が残っていました。

 

校舎の裏に校庭が広がっています。

では、さきほどの表側の緑の敷地は、何かの跡地だったのでしょうか。。

 

野川小学校(2004年閉校)

校舎も大きくかなり多くの児童がいたのだろうと思われるでしょうが、

1991年度の全校児童は僅か9名でした。

近隣地区の北股小学校とともに野迫川小学校への統合に伴い閉校となりました。

まだ新しい校舎ですから別の目的で活用されることを願います。

 

県道53号をさらに進みます。

山々の稜線が遠くまで連なる絶景を見ながら曲がりくねった道程です。

 

野迫川村は、紀伊山地の北斜面に位置し、雲海の景勝地として知られています。

急峻な谷間に集落が豆粒のように小さく見えます。

山深い野迫川村では一般的な光景です。

「奈良県のチベット」とは、むべなるかな。。

 

北股地区から県道733号を南下する途中、

脇道に入り立里荒神(たてりこうじん)方面に進みます。

 

立里方面は、左側の急坂を上がっていきます。

狭い道ですが、日本三大荒神の一つだけあって思った以上の交通量です。

路線バスも運行しています。(1日2便)

 

ホテル開雲荘(休業中)を過ぎると往来の車両も人も無くなって行きます。

幻想的な風景を眺めながら秘境の集落へと進みます。

 

一本道なので迷うことはないのですが、他の集落とは孤立した場所です。

先は行き止まりとなっており、当然ながら公共交通機関もなく秘境集落です。

廃屋も散見されますが、数戸ほど生活されている様子です。

ただ、人影もなく廃村のように静寂に包まれていました。

 

集落から少し下りた空地に平屋校舎の横顔が見えました。

軒下は石積みの階段になっていました。

 

こじんまりとした2棟が仲良く繋がっています。

 

左側の小屋のような建物は、教員住宅です。

僻地手当が支給されていたとは言え、隔絶した山奥の暮らしは大変だったと思います。

 

赤いトタン屋根の平屋木造校舎です。

色褪せた板張りの壁、木枠の窓が残っています。

 

正面玄関の近景

右の柱に表札がありますが、経年劣化のため判読できません。

恐らく「野迫川村立立里小学校」と書いてあったのでしょう。

 

トランペットスピーカーと化石のような丸いベル

昭和の時代に戻ったかのような気分になりました。

 

荒廃した校庭に残る古タイヤの遊具と破れたフェンス

 

年季の入った百葉箱

 

廊下は積もった埃で白っぽくなって長らく手入れもされていないようです。

 

壁には児童らの自画像等が貼ってありました。

 

教室の表示板は3学年がひとまとめになっています。

これは、複々式学級といって今では見られなくなった学級編成です。

過疎地では、異なる学年の児童が同じ教室で学ぶことが

ありましたが、せいぜい複式学級(2学年で1学級)までで、

複々式学級は珍しいと思います。

孤立した集落特有の事情があったのでしょうが、

下級生は上級生から学んだり、先生との距離も近い学び舎は、

寺子屋のような存在だったのでしょう。

 

職員室もありました。

廊下の奥の壁に数十枚の木札が掛っていますが、

校舎落成の際に教材用のテレビ、体育用具などを寄付した方々の

名前が書いてありました。

村人たちの教育に対する熱い思いが伝わってきます。

 

長い黒板には、廃校マニアが記念に書き残した日付が幾つか

ありました。

 

往時使用していたピアノが残っていました。

きっと最後の校歌を弾いたことでしょう。

 

いつ書かれたのか不明ですが、

数十年前に卒業した方の往時の懐しい思い出が

黒板に記されていました。

立里は江戸時代、幕府直営の鉱山があり、戦後まで賑わいをみせていましたが、

1962年(昭和37年)閉鎖に伴い衰退の一途を辿ります。

 

立里小学校(1982年休校)

1954年(昭和29年)に村人達が総出で完成した校舎です。

1960年(昭和35年)の立里集落は34戸、222名の人口を有し、

児童も37名いましたが、人口流出に歯止めがかからず

休校となってしまいました。

実質的には廃校と言える状況です。

 

立里から先は行き止まりのため、一旦引き返して県道734号を

五條市大塔町方面へ進みます。

県道734号は道幅も狭くカーブの多い悪路です。

少し開けた集落に差し掛かると、沿道に案内板が立っていました。

 

沿道から見える、こじんまりとした木造校舎は前回も訪れました。

 

外壁等は傷んだ様子はなく比較的新しい校舎です。

かつて小学校の施設でへき地集会所だったようです。

へき地集会所とは、体育や音楽等の学校教育、社会教育に

用いる施設のことです。

 

実は、その先に主校舎があったことを知りました。

鬱蒼と茂る木々の奥に校舎らしき建物が見えます。

 

校舎へ続く階段は、木陰の湿気で苔や雑草が蔓延っています。

階段の袂には墓石のような門柱が立っていました。

 

階段を上った草むらの奥に廃墟と化した校舎がひっそりと

隠れるように横たわっています。

このような廃校舎は不気味な感じがしますね。。

 

割れた窓ガラスや変色した外壁を見ると、湿気の多い場所では

劣化の進行も速いことが分かります。

突き出したストーブの煙突が冬場の厳しさを物語っています。

 

廊下に建築資材が置かれていましたが、

構内は意外としっかりしていました。

 

児童達の描いた集落の風景画が展示してありました。

 

端的な標語と時間割表

 

児童達の掲げた目標が紙面一杯に書いてあります。

最後の児童は3名だったようですね。。

 

山深い学び舎では、みんな歌っていたであろう「山の子の歌」

 

右のカレンダーは1968年ですが、休校年よりずっと前のものです。

取り替えずに貼ってあるのは、風景写真を残すためでしょうか。。

 

壁に掲示してあったダム管理所からの感謝状

近隣の猿谷ダムは池津川下流にあり、上流域に位置する校地での

雨量観測がダム管理に大きく貢献したそうです。

 

池津川小学校(1979年休校)

荒廃した外観は廃校マニア好みかも知れません。

1960年(昭和35年)の池津川集落は、72戸、295名の人口を有し、

児童は43名いましたが、過疎少子化により休校(実質的には廃校)と

なっています。

 

次に向かったのは、廃村となった中津川集落です。

県道734号から林道へ左折して進みますが、行止りの案内と

落石注意の看板に秘境感が漂います。。

林道は枯れ葉と石ころが混じった悪路です。

ほとんど車や人が入らないようですので注意が必要です。。

 

明瞭な集落案内板がポツンと立っています。

空地と山林を隔てる石積みの擁壁はジグザグ模様に組み合わせて

長く続いており、かつて集落があったことを想起させます。

 

木造倉庫のような建物が廃校跡です。

電柱がありますが、無住集落です。

 

反対側から撮った校舎

往時の校庭は確認できませんが、さきほどの空地だったのでしょうか。。

校舎前は林道が続くだけです。

 

壁の隙間から見えた古い電圧計と

1968年(昭和43年)3月25日発行の学校要覧。

 

林道は続いていましたが、廃屋ばかりでしたので

引き返しました。

中津川小学校(1969年休校、1997年廃校)

野迫川村にかつて存在した小学校で最も高地にあった学校です。

中津川集落では、農業と兼業で杉やヒノキを使った箸作りや

寒冷地の特性を生かした高野豆腐の製造が行われていましたが、

水害や鉱山の閉鎖、後継者となるべき若者の流出により

急速に衰退していきました。

1960年(昭和35年)の中津川集落は、112戸、496名の住民を有し、

児童は62名いましたが、1968年には児童5名、1969年には0名となり

集落も廃村となってしまいました。