大河ドラマ「どうする家康」の総集編ということで「”家康”のでき事と所縁ある”お城”を振り返ろう」シリーズを只今進行中。途中約1ケ月の中断があり2024年に突入していますが、引続き最後まで完結したいと思いますので、「家康ファン」「どうする家康ファン」「戦国時代ファン」の方は暫くお付き合いください。

 

「家康」等の出来事

「家康」は「第一次上田合戦」で敗退

「真田昌幸」の「上田城」や「真田氏」に呼応した「丸子城」をも攻めあぐんだ「徳川軍」は、更に重臣の「石川数正」が「秀吉」に出奔したことで、「秀吉」は「家康」に対する攻撃を宣言したので「徳川軍」は撤退しました。

 

そして「秀吉」側は「家康」を討伐する為の準備を進め、「家康」側もそれに対する受入れ態勢を整えていました。

 

「天正大地震」を契機に「秀吉」と「家康」とが和睦

しかし1586年1月に「天正大地震」が起こり、「秀吉」が「家康攻め」として拠点にしていた「大垣城」が全壊焼失する等の被害の大きさに「秀吉」は「家康」討伐をしているどころではなくなりました。

 

そして「秀吉」は本格的に「家康」との和解を進めることになり、「秀吉」の妹「朝日姫」を正室として「家康」に貢がすなど「家康」懐柔策を進めて、その結果、「家康」は1586年10月に「大坂城」で「秀吉」と謁見することとなり「家康」も和睦を受け入れることとなりました。

 

「(後)北条氏」攻めに関与

その後、「秀吉」に臣従した「家康」は、「秀吉」から「北条氏」を「豊臣体制」に組込むように説得することを任せられます。

というのも「家康」は、「天正壬午の乱」で「北条氏」と対陣したものの、「秀吉」を憎んだ両氏は同盟関係を築き、「家康」の娘「督姫」を「北条氏政」の嫡子「氏直」との婚姻が行なわれていてその関係も有ったからです。

 

しかし、色々な条件で「北条氏」を説得するものの、解決済みだった「真田氏」の領土を「北条氏」の家臣が攻める「名胡桃事件(※)」をきっかけに、「秀吉」は「国内惣無事令違反」ということで、「家康」も「北条氏」とは断交して、「北条氏戦争」の最前線担うことになります。

 

(※)小牧長久手の戦い後、「秀吉」による「沼田問題」の裁定で沼田の2/3は北条氏に、1/3は真田氏に引き渡しを命じていたが、「北条氏」の沼田城代が「真田氏」の城代を騙し討ちして「北条側」の手に落ちたことから「真田氏」は「秀吉」に訴えた事件。

 

「小田原城攻め」には、「家康」は110日間も逗留し、「今川人質時代」以来親交のある「北条氏規」を説得して「家康」の陣に投降させました。「家康」は「織田信雄」とともに和平交渉を行い、「氏直」の投降、「小田原城」の受取りや切腹を命じられた「氏政」「氏照」の検視役などを「徳川方」で行いました。

 

「秀吉」から「関八州」へ移封を命じられ「江戸」を本拠地として築城

1590年10月に「小田原城」に入城したその日に、「秀吉」から「関八州」へ移封を命じられ、「家康」の旧領は「織田信雄」領となりましたが「信雄」は拒否した為改易となりました。

 

結果、「家康」は、119万石から250万石の豊臣大名の中で最大の石高を有するようになりました。

 

「関東」へ移封となった「家康」は、「江戸」を拠点として選び、取り敢えず、今まで「太田氏」「扇谷上杉氏」「後北条氏」が使用していた「江戸城」に入城します。

 

下記の「年表」には1590年に「江戸城」と記載していますが、現在の「江戸城」主郭辺りの姿は、「家康」「秀忠」「家光」の徳川三代によって築かれたものです。「家康」が入城した頃の面影が残るのは「道灌堀」の辺りしかないようです。

 

実際には、1603年に、「家康」が江戸幕府を開府して以降に「天下普請」で「江戸城」の拡張に着手して、神田山を崩して日比谷入江を完全に埋め立て、外濠川の工事を行いました。詳細は、「江戸城」の所でお話をします。

 

「奥州仕置き」で手腕上げ五大老に

「家康」は早く拠点づくりをしたかったのですが、「秀吉」が「小田原攻め」に遅参した東北の「大崎氏」「葛西氏」を改易して、その領地へ新たに「木村吉清」を入れたことから、そこの領民が一揆を起し、それを「伊達政宗」が煽動しているとの噂があったので、急遽「家康」と「豊臣秀次」を派遣して収拾を図ろうとしました。この一連の動きと収拾が「奥州仕置」と言われるもので、「家康」はこの手腕を買われて、「家康」は五大老の筆頭としての地位を確固としていきます。

 

「朝鮮出兵」の為に「名護屋城」に滞在

その後は、豊臣政権下で、五大老として政務を執りますが、1592年に「秀吉」は「朝鮮出兵」(所謂、文禄の役)を決断し、「家康」は九州肥前の「名護屋城」へ出兵します。

 

「秀吉」自身が朝鮮半島へ出兵する計画があり「家康」を始め「上杉景勝」「伊達政宗」等の東国大名が随行する計画となっていたようですが、朝鮮半島での侵攻に苦戦を強いられていて後発隊を出す意味も薄れてきたことで、「家康」と「前田利家」は、「秀吉」を説得して「渡海」を慰留させました。

 

「朝鮮出兵」からの引き上げ決断

しかし、再度の「朝鮮出兵」(所謂、慶長の役)は、「秀吉」が没したことで、中止となり朝鮮半島からの引き上げが行われました。

 

ここまでの流れは、下記年表の「第4期」から「第5期」にかけての「家康」が45歳から50歳という年齢的に最も脂がのっていた時期となります。

 

 

前述したように関東に移封となった「家康」が居城を「江戸城」に決めて、いち早く城の基盤を固めて修築・再建を進めたかったのですが、色々な案件が降りかかり、本格的には進められていなかったようです。

 

本格的に始動しだしたのは、その後生じる「関ヶ原の戦い」後になりますが、ここでは、やはり「徳川の本拠地」となる「江戸城」(東京都千代田区)についてお話をしておきたいと思います。今からお話しするのは「家康」「秀忠」「家光」三代が関わった後の姿の「江戸城」になります。

 

なお「江戸城」は半端ないほどの大城郭ですので一度ではお話ができませんので二回に分けて記載していきたいと思い

ます。

 

「江戸城」の位置↓

 

 

「徳川家(幕府)の本拠地となる日本最大の「江戸城東京都千代田区)」

 

「江戸城」の歴史と城主

「江戸城」は、江戸時代265年間にわたり、日本を統治した「徳川幕府」の所在地でありその最高トップである「将軍」の居住城でした。初代「徳川家康」から十四代「徳川家茂(いえもち)」までが「江戸城」で政務を執り起居したお城です。十五代将軍「徳川慶喜」だけが、「江戸城」で政務・起居をしていません。

 

城郭の範囲は広く、現在の千代田区全域+中央区の大半+港区の一部で世界でも稀な大城郭であったことから難攻不落で長期政権と平和が続いたとも言われています。

 

「徳川家康」が江戸幕府を1603年に開府して以来、1606年に諸大名から石材を運ばせて増築、1607年には関東、奥羽、信越の諸大名に命じて「天守台」「石垣」の増築を行い、この時に「慶長期天守」(所謂「家康時代の天守」が完成しました。

「慶長期天守」(所謂「家康時代の天守」、「金澤雄記」氏の復元図)↓

1611年には「西の丸」石垣工事を東国大名に命じています。1614年には、石垣の修築を行いましたが、「大坂の陣」となり一時中断します。

 

「家康死後」の「元和期天下普請」は、1618年に「紅葉山東照宮」「神田川の開削」、1620年に東国大名に「内桜田門」から「清水門」までの桝形の修築をさせています。1622年に「本丸拡張」工事を行い、「天守台・御殿」を修築し、同年に「元和度天守」(所謂「秀忠次代の天守」が完成します。

 

 

「元和期天守」(所謂「秀忠時代の天守」、「金澤雄記」氏の復元図)↓

 

1628~29年にかけて「本丸」「西の丸下」「各所の城門」工事が行われ、1636年に合計120家の大名による飯田橋から四谷、赤坂を経て溜池までの「堀抜き」工事を行い、1637年に「天守台・御殿」を修築して1638年に「寛永度天守」(所謂「家光時代の天守」が完成します。

 

「寛永期天守」(所謂「家光時代の天守」、「佐藤大規」氏の復元図)↓

 

三代将軍「家光」の時代の1638年頃までに天下普請が続いてほぼ完成に至りましたが、最後に1660年より「神田川お茶の水の拡幅」工事が行われ、これで一連の天下普請は終了します。

 

その後は、度重なる火災や自然災害が有りましたが、「天守」は「明暦の大火災」(1657年)で焼失して再建されずにそれ以降はなくなりますが、それ以外はその都度再建されて蘇りました。

 

縄張り

「江戸城」は、「本丸」を中心に10の郭があり、それを「の」の字に「内堀」が囲い、渦巻きのように「外堀」「神田川」「隅田川」が囲った部分になり、南北約3.5km、東西約5kmにも及びます。全体的には「渦郭(かかく)式」縄張りと呼ばれています。

 

「本丸」を中心にした10郭とは「内郭」と呼ばれ、「本丸」東側に「二の丸」「三の丸」が続き、「三の丸」正面には「大手門」が開かれています。

 

「本丸」南西から西側にかけて「西の丸」「吹上」「紅葉山」が位置し、「本丸」北側には「北の丸」が配備され、「本丸」南で「西の丸」東側には「西の丸下」が、「三の丸」や「西の丸下」の東側は広大な「大名小路」「大手前」になっています。

 

「江戸城」は、嘗ての武蔵野台地の端部に築かれた「平山城」で、「本丸」と「西の丸」がその先端上に築かれています。「二の丸」「三の丸」「西の丸下」から東側の曲輪は台地の下で低地や干拓地に築かれています。

 

「内郭」の東半分は将軍のお城で全てが石垣造りですが、西側半分は隠居した将軍である「大御所」や、将軍の「跡継ぎ」等が住んだ「西の丸」を頂点とした曲輪群で、最大級の土居(土塁)で構成されていて、堀の水際や城門周囲だけ低い石垣が築かれています。

 

「堀」を見ますと、「本丸」と「西の丸」の間にある「蓮池堀」、「西の丸」と「吹上」を区切る「道灌堀」、「吹上」から「北の丸」にかけての壮大な内堀(桜田濠、半蔵濠、千鳥ヶ淵濠、牛ケ淵濠、清水濠)は天然の渓谷や沼地を巧みに取り入れて掘削した広い濠になっています。特に、「半蔵門」から南に延びる「桜田濠」は幅約200mにも及び日本最大の「水堀」です。

 

「名城を歩く(江戸城)」(PHP)掲載から↓

 

更に「江戸城」には、「外堀」の交通要所に敵の侵入を防ぐための城門(殆どが櫓門)を配置して、「三十六見附」と呼ばれて三十六の門が有りました。現在では建物は失われていますが、当時の櫓台の石垣が残っている見附もあります。

 

「文部科学省」付近に掲出の外堀跡の案内図↓

 

それでは、城内を順次見ていきたいと思います。「江戸城」と言えば一番馴染みのあるのが「二重橋」と「伏見櫓」ですので、そこからスタートしていきます。

 

西の丸下曲輪

この曲輪は、武家屋敷が建ち並んでいた敷地でした。現在は、「皇居前広場(皇居外苑)」と言われていている場所で、松の木々が植わり広々として広場になっています。

 

「皇居前広場(皇居外苑)」↓

「西の丸下曲輪」跡の広場と高層ビル群(以前に撮った写真ですので現在の高層ビルはもっと林立)↓

 

ここのポイントは、前述したように、「江戸城」見学や「東京」旅行で訪れる人が必ず立ち寄り、この曲輪の西端から、濠(二重橋濠)越しに、「石橋」と「二重橋」そして右手に建つ「伏見櫓」を見て写真を撮る場所です。

 

この手前の「石橋」と奥の「鉄橋」が二つあるから「二重橋」と思っている人が多いですが、実際は奥の鉄橋が「二重橋」であって昔はその場所に、橋桁が上下二重に組んである木橋があったので「二重橋」と言われました。

 

現在の「二重橋」と現存「伏見櫓」と「多門櫓」↓

 

右手に見える二重の「伏見櫓」は、「西の丸」の南端に建ち「多聞櫓」が続いています。そして「北伏見多聞櫓」というの「多門櫓」が「伏見櫓」の北側に繋がっていますが、こちらは一般には目に触れることができません。

 

現存「伏見櫓」と「多聞櫓」↓

 

「伏見櫓」は名前の通り「伏見城」から移築したという伝説が有りますが、確証はないとのことです。関東大震災で倒壊した後に解体して復元されたものですので現存建造物の扱いです。あと二重櫓は「桜田(三の丸)巽櫓」が建ちますのでそれを見に行きますが、その前にもう少し「西の丸下曲輪」跡の遺構を見て行きます。

 

「二重橋」の手前の「石橋」を渡った所に建つのが「西の丸大手門」で現在は「皇居正門」です。「西の丸」の出入口で「高麗門」と「渡櫓門」が直線に築かれていましたが、1888年の宮殿造営の時に「高麗門」は外され、現在では皇居の正門になっています。名称も、それ以降改名されました。

 

櫓部分が両脇の石垣に少し乗るだけで、門部分は両脇に脇門を備えて幅があります。また「渡櫓」部分の窓は大きいですが、他の櫓門が木枠の窓を設けているのに対して、銅板で覆う形を採っています。

 

現存「西の丸大手門(皇居正門)」(窓は銅板で覆われ、門部分の幅が広い)↓

 

そこから、南へ堀沿いに歩くと大きな櫓門が見えてきますがこれが需要文化財の「外桜田門」です。後程見に行く「桔梗門」が「内桜田門」とも呼ばれているのに対して、当門は「外桜田門」とも呼ばれていますが、一般的には「桜田門」といえば当門になります。

 

「高麗門」と「渡櫓門」、そして三方を土塀と堀で囲われた「出桝形(だしますがた)虎口」となっていますが、「渡櫓門」の内側「西の丸下曲輪」方向には土塀や石垣が無く開放的になっています。

 

幕末に「井伊直弼」が登城の際、この門前で水戸浪士達によって暗殺された「桜田門外の変」で有名な門です。

 

重文「桜田門」の「渡櫓門」↓

重文「桜田門」の「渡櫓門」↓

重文「桜田門」の「高麗門」↓

 

次に、先程の「石橋」から右手(北)へ進むと土橋が架かりその正面に「坂下門」の櫓門が建ちます。

「西の丸」東側の坂下に突き出た敷地三方が濠で囲われた所に建っていました。坂下にあったのでこの名前が付いています。

 

「桜田門外の変」に続き、老中「安藤信正」が水戸浪士に襲われて負傷した「坂下門外の変」の現場となった門です。

 

「高麗門」と「渡櫓門」で桝形を形成された門でしたが、1885年に「高麗門」が撤去され、1887年には「渡櫓門」が角度を90度替えて建て替えが行われています。

 

現在は、当門の真後ろに「宮内庁」庁舎が建ちますので、「宮内庁職員」の通用門となっている他、一般参賀の時の出口の一つに使用されます。ここを入ると「西の丸」跡ですが後ほど見ていきます。

 

「坂下門」(明治時代に向きを90度替えて建替えされている)↓

 

そこから東へ堀沿いに進むと「桔梗門(内桜田門)」があります。大名が登城する際に使用できた門です。こちらも、「渡櫓門」の城外側には「高麗門」がありその間は桝形になっています。櫓台の堀側は「打込接」ですが、桝形内は「切込接」になっています。

 

「桔梗門」の由来は、江戸に初めてお城を築いた「太田道灌」の「家紋」が「桔梗」だったことに由来しているそうで、鬼瓦にも「桔梗紋」が刻まれています。

 

関東大震災で大破しましたが、その後復元されて現在に至ります。宮内庁に申込をする「皇居一般参観」の集合場所に指定されています。

 

震災後復元の「桔梗門(内桜田門)」の「渡櫓門」(右)と「高麗門」(左)↓

 

「桔梗門」から東側に少し下ると「桔梗濠」越しに見えるのが「三の丸巽櫓(通称「桜田櫓)」です。二重二階、総塗籠め白漆喰で窓の上下に「長押」を巻き、南側の堀側には「切妻屋根」を持つ「出窓」があります。

 

「三の丸巽櫓」(通称「桜田櫓、桜田隅櫓」)↓

「三の丸巽櫓」(通称「桜田櫓、桜田隅櫓」)↓

 

以上の「伏見櫓」「西の丸大手門」「坂下門」「桔梗門(内桜田門)」「桜田巽櫓」及びこれから見にいく「富士見櫓」「平川門」は、地震で倒壊や戦争で一部焼失した後に旧部材を使用して組み立てなおして再建されているので現存に近い扱いですが、全く何らかの文化財指定が受けられていません。というのも、これらの建造物の管轄は「宮内庁」であることから、文化財指定を行う「文部科学省」が口を挟めないようです。

 

この大きな「西の丸下曲輪」の東から南側にかけて「和田倉濠」「馬場先濠」「日比谷濠」「凱旋濠」の幅がある「水堀」が湛えています。その南側には馬場先門」跡の石垣が残ります。ここは桝形門でその跡も残っていましたが日露戦争勝利の提灯行列がこの門で圧死傷者が出たことから取り払われてしまいました。

その北側にも大きな和田倉門」跡があり桝形が残っています。

 

「馬場先門」跡の石垣↓

「和田倉門」跡桝形↓

「和田倉門」跡↓

 

三の丸

それでは、通常の「皇居東御苑」の公開日(月曜日と金曜日は休み)の出入口である「大手門」から見ていきます。

 

大手門」は、大名が登城する時に使用した正門で城内最大の門です。「渡櫓門」の城外側には「高麗門」がありその間は桝形になっています。建築に当たっては、「藤堂高虎」が携わり1607年に完成、その後1620年の修復には「伊達政宗」等によって再建されるほど、大大名が関わっています。

「大手門」の外観復元「渡櫓門」と「高麗門」↓

「大手門」の「高麗門」(左)、渡櫓門と石垣の間に鉄砲狭間が見える↓

「大手門」の桝形(「渡櫓門」から)↓

 

「白漆喰総塗籠め」で二階に大きな窓枠が目立ちます。石垣との間や窓の下に小さな穴が沢山見られますが「鉄砲狭間」のようです。「渡櫓門」の脇には「番所」が併設され「潜り戸」も設けられていました。櫓台は、「切込接」になっています。

 

「大手門」の「渡櫓門」(門上の大きな窓枠)↓

「大手門」の「渡櫓門」の「門扉潜り戸」↓

「大手門」の「渡櫓門」台は「切込接(はぎ)」↓

 

「大手門」は慶長年間(1596~1615年)に築かれましたが、「明暦の大火」で焼失しその後再建されました。

 

太平洋戦争で「高麗門」は無事でしたが、「渡櫓門」は焼失し1968年に木造外観復元されました。桝形内には焼失した旧「大手門渡櫓」に上がっていた「鯱」が展示されています。

 

旧「大手門渡櫓」に上がっていた「鯱」(桝形内に展示)↓

 

「高麗門」を入り右手に折れて「渡櫓門」を潜ると今度は左手に折れて、そこから真っ直ぐ進みます。

 

二の丸

真っ直ぐ進むと「下乗門」枡形跡の石垣があります。「下乗門」は文字の通り、登城してきた殆どの大名はここで輿から下りて中に入ります。それを監視するのが門の右手にある「同心番所」です。

 

この「同心番所」以外にも「江戸城」内にはあと2箇所に番所が残りますがそれぞれが非常に貴重な遺構です。

 

「下乗門」跡↓

現存「同心番所」↓

 

その枡形を左手に折れると広い広場になっていて右に向かうと「銅門(あかがねもん)」跡の石垣があり「二の丸御殿」跡の入口になっています。後から参りたいと思います。

 

「銅門」跡石垣↓

 

広場の東側には二つ目の番所「二の丸百人番所」が平屋ですが瓦庇を付けて伸びています。こちらも現存で日本最大の規模を誇ります。当時は、ここに「伊賀組」「甲賀組」「根来組」「二十四騎組」が交替で詰めていました。

 

現存「二の丸百人番所」↓

現存「二の丸百人番所」↓

現存「二の丸百人番所」↓

 

広場の西側「正面」には、立派な巨石を「切込接」で積み上げた櫓台の「中の門」跡があります。ここには「渡櫓門」が両端に「多聞櫓」を伴って建っていて、「本丸」の正面入口になっていました。

 

「中の門」跡↓

 

今回は「本丸」跡には後から入るとして、そのまま南方向へ「本丸」跡石垣沿いに進みます。このルートは、事前に「宮内庁」に申し込みをして前述した「桔梗門(内桜田門)」からチェックを受けて入城する「皇居特別参観コース」になります。

 

そのコースを進むと右手上には「富士見櫓」が聳え、またもう少し進み「宮内庁」の建物がある所からは「蓮池濠」越しに建つ白漆喰の「数寄屋多聞櫓」が見えます。この二つの建造物は「本丸」跡内にありますので、後ほど説明します。

 

下から見上げた現存「富士見櫓」↓

 

西の丸・山里曲輪・紅葉山

「宮内庁」の建物がある敷地は元「西の丸」跡で、ここには「西の丸御殿」が建っていた場所です。「西の丸」は、元々は「徳川家康」の隠居城として築かれた所ですが、以降は次期将軍の嗣子や隠居した将軍、将軍の生母等が生活する場所として当てられました。幕末には、「本丸御殿」「二の丸御殿」は焼失していて無く「西の丸御殿」だけが残っていました。

 

「宮内庁」の建物↓

 

明治天皇が入城した時には「西の丸御殿」に入り、以降「明治宮殿」「新宮殿」が建てられ1954年まで「宮城(きゅうじょう)」と呼ばれました。現在は、「西の丸」跡から「山里曲輪」跡にかけて「宮殿」が建てられています。(※「宮殿」は「一般参賀」や「信任状ほう呈式」等の重要な儀式を行う場所)

 

現在の「宮殿」と広場↓

 

「皇居特別参観コース」では、この奥の「二重橋(正門鉄橋)」を渡って「的場曲輪」跡手前でUターンして戻ります。

 

「二重橋(正門鉄橋)」↓

「伏見櫓」と「南多聞櫓」(「二重橋」から)↓

 

「西の丸」跡後方から東北方向に隣接した敷地は「紅葉山」と呼ばれます。ここには、「徳川家康」の廟所(東照宮)が置かれていて命日には「紅葉山御社参」が幕府の公式行事になっていました。また、歴代将軍の廟所も設置されていましたが、明治政府によって廟所は廃止されました。

 

また、1639年には「紅葉山文庫」が建てられ、幕府の重書書類や蔵書等が収められていましたが、それら接収されて「内閣文庫」に移されました。

 

それでは、先程前を通り過ぎた「中の門」跡まで戻り、いよいよ「本丸」跡に入ります。

 

本丸

「中の門」跡を入ると右手に目に入るのが現存三番目の番所「大番所」です。こちらも重要文化財です。ここでは、「本丸」に向かう諸大名達をチェックする戸張番が詰めました。「下乗門」跡枡形内に達っていた「同心番所」よりもグレードは高いです。

 

「中の門」跡↓

現存「大番所」↓

 

左手に上がる坂を上り右へ曲がっていきます。当時はこの坂の左手に「書院出(だし)櫓」と「御書院櫓」が建っていたようで、登り切った所には「御書院門」跡があり、正面には「本丸御殿」の「玄関」がありました。

 

「御書院櫓」台↓

「御書院門」跡への坂道↓

「御書院門」跡↓

 

現在は、勿論「御殿」は有りませんので見渡す限りの大広場で遠くに「天守台」が見えます。

 

「御書院門」跡から見る「本丸」跡↓

 

そこから振り返って中に少し入り込むと、先程「西の丸」跡に行くときに見えていた「富士見櫓」が建っています。「富士見櫓」は、三重三階、層塔型、白漆喰の壁は(壁上下に「内法長押」と「腰長押」を施した「真壁造り」で、「

切妻破風」と「唐破風」下は「出窓」となって「石落とし」を設けています。

 

現存「富士見櫓」(「本丸」側から)↓

現存「富士見櫓」(下から見上げる)↓

 

三度目の「寛永の天守(徳川家光の天守)」が”明暦の大火”(1657年)で焼失してからは、江戸時代通して天守の替わりとして聳え立っていました。その後、関東大震災時に倒壊しましたが、倒壊した櫓の旧材を加えて修復しましたので、完全な現存ではありません。

 

「富士見櫓」からは、当時「富士山」が望めたとのことで当櫓名が付けられたとの謂れがありますが、「本丸」跡には当櫓含めて三重櫓が5基建っていたようです(遠侍東三重櫓、台所前三重櫓、菱櫓、数寄屋櫓)。また、「二の丸」にも3基(蓮池巽三重櫓、巽奥三重櫓、東三重櫓)が建っていたようです。

 

因みに、徳川時代の「大坂城」には、三重櫓は「本丸」に11基と「伏見櫓」を併せて計12基も建っていたので「江戸城」を上回っていました。

 

「御書院門」を入って左手(西側)には、当時は「能舞台」が「大広間」から観覧できるように突き出ていました。そして「大広間」から「白書院」の間には、あの「忠臣蔵」の発端となった「浅野長矩」が「吉良上野介」に対して刃傷を犯した「松の廊下」が有りました。現在、「松の廊下」跡との表示が敢えてされています。

 

「松の廊下」跡↓

 

「松の廊下」跡の南側には「御金蔵」跡が、またその北側には、先ほど「西の丸」跡から見えていた「数寄屋(富士見)多聞櫓」が内側から見ることができます。この「多聞櫓」は現存で城壁替わりの「多聞櫓」としては城内はここしか存在しないし、全国的にも珍しい遺構です。

 

現存「数寄屋(富士見)多聞櫓」↓

現存「数寄屋(富士見)多聞櫓」↓

 

更に北へ進むと「石室」の遺構があります。これは、非常時(火事等)に大奥の調度品などをここに入れたと考えられています。

 

「石室」↓

 

広場を見ながら「本丸」にあった「表御殿」「中奥」そして「大奥」に思いをはせながら、遠目からでも立派な「天守台」に向かいます。

 

天守(台)

ここで、「天守台」の上に建っていた「天守」について触れたいと思います。

 

1590年に「豊臣秀吉」による「小田原平定」によって「徳川家康」が入城しますが、「家康」が江戸幕府を開き将軍となったのを契機に天下普請で拡張工事が行われ「慶長度天守」が築かれます。

 

その後、引続き増築工事が進められると共に、2代将軍「秀忠」の時代の1622年には「元和度天守」が完成し、3代将軍「家光」の時代の1638年には、本体の高さが約44.8mという全国一の高さを誇る五重五階地下1階の層塔型「寛永度天守」が完成します。

 

先ほども触れましたが、「江戸城」は、「家康」が築城開始して以来、約50数年を要して1660年に一応の完成を見ました。

 

しかし、1657年の「明暦の大火」によって、「天守」等多くの城郭建造物が灰燼に帰しました。

 

そして、4代将軍「家綱」は、焼けただれていた「天守台」の石垣の取替を加賀「前田藩」に命じて、積み直しを行わさせます。その「天守台」上に4代目の「天守」建築の議論が沸き上がりましたが、当時の執政「保科正之」は天守に巨額の出費をすることの無駄を訴え建築はされませんでした。

 

現在、目にすることが出来る「天守台」はその時に積み直されたモノで、「寛永度天守台」よりは小さくなっているものの、一つ一つの石の大きさや高さには迫力を感じることが出来ます。「本丸大奥」跡側から望むと、「加賀藩」が得意とした色の異なる石積み、そして手前に「小天守台」を見ることができ、坂を上がって「天守台」に上るには、まず真直ぐに登り突当りを左に折れて坂道を上らなければならず、その大きさを実感できます。

 

「江戸城 天守台」(「大奥」跡付近、南東方向から)↓

「江戸城 天守台」(人と比べるとその大きさが際立つ、南東隅)↓

「江戸城 天守台」(東面は激しく焼けただれている。これは1859年10月の「安政大火」時のもの)↓

「江戸城 天守台」(北東方向から)↓

「江戸城 天守台」(手前は「小天守台」で色の異なる石積みが施されている、黒っぽい石は伊豆石)↓

「江戸城 天守台」(地階入口)↓

「江戸城 天守台」(地階部分)↓

「天守台」から眺める「本丸」跡とビル群(南方向)↓

 

「天守台」の北側に廻ると「高麗門」がありますが、これを「北桔橋(きたはねばし)門」と呼びます。この橋は「平河濠」と「乾濠」の間に架かっているのですが、イザという時には、「本丸」側に橋を跳ね上げて収納できるようになっていますので、今でも門の上部に留め金を見ることができます。

 

現存「北桔橋(きたはねばし)門」とその留め金↓

現存「北桔橋(きたはねばし)門」

 

現在は常時、橋は架かった状態でここを渡ると「北の丸」跡へ行くことができますが、「北の丸」跡へは後から行きますので、次は「本丸」跡から坂を下って「二の丸」跡へ参ります。坂は2箇所あり「梅林坂」と「汐見坂」で、今回は「汐見坂」を下ります。

 

「江戸城(後編)」では「二の丸」跡から見ていきたいと思います。

 

 

 

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