大河ドラマ「どうする家康」の総集編ということで「”家康”のでき事と所縁ある”お城”を振り返ろう」シリーズを只今進行中。途中約1ケ月の中断があり2024年に突入していますが、引続き最後まで完結したいと思いますので、「家康ファン」「どうする家康ファン」「戦国時代ファン」の方は暫くお付き合いください。

 

「家康」等の出来事

前回のブログ「江戸城(前編)」で詳細に記載しましたので、「江戸城(後編)」では、前編の「URL」の記載とポイントを記載しました。

 

「江戸城(前編)」はこちらからご覧ください↓

 

下記詳細については、上記の「江戸城(前編)」をご覧ください。

 

「家康」は「第一次上田合戦」で後退

 

「天正大地震」を契機に「秀吉」と「家康」とが和睦

 

「(後)北条氏」攻めに関与

 

「秀吉」から「関八州」へ移封を命じられ「江戸」を本拠地にして築城

 

「奥州仕置き」で手腕上げ五大老に

 

「朝鮮出兵」の為に「名護屋城」に滞在

 

「朝鮮出兵」からの引き上げ決断

 

ここまでの流れは、下記年表の「第4期」から「第5期」にかけての「家康」が45歳から50歳という年齢的に最も脂がのっていた時期となります。

 

「名城を歩く(江戸城)」(PHP)掲載分から↓

 

本日は、「本丸」跡から坂を下って「二の丸」跡へ下ります。坂は2箇所あり「梅林坂」と「汐見坂」で、各々に門がありました。

 

「梅林坂」から「上梅林門」跡方向↓ 

「汐見坂」と「汐見坂門」跡方向↓

 

二の丸

「二の丸」には、「二の丸御殿」が建っていて当時は「本丸御殿」が火事で焼失して再建するまでの間に使用されたりしていました。因みに「本丸御殿」は江戸時代270年間の間に5回も焼失し、最初の御殿を含めて6回御殿が出来ましたが、最後に火事になった1863年以降は、幕府の財政も逼迫していたこともあり再建されずに前述したように「西の丸御殿」を使用しました。

 

現在は、「諏訪の茶室」を中心に庭園「二の丸庭園」として開放されています。南側には「中の門」に通じる「銅(あかがね)門」がありましたが、前述したように現在は「銅門」跡の石垣が残るのみです。

 

「二の丸」跡に建つ「諏訪の茶室」↓

 

三の丸

「二の丸」跡の裏(東側)は、城内に入城した「大手門」になりますが、北に進むと前述した2つ坂の内、「梅林門坂」下にある「下梅林坂門」跡から土橋を渡った場所に構えられている「平河門」に出ます。

 

平河門」は、「一橋家」「田安家」「清水家」の「御三卿」の登城門であり、更には大奥の女中、旗本、商人も出入りしたようです。他の門と同様に、「高麗門」と「渡櫓門」によって桝形を形成していますが、「渡櫓門」の西側にはもう一つ「高麗門」を持つ変わった構成です。

 

現存「平河門」(奥に「渡櫓門」の屋根が見える)と「平河橋」↓

現存「平河門」の「高麗門」↓

現存「平河門」の「渡櫓門」と「不浄門」(奥の「高麗門」)↓

 

現存「平河門」の「渡櫓門」(城内から)↓

 

この「高麗門」は「不浄門」と言って、罪人や死人をこの門から出して船に乗せたそうです。「不浄門」が現存するのは「江戸城」のみで、全国唯一の遺構として非常に珍しい門ですが、宮内庁管理の為に、文化財指定が受けられていません。

 

現存「平河門」の「渡櫓門」(左側)に併設する「不浄門」↓

 

「平河門」を出て「平河濠」と「清水濠」に沿って北上すると濠の向こう側に見えてくるのが「北の丸」跡になります。

 

北の丸

「北の丸」は、「徳川吉宗」が創設した「御三卿」の「清水家」「田安家」の屋敷や蔵地に利用されていて、西側を「清水家」が、北側を「田安家」が使用していました。現在は、「北の丸公園」になっています。

 

現在「北の丸」跡への入口が何か所かありますが、「清水門」が「北の丸」の東門に当たり、「清水濠」と「牛が淵」に挟まれた土橋を渡るった所に横たわります。「高麗門」と「渡櫓門」によって桝形を形成し、「渡櫓門」を入城すると左に折れて、もう一度左に折れて階段を上がる構造となっていて重要文化財に指定されています。

 

「清水門」の名前の由来は、「清水家」の屋敷門だからその名前が付いているのではなく、実は昔この場所が「清水寺」の敷地だったことから由来するそうです。

 

重文「清水門」の「渡櫓門」(右)と「高麗門」(左)↓

重文「清水門」の「渡櫓門」と「高麗門」で形成された「桝形」↓

重文「清水門」の「渡櫓門」を潜ると左へ折れ曲がり、更に左へ曲がって階段を上がる↓

 

 次に「清水門」から「牛ケ淵濠」沿いを北上して「北の丸」跡の最北に建つのが「田安門」で重要文化財に指定されています。

 

 こちらも「高麗門」と「渡櫓門」によって桝形を形成し「渡櫓門」は「切込接」の櫓台に乗り、「白漆喰総塗籠め」で門扉上には庇が架かりその上に横長の窓が付いています。

 

現在は、入城してすぐ左に「日本武道館」が建ち、その前が「田安家」邸の敷地跡になります。

 

重文「田安門」の「渡櫓門」(右)と「高麗門」(左)↓

重文「田安門」の「高麗門」(城内側から)↓

重文「田安門」の「渡櫓門」(「桝形」内から、櫓台は「切込接・布積」)↓

重文「田安門」の「渡櫓門」(城内側から)↓

 

「北の丸」跡は「北の丸公園」となっていて「北桔橋(きたはねばし)門」方向に歩いていき、少し西側に向かったところには「乾門」が建ちます。この門は明治時代になってから皇宮建設の際に新たに誕生した門で、「坂下門」の内側に有った「西の丸裏門」を移築したものですが非常にガッシリと重々しい門です。新年の一般参賀、桜開花や紅葉の「皇居乾通り一般公開」時の出入口に使用されます。

 

移築現存「乾門」↓

 

吹上曲輪

西に向かって、現在は「吹上大宮御所」や「御所」が建っている「吹上曲輪」跡に沿って、右側に「千鳥が淵」を見ながら暫く進むと「半蔵濠」に出ます。

 

左壁の向こう側は「吹上曲輪」跡↓

右側には「千鳥が淵」↓

 

吹上曲輪」は、当初は「御三家」「駿河松平家」「越前松平家」等の「親藩」の大名屋敷が置かれ西側の防衛を兼ねてましたが1657年の明暦の大火で屋敷は全焼し、その後は冬の北西風からお城を守る火除け地の庭園化が進められました。

 

しかし、「吉宗」の時代には実用主義から庭園は壊され学問所、天文所、馬場、鉄砲所、食品製造所などに替えられました。しかし「家斉」の時代になって再び庭園整備が大規模に行われましたが、幕末には手入れする余裕もなく荒廃していきました。

 

「半蔵濠」越しには「吹上曲輪」跡の腰巻土塁」を見ることができ南端が「土橋」になっていてその先には「高麗門」型式の「半蔵門」が建っています。この門は「的場曲輪」内にあった「吹上門」を移築したものです。

 

「吹上曲輪」跡の「腰巻石垣」↓

移築現存「半蔵門」(「高麗門」形式)↓

 

その「土橋」は左右の濠の水高を調節する「水戸違い」になっています。現在建っている「高麗門」は、旧「吹上門」又は「和田倉門」から移築したものと言われています。

 

「土橋」と「半蔵門」↓

 

「半蔵門」の土橋から長さと深さがある「桜田濠」が「外桜田門」まで続いていますが、「半蔵門」の「土橋」がある所が一番高い場所となり濠に沿って坂道が続きますので、そこからの眺めは綺麗です。また坂を下りていくと左手には「的場曲輪」跡が見えますが、そこは「鉢巻・腰巻石垣」が確認できます。

 

「半蔵門」前の土橋から「桜田濠」とその眺め↓

「的場曲輪」跡の「鉢巻・腰巻石垣」(桜田濠越の土塁上の石垣)↓

 

これで、「内郭」を一周廻ってきましたが、「江戸城」にはまだ「外郭」と言われているエリアがあります。

 

外郭(外曲輪)

「江戸城」は「の」の字に濠が巡っていて「渦郭式縄張り」とも言われています。その「の」の字の外回りに沿って「見附」と言われる「城門」に「番所」を置いて出入りする者を監視しました。殆どの「城門」は、「高麗門」と「渡櫓門」からなっていて、今まで説明してきた内郭の門も含めて36門「三十六見附」と呼ばれています。

 

現在、「外郭」には門の遺構は全くありませんが、街中には「渡櫓門」の「櫓台」の石垣が残されている所もありますので、ちょっと紹介しておきます。

 

「文部科学省」付近に掲出の外堀跡の案内図↓

「内郭」「外郭」の絵図↓

 

「田安門」「清水門」は建造物が残っていますが、「一橋門」跡は高速道路下に石垣の一部が残ります。

 

「一橋門」跡↓

 

竹橋門」跡、「常盤橋門」跡はかなり櫓門の櫓台が残っていて現在はその前に「常盤橋」が木製で復元されています。

 

「竹橋門」跡↓

「常盤橋門」跡↓

 

「東京駅八重洲口」を出た所を通る南北の道は「外堀」跡ですが、それを南下して「有楽町駅」の西側にある「日比谷公園」入口付近には日比谷門」跡の枡形石垣と濠の一部が残ります。

 

「日比谷門」跡の枡形石垣↓

「日比谷門」跡前の濠の一部↓

 

「日比谷門」から南へ少し下ると「山下門」、続いて「幸橋門」がありましたが、現在はJR線沿いに「外濠お窪地」と呼ばれる窪んだ土地が「外濠」跡です。「幸橋門」跡は全く遺構はありません。

 

「山下門」跡脇に残る「外濠お窪地」(JR東海道新幹線と首都高速の間)↓

「幸橋門」跡付近↓

 

そこから西に進むと虎ノ門」がありましたが現在は門の跡は無く、「文部科学省」や「文化庁」等の官庁が並ぶ中に「外堀」跡の石垣が見られます。また「溜池櫓台」の跡が、「三井住友銀行虎の門支店前」で石垣が顔を出しています。

 

「虎ノ門」跡付近↓

「虎ノ門」跡付近で「文部科学省」内の「外堀」跡石垣↓

「虎ノ門」跡付近で「文部科学省」内の「外堀」跡石垣↓

「外堀」石垣の石に残る「刻印」↓

「溜池櫓台」の跡が顔を出している(「三井住友銀行虎の門支店」前)↓

 

「虎ノ門」から「溜池」を経て北西方向に進むと赤坂門」跡の枡形虎口が残ります。

 

「赤坂門」跡の枡形虎口(手前は「溜池」)↓

「赤坂門」跡の枡形虎口↓

 

「赤坂門」の北側にあり、ここだけが「土塁」構えだった「喰違見附」跡が現在もその「土塁」が残ります。

 

「喰違見附」跡↓

 

「中央本線」の「四ツ谷駅」前には四ツ谷門」跡の櫓門石垣が見られ、そこから外濠沿いに「中央本線」の線が走ります。その途中「市ヶ谷駅」には市ヶ谷門」跡に「土橋」と「石垣」が残り、「飯田橋駅」には牛込門」石垣に「阿波守内」の刻印(「蜂須賀忠英(ただひで)」が工事担当)が見られます。

 

「四ツ谷門」跡の櫓門石垣↓

「市ヶ谷門」櫓台があった場所↓

「市ヶ谷橋」下の家紋付石垣↓

「外濠公園」から「市ヶ谷濠」を望む↓

「牛込門」跡↓

「牛込門」石垣に「阿波守内」の刻印(「蜂須賀忠英(ただひで)」が工事担当)↓

「牛込濠」を望む↓

 

「牛込門」から外濠に沿って東方向に「小石川門」「筋違橋門」「浅草橋門」が並んでいました。

 

現在は、これらの門の遺構は殆ど見られず、「外濠」沿いの石垣が辛うじて見られるぐらいです。

 

現在の「小石川橋」と「小石川門」跡↓

「神田橋門」跡石垣? 

「水道橋」から「神田川(惣濠)」を見る(東向けに)↓

 

 

 

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