大河ドラマ「どうする家康」もいよいよ次の日曜日で終わりを迎えますね~
今年中に「”家康”のでき事と所縁ある”お城”を振り返ろう」というテーマでブログをお届けしようと思っていましたが、つい「お城巡り」に足が向いてしまい「お城紀行」のブログを優先してしまうので、このシリーズは度々中断してしまい、「今年中」どころか「今年度中(2023年度)」に延長しそうです。
しかし、暫くの間お付き合いくださいませ。
「家康」の歴史を8期間に分けて、「家康」のでき事と併せて所縁ある「お城」を紹介しています。8期間については下記のプロローグをご参考ください。
プロローグ↓
<第2期の家康(元康)の出来事>
第2期「戦国大名駆け上がり期」では、「織田信長」との同盟関係を礎に東三河の「今川領」へ攻め入り、1562~1566年にかけて「今川氏」のお城であった「吉田城」「西尾城」「田原城」等を次々と攻略して「家康」のお城にしていきます。
1566年には「松平」姓から「徳川」姓に改姓し、「三河守」を叙任しました。25歳の時です。
そして1567年には、「織田家」との同盟関係を一層強固とするために、「家康」の嫡男である「信康」を「信長」の娘「五徳」と結婚をさせます。
1568年には、「武田信玄」とも同盟を結びました。両者の狙いは、今川領である「駿河・遠江」であり、「大井川」を境にして「家康」は「遠江」を、「信玄」は「駿河」を得ようと考えました。勿論その前提として、1565年には「織田」と「武田」は婚姻関係を結ぶと共に、「武田信玄」の長男と「今川義元」の娘と結婚していたのを廃嫡しましたので、そのような同盟は成立が可能となっていました。
同盟がなった1568年12月には、まず「信玄」が「駿河」へ進攻し、「家康」も「遠江」に進攻を始めました。
「今川氏真」は、両氏の挟撃には耐えることが出来ず、「今川氏」配下の離反が相次ぎ、結果として「駿府城」を中心とする「駿河」は「武田家」の手に落ち、「引間城」を中心とする「引間(浜松)」は「家康」の手に落ちました。
<第2期>
『家康が“駿府城”に移る迄居住し、江戸時代には出世城と言われた「浜松城」(静岡県浜松市)』
<「浜松城」の歴史と城主(藩主)>
「徳川家康」が1568年に攻城した「引間城」の名称を1570年に入城以降は「浜松城」と改称しましたが、1586年に「家康」は本拠地を「駿府城」へ移し、「浜松城」には「菅沼定政」を城代として置きます。
しかし「豊臣秀吉」政権下となって、「家康」は「関八州」への移封となるとその後に入った「秀吉」配下の「堀尾家」(12万石)の時にお城の整備拡張が行われました。
関ヶ原の戦い以降は譜代大名の居城となり、「桜井松平家」「水野家」「高力家」「大給松平家」「太田家」「青山家」「本庄松平家」「大河内松平家」「井上家」等が5万石前後で入城して、城主は目まぐるしく替わり定着しませんでした。
ただ、当城主の多くが、江戸幕府の「老中」等の重役に抜擢され、「家康」の所縁のお城であることから「出世城」とも言われました。特に有名なのは、19世紀の初めに「天保の改革」を推進した「水野忠邦」で、彼は老中に成りたくて、敢えて収入の良い「唐津城」から当城への転封を希望して城主となりました。
<縄張り>
「浜松城」は、中世城館である「引馬(ひくま)城」を城内に取り込み、最高所に「天守曲輪」を置きました。そして東側に「本丸」そして「二の丸」を設け、「梯郭式曲輪」となっています。
縄張り図(現地に掲出)↓
家康在城期の浜松城(1570年代、現地に掲出)
更に、その南東に広大な「三の丸」と侍屋敷を置いて城下町が拡がっています。「天守曲輪」の南西には「清水曲輪」、その西側に「西端城(にしばじょう)曲輪」を配備し、更に北西には広大な「作左(さくざ)曲輪」を南側の谷を隔てた小丘には「鳥居曲輪(出丸)」を設けています。特徴的なのは、南側と東側に堤防状の「中土手」を設けていました。
「堀尾吉晴」が入城後に築いたと思われる「天守」の位置は、西側にある「天守曲輪」の「天守門」を入って西端に位置します。
「堀尾吉晴」在城期の「浜松城」(1590年代、現地に掲出)↓
<本丸・二の丸>
「二の丸」跡の西側にある「本丸」跡は、丘陵地となっていて「空堀」跡だった道の西側にあります。「本丸」跡の入口は「鉄(くろがね)門」と呼ばれる「櫓門」が建ち、その脇には「菱櫓」が建っていましたが、その遺構は殆ど無く場所の表示のみです。
この付近に「鉄門」があったらしい↓
その横の石段を上がった細長い広場が「本丸」跡で、ここにも若かりし頃の「徳川家康像」がど真ん中に立ちます。ここから東側下が「二の丸」跡の市役所建物や元城小学校跡地の広場、その奥には、前回の見た「引間城」跡のこんもりした森が見渡せます。元城小学校跡地の広場は、現在は「どうする家康 大河ドラマ館」が建っています。
「本丸」跡(「天守門」前から見下ろす)↓
「本丸」跡に立つ若かりし頃の「徳川家康像」↓
「二の丸」跡の市役所建物や元城小学校跡地の広場(現在は「どうする家康 大河ドラマ館」)
<天守曲輪と天守門>
一方、西側は「天守曲輪」跡になっていて、古い形式の「野面積み」石垣が貼りついていて迫力満点です。西側から北側にかけても石垣が延びていて、その先端には「富士見櫓」台が残ります。
「本丸」跡から見上げる「天守曲輪」跡の「野面積み」石垣
「本丸」跡から見上げる「天守曲輪」跡の「野面積み」石垣
「富士見櫓」は「平櫓」で御殿風の櫓だったそうで富士山を望めたようです。「太田家」時代の家紋付き瓦が多数出土していることから、1644~78年頃には建っていたのではないかと言われています。
「富士見櫓」台(「本丸」跡から)↓
「富士見櫓」台上(丁度、左のホテルの建物の向こうに富士山が見えた)↓
「天守曲輪」跡へは復元「天守門」から入城しますが、門の両脇には「鏡石」が嵌められ、更にその両脇の石垣は「野面積み」で「布積み」になっている珍しい積み方が見られます。平べったい「珪岩」と言われる石が積まれているので横に目地が通っているように見えます。また「天守門」の両脇には「鏡石」が据え置かれています。
復元「天守門」脇の「鏡石」(向かって左側)↓
復元「天守門」脇の「鏡石」(向かって右側)↓
復元「天守門」は、2014年(平成26年)に木造復元されました。形式は「櫓門」で、明治時代初めまで残っていたようで、色々な文献や発掘調査から、本物に近い形で復元されました。
復元「天守門」(「天守曲輪」跡外側から)↓
復元「天守門」(「天守曲輪」跡内側から)↓
復元「天守門」の内部↓
復元「天守門」の内部の石落とし↓
<天守>
普通のお城では、「天守」は「本丸」内に置かれることが多いですが、「天守曲輪」と「本丸」が別のお城は多くなく、例えば「掛川城」「伊予松山城」「和歌山城」があります。これは地形の問題があって、西側が高く東側が低くなっていて平坦面を確保するのが無理だったためと思われます。
「天守台」の石垣は「堀尾家」時代の古いものが多く残っています。「天守台」を発掘すると瓦が多数出てきているので「天守」が建っていた可能性は高いのですが、絵図や記録では「天守」の様子を示した資料がないらしいです。
従って、現在建っている「天守」は、1958年(昭和33年)に従来存在していた「天守台」上に建てられた、三重三階(地下一階)の鉄筋コンクリート製の模擬「天守」です。
しかも、再建当時の予算状況の関係から、「天守台」を全面的に使用せずに、東側から2/3程度を使用して築かれましたので、「天守台」の西端部分が余っています。
模擬「天守」(南側から)で「天守台」の西端が余っている
しかし、非常にコンパクトでおさまりの良い「天守」にはなっています。外観を見ると、一重目に望楼が乗っかっている「望楼型天守」で最上階には観光用として「廻縁・高欄」を付けています。そして一重目の桁行には「千鳥破風」で装飾しています。
模擬「天守」(南西方向から)↓
また外壁は、「下見板張り」で「石落とし」が装備されています。ただ、「石落とし」も予算の関係なんでしょうか1箇所しか取り付けられていません。
野面積みの「天守台」と「石落し」↓
現在は「天守」だけが「天守台」に建ちますが、「付櫓台」が残っているので、当時「天守」が建っていたとすると「付櫓」が付随していてそこから入ったものと思われます。
模擬「天守」と付櫓台(南東側から)↓
「天守」は最も高い所に建っていますので、周辺からも良く見えます。まず、南側の「清水曲輪」跡越しに「天守門」と共に見えます。
模擬「天守」と「天守門」(清水曲輪跡越し)↓
「天守」は鉄筋コンクリート造りですので、内部は特に特徴はありませんが、地階の穴藏には「井戸」跡が残っていています。
鉄筋コンクリート造りの三階と階段↓
天守内最上階の天井(譜代大名時代の各藩主の瓦)↓
穴蔵地階の井戸と井戸枠
<天守台と屏風折れ>
「天守台」は野面積み石垣で石英が入った比較的固い「珪岩(けいがん)」を積上げ、「天守曲輪」の石垣も、一見して古いと感じる石垣がむき出しで見えます。これらの石垣の積み方は、「野面積み」ですが、石が横一列に並べられた「布積み」になっています。このような積み方をしているお城の石垣は非常に珍しいです。
「天守曲輪」の「野面積み・布積み」↓
「天守曲輪」の「野面積み・布積み」↓
「天守」の西側後方には「八幡台」という所があります。この「八幡台」というのは、「天守台」より石垣5段分高く面積40㎡の敷地で、そこには武士の守り神である「八幡菩薩」を祀った場所です。「天守曲輪」跡の「搦手門」である「埋門」跡から「八幡台」を見上げることになります。
飛び出ている所が「八幡台」(手前は「埋門」跡の石垣)↓
「天守曲輪」の「搦手門」である「埋門」跡から南側、東側にかけて、「屏風折れ」の「鉢巻石垣」が見られるのがこのお城の特徴でもあります。「埋門」跡を出た「西端城曲輪」跡から見上げるとその「入隅」「出隅」が良く解ります。
「搦手門」である「埋門」跡↓
「埋門」跡からの「屏風折れ」が見られる↓
「天守曲輪」跡の「屏風折れ」(「入隅」「出隅」が交互に見られる)↓
「屏風折れ」を「西端城曲輪」跡から見あげたところ↓
<清水曲輪>
一旦ここから「清水曲輪」跡に下りると、坂に沿って石塁を築きその上に土塀を設けた「登り塀」跡や、坂道の下に「堀尾氏」時代の「野面積み・布積み」の遺構があるのを確認できます。
「清水曲輪」跡↓
「登り塀」跡の箇所↓
下部2/3~3/4部分が「堀尾氏」時代の「野面積み・布積み」↓
また、少し南側のメイン道路沿いには、1572年の「武田信玄」との戦い「三方ヶ原合戦」から敗北して帰ってきた「徳川家康」が、鎧を脱いで休憩したと言われている「鎧掛松」が植わっています。ただこの松は三代目とのことでした。
三代目の「鎧掛松」↓
<作佐(さくざ)曲輪>
ここからもう一度「西端城曲輪」跡へ戻り、「浜松市美術館」の奥に拡がる敷地「作左曲輪」跡を見ます。
「作佐(さくざ)曲輪」は、「本多重次」の屋敷跡と言われています。その名前の謂れは、「三方ヶ原の戦い」時に「重次」が長期戦に備えて米の貯蔵を十分に用意していたことに対して、「家康」は米蔵の有った場所に「重次」の屋敷を造ることを許したとのことです。
因みに「重次」は三河経営における三奉行の一人で「鬼作左」と呼ばれ、「長篠の戦」では、「一筆啓上火の用心 お仙泣かすな馬肥やせ」の日本一短い手紙を妻に送った武将としても有名です。
「浜松城略絵図(安政年間)」(現地に掲出)↓
「作左曲輪」跡↓
「作左曲輪」跡↓
<出丸(鳥居曲輪)>
「出丸(鳥居曲輪)」は現在、「浜松市図書館」となっていますが、「家康」在城時には「鳥居元忠」が守備していた場所とのことで、かなり高台となっています。「天守曲輪」からも、「出丸」からも相互に良く解る位置関係となっています。
「出丸(鳥居曲輪)」(「天守曲輪」から見る)↓
「出丸」跡から見た「天守曲輪」跡↓
「出丸」跡の石垣(左面は当時のものか?)
この「出丸」跡から一路「浜松駅」へ向かう途中に「大手門」についての説明書きが立ちますが、何の遺構もありません。
「大手門跡」の標識↓
以上が、「徳川家康」が約16年間過ごした「浜松城」でした。この間に、「今川義元」の息子「今川氏真」を攻めて「遠江」を完全に「家康」下に置くようになります。次回は、その「今川氏真」を攻めて降伏させた「掛川(古)城」をお届けします。
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