新型コロナウイルス感染予防「緊急事態宣言」の解除後初めての「お城巡り」は、25日(月)に出かけた大坂城(大阪府大阪市中央区)でした。前回のブログでは、「本丸」跡の南東に位置している「紀州御殿」跡と池泉庭園までをお届けしました。
前編 https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12599669867.html
後編 https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12600615277.html#_=_
2日間中断しましたが、今回のブログは、「本丸」跡南東沿いの三重櫓台から望む「西の丸」跡から、順次巡っていきます。
天守閣パンフに掲載の地図に赤字で立ち寄った所を記載
本当は、「西の丸」跡へ足を運び、「西の丸」跡に現存している重文の「千貫櫓」「乾櫓」「焔硝蔵」の写真を撮ってから、「本丸」跡と「復興天守」の写真を撮りたかったのですが、「西の丸庭園」は休園でした。
そこで、普段はあまり足を運ぶことがない、「本丸」跡東南隅から東側にかけて江戸時代には林立していた「三重櫓」跡の「鉄砲方預櫓(西の一番櫓)」跡、「弓方櫓(南西隅櫓)」跡、「具足方預片菱櫓(数寄屋前櫓)」跡、「具足方預櫓(御成門之内櫓」跡から、「桜門」付近や「二の丸」跡や「西の丸」跡を眺めてみました。
「鉄砲方預櫓(西の一番櫓)」跡付近から「桜門」前の土橋方向
「鉄砲方預櫓(西の一番櫓)」跡付近から「桜門」を見る
「鉄砲方預櫓(西の一番櫓)」跡から「弓方櫓(南西隅櫓)」跡と空堀を見る
「具足方預片菱櫓(数寄屋前櫓)」跡から「西の丸」跡と水堀を望む
「具足方預片菱櫓(数寄屋前櫓)」跡から「帯曲輪」跡を望む
その後、定番の「桜門」桝形を通り抜けましたが、今回は「本丸」跡から「桜門櫓門(二の門)」の石垣を見て左へ折れ曲がって「桜門高麗門(一の門)」を抜ける逆コースをとりました。勿論、折れ曲がり道の右手には「蛸石」が張り付いていますので、じっくり写真を撮っておきました。
「桜門櫓門(二の門)」の櫓台
「桜門桝形内」の蛸の形の模様がある「蛸石」
というのも、前回のブログでも記載しましたように、これだけ人が少ないことは稀ですので、人姿を気にすることなく写真を撮れる機会は滅多にないことだからです。
特に、「桜門」南側の「土橋」上から、「桜門高麗門」の脚の間に「天守」の姿を捉えることは普段はなかなか難しいのですが、全くの人気(ひとけ)なしに撮影できました。
重文の「桜門高麗門」
重文「桜門」から覗く「天守」(誰も人影なく撮れました)
「桜門」南側は、「二の丸」跡の「東大番頭小屋」跡から「大番衆小屋」跡という、徳川時代に「大坂城」を管理していた幕府の旗本達が詰めていた役所が並んでいた場所ですが、現在は東西に「豊国神社」となり横たわり、さらにその周囲の東側から南側にかけては二層の「隅櫓」が「一番」から「七番」まで番号を付けて並びました。現在は「一番櫓」と「六番櫓」の二基だけが残り重文に指定されています。
「豊臣秀吉」を祀る「豊国神社」
その「一番櫓」下まで久々に近づき、更に「一番櫓」脇に続く「玉造門」跡を監視・攻撃できるように「銃眼」が並ぶ場所から立派な石垣を眺めました。
「一番櫓」北脇にズラリ十並ぶ「銃眼」
「一番櫓」脇から望む「玉造門」周辺の石垣
「一番櫓」から今度は、大きなサイズに切り込んだ石垣がある「東仕切門」跡に向かいます。そこから「空堀」と「水堀」の境目を見下ろし、北方向に沿って「具足方櫓(馬印櫓)」「鉄砲方預櫓(月見櫓)」「蔵方預櫓(糒櫓)」の各跡の石垣が並び、西方向へは「大番頭預櫓(東南隅櫓)」「南の手櫓跡」の各跡の石垣が見られます。当時の古写真を見ると、壮観であったことが良くわかります。
手前から「大番頭預櫓(東南隅櫓)」「具足方櫓(馬印櫓)」「鉄砲方預櫓(月見櫓)」「蔵方預櫓(糒櫓)」の櫓台
古写真(当時の姿「具足方櫓(馬印櫓)」「鉄砲方預櫓(月見櫓)」「蔵方預櫓(糒櫓)」)
手前から「大番頭預櫓(東南隅櫓)」「南の手櫓跡」の櫓台
「本丸」跡東側沿いの高石垣から、「内堀」越しに位置する「直角三角形」の形をした曲輪が「市正曲輪」で、江戸時代には北半分が「加番小屋敷」跡、南半分が「玉造口定番屋敷」跡が広がっていた場所です。
「玉造口定番屋敷」跡
「玉造口定番屋敷」跡
「玉造口定番屋敷」跡付近には、「徳川大坂城」や「豊臣大坂城」以前に「大坂」で勢力を誇っていた「蓮如上人」率いる「大坂本願寺」があった場所らしいですが、現在は「南無阿弥陀仏」と刻まれた大きな碑と「蓮如上人袈裟懸の木」と伝えられている松の根元だけが残っていて解説文があります。
「南無阿弥陀仏」と刻まれた大きな碑
「蓮如上人袈裟懸の木」と伝えられている根元
「玉造口定番屋敷」跡の南東側には、「大坂城」外部からの出入口4門の内の一つ「玉造門」跡の立派な石垣が残ります。因みに、あと三つが、前回ブログで紹介した「青屋門」、そして「大手門」「京橋門」です。
「玉造門」脇には、「雁木」が横たわりその上には「銃眼」が備え付けられています。また、前述した「一番櫓」が当門を監視していたというのが、その位置関係で良くわかりました。また、当門の東側には「巽櫓」さらにその北側には「艮櫓」が建っていて、「玉造門」の監視をより高めていたと思われます。
「玉造門」西側の「雁木」
「玉造門」跡と奥に「巽櫓」台(南側より)
「玉造門」跡(南側より)
「玉造門」雁木から「一番櫓」がのぞく
「玉造門」から南側にかけて坂道になっていますが、右手には幅が広い「外堀」が豊富な水を湛えていて、その向こう側に建つ「一番櫓」からは、南に歩いている姿を絶えず監視されている気配を感じます。
「一番櫓」東面
「一番櫓」南東隅
「外堀」越しにみえる「二の丸」跡の東南隅には、本来は「二番櫓」が建っていいましたが、現在は櫓台跡だけです。そこから西側に伸びる高石垣は、「横矢掛(よこやがかり)」を取り入れて「三番櫓」以降の櫓配置が導入されていたのが良くわかり、西側遠くには現存の「六番櫓」
も眺めることができます。
「二の丸」跡南面の高石垣には「横矢掛り」が随所に見られる
重文「六番櫓」が西側奥に見えます
重文「六番櫓」の南東隅側
「玉造門」前の坂道を下った所から南東に広がる森林は、「算用曲輪」跡と言われ、「豊臣秀吉」が「大坂城」築城時に経理担当の役所を置いていたことから命名され、江戸時代には庶民が楽しめる小山「杉山」になっていたそうで、現在は「森林公園」となっています。緑の少ない大阪市内の中では、数少ないグリーン地帯となっています。
算用曲輪(江戸時代には「杉山」と呼ばれた)
算用曲輪(江戸時代には「杉山」と呼ばれた)
以上が今回の「大坂城」城内の案内でしたが、更にここから南にかけても「大坂城」関連施設や「大坂の陣」で「真田幸村」が築いた「出城 真田丸」等が並んでいたエリアが広がります。次回ブログで紹介します。
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