新型コロナウイルス感染予防「緊急事態宣言」の解除後初めての「お城巡り」は、25日(月)に出かけた大坂城(大阪府大阪市中央区)でした。前編と中編のブログでは、「本丸」跡と「二の丸」跡などの城域内をお伝えしました。(但し、今回は「大手門」から入城しませんでしたので、そこから「桜門」までのルートは未掲載です)

 

前編  https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12599669867.html

中編  https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12600303398.html

 

前回ブログ(中編)では、「玉造門」跡から坂道を下り、そこから見える「二の丸」跡南面の「横矢掛り」を最後に見ました。

 

本日のブログ(後編)では、そこから東・南側に向けて広がる「三の丸」跡で、特に南側に向けて歩を進めます。

 

「大阪城再発見」の地図に黄色で塗った所を目指しました(一部行けない所はありました)

「大阪城再発見」(大阪市中央区が発行しているパンフ)

現在の「阪神高速東大阪線」の下を走る「中央大通り」南側には7世紀中頃と、8世紀前半に日本の「都」が置かれ、その跡地利用した「難波宮跡公園」がありますが、その東側一帯は、「豊臣期」に臣下を集め武家屋敷が集まっていた所だそうです。

 

その中に「越中井」という「古井戸」が木々に囲まれて存在します。この井戸は、「細川越中守忠興」の大名屋敷の台所内にあったと伝わる井戸です。「秀吉」死後、「忠興」が上杉征伐の為に「家康」軍に従軍している間に、反「家康」であった「石田三成」が大名妻子を「大坂城」に集めて人質にしようとした時のことですが、「忠興」の妻である「ガラシャ夫人」は抵抗して、邸に火を放って自害したというエピソードがある場所です。

「越中井」とその碑

そこから、南東には「玉造稲荷神社」があります。こちらの神社には「豊臣秀頼」像が境内に立ちます。というのも、当神社には、「淀殿」と「秀頼」を結んでいた「胎盤と卵膜」を奉納しているそうで、「秀頼」所縁の神社です。

 

「玉造稲荷神社」正面

「玉造稲荷神社」内に立つ「豊臣秀頼」像

「玉造稲荷神社」境内(淀殿と秀頼の胎盤・卵膜を鎮めるとの表記)

また境内北東隅には、「千利休」の邸が近くにあったので、ここから湧き出る湧水を茶の湯に使用した場所ということで碑が立ちます。

 

「千利休」顕彰碑

当神社から、緩やかな坂道を下って行った先には「三光神社」があります。境内に入ると、赤地に六文銭が描かれ「真田丸」と書かれた幟がいたるところに立ちます。

 

「三光神社」境内に林立する「真田丸」幟

こちらの神社は、「真田幸村(信繁)」所縁の神社ということで、NHK大河ドラマ「真田丸」の放映時には非常に人気があった神社です。私は、こちらに一度訪問したことがありましたが、「真田幸村」像と「幸村の抜け穴」をもう一度写真に納めたく立ち寄りました。

 

「真田幸村(信繁)」像

ここ「三光神社」の南西方向すぐの所が「真田丸」が築かれた場所といわれています。

 

「真田丸」とは、1614年~15年にかけて勃発した「大坂の陣」の時に、「真田幸村」が「大坂城」の南の防御・攻撃拠点として築いた「出城」ですが、当時「幸村」は「大坂城」との連絡通路として、この場所から「大坂城」内までの間にトンネルを掘ったと謂われているのが、ここの「幸村の抜け穴」だそうです。

 

幸村の抜け穴

幸村の抜け穴の中

約10年前に「文藝春秋」から本が出て、その後映画化された「プリンセス・トヨトミ」(万城目(まきめ)学 著)の、大阪「空堀通り」から「大阪城天守」地下迄繋がっているトンネルと地下世界を舞台にした映画を思い出しました。

 

そして、「三光神社」から「真田丸」跡と謂われている「明星学園」という中・高学校の場所の間には、「大坂城」とは関係がないですが、「真田山陸軍墓地」が広がっています。この墓地は、日本で最初、明治4年に設置された軍用墓地ですので、明治草創期や西南戦争から第二次世界大戦までに亡くなられた方の古びた墓標が整然と並び、明治初期の年代が刻まれているモノも多く見かけられました。

 

整然と並ぶ「真田山陸軍墓地」の墓標

整然と並ぶ「真田山陸軍墓地」の墓標

この一帯は「真田山」という小山だったことが良くわかる場所でもあり、「幸村」がこの小山を取り込んで「出城」を築いたのには肯けます。

 

「真田山陸軍墓地」からは、一旦降りてた谷底の道から西にかけて登って行ったところに「真田山小学校」があり、更にその西側に「真田丸」跡地の有力候補と謂われている「明星学園」の敷地があります。

 

「真田丸」跡周辺の現在地図

この敷地の東側に新しく「真田丸顕彰碑」が立てられていて、解説と江戸時代に描かれた「真田丸」辺りの絵図、それに「大坂城」との位置関係が判る絵図が掲出されています。

 

真田丸顕彰碑(明星学園の東側坂道沿い)

「大坂三郷町絵図」(顕彰碑内に掲出)に表示の「真田丸」付近

「明星学園」周囲は、東・西側ともに北に向かって坂道になり、南部分が高台になっているような感じですが、そこが「真田丸」跡だと聞かない限りは、解らないだろうと思います。「真田丸」は、独立したお城の役割を持たせていたとか、「武田信玄」が多用した「丸馬出」の大きい軍事基地だったようでもあると謂われています。

 

「真田丸」跡候補地と謂われている「明星学園」とその東側の坂道(北方向)

「真田丸」跡候補地と謂われている「明星学園」とその東側の坂道(南方向)

今回初めて「真田丸」跡を訪れたことによって、「豊臣家」最後となる「大坂の陣」激戦地に思いを馳せることができました。

 

次回から、中断していました「”現存三重櫓”の色々な方向から顔・姿を見る」の「彦根城三の丸三重櫓」をお届けします。

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