大河ドラマ「どうする家康」は、とうとう終わってしまいましたが、まだ「家康」の余韻が自分の中では残っています。 

 

最終回の視聴率は低かったようですが、私としては、「大坂夏の陣」の「家康陣営」内で「家康」の身に迫る危機の情景、「大坂城」内での「淀君・秀頼」の鬼気迫る情景、「千姫」が父「秀忠」に「淀君・秀頼」助命を哀願するも豊臣滅亡に決断を下す場面、そして平和な世界の到来の礎には「家康軍団」の固い絆があったという過去の情景の再現など、多くの良き場面がありすぎましたが、いい終わり方だったと思いました。

 

ということで「どうすう家康」の余韻に浸りながら、引き続き「”家康”のでき事と所縁ある”お城”を振り返ろう」というテーマでブログをお届けしようと思っていますので、もう暫くの間お付き合いくださいませ。

 

只今、「家康」の歴史を8期間に分けて(勝手にですが)、<第3期目(対「武田氏」攻略期)>を進行中です。

 

「家康」の歴史を8期間に(勝手に)分けた「8期間」については下記のプロローグをご参考ください。

 

プロローグ↓

 

<第3期>

 

<第3期>の年表では、1572年に「二俣城」の争奪戦を記載していますが、その前の2期目の1570年との間には、「家康」は「織田氏との同盟関係」として「朝倉氏討伐」に従軍し福井の「一乗谷城」近くまで進軍していました。

 

「織田信長」は、「浅井長政」の裏切りにより「朝倉方」に付いたことで形勢逆転となり、殿(しんがり)を「羽柴秀吉」に任せて先に京へ逃げ、「家康軍」も最後に残された「秀吉」を援護しながら殿を務めました。更に、同年6月には「姉川」を渡った「浅井氏」の「横山城」の攻防であった「姉川の戦い」に参戦しています。

 

第3期の「家康」の出来事

3期目は、1568年に「武田信玄」と「同盟関係」を築いて今川領を各々「遠江」と「駿河」を攻めて領有することを約束しましたが、1570年8月に手切れとなると、「足利義昭」の要請による「織田氏」包囲網形成の一環で「武田家」との戦いが本格的になりました。

 

そして「武田軍」は西上作戦によって、三河、東美濃、そして「武田本隊」は「天竜川」を渡って「遠江」へ侵攻します。

 

まずは前回紹介しました「二股城」の攻防戦では、「武田軍」に攻められて援軍を出したかったのですが、兵力の差がありすぎてどうにもならず、「武田軍」が「二俣城」を落とします。

 

その3日後に、「武田軍」は一旦は南下して「浜松城」へ向かうだろうとの予想の下、「浜松城」内では臨戦態勢を敷いていましたが、「武田軍」は「浜松城」へは向かわず西進して、「浜名湖」の北を進もうとしていました。

 

それの情報を得た「家康」は、「織田軍」の援軍を得て「武田軍」の背後を衝こうとしましたが、これを予期していたかのように「武田軍」は、待ち構えていて反転してきました。

 

罠にはまったような「徳川・織田軍」は惨敗となって、徳川方の「夏目吉信」は手勢を率いて敵へ突撃して身代わりとなって討ち死、「家康」は這う這うの体で「引間城(浜松城)」の「玄黙口」へ辿り着き清水曲輪にある「鎧掛け松」に鎧を脱いで休息したようでした。

 

現在の「玄黙口」↓

「鎧掛け松」(この松は三代目)↓

 

その後、この敗戦を忘れることがないように、「家康」が三方ヶ原の戦いで敗戦した惨めな姿と顔を描かせて将来の戒めにしたという逸話が残り、その絵が“しかみ像”として名古屋の「徳川美術館」所蔵となっています。

 

ただこのエピソードには裏があります。この「しかみ像」は、紀伊徳川家の「従姫(よりひめ)」が嫁入り道具として尾張徳川家へ持ち込み「東照宮尊影(そんえい)」として伝わったモノ。美術館の目録には「長篠戦役陣中小具足<こぐそく>着用之像」と書かれていて「長篠敗戦の図」として紹介されてきたが、敗戦の整合を取るために「三方ヶ原」と説明されるようになり1972年の展示からこれが定着するようになったそうです。

 

この敗戦の整合とは、今からお話しする「長篠城」での「長篠の戦い」では、「徳川軍」が「武田軍」に勝利を納めていることから、「長篠敗戦の図」というのと整合が取れないということで、その絵を「三方ヶ原」での敗戦にしたとか。

 

岡崎城の「しかみ像」(絵を像にしたモノ)↓

 

「家康」は「三方ヶ原」で命拾いする一方で、「武田信玄」は、三河の「野田城」を攻め落としましたが、「信玄」は病で亡くなってしまい(或いは、「野田城」で鉄砲に撃たれたとの説も)、暫くは死亡を伏せていましたが次第に知れる所となります。

 

そこで「家康」は、「武田信玄」に奪われた城や領地を奪い返す思い切った政策に出ます。その一つとして、「徳川方」であって「武田方」に寝返っていた「奥平定能(さだよし)・貞昌」親子を婚姻政策という調略によって、「家康」の娘「亀姫」を「貞昌」に嫁がせ領地の加増も約束して「徳川方」に寝返らせました。

 

これに対して「信玄」の後継者となった「武田勝頼」は、「奥平氏」からの人質(妻や弟)を処刑したことから「長篠の戦い」が勃発、「武田方」の「菅沼正貞」が守る「長篠城」を攻略して「奥平定能・貞昌」親子に与えて守備させました。「長篠城」は、「遠江」との国境近くで「浜松」と「岡崎」を結ぶ交通の要塞で抑えるべきお城でした。

ということで、「長篠城」をお届けします。

 

三河東部を押さえる拠点として奪取した「長篠城」(愛知県新城市

 

位置関係↓

 

「長篠城」の歴史と城主(藩主)

前述のように1573年に調略によって「武田方」の「菅沼正貞」が守る「長篠城」を攻略して「徳川方」のお城となって「奥平定能・貞昌」に与えて守備させました。

 

しかし、「武田信玄」亡くなった後も東海地方へ勢力を拡大しようとする「武田勝頼」は、1575年5月に「奥平定能・貞昌(後に信昌)」が守る「長篠城」の奪還を目指して1万5千人の軍を率いて取り囲みました。片や「貞昌」側は5百人の兵で、連日の攻撃を受け落城寸前まで持ちこたえます。

 

「貞昌」は、「徳川家康」へ援軍要請をする為に「鳥居強右衛門(とりい すねえもん)」を使者として出すも、役割を果たし戻ってくるところを「武田軍」に捕えられました。助命の代わりに、「徳川方の援軍は来ない」と「長篠城」へ豊川越しに叫べと強要されるも、「援軍がまもなく駆けつけるのでご安心をー」と大声で伝えた為に、「強右衛門」は逆さ磔され槍で刺殺されます。

 

そして、「織田・徳川軍」3万の援軍が到着して「武田軍」との間で「設楽原決戦」が開始されますが、「織田・徳川軍」の勝利に結びつきます。

 

縄張り

「長篠城」は、「豊川」と「宇連(うれ)川」の合流する天然の要害で「本丸」を真ん中に据え、北側には「帯郭」「巴城郭」「瓢(ふくべ)郭」を、南側には「野牛郭」を、西側には「弾正郭」を置きます。天然の要害である断崖絶壁の崖上に築かれています。その最南端には「櫓」を置き、そこを中心に扇型に拡がる中で6つの郭を持ちます。

 

長篠城縄張図↓

 

大手門、搦手門

「大手門」「搦手門」の場所は、前述の「縄張り図」の底辺両脇に位置します。

西方向に「大手門」跡がありますが、現在はロードショップの駐車場の端にポツンと碑だけが立っています。

 

一方「搦手門」は、「搦手門」跡碑が、後世に置いたような数十個の石の塊の中に立ちます。

 

「大手門」跡↓

「搦手門」跡↓

 

本丸・帯郭

「長篠城」の入口には城郭建築風の長篠城址史跡保存館が建ち、「長篠城」の解説大看板があります。

 

城郭建築風の「長篠城址史跡保存館」↓

 

「保存館」が建つ敷地は「帯郭」跡で、左には「内堀」が曲線を描いて「本丸」跡の東側へ取巻いています。 

 

「帯郭」跡と奥には「内堀」が見える↓

本丸東側の「内堀」と「土塁」↓

本丸東側の「土塁」と「内堀」(「巴城郭」跡より)↓

本丸東側の「内堀」跡、左は「本丸土塁」↓

 

「帯郭」跡から「本丸」跡へ入る括(くび)れた場所は「虎口」で、「土橋」と「門」があったようで、両脇には「土塁」が残ります。特に、東側(虎口の左側)の「土塁」は背が高く、「本丸」跡東側に沿って築かれています。上に登るとその裏側に掘られた立派な「堀」を見下ろすことができます。

 

本丸北側の「土橋」跡、奥が「本丸」跡↓

本丸跡東側(左側)の「土塁」↓

「本丸」跡東側の「土塁」↓

左「本丸」跡、右「内堀」跡の間にある「土塁」↓

「土塁」から「本丸」跡を見下ろす↓

東「土塁」から見下ろした「内堀」跡↓

「本丸」跡↓

 

右手の低い「土塁」上には史跡長篠城址」碑立ちます。「本丸」跡の大きな広場には「本丸址」碑が立ったり、「鳥居強右衛門」の磔場所方向を示す説明板や、攻め寄せる「武田軍」の配置を示す説明板が立てられ、丁寧に説明されています。

 

「史跡長篠城址」碑↓

「長篠城本丸跡」碑↓

「鳥居強右衛門」の磔場所方向を示す説明板↓

対岸の磔された場所(白い看板辺り、JR飯田線車内より)↓

「鳥居強右衛門」の逆さ磔で有名な「長篠の戦い」の現場となる「長篠城」↓

 

巴城(はじょう)郭

「本丸」跡の入口迄戻って、草に覆われた「巴城(はじょう)郭」跡と「厩」跡を通る細い道を進むとJR「飯田線」の踏切があります。そこから豊橋方向を眺めると右手にはカットされた「土塁」が大きく迫ります。この辺りには「物見櫓」があったようです。

 

「巴城郭」跡↓

「本丸」跡東側の「土塁」(「巴城郭」跡から)↓

JR「飯田線」で分断(右は「本丸土塁」上に建つ「神社」跡)↓

 

野牛郭・櫓台

踏切を渡り草むらとなった中に、井戸の遺構「殿井(とのい)」があり、その前には「野牛(やぎゅう)郭」が拡がりますがここも夏草に覆われていました。

「野牛郭」跡にある「殿井」↓

 

「野牛郭」跡↓

 

更に、細い道を下って行ったところには、冒頭記載した川の合流点上に設けられた「櫓台」がこんもりと盛り上がっています。

 

「野牛郭」跡↓

「櫓」跡(「豊川」と「宇連川」の合流地点の最先端)↓

この先が「豊川」と「宇連川」との合流点 (手前は飯田線)↓

 

弾正郭・家老屋敷跡

「本丸」の北側にあって「矢沢」を越したスクエアな敷地が「弾正郭」です。「石積み」も見られる郭となっていて、その北側には「家老屋敷」がありました。

 

「弾正郭」跡↓

石垣が見える「弾正郭」跡↓

「弾正郭」跡↓

「家老屋敷」跡↓

 

長篠城址史跡保存館

この中で、「奥平貞昌(信昌)」の正妻になった「亀姫」(家康と築山御前の長女)の屋敷だった門扉が保存されているのには興味を引きます。また「鳥居強右衛門」人形が可愛くなって販売されています。

 

「亀姫屋敷」の「門扉」(「桃牛寺」からの寄贈品)↓

鳥居強衛門(とりいすねえもん)人形、保存館内↓

 

以上「長篠城」において、「家康」配下となった「奥平氏」と「武田軍」との鬩ぎあいがあり、「奥平氏」は少数の部隊で持ちこたえるとともに、援軍「家康・織田軍」の到着によって、「武田勝頼」軍を「設楽原」に誘い込み、両軍の決戦の口火が切られました。その結果、有名な「織田・家康」軍による鉄砲隊の圧勝でこの戦いは勝利を収め、一方「武田勝頼軍」は敗戦となりました。

 

 

 

 

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