大河ドラマ「どうする家康」の総集編ということで「”家康”のでき事と所縁ある”お城”を振り返ろう」シリーズを只今進行中。途中何度かの中断があり2024年に突入していますが、引続き最後まで完結したいと思いますので、「家康ファン」「どうする家康ファン」「戦国時代ファン」の方は暫くお付き合いください。
<「家康」等の出来事>
前回の「津城」に引続き、「家康」は城郭づくりに手腕を発揮していた「藤堂高虎」に、「伊賀上野城」の強化を命じて修築をさせました。
またこの時期(1610年)には、「名古屋城」の建築を開始を始めて1612年に完成させています。こちらは、「徳川家」の本拠地である東海から江戸にかけての防衛、ここで抑えるという強い意志を持った巨城の築城でした。
このように自領である「東海」から「関八州」に対する抑えを万全にするとともに、「大坂方」に対するプレッシャーと睨みを効かせて、「豊臣家」との戦いに備える城郭配置を着々と進めたのでした。
今回はその最大の居城である「名古屋城(後編)」(名古屋市中区)をお届けします。
「名古屋城」の位置↓
『対豊臣大坂城を意識して天下普請で築城された「名古屋城(後編)」(名古屋市中区)』
「名古屋城(前編)」はこちらからご覧ください↓
それでは、「本丸御殿」の中を見ていきましょう。
「本丸御殿 内部平面図」↓
「御殿」の一般入口は「中の口部屋」で、傘、靴、リュックを預けて復元「玄関」に進みます。
ここから各部屋に描かれている「襖絵」や「床の間」の絵は、「狩野貞信」や「狩野探幽」などの「狩野派」が描いたものです。太平洋戦争に入り、外せるところは外して別の場所へ疎開させていたそうです。
全部で1047面あるそうで、重要文化財に指定されています。復元各間の襖絵や床の間に描かれている障壁絵は、顔料や材質を科学的に分析して、江戸時代の絵師が採り入れていた伝統的な画法を用いて緻密に再現したそうです。
「玄関」の間は、「一之間」と「二之間」に分かれていて、来訪者を威圧するような勇猛な「虎」と「豹」が描かれています。こちらは、正規の来客がまずは通される場所で、ここで来客は待機しました。
玄関二之間 (虎と豹)↓
玄関一之間の床の間と違い棚↓
「表書院」は「大広間」とも言い、その役割は来客や家臣と対面する部屋です。一之間、二之間、三之間、上段之間が並んでいます。
特に「上段之間」には、左から「付け書院」「床の間」「違い棚」「帳台構え」となっていて、「帳台構え」の奥は「納戸之間」となっています。
「上段之間」の天井は「折上げ小組格天井」がしつらわれ、その廻りには天井絵が嵌め込まれるなど、豪華さが際立ちます。
「表書院」の襖や壁に描かれているのは「花・鳥・麝香猫(じゃこうねこ)」等が描かれて、美しさが目立ちます。
それでは、一之間から順番に上段之間まで見ていきます。
表書院三之間↓
表書院二之間 西襖↓
表書院二之間 東襖↓
表書院一之間から上段之間を臨む↓
表書院上段之間の付書院と床の間)↓
表書院上段之間の違い棚と帳台構え↓
復元本丸御殿 (表書院上段之間の折上げ小組格天井)↓
表書院西側前廊下↓
「対面所」の役割は、藩主とその家族との私的な対面、家臣との私的な対面、更には宴席をする場所として使用されました。
壁や襖絵には、「上段之間」は、四季の京都の風物と名所、「次之間」は和歌山の風物と名所が描かれています。ほぼ生活の場として使用されていたので、落ち着いた四季が描かれています。
対面所を彩る絵画の解説(上段之間は京都名所、次の間は和歌山の名所)↓
対面所次之間床の間(壁・襖絵は和歌山を描く)↓
対面所次之間襖絵 (壁・襖絵は和歌山を描く)↓
対面所上段之間(左から床、違い棚、帳台構えで襖絵は京都の名所が描かれる)↓
対面所上段之間 (床の間と違い棚)↓
対面所上段之間違い棚と帳台構え (京都の名所)↓
「鷺之廊下」は、「対面所」と「上洛殿」とを繋ぐ廊下で、壁には「鷺」の絵が描かれています。また、その北側は「梅之間」になっています。
「梅之間」は、「上洛殿」と「対面所」の間にある北側の部屋で、将軍のお世話をする尾張藩上級家臣の控えの部屋でした。
上洛殿と対面所を結ぶ鷺之廊下↓
「上台所」とは、将軍用の食事を作る建物ですが、現在の中は土産物販売場として使用されています。
「下御膳所」の役割は、藩主等が食事を執る際に、食事の温めや配膳をした場所です。囲炉裏や天井には煙出しがあります。
「上御膳所」はより格式が高い配膳や温めをする場所で、御膳間、上之間、上段之間がありました。
下御膳所↓
「上洛殿」は、1634年の三代将軍「徳川家光」の上洛に併せて増築しました。「上洛殿」の構成は、「三之間」「二之間」「一之間」と並び、「一之間」の北側には「将軍」が坐する為に一段高くなっている「上段之間」を備え、その右手には「納戸之間」「松之間」が続きます。
上洛殿(南側の廊下突き当りの欄間彫刻)↓
上洛殿 (二之間と右に三之間) ↓
上洛殿 (手前から三之間、二之間、一之間)↓
上洛殿 (一之間から上段の間を見る)↓
上洛殿 (上段之間で襖絵は「帝冠図」は狩野探幽作)↓
上洛殿 (上段之間の帳台構え)↓
「襖絵」や「天井板絵」、「欄間彫刻」や「飾金具」は、どれを取っても細部まで豪華絢爛で、贅の限りを尽くしています。「上段之間」に描かれた「帝冠図」や「雪中梅竹鳥図」は、「狩野探幽」によって描かれました。
本丸御殿上洛殿 (一之間の天井)↓
本丸御殿上洛殿(上段之間の折り上げ格天井)↓
上洛殿の襖の取っ手↓
上洛殿の釘隠し↓
「湯殿書院」と「黒木書院」へは、「上洛殿」と廊下によって繋がっていますが、見学の際は、一旦スタート場所であった「中之口部屋」へ戻り外へ出て、「車寄」「玄関」前を通り「表書院」「対面所」「上洛殿」の建物が建つ南側を歩いて、「湯殿書院」の南正面に向かいます。
「湯殿書院」の役割は、「上洛殿」の役割と同様で「家光」上洛時に造られたモノです。中は、「一之間」「二之間」及び「上段之間」、「湯殿」で構成されています。
「湯殿」は、将軍専用の風呂場で、表には唐破風を施した湯殿入口から中に入りますが、湯船はなく「サウナ式蒸し風呂」でした。そして「将軍」が風呂上りに涼み休息をとる部屋が「上段之間」でした。
湯殿書院(唐破風が付く湯殿、蒸し風呂形式)↓
御殿湯殿書院(古写真)↓
湯殿書院(上段之間)↓
将軍が使用したのは、「家光」の上洛時だけで、幕末まで将軍が上洛することなく、14代将軍「家茂(いえもち)」や15代将軍「慶喜」は、この風呂の使用はなかったようですので、約250年間で「湯殿書院」は数回のみしか利用されなかったようです。
「黒木書院」の役割は、こちらも「家光」が上洛の際に建てられた書院で、上洛時の寝室に使用されたようです。この書院のみ良質な松材が用いられ、松の色が黒色していたので「黒木」と命名されたそうです。またこの書院は、「清須(洲)城」(愛知県清須市)内の「家康」の宿舎が移築されたモノとの伝説があります。
「黒木書院」の襖絵は、風格のある水墨画が描かれていて、将軍の寝室として落ち着いた格式高いデザインになっていました。二条城でもそうですが、将軍の居間「白書院」内部の襖絵は水墨画ですので、煌びやかな中で寝るのは、寝心地がわるかったのでしょうか。
黒木書院(奥から一之間、二之間)↓
以上復元された「本丸御殿」内部を見てきました。「本丸」から「二の丸」にかけてまだ紹介していない「門」や櫓台や石垣跡の遺構が沢山ありますので、紹介していきます。
<本丸跡の各種門、馬出>
まず、「本丸」入口には、「本丸表ニ之門」が埋門形式で高麗門が現存して重文に指定されています。ここの門は右に屈折する枡形を形成していましたので、これの対となる「本丸表一之門」は戦争で焼却してしまった櫓門でしたが、現在は櫓台だけが残ります。
因みに、「名古屋城」の場合の門の番号の振り方は、天守に近い方から「一之門」と呼び、外側を「二之門」と呼びますが、多くのお城は逆の呼び方をして「一之門」は外側の高麗門形式の門を呼ぶ場合が多いです。
「城内案内図」↓
本丸表二之門(重文、高麗門)表から↓
本丸表二之門(重文、高麗門)内側から↓
本丸表一之門 櫓門の石垣↓
「本丸」東側の「本丸東二之門」跡へは、現在「二之丸東門二之門鉄門」が移築されています。こちらも現存で重文に指定されている高麗門形式の門です。
「二之丸」からこの門を入った正面には「清正(せいしょう)石」が「鏡石」の役割を果たしています。「名古屋城」普請の際には、自らがこの石の上に乗って、石運びを鼓舞したと伝わっていて、その様子の銅像が、「東南隅櫓」南の本丸馬出し跡手前に立っています。
本丸東二之門跡へ移築された二之丸東門二之門 (重文、鉄門、高麗門)内側から↓
本丸東二之門跡へ移築された二之丸東門二之門 (重文、鉄門、高麗門)表から↓
「清正(せいしょう)石」が「鏡石」↓
「加藤清正」像↓
「本丸」の天守下の北側の「御深井丸(おふけまる)」に繋がる出入口には「不明(あかず)門」が戦前までありました。天守の火災と共に焼失してしまいましたが、現在は復元されています。
この門の特徴は、白壁と石垣を繰り抜いて造られた「埋門形式」で、庇を付けるとともに、剣の穂先を並べた剣塀が両脇に続きます。
復元不明門(本丸側から、本丸と御深井丸を繋ぐ門、昭和53年復元)↓
復元不明門 (剣の穂先を並べた剣塀が両脇に続く)御深井丸側から↓
「名古屋城」には、大きな「角馬出し」が北側を除く東西南に配備されていました。
「馬出し」というのは、「本丸」等の「門」前に張り出した土地を設けて、そこにも周囲を土塁や土塀で囲み、万一そこまで攻め入ってきた時には、そこで敵を攻撃できるように武士を待機させる為に使用されました。戦国時代には、武田家は「丸馬出」を、北条家は「角馬出」を多用したお城を築きました。
現在の「名古屋城」の「本丸馬出」は、東側が堀が切り込んで内側に入り込んで両側に石垣が築かれていることを見ることができます。一方、西側は埋め立てられています。
大手馬出し石垣(右側)と二之丸石垣に挟まれた鵜の首↓
<二之丸跡の各種門、二の丸御殿跡、その他>
続いて「二之丸」跡を見ていきますが、こちらにも色々と遺構が見られます。現存の建造物は高麗形式の「二之丸大手二之門」で重文に指定されています。当門も枡形になっていますが、櫓門であった「二之丸大手一之門」は失っています。
二之丸大手二之門(重文)表から↓
二之丸大手二之門(重文)内側から↓
「本丸」跡周囲を取り巻く「内堀」東側と「外堀」東側の間に挟まれた「二之丸」跡の見所を見ていきます。
まず、「本丸搦手馬出」跡と「二之丸」跡の間にある埋門跡(藩主が緊急時に逃げる通路の入口)で、垂直の階段を下り濠を渡り「御深井丸」から勝川、定光寺経由で木曽へ逃れる為の通路となっています。
藩主が緊急時に逃げる通路の入口である埋門跡↓
「二之丸」には、「二之丸御殿」が大半のスペースを使って建っていました。主に、「将軍」用の「本丸御殿」とは違い、江戸時代通じて「藩主」やその家族の居住場所であり、「藩」の政務を執り行う場所であったので多くの事務方の藩士が詰める部屋がありました。また、来客や藩主・その家族の寛ぎの場所として造営された「二之丸庭園」や二か所の「能舞台」が置かれました。
現在は、その跡に「名勝二之丸庭園」「二之丸東庭園」「二之丸茶亭」として市民に開放されています。
また、「二之丸御殿」北御庭を守る東西に長い「南蛮たたきで固めた練塀」が一部残り○の狭間が付いた「練塀」です。
二之丸御殿の絵図↓
二之丸御殿跡と二之丸庭園↓
二之丸御殿北御庭を守る東西長い南蛮たたきで固めた練塀↓
その他「二之丸」跡には、1868年に、京都で大政奉還後の政治的処理を行っていた14代藩主「徳川慶勝」が勅命を受けて帰国した直後に、藩内の佐幕派に対する弾圧命令を出して三家老を含めて14名が斬首された「青松葉事件」の「青松葉事件の遺跡碑」が立ちます。
青松葉事件の遺跡碑
「織田信長」が、最初にお城を与えられたのが「那古屋城」で、「二の丸」跡付近にあったそうで、その「那古屋城跡」碑も立ちます。
那古屋城跡碑
二之丸東門跡の枡形と櫓門櫓台跡石垣↓
二之丸東門跡の枡形と櫓門櫓台跡石垣↓
二之丸東面石垣と空堀(東門から南方向)↓
<西の丸>
「西之丸」は、「御深井丸」の南側で、「本丸」跡から「中堀」越しに位置する西側の細い敷地です。
「西の丸」跡にも、切り込んだ「堀」が「本丸」側に入り込んでいる「鵜の首(うのくび)」と呼ばれている「馬出し」の遺構を見ることができます。
西の丸の鵜の首(天守から)↓
西の丸の鵜の首(「馬出し」周囲の堀部分)↓
「榎多門(えのきだもん)」跡に建つ名古屋公園正門(昭和34年に再築)↓
<三の丸>
「三の丸」は、「中堀」と「外堀」の間を占めていて外郭と言われる所です。
現在の「三の丸」跡は、主に官庁街や図書館などの行政文化施設が建っていますが、その周囲には「外堀」が取り巻き、手前「三の丸」側沿いには「土塁」が築かれていたのでその跡が見られます。
また、所々には、「外郭」の立派な「門」跡の石垣が見られます。
愛知県図書館内の土塁↓
御園門跡石垣(愛知県図書館の南側)↓
巾下門跡石垣↓
三之丸西南端土塁
三之丸東御門跡(市役所東から)↓
三之丸東御門跡南側の三之丸堀↓
三之丸東御門跡北側の土塁は犬走りを伴う、三之丸堀↓
以上「名古屋城」ですが、現在でも広範囲に市街地に残るお城の遺構が見られます。
このことからも分かるように、非常に広大なお城を造り、東海~関八州までの東方面の守りを強固とするとともに、徳川時代が到来したことをお城によってアピールを行い、対「豊臣氏」との戦いを有利に進める戦法をとりました。
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