大河ドラマ「どうする家康」もいよいよ明後日で終わりを迎えます。

 

今年中に「”家康”のでき事と所縁ある”お城”を振り返ろう」というテーマでブログをお届けしようと思っていましたが、つい「お城巡り」に足が向いてしまい「お城紀行」のブログを優先してしまうので、このシリーズは度々中断してしまい、「今年中」どころか「今年度中(2023年度)」に延長しそうです。

 

しかし、暫くの間お付き合いくださいませ。

 

「家康」の歴史を8期間に分けて、「家康」のでき事と併せて所縁ある「お城」を紹介しています。8期間については下記のプロローグをご参考ください。

 

プロローグ↓

 

<第2期>

 

第2期の「家康」の出来事>については「前編」でも記載しましたので、「後編」では割愛して、「掛川城」(静岡県掛川市)の続きに進みます。

 

現在の「掛川城」といえば、日本で4か所のお城の「御殿」が残る一つが現存でしかも重要文化財に指定されています。その「二の丸御殿」を見ていきましょう。

 

二の丸と二の丸御殿>

「天守」を下りて「二の丸」跡へ向かいましょう。「本丸」跡と「二の丸」跡の間には、「三日月堀」よりも大きな「十露盤(そろばん)堀」が横たわります。

 

「十露盤(そろばん)堀」↓

 

「二の丸」跡の一番の目玉は、現存の「二の丸御殿」が建っている事です。前述しましたが、「二の丸御殿」は、全国で4現存「御殿」(※)の内の一つで非常に貴重な江戸時代の御殿建築で、重要文化財に指定されています。

(※)二条城の二の丸御殿(国宝)、高知城の本丸御殿(重文)、川越城の本丸御殿(埼玉県有形指定文化財)

 

「二の丸御殿」(重文、「天守」から見下ろす)↓

 

「二の丸御殿」は一体となった建造物ですが、内部は南側に玄関・広間を置き、西面の南側(右)から「大書院」 、北側(左)が「小書院」となっていて、東面全体(上の屋根)が「藩の業務を行う役人の部屋」で構成されています。

 

「二の丸御殿」西面の南側(右)から「玄関」「広間」、手前が「大書院」↓

「二の丸御殿」西面の手前が「小書院」、奥の屋根が「藩業務を行う役人部屋」↓

 

「玄関」は特徴ある屋根を施していて「起(むくり)破風」の中に「蕪懸魚」が見えます。「玄関」で靴を脱ぎあがった所が売店になっていますがそこは元々「広間」だった所で、その裏側に外部からの要件取次、会談や会議に使用する「御談の間」があります。

 

「二の丸御殿」の平面図(パンフレットに掲載)↓

「二の丸御殿」の「玄関」↓

「二の丸御殿」の「玄関」(屋根は「起(むくり)屋根」で「蕪懸魚」が付く)↓

 

その左の一角が「大書院」で「三の間」「次の間」「二の間」そして藩主(城主)が外部の人と謁見する「御書院上の間」が並び、その間は書院造で、「床の間」「違い棚」が備わっています。

 

「二の丸御殿」の「三の間」↓

「二の丸御殿」の「次の間」から「大書院-御書院上の間」を見る↓

「二の丸御殿」の「大書院-御書院上の間」(左から「床」「違い棚」)↓

 

「大書院」の「御書院上の間」とは一部屋を挟んで背中合わせに藩主(城主)が座る「小書院」が配置されています。ここでは、藩主(城主)の執務室となっていてこちらも書院造りですが、「床の間」「違い棚」に加えて障子によって「付書院」を表現させています。

 

「二の丸御殿」の「小書院」↓

 

「次の間」の奥には、藩主(城主)が寛げる居間としての縦長の「長囲炉裏の間」がありその天井には「太田家家紋」があしらわれています。

 

「二の丸御殿」の「次の間」↓

「二の丸御殿」の「長囲炉裏の間」↓

 

「大書院」「小書院」のもう一つの特徴は、廊下部分が全て畳敷きになっています。

 

「二の丸御殿」の畳敷きの「廊下」↓

 

この廊下から板敷廊下に替わって東側に渡るとそこからは役所部分で役人たちが控える部屋が並びますが、先ほどまでの開放的な書院造りとは対照的な窓の少ない暗い廊下沿いに部屋が並びます。

 

書院から役所部分への渡り廊下↓

 

東側の並びは手前から足軽や下級武士を監督した「足軽目付」「徒(かち)目付」の部屋や「吟味奉行」「張役所」「賄方」「御文証」等の小さい窓しか無い土壁と板敷の部屋が並びます。

(※)因みに「吟味奉行」とは藩内の訴訟・事件・経理関係の吟味をした部署、「張役所」とは邸内の警備担当、「賄方」は城内の修理修繕、「御文証」は文書管理 

 

「二の丸御殿」の「役所」側の板敷廊下(この両側に部屋が並ぶ)↓

「二の丸御殿」内の「足軽目付」部屋↓

「二の丸御殿」内の「徒目付」部屋↓

「二の丸御殿」内の「吟味奉行」部屋↓

「二の丸御殿」内の「御文書」部屋↓

「二の丸御殿」 手前の内部は「賄方」「御文庫」、奥の内部は「御談の間」「広間」↓

 

一方西側の「大目付」「御用人部屋」は身分の高い役人の部屋でしょうか、中庭に面して明り取りの障子や襖が入り、畳敷きになっています。

(※)「御用人部屋」は、財務・庶務担当の部署

 

「二の丸御殿」内の「大目付」部屋↓

「二の丸御殿」 障子が入る部屋は「大目付」部屋(中庭から)↓

「二の丸御殿」内の「御用人部屋」↓

 

「御殿」を一周して当時の藩主中心に藩運営がどんな役職で賄われていたか、そしてその序列等を知ることができます。

 

「御殿」裏側には、「黒土塁」という「二の丸御殿」を外部から隠す目的の背の高い土塁を見ることができます。

 

「二の丸御殿」を東側から隠す「黒土塁」↓

 

「二の丸御殿」の東側下には、大きな池に赤い橋が架かっていますが、それが「内堀」の「蓮池」で、対岸には城下の様相に併せた「市立図書館」の建物が建っています。

 

「内堀」(蓮池)跡↓

 

<大手門>

「外堀」替わりの「逆川(坂川)」を渡る橋向うには復元「大手門」と現存移築された「番所」が並びます。「大手門」は、廃藩後民間に払い下げられた先で焼失した門でしたが、1994年に元の場所から約50m北方へ移動して木造復元されました。

 

総二階建櫓門、左側に脇戸を設け、背面左側には二階へ上がる階段が付き、窓は塗込連子窓、一階は梁先に「出桁」を置いてその四方に「板庇」を付けています。

 

復元「大手門」(窓は「塗込連子窓」、1階は梁先に「出桁」を置いてその四方に「板庇」)↓

復元「大手門」↓

復元「大手門」(手前は「番所」)↓

復元「大手門」背面の二階への階段↓

復元「大手門」の背面には歴代藩主の「家紋」と「家名」が列挙↓

 

「大手門」の内側(北側)には、移築「番所」が「大手門」とセットで配備されていて、こちらは、「谷家」の居宅として移築されていたものを1978年に掛川市へ寄贈され、1995年に大手門脇へ再移築されました。

 

移築現存「番所」↓

移築現存「番所」↓

 

<下台所、竹の丸>

「下台所」跡は、現在「大日本報徳社」の敷地と多くの歴史を感じる建造物群が並んでいる敷地となっています。

 

「大日本報徳社」とは、「二宮金次郎」の報徳思想を伝承する大本山らしく、正門の真正面に構える「大起破風」を持つ玄関とその上に入母屋屋根を持つ二階建ての「大講堂」(重文)は非常に立派な建物です。

 

「下台所」跡の石垣↓

「下台所」跡の敷地にある「大日本報徳社」の「正門」と「大講堂」(重文)↓

 

他にも、この敷地内には「仰徳学寮・事務室」(県指定文化財)、「仰徳記念館」(県指定文化財)等が並んでいます。

 

「下台所」跡の敷地にある「大日本報徳社」の「仰徳学寮・事務室」(県指定文化財)↓

 

「竹の丸」跡は、「天守丸」「二の丸御殿」の真裏(北側)の崖下になり、当時は重臣や家臣の屋敷が建ち並んでいた場所でした。

 

「竹の丸」跡の北東側に残る「土塁」、この下は「乾堀」跡↓

 

「竹の丸」跡には立派な和風建築が建っています。これらは江戸時代に葛布問屋だった「松本家」が1903年にこの場所を得てここに本邸宅を築き、その後1920年頃には離れを二階建てにしてステンドグラス入り貴賓室を設けたり、枯山水の回遊式庭園を造園しました。現在、豪商の屋敷を伝えて市指定文化財に指定されていますが、市民に対して貸室などを提供しています。

 

旧「松本邸」の塀重門↓

旧「松本邸」和風建築↓

 

以上、現在の「掛川城」には、「家康」が「今川家」から取得した当時の姿は残念ながら、殆ど残っていません。

 

これらは、関ヶ原の戦い後に入城した「山内一豊」やその後に度重なる移封で入城した「譜代大名」の手によって何らかの手を加えられてできたお城であることをご理解いただきたいと思います。

 

次回のブログからは、「駿河」を得た「武田氏」が「家康」が手に入れていた「遠江」に攻めてきてそれに対応を図った<第3期 対武田氏攻略期>になります。その<攻略期>において、「家康」が手に入れたり、手放さざるを得なかったお城をご紹介していきたいと思います。

 

 

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