全国の城郭建造物「御殿(居館)シリーズ」は、現在番外編として、天下人となった三大英傑の内、二大英傑(秀吉、家康)が居城としていた「伏見城」(京都府京都市伏見区)の「御殿」の紹介をしています。
以前にも記載したことがありますが、「伏見城」と呼ばれているモノは3城ありました。
まず「秀吉」が築城した初代の伏見城は「指月(しげつ)城」と言われ1596年に地震で倒壊したものの、「指月城」で使える櫓や門などを移築して、早くも 1597年に近くの「木幡(こはた)」に二代目の「伏見城(木幡(こはた)城)」を完成させました。
そして1598年に「秀吉」がこの城で逝去し、「徳川家康」が京都における拠点として入城しました。
しかし、1600年に勃発した「関ケ原の合戦」の前哨戦で西軍に攻められて、城を死守していた「家康」の家臣「鳥居元忠」らは壮絶な戦いの末に落城しましたが、戦後直ぐに「家康」は再建を急がせて1601年には焼失を免れた「西の丸」へ入城し、更に1603年3月に完成した「伏見城」では、2月に「征夷大将軍」の宣旨を朝廷から受け取っています。
その後暫くの間は、「京」での「徳川家」の拠点としていましたが、1623年に廃城として、その後は城内にあった城郭建造物は各方面に移築されたりしています。
そして、移築先のお城で「伏見櫓」と名が付く「櫓」が残っていたり、建物は焼失しても櫓台が残ったりしているのは良く知られていますよね~
※「福山城 伏見櫓」「江戸城 伏見櫓」、「大坂城 伏見櫓」台、「岸和田城 伏見櫓」台
それは「櫓」だけでなく、「門」「御殿」「茶室」「能舞台」等も各所へ移築されて再利用されていますね。
「秀吉」が築城した「指月城」「木幡城」、「家康」が再建した「伏見(木幡)城」は、地震で倒壊したり、戦いの場(関ヶ原の合戦前夜)で焼失したりしましたが、全てが倒壊したり焼失したりはしていないので、中には、家臣に下賜された建物やその部材もあったようです。
天下人から下賜された城郭建造物として多いのが「御殿」だったようです。「御殿」は多くの建物が繋がって建っていますのでその一部分を解体して、他のお城で再利用したり、お城だけでなく菩提寺であるお寺や先祖や城主を祀る神社へ再移築したり、或いは部材を利用してそれらに新たな形の建物を建造したりしたモノも多く残っているようです。
藩主が、領地に帰って天下人から下賜されたコトを藩士や領民に触れ回ることで権威を誇ることが出来たのではないでしょうか。
ということで、HP等で建物の由来の説明書きが書かれている中で、「伝伏見城」建造物と言伝えられているモノが多く見られます。本当に「伏見城」からの移築物或いは部材を使用した建造物かどうかは定かではありませんが、そのような言い伝えがあるということはある程度貴重な情報であり、尊重したらいいのではないかと思います。そして何といってもお城ファンとしては夢が膨らみワクワクしますよね!
従って、今回「伏見城御殿」については、根拠の有無は別にして「伝伏見城」のモノも採り上げています。
本日は、「伏見城 御殿」(神応寺書院-京都府八幡市)をお届けします。
「神応寺(じんのうじ)」は、男山に「石清水八幡宮」を勧請した「行教律師」が、860年に創建したお寺で、当お寺には重文「行教律師座像」や「豊臣秀吉衣冠束帯像」が安置されています。
「書院」が「伏見城」からの移築建造物で、襖や杉戸には「狩野山雪」筆による「竹に虎、御所車」などが描かれています。
また「本堂」の天井は「伏見城」から移された天井板を使用した「血天井」になっているそうですが、私は残念ながら確認していません。
「神応寺書院」 ↓
「神応寺書院」(左に「本堂」が見える) ↓
「神応寺」(書院と本堂) ↓
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