大河ドラマ「どうする家康」もいよいよ明日で終わりを迎えます。

 

今年中に「”家康”のでき事と所縁ある”お城”を振り返ろう」というテーマでブログをお届けしようと思っていましたが、つい「お城巡り」に足が向いてしまい「お城紀行」のブログを優先してしまうので、このシリーズは度々中断してしまい、「今年中」どころか「今年度中(2023年度)」に延長しそうです。

 

しかし、暫くの間お付き合いくださいませ。

 

「家康」の歴史を8期間に分けて、「家康」のでき事と併せて所縁ある「お城」を紹介しています。8期間については下記のプロローグをご参考ください。

 

プロローグ↓

 

<第3期>

 

<第2期>は「戦国大名駆け上がり期」ということで、1563年に、名前も「家康」と改称して「織田信長」との同盟を担保にして「今川氏」のお城(吉田城、田原城、西尾城等)を次々と落としていき、「徳川氏」のお城として入手し、東三河を手に入れて三河の統一を図りました。

 

更に「家康」は、信濃の「武田信玄」とも手を組む同盟関係を築き、「今川領」である「遠江」「駿河」を「武田氏」と分け合う形で攻め立て、最終的には「今川氏真」が逃げ込んだ「掛川城」をも攻めて、徹底的に「今川氏」を叩き、「遠江国」を自領として2国を統治する「戦国大名」まで駆け上がったのが2期目でした。

 

<第3期>の年表では、1572年に「二俣城」の争奪戦を記載していますが、その前に、2期目の1570年との間には、「徳川家康」にとっては、大きな出来事と大きな戦いに「織田氏との同盟関係」として従軍しています。

 

それについて少しお話をしておきますと、まずは、「織田信長」が「足利義昭」を奉じて上洛し、室町幕府の守護者となりましたが、「家康」も「将軍に臣下の礼をとると共に、「信長」への挨拶も兼ねて上洛しています。

 

更に、2期目の最後に記載していますように「朝倉氏討伐」への戦いに参戦することを同盟者として求め得られました。

 

上洛中の「家康」は、「朝倉討伐」の為に「一乗谷城」近くまで攻め込み善戦しましたが、「浅井久政・長政親子」が「朝倉方」についたとのことで、「信長」は殿(しんがり)を「羽柴秀吉」に任せて先に京へ逃げ、「家康軍」は最後に残された「秀吉」を援護しながら殿を務めました。「金ケ崎の退口(のきぐち)」と言われる事件です。

 

一旦「家康」は領国に戻って態勢を整え、その後1570年6月に「姉川」を渡った「浅井氏」の「横山城」の攻防であった「姉川の戦い」に参戦しています。「德川実記」では、徳川軍の加勢に寄って勝利に結びつけたとありますが本当のところは不明です。

 

第3期の「家康」の出来事

2期目最後の方の「家康」の出来事を補充しましたが、いよいよ3期目の「家康」のできごとをお話していきましょう。

 

「徳川氏」と「武田氏」とは1568年に「同盟関係」を築いて、今川領だった「遠江」と「駿河」をそれぞれ攻めて領有することを約束しましたが、武田氏の家臣「秋山信友」による「遠江」侵攻があって「家康」は抗議したので「信玄」は「秋山氏」を撤退させましたが、両氏の関係悪化となり1570年8月に手切れとなりました。

 

そして同じころに、「朝倉・浅井氏」との抗争に入り、将軍「足利義昭」は「信長」に反目してその包囲網を「武田信玄」を中心に形成します。

 

そして「武田軍」は西上作戦によって、三河、東美濃、そして「武田本隊」は「天竜川」を渡って「遠江」へ侵攻してきました。

 

「家康」自ら出陣するも撤退を余儀なくされて「浜松城」へ戻りますが、徳川領で「遠江」の守りの要であった「二俣城」に攻めかけられます。「信玄」は城内へ通じる水の手である「井楼」を潰したので、水補給を断たれた城兵の「中根正照」は降城・開城しました。

 

その「徳川氏」の守りの要であり戦時用の施設であった「二俣城」と、平常時の城主の居住や政治空間としての機能があった「鳥羽山城」をご紹介します。この二つのお城の関係は「別郭一城」といわれ、郭は別々ですが、機能としては各々補完し合って一つのお城のようですのでそのように言われます。まずは「二股城」です。

 

 

 徳川方の守りの要であり、その後長男“信康”を自刃させた「二俣城」(静岡県浜松市

 

位置関係図↓

 

<「二俣城」の歴史と城主>

当初の「二俣城」は現在の位置から少し北側にありましたが、16世紀半ばに「今川義元」が「桶狭間の戦い」で敗死すると「今川氏」の家臣が「徳川氏」の侵攻に備えて現在の「二俣城」に砦を築いたのが最初です。

 

しかし当城は、「徳川氏」から「武田氏」更に「徳川氏」へと城主が替わり、「豊臣政権」下で、「徳川家康」が関東へ移封となると、その後「堀尾氏」が入城して石垣の導入等の大規模改修が行われました。

 

そして「関ヶ原の戦い」後、当城は廃城となります。

 

「二俣城」と言えば、「徳川家康」の長男「信康」が、「織田信長」から「武田氏」に通じているとの嫌疑をかけられて自刃を迫られ、1579年に21歳の若さで非業の死を遂げた城でもあります。このシリーズでは、同時に紹介をしていきます。

 

縄張り

西側に流れる「天竜川」を背にした天然の要害に立地し、軍事的な要塞になっていました。

 

そして縄張りは、北側から「北曲輪」「本丸」「二之曲輪」「蔵屋敷」「南曲輪」がそれぞれ「堀切」で区切られた「連郭式縄張り」を形成していました。更に西側へは「西曲輪」「水の手曲輪」が延びていました。

 

当時は、「二俣城」の南側には「二俣川」が流れていて、対岸には「鳥羽山城」が築かれていたので「別郭一城」のような関係になっていたようです。「鳥羽山城」については、次回のブログでご紹介します。

 

現地掲出の「縄張り図」ですが分かりずらく申し訳ないです↓

 

蔵屋敷~南曲輪

お城は標高90mの台地上に築かれています。上り切った所には、石段の両脇に石垣の門構えがあり、そこが「大手口」に当たる「虎口」になっていて、その中は「二之曲輪」となっています。

 

遠景↓

大手口(中は「二之曲輪」)

 

まずは左手に折れた先にある「蔵屋敷」跡を見て行きます。「蔵屋敷」跡と「二之曲輪(二の丸)」跡の間は「堀切」になっていて「横堀」風です。

 

「蔵屋敷」跡と「二之曲輪(二の丸)」跡の間の「堀切」↓

 

「蔵屋敷」は名前の通り蔵が建ち並んでいた敷地でしょうか、西側に向かって「土塁」が形成されて、その先には「腰巻石垣」風になっています。

 

「蔵屋敷」跡(西から東方向)↓

「蔵屋敷」跡の「土塁」から西側「腰巻石垣」↓

「蔵屋敷」跡の西側「腰巻石垣」↓

 

南側には「虎口」跡が見られ、そこを出ると「堀切」を挟んで「南曲輪」跡になりますが、木々が覆い被さっているので全体の姿は全く判りません。

 

「蔵屋敷」跡の「南側虎口」跡(「南曲輪」跡側から)↓

「南曲輪」跡(左側)と「蔵屋敷」跡の間の「堀切」↓

「南曲輪」跡の北端↓

 

二之曲輪(二の丸)

「大手口」へ戻り、「虎口」跡の石段を上がると左側は「櫓台」跡だったようで、そこから南側と西側にかけて幅がある土塁が続き、それに沿って「切岸」が施されいるので急斜面になっていて、「蔵屋敷」跡との間の「横堀」がかなり下に見えます。

 

「大手口」の「虎口」跡↓

「大手口」の「虎口」跡脇にある「櫓台」(「二之曲輪」内から)↓

「二之曲輪」西側の幅がある「土塁」上↓

「二之曲輪」土塁斜面の「切岸」(下は「蔵屋敷」跡との間の「横堀」)↓

 

本丸

「二之曲輪」跡をグルりと廻り、北側に位置して少し段上になった所が「本丸」跡です。「虎口」跡は、「本丸」跡の南東隅に低い石垣で桝形形成した門跡があり手前は「二之門」跡、左に折れ曲がった所には「一之門」跡の礎石が見られます。

 

「本丸」跡の南東隅に低い石垣で桝形形成した「二之門」跡↓

左に折れ曲がった所には「一之門」跡↓

「一之門」跡の「礎石」↓

 

「本丸」跡には、パンフレットやお城の本には必ず紹介される「野面積み」の「天守台」が横たわっています。北側には石段が有りますが、「天守台」上には特設の木の階段が設けられているので、当時そこに「付櫓」が建ち、その中の階段で「天守」1階にあがれたのであろうと想像できます。

 

「天守台」(南東方向から)↓

「天守台」(東面)↓

「天守台」(南面、石段が付く)↓

「天守台」(北東方向から)↓

 

「天守台」の上から見下ろす「本丸」跡は広く、丁度モミジの紅葉が始まったばかりで綺麗な光景です。「本丸」跡の西側は「土塁」が続きますが、先程の「桝形門」から東側にかけては石垣が続き、「喰い違い門」跡に至っています。

 

「本丸」跡(「天守台」から見下ろす)↓

「本丸」跡西側の「土塁」↓

 

馬出し~北曲輪・腰曲輪

「喰い違い門」跡は、外部からは「本丸」跡が容易に覗けなくなっている門構えで、外部に出た所には「馬出し」のスペースが少し残っています。

 

「喰い違い門」跡(「本丸」跡側から)↓

「喰い違い門」跡(「本丸」跡外側から)↓

「喰い違い門」跡を出た所に「馬出し」↓

 

「喰い違い門」跡を出た所にも「堀切」があり、現在は「北曲輪」跡へ石橋が架かっていて、「北曲輪」跡に建つ「旭ヶ丘神社」に渡ることが出来ます。

 

「石橋」の奥が「北曲輪」跡、下が「堀切」↓

「北曲輪」跡に建つ「旭ヶ丘神社」↓

 

その下の「堀切」は、かなり深く「竪堀」に繋がっているような感じです。

 

「石橋」の下は「堀切」↓

左側が「堀切」の続きで「竪堀」になっている↓

 

「北曲輪」跡の西側が坂道になっている場所は「腰曲輪」の跡で、「北曲輪」跡の北側にある小規模な曲輪との間にできた「堀切」の場所に出ます。

 

「腰曲輪」跡↓

 

清龍寺と井戸櫓

それでは、「徳川家康」の長男「徳川信康」が自刃後葬られた廟所がある「清瀧(せいりゅう)寺」へ向かいます。更に、「二俣城」の開城の引き金となった復興「井戸櫓」もあります。

 

「井戸櫓」は、復興されたものですが、1572年に「武田軍」が「城の水の手」を断つために、上流から筏を流して「井戸櫓」の脚柱に激突させて破壊したそうです。現在は櫓の真下に「井戸」があり井戸から汲み上げるようになっています。現在の姿では、当時の状況が良くわかりませんが、当時はこの下に川が流れていたのでしょうか。

 

復興「井戸櫓」↓

復興「井戸櫓」↓

復興「井戸櫓」の真下には「井戸」↓

復興「井戸櫓」の上部↓

覗き込むと真下には「井戸」↓

 

清龍寺内の「信康廟所」

「松平信康」が自刃したのは、もう少し後の1579年です。彼は、家康の正室「築山殿(瀬名)」との間に生まれた長男で、17歳では後程触れる「長篠の戦い」にも初陣していて、「織田信長」の娘「徳姫」と結婚していました。

 

しかし、「築山殿(瀬名)」が、「武田方」と通じて謀反を企てていて、「信長」との協力が必要であった「家康」にとっては徳川家が滅びるとのことで、「築山殿」を家臣に殺害させ「信康」を自刃させ死に追いやりました。(「どうする家康」では「築山殿」は湖のほとりで自刃してましたが)

 

殺害に至った理由はいろいろと憶測されています。一つは「徳姫」が「築山殿」「信康」と不仲になったのを父「信長」に密告して「信長」が激怒して殺させたとか、「家康」と「信康」が不仲であったとか、その他いろいろありますが真相はわかっていません。

 

さて、「信康廟所」は「本堂」の裏側にあり、近くまでは入れないように鍵がかかっています。赤い門扉には「葵」の紋が付けられ、ひっそりとした感があります。

 

「信康廟」への石段↓

鍵がかかった門があります↓

奥に見える「信康廟所門」↓

「葵紋」が付く「信康廟所門」

 

「徳川家康」は、自刃した2年後にここに訪れ、清水が湧いているのを見てこの寺名を「清瀧(せいりゅう)寺」として、ここに葬られた「信康」のおくり名を「清瀧寺殿」にしたといいます。主君でもない「織田信長」の命(めい)にも拘わらず、「信長」には反論できず従うことしかできなかった「父親」としての無念さは幾ばくかのものであったでしょうか。

 

次のブログでは「鳥羽山城」をお届けします。

 

 

 

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