石・石塁・石垣シリーズ」では、「①②-(3)打込み接・乱積み」を展開しているお城の写真をお届けしています。今回は「四国(伊予 後編)の「松山城」お届けします。

 

「野面積み」の分類時にも記載しましたが、「打込み接」が導入された初期の頃の石の加工具合が、どのくらい加工されているのか見わけが付かず「野面積み」のようにも見えてどちらに分類すべきか迷う場合もありましたので、私の独断と偏見で分類したケースもありますが悪しからずご了解ください。

打込み接(はぎ)・乱積み」は、積み石の接合部分を加工して、極力隙間を減らした方法です。そして隙間には「間詰(まづめ)石」が詰められたので、石間の隙間が少なくなり足をかけて上りづらくなりました。「接(はぎ)」とは接合するという意味です。

 

「乱積み」は、石の大きさを揃えていないので、横目地は通らず乱雑に積上げた印象がある一方、「布積み」では、石の大きさをある程度揃えているので目地が通り、隙間にも間詰石を丁寧に入れています。

 

文禄年間(1592年~96年)以降に築城されたお城の石垣はこの積み方が多いようです。年代が後半に行くほど、石の加工が丁寧になり角が斫られて成形が進みました。

 

この頃になると、「豊臣秀吉」による全国統一が進行し、傘下に置かれた領地には「豊臣臣下」の大名が入ってお城を築いたり、領土を安堵された大名達が自分の領土にお城をあらためて築く際には、中央政権下で進化している石垣技術や作事物技術などの築城技術が地方に伝播していきます。

 

従って、近くに石が豊富に有る(石場という)立地のお城には、進んで新技術による築城が進められました。

 

「松山城」(愛媛県松山市)<「揚木戸門」跡の石垣>

「松山城」(愛媛県松山市)<重文「戸無門」と復元「筒井門西続櫓」脇の石垣>

「松山城」(愛媛県松山市)<「大手門」跡から重文「戸無門」と「筒井門」周辺の石垣>

「松山城」(愛媛県松山市)<「南曲輪」跡の北面~「本丸」跡の北面の石垣> 

「松山城」(愛媛県松山市)<「本丸」跡東面の石垣>

「松山城」(愛媛県松山市)<復元「乾門東続櫓東折曲り土塀」下の石垣>

「松山城」(愛媛県松山市)<重文「乾櫓」台>

「松山城」(愛媛県松山市)<重文「野原櫓」台>

「松山城」(愛媛県松山市)<二の丸跡「東大砲台」(現二の丸史跡庭園北側)>

「松山城」(愛媛県松山市)<二の丸跡「槻(けやき)門」跡の石垣>

「松山城」(愛媛県松山市)<二の丸跡 復元「二の丸多聞櫓」台(現二の丸史跡庭園)>

「松山城」(愛媛県松山市)<二の丸跡「防水用の大井戸」周囲の石垣(現二の丸史跡庭園)>

「松山城」(愛媛県松山市)<「東曲輪」跡内の石垣(現 松山東雲学園内)>

「松山城」の詳細はこちらからご覧ください。↓

 

 

 

 

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