大河ドラマ「どうする家康」の総集編ということで「”家康”のでき事と所縁ある”お城”を振り返ろう」シリーズを只今進行中。途中何度かの中断があり2024年に突入していますが、引続き最後まで完結したいと思いますので、「家康ファン」「どうする家康ファン」「戦国時代ファン」の方は暫くお付き合いください。

 

「家康」等の出来事

前回の「津城」に引続き、「家康」は城郭づくりに手腕を発揮していた「藤堂高虎」に、「伊賀上野城」の強化を命じて修築をさせました。

 

またこの時期(1610年)には、「名古屋城」の建築を開始を始めて1612年に完成させています。こちらは、「徳川家」の本拠地である東海から江戸にかけての防衛、ここで抑えるという強い意志を持った巨城の築城でした。

 

このように自領である「東海」から「関八州」に対する抑えを万全にするとともに、「大坂方」に対するプレッシャーと睨みを効かせて、「豊臣家」との戦いに備える城郭配置を着々と進めたのでした。 

 

今回はその最大の居城である「名古屋城(前編)」(名古屋市中区)をお届けします。

 

 

 

「名古屋城」の位置↓

 

『対豊臣大坂城を意識して天下普請で築城された「名古屋城(前編)」(名古屋市中区)』

 

「名古屋城」の城主と歴史

 「徳川家康」が「徳川家」存続の為に「御三家」を設けます。その一つとなった「尾張藩」には、当時まだ「豊臣方」が「大坂城」で健在だったことから、「家康」が天下普請で「名古屋城」を1610年に築城させて1612年に完成し、「家康」の九男「徳川義直」を入城させます。

 

当時の「徳川」対「豊臣」バランスから、「名古屋」から以東の徳川領土を如何に防衛するか、徳川の力を如何に見せつけるかに主眼が置かれた為に、堅固で立派なお城が造られました。

 

その後7代尾張藩主だった「徳川宗春」は、当時の江戸幕府八代将軍「徳川吉宗」の「質素倹約政策」「財政緊縮策」に対抗して、当時の日本では唯一、今でいう「規制緩和策」や「経済拡大策」を採った藩主だったとのことです。この中央への対抗思想が、今の名古屋には受け継がれているのかもしれません。

 

幕末時に、14代と17代の藩主なった「徳川慶勝(よしかつ)」は「尾張藩」の支藩だった「高須藩」からの養子ですが、幕政にも参加して「井伊直弼」に対抗しましたが、「安政の大獄」で隠居謹慎を命じられます。

 

「井伊直弼」が「桜田門外の変」で暗殺された後は上洛して14代将軍の補佐を命じられるとともに「尾張藩」の実権を握り、徳川家にも拘らず藩内の「佐幕派」に圧力をかけて「新政府軍」に参加します。

 

縄張り

縄張りは堅固で、北側の沼地を背中にして、「本丸」を中心に、「西之丸」「御深井丸」「二之丸」が取り巻き、更にその南東から南側にかけて「三之丸」が取り囲む所謂、「梯郭式縄張り」でありました。そして、その周辺には「総構え」が拡がる鉄壁な守りとなっていました。

 

現在の縄張りがわかる絵図案内↓

 

名古屋城の概要

太平洋戦争で、日本最大級であった「天守」と「小天守」を始め、最大規模の「本丸御殿」までも焼失してしまいますが、幸いなことに御殿内の障壁画や天井絵約各300枚は避難していて残りました。

 

 1612年に完成した「名古屋城」の「天守」は城下全体の規模は勿論のこと、「大天守」は当時としては「江戸城」「大坂城」に次ぐほどの大きさで、当時の「対豊臣家・豊臣恩顧の大名」との戦いで徳川の本拠地である後背の東海~江戸・関八州にかけてを守備する最大の砦として築かれました。

 

1657年の大火による「江戸城天守」焼失と1665年の大火による「大坂城天守」焼失後は、約280年もの間、日本NO1の大きさと、屋根上の「金の鯱」とともに日本全国一番のお城を誇っていました。

 

因みに「大天守」の屋根に付ける「鯱」は、名古屋城は「金の鯱」でした。木製の芯の表面に黄金の板を張り付け、それに金の鱗を取り付けて制作し、215㎏の金を使用したそうです。純度が80%ですので、現在1gが約10,600円だとざっと18.2億円位でしょうか。

 

石膏模型の「金の鯱」(「天守」が開館時に地階に展示)↓

 

国宝にも指定されていた「天守群」や「本丸御殿」、その他多くの「櫓」と「門」が、太平洋戦争による爆弾投下で焼失してしまいました。

 

天守・小天守

「天守」は、連結式層塔型天守で、地下1階地上五重五階の大天守です。「天守台」は19.5mで建屋は36.1mで合計55,6mになります。

 

江戸時代通期で現存した「天守」の中では最大の規模で、柱数・窓数・破風数・最上階規模・総高さ等14項目で日本一、内部の畳数は大京間畳1759畳もあったそうです。

 

屋根は当初、最上階のみ銅瓦葺でしたが1755年の大工事の際に2重目以上は軽量の銅瓦葺きとなっていますので、緑色をしています。地階には「黄金水」と呼ばれる「井戸」を設けていました。

 

開館時に地下1階の復元黄金水の井戸枠↓

 

現在建っている「天守」は、昭和34年にコンクリート造りによる外観復元ですが、老朽化に伴い木造による建て替え復元工事に向けた色々な調査が進んでいます。当初の予定では2020年6月に工事が開催され、2022年12月の完成を目標に約500億円の費用をかける予定のようでしたが、バリアフリーの問題や石垣の耐震問題等が解決されていなかったので、完成は後ずれする模様ですし、最近の諸資材高騰で費用も増大することでしょう。

 

取り壊しを待つ外観復元コンクリート造りの「大天守」(東面)↓

外観復元の「大天守」(南西より)↓

古写真(奥より大天守、小天守、本丸御殿)↓

右から「大天守」「小天守」「本丸御殿」(手前左から「下御膳所」「孔雀之間」)↓

「大天守」を見上げる↓

開館時の「天守」入口の石垣↓

 

「大天守」と「小天守」は天井が無い「橋台(きょうだい)」と呼ばれる通路で繋がっていますが「連結式天守」です。これは、「多門櫓」にすることで延焼になる可能性があるので、それを防ぐことにあります。ただ、両壁の軒下をよく見ると、剣が並んでいる「剣塀」となっていて、外部からの防御は固いです。

 

「渡り廊下(橋台)」から見上げる復元「大天守」、以下の写真はいずれも開館時のモノ↓

「大天守」と「橋台」↓

「橋台」の外側には剣が並ぶ「剣塀」↓

「大天守」と「小天守」(「本丸御殿」復元前の写真)↓

巨大な復元「小天守」(二層二階地下一階)↓

外観復元の「小天守」、「橋台」で「大天守」と連結↓

 

江戸時代初め天下普請で建てられた「名古屋城」は、まだ「大坂城」に在城していた「豊臣秀頼」との一戦に備えて、西側にも「小天守」を繋げる計画があったようです。これは、1615年に「大坂夏の陣」で「豊臣方」が滅びたので、その工事は中断されましたが、その形跡を現在でも目にすることができます。

 

 天守台(西側)石垣に残る西小天守用通路跡(縦に2本の筋が見える)

 

本丸櫓群

更に「本丸」には、二重三階の大きな「隅櫓」が三基建ち並んでいました。

 

 「名古屋城」本丸には、現在「西南隅櫓(坤櫓)」と「東南隅櫓(巽櫓)」が建ちます。建築時期は1612年頃で、いずれも重要文化財に指定されています。ただ、「西南隅櫓」は明治24年の濃尾大地震による石垣の崩落で櫓自身も倒壊しましたが、新旧の部材で再築されています。「北東隅櫓」は現在、石垣が残っているだけです。

 

両隅櫓ともに、二重三階で、南側一層の破風が異なる他は、ほぼ同じ形で同じ大きさです。一重目は二階建てになっていて、二重目が最上階となります。この隅櫓には多聞櫓が続き、「本丸」の防備は鉄壁でした。

 

両櫓の破風の違いは、「西南隅櫓」は、「千鳥破風」と「軒唐破風」を重ねたより格式が高い「重破風(かさねはふ)」を採用していますが、「東南隅櫓」は「切妻破風」を採用しています。

 

大きさは、東西11.8m×南北13.5m、高さ14.1mもあり、床面積は約50坪にも及ぶ、巨大櫓です。

 

南東隅櫓(重文、二重三階、南から)↓

南東隅櫓(東面)↓

西南隅櫓と天守の間も多聞櫓(古写真、隅櫓の解説に掲出の写真)↓

西南隅櫓(南面に「重破風」が見える)↓

 

室内は、板張りの質素な造りで全く豪華さはありません。中心部分は「身舎(もや)」になっていて、それを「武者走り」で取り囲んでいます。二階から三階に上がる階段は、踊り場を設けて屈折させています。窓が多いので、光の差し込みがあり割と明るいです。 

 

西南隅櫓内(1階身舎、入口方向)↓

西南隅櫓内(2階武者走りの天井)↓

西南隅櫓内(3階武者走りの天井)↓

西南隅櫓内(3階身舎と武者走り)↓

 

西南隅櫓の三階には「御窓台」が保管されています。これは、「天守」5階の四隅に置かれていたもので、城主がこれに上り遠くを見る時に使用した台らしいです。

 

西南隅櫓内(天守5階にあった「御窓台」を3階に保管)↓

 

御深井丸

「本丸」の北西には、「御深井丸(おふけまる)」という曲輪が在りました。本丸からは「不明門(あかずもん)」で繋がります。門の写真は後ほど出てきます。

 

北西端には、三重三階の「北西隅櫓」が建ちますが、先ほど来の隅櫓とは違う形式です。「清洲城」の天守を移築したものと言われて「清洲三階櫓」とも呼ばれています。

 

また、「本丸」の北東隅には、二重三階の「北東隅櫓」があって、「本丸搦手馬出し」との出入りであった「本丸東門」を監視する目的がありましたが、太平洋戦争で焼失してしまい、現在は櫓台が残るだけになっています。

 

北西隅櫓(清洲櫓、重文)↓

本丸北東隅の櫓門石垣(本丸搦手馬出出入口)↓

 

本丸御殿(外観)

太平洋戦争によって焼失してしまった「本丸御殿」は、木造による完全復元に向けて、平成21年から順次復元工事が始まり、第一期に「玄関」「表書院」等が、第二期では「対面所」「下御膳所」等が、第三期では「上洛殿」「湯殿書院」「黒木書院」「上御膳立所」等が完成して2019年6月にグランドオープンしました。

 

復元「本丸御殿」図

 

「本丸御殿」について少し解説しておきます。

 

戦国時代には、お城は自分の領地を脅かす敵に対する防御の為や、逆に攻め入る為の拠点として築城されていましたが、戦国時代末期から安土桃山時代にかけて、お城を中心に家臣を始め民衆や商人をお城内(城下)に集め、城主又は領主は彼らを統治するようになり「城主」は「居館」を設けてそこに居住するようになります。

 

更に、江戸時代も1615年の「大坂の陣」以降は殆ど平和な時代が続くようになりますと、お城は戦闘による防御施設から、民衆や商人達の平和のシンボルになり、城主(藩主)は、政治・行政等を家臣を使って行います。そこで、政治・行政を行う役所が必要となり、城主(藩主)の生活の場所やその家族が住む場所と併せて「居館」から「御殿」に進化していきます。

 

将軍が住み、政治・行政の中心地としての「江戸城」には、多くの「御殿」が建ち並んでいましたが、「名古屋城」にも「本丸御殿」や「二の丸御殿」等が建っていました。名古屋城の「本丸御殿」は、「来客」や「重臣」との重要案件の相談場所として使用されていたと思いますが、もう一つの目的である三代将軍「徳川家光」の「京」への上り下りする途中の宿泊場所としての機能を持たせて造られたそうです。

 

ですので、政治・行政を執り行っていた藩士達は「二の丸御殿」で働いていたようです。

 

それでは「本丸御殿」を、外から見ていくことにしましょう。

 

「本丸御殿」は、「本丸表門」の枡形を右手に折れて櫓門の櫓台石垣を左手に曲がると、正面に復元「本丸御殿車寄・玄関」が迎えてくれます。しかし現在の入館は、右手方向に進み「中の口部屋」がある建物入口からとなります。

 

本丸御殿「車寄、玄関」↓

本丸御殿「車寄」から「大廊下」「表書院」を見る↓

「表書院」の西面↓

左から「下御膳所「対面所」(北側から見る)↓

左から「小天守」「大天守」「鷺之廊下」「対面所」↓

「上洛殿」↓

「上洛殿」から本丸御殿「湯殿書院」を見る↓

本丸御殿「湯殿書院」の「湯殿」↓

古写真の本丸御殿「湯殿書院」の「湯殿」↓

 復元「下御膳所」と「孔雀之間」、奥に「大・小天守」↓

復元「上台所(将軍専用の食事を作る建物)」と「小天守」↓

 

 

 

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