只今「城スキーのお城紀行」は、「日本100名城」のお城を順次紹介しています。

 

「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。

 

発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。

 

「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。

 

紹介していく順番は、「日本城郭協会」が北から都道府県別に振っている番後に沿って紹介しています。

 

天然の地形を利用し“北条家”のお城に仕上げた「鉢形城

埼玉県大里郡寄居町

●城主と歴史

「山内上杉家」の家宰「長尾景信」死後、その跡目を巡り「長尾景春」は意義を申し立てして、1476年に「景春」が「鉢形城」を築城して籠城します。

 

その後、「景春」は、「太田道灌」によって追放され「山内上杉顕定」が入城してその養子の「顕実」が継ぎます。しかし「上杉憲房」が攻めて城を得た後、「憲房」に従う「藤田家」の支配下に置かれましたが、1546年の「河越城」の争奪戦となった「河越夜戦」で「憲房」は「北条氏康」に大敗して、「北条家」のお城となります。

 

1569年頃に「武田信玄」による「小田原攻め」で侵攻されますが、「北条氏邦」が「鉢形城」を本拠地として、守り切ります。

 

1590年の「豊臣秀吉」による「小田原攻め」では、「氏邦」は3,000名の兵で籠城しましたが、「前田利家」「上杉景勝」等の35,000名の包囲網に屈して開城しました。

 

お城の概要と特徴

<立地と縄張り>

 「鉢形城」は、「荒川」と「深沢川」の間の切り立った崖の上の天然の要害に造られた「梯郭式」のお城です。

 

鉢形城曲輪配置図 ↓

荒川(正喜橋から) ↓

「鉢形城跡」碑 ↓

 

「荒川」と「深沢川」の合流地点から「笹曲輪」-「本丸(本城)」-「二の丸」-「三の丸(伝秩父曲輪、伝逸見曲輪)」と扇子状に広がり、「深沢川」を越えたエリアは「外曲輪」になっていました。

 

曲輪間には、「土塁」と「空堀」を多用し、「北条家」が得意とした「馬出」も見られ、現在でもそれらの遺構が良く残っています。

 

それでは、それらの遺構を「外曲輪」から「笹曲輪」にかけて見ていきたいと思います。

 

<外曲輪>

「外曲輪」跡は約200mの長さもある細長い曲輪ですが、現在は「歴史館」やその駐車場等広大の広場となっていて、「歴史館」の裏側に降りて「深沢川」から一旦「堀切」を下っていきます。

 

外曲輪跡 ↓

深沢川 ↓

 

「深沢川」から上る道沿いには高い立派な「土塁」が並びます。 

 

土塁 (深沢川からニの曲輪への途中 ↓

土塁 ↓

 

<三の曲輪>

「三の曲輪」は、北側と南側部分にわかれ、北側部分は「伝秩父曲輪」とも呼ばれています。天正年間(1573~92年)に家臣の「秩父孫次郎一族」が住んで守備していました。

 

発掘調査で、「石積石塁」や庭園跡が見つかって、「石積石塁」は整備復元されています。石使いをしているお城は、関東の中世城郭(川越城、忍城、岩槻城)では無く「鉢形城」の特徴でもあります。

 

発掘調査に基づいて復元されているのは「四脚門」やその脇の「南石積土塁」、「北石積土塁」、「石組排水溝」があります。そして、「北石積土塁」と「南石積土塁」の間には「土塁」でできた「虎口」と「門」跡が見られます。

 

三の曲輪跡と復元四脚門・虎口方向 ↓

復元四脚門 ↓ 

南石積土塁 ↓

復元四脚門脇の復元石積土塁

北石積土塁 ↓

復元四脚門脇の土塀と石組排水溝復元 ↓

北石積土塁と南石積土塁の間の虎口と門跡 ↓

 

南側の「伝逸見曲輪」方向は広大で、家臣の「逸見家」が居住していたと言われています。「角馬出」や「空堀」一部「水堀」も導入していました。

 

三の曲輪跡から伝逸見曲輪跡方向 ↓ 

馬出跡とおくり泉水跡 ↓

馬出跡 ↓

 

<二の曲輪>

「三の曲輪」と「二の曲輪」の間には、長い「空堀」と「土塁」で分断されています。「二の曲輪」では、「畝」「土塁」なども見られます。

 

三の曲輪(左)と二の曲輪の間の堀と土塁 ↓

二の曲輪跡の畝、空堀、土塁 ↓

 

<本曲輪>

「二の曲輪」の北側には「本曲輪」が広がっていて、上段と下段に分かれています。

 

上段は「伝御殿曲輪」と呼んでいて、現在は道路の北側部分の広場になりますが、その北側「荒川」に沿ってかなりの高さの「土塁」が続いています。その土塁上からは、「荒川」を見下ろすことができます。

 

伝御殿曲輪の土塁 ↓

本曲輪跡 ↓

本曲輪跡から荒川を望む ↓

正喜橋から見る本曲輪跡の崖と荒川) ↓

 

下段は「伝御殿下曲輪」と呼ばれ、現在は道路の下になり「植物園」になっていますが、更に下に降りると「土塁」が平行に走っています。

 

伝御殿下曲輪の南下で両側に土塁 ↓

 

笹曲輪

「荒川」と「深沢川」の合流地点の曲輪で、笹の葉のように小さな曲輪という意味がこめられているそうです。この曲輪の西側側面には石垣の跡が見られます。この場所に、全体の模型が置かれているので全体像が把握できます。

 

笹曲輪 ↓

笹曲輪西面の石垣 ↓

 

 

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「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。

 

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関東では珍しい石垣造りの山城「太田(新田)金山城

群馬県太田市

歴史と城主

「清和源氏」の子孫で「足利氏」の一族であり、且つ「新田氏」の一族でもある「岩松家純」が古河公方「足利氏」に対抗するための拠点として1469年に築いたお城で、かの「太田道灌」が「天下の名城」だと称賛したお城です。

 

その後、下克上で「由良家」が台頭しますが「上杉謙信」に攻められます。しかしお城はそれらの攻撃に幾度も耐え抜き、更には「北条家」の持ち城となります。「豊臣秀吉」による「小田原征伐」(対「後北条家」)の後は廃城となります。

 

お城の概要と特徴

<縄張り>

「太田(新田)金山城」は、関東には珍しい石垣のお城で、標高239mの「金山」の山頂部に築かれた山城です。戦国期の関東七名城の一つです。

 

※関東七名城(川越城、忍城、前橋城、金山城、唐沢山城、宇都宮城、太田城)、上杉謙信と景勝を中心とした軍記物で選ばれたお城なので、上杉家の支援、攻略対象のお城しか選ばれていない。

 

「金山」を山頂にした「実城(みじょう)」を中心に、「西城(にしじょう)」「北城(きたじょう)」「八王子山ノ砦」の4つの曲輪群からなる複合的な城郭ですが、中核は「実城」です。

 

「実城」は、斜面に小さな曲輪が点在して、その間に岩盤を削った「堀切」や「土塁」で築かれた厳重な防備となっています。

 

「実城(本丸)」を中心に、「二の丸」「三の丸」「御台所曲輪」「南曲輪」、大堀切を隔てて「三の丸」西側に「馬場曲輪」「物見台」「馬場下曲輪」、「南曲輪」の南西に「鍛冶曲輪」が置かれていました。

 

また山頂付近には井戸が2つ掘られ、籠城戦にも耐えられる備えがありました。山頂の尾根上一直線に築かれた「連郭式」のお城です。

 

金山城跡主要部絵図 ↓

中核「実城」 ↓

 

西城>

駐車場の西側には、「太田金山城」を構成している4城の一つ「西城」跡があります。「西城」跡の西側には南北方向に筋違いに土塁があり「西城(にしじょう)筋違門」跡を設けて堀の西側には「見附出丸」跡が配備されていました。

 

駐車場前の「金山城跡」碑 ↓

見附出丸堀跡 ↓

西城筋違城門跡 ↓

見附出丸跡 ↓

 

<櫓台、物見台、堀切>

「西城」からなだらかな山道を上がると「西矢倉台」とその下には岩盤を穿った(うがった)深い「堀切」が見られます。「堀切」は4箇所見られその最も西側にあるのが「西櫓台西堀切」で、この堀底には石が敷いてあって通路としても使用されていたようです。その次にある「西櫓台下堀切」は2番目の「堀切」で底が「箱型」になっていました。

 

西矢倉台 ↓

西矢倉台西堀切 ↓

西矢倉台下堀切 ↓

 

「物見台」の上には「物見矢倉」が建てられていたようで、現在でも、赤城山・妙義山・榛名山や浅間山がのぞめ太田市内も見下ろせます。

 

物見台 ↓

物見台からの眺め ↓

 

「物見台」の下は「物見台下堀切」が岩を刳り貫いてできた様子を目にすることが出来ますが、その凄さを肌で感じることが出来ます。また、「竪堀」が段石垣の脇に掘られていています。

 

物見台下堀切↓

段石垣と竪堀 ↓

 

<馬場曲輪>

「物見台」の下には「物見台下虎口」があり両脇には石垣が積まれているので「馬場下通路」となっています。その先には「馬場曲輪」跡がありますが、そこは大手虎口を守る為に兵士達が待機した曲輪で3棟が建っていたようですので、現在は建物跡を利用した「四阿(あずまや)」が復元されています。

 

「物見台下虎口」 ↓

「物見台下虎口」 ↓

馬場曲輪下通路 ↓

馬場曲輪(大手虎口を守る兵士が待機した場所) ↓

 

そこを抜けると、飲料水確保や戦勝祈願などの祭礼の為に使用した二つの池(月ノ池、日ノ池)が掘られています。しかもその池の周りは石畳みになっています。発掘時からは、だいぶ整備されていますが、石畳の周囲は見ごたえがあります。

 

月ノ池 ↓

主郭部の絵図 ↓

 

大手虎口

いよいよ「大手虎口」は山頂の「実城」に向かう入口で、石畳の通路の両脇には石垣が堅固に詰まれています。発掘時には崩落が甚だしかったですが、積み直しの修築が行われ現在は見事な正面となっています。この正面からの眺めは、威圧するような見事な空間となっています。

 

発掘状況を元に復元されたものですが、当時このような技術を持っていたのには、驚きを隠せません。

 

大手虎口 ↓

 

三の丸、二の丸、本丸(実城)

虎口を入った通路左側には、数段の石段、壇上土塁がセリ上がる「北曲輪」跡があります。また、右側も壇上になった「南下段曲輪」跡となり、その間を抜けて少し上った敷地には「御台所曲輪」跡があって、そこからの眺めも最高です。

 

大手虎口南下段曲輪 ↓

大手虎口内の壇状土塁(石垣) ↓

正面と左側の壇状土塁(石垣) ↓

日ノ池 ↓

御一所跡 ↓

 

そして、本丸である「実城」に辿り着きます。そこには、明治8年に創建された「新田神社」が建ち、「新田義貞」を祀っています。

 

実城(本丸)の新田神社 ↓

実城(本丸)からの眺め ↓

実城(本丸)下の武者走り ↓

 

ここから15㎞離れた所には「新田荘遺跡」があり、武家の源流とも謂われる「新田家」発祥の地の為、「徳川秀忠」から贈られた社殿や宝物がある「世良田東照宮」もあります。

 

 

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「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。

 

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「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。

 

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中世城郭から井伊直政が近世城郭化するも”高崎城”築城で廃城になった「箕輪城

群馬県高崎市

城主と歴史

「在原業平(ありわらのなりひら)」の子孫と言われる豪族「長野家」がこの辺りを本拠として16世紀初めに城を造りました。その後「業政(なりまさ)」が猛将で、難攻不落の「箕輪城」を築きます。

 

「業政」は、関東管領「上杉憲政」に仕え、「河越城」攻め等にも関東管領「上杉家」と共に戦いますがその後関係が悪化し、「上杉謙信」に近づき「北条氏康」と戦います。しかし「業政」が亡くなると「武田信玄」に攻め落とされ「武田家」重臣が城代となります。

 

「武田家」が滅亡した後は、「滝川一益」→「北条氏邦」が相次いで奪取、小田原平定後は「徳川家康」が関東入りして、1590年に「井伊直政」が12万石で入城し石垣を導入する等近世城郭化しました。しかし1598年に「直政」は「高崎城」を築いたので廃城となりました。

 

お城の概要と特徴

<縄張り>

西側を流れる「榛名白川」の河岸段丘を活用し、南側には「榛名沼」の天然の水堀を活用した、天然の要害の「梯郭式」の「平山城」です。

 

「本丸」北側には出丸的な「御前曲輪」を設けその北東は断崖となっていました。また主郭部分は「本丸」と南側に「二の丸」「三の丸」が横に並び、深さ最大20m、幅30mの「大堀切」を隔てて「木俣」「水の手」の曲輪を分断させて配置させており、いざという時には一方に籠って籠城できる構成になっていました。

 

また主郭の中では、「本丸」と「二の丸」間、「二の丸」と「三の丸」間も5~6mの空堀で分断させていました。

 

「井伊直政」時代には、「本丸」南西部に「大手虎韜門(ことうもん)」を築いて、こちらを「大手門」に変更したほかに、主郭部には土塁の上に石垣を導入して強固にしています。

 

箕輪城全体図 ↓

 

<搦め手~木俣>

今回は「搦め手」から攻めたいと思います。

 

「搦め手門」跡 ↓

「搦め手門」跡からのぞむ「箕輪城」 ↓

 

そこからはゆっくりした坂を上がりまず目にするのは、「木俣」と「主郭部」を大きく分断している深さ約20mで幅30mの「大堀切」、そしてそこに突き出た「郭(かく)馬出」が目につきます。

 

大堀切と郭馬出 ↓

郭馬出(東側から) ↓

郭馬出の西側大堀切(大堀切の土橋から) ↓

 

まず「大堀切」の南側は、「木俣」「水の手」跡が広場となって残っています。

「木俣(きまた)」は、尾根が分れる中間点に置かれた曲輪で、曲輪を削って数段の平坦地を設けて斜面は石垣で補修されています。主に、家臣団の居住地として使用されたようです。

 

木俣跡 ↓

 

<二の丸>

「郭馬出」は、「二の丸」跡からは少し低い位置に設けられているので、「二の丸」跡から眺めると形がよくわかります。

 

「郭馬出」は、城主が幾度とも変遷し、「武田氏」時代のものか「北条氏邦」時代のものかわかりませんが、一般的には、「角馬出」は「後北条家」が得意とし、「丸馬出」は「武田家」が得意としていました。

 

郭馬出 (二の丸跡から見下ろす) ↓

郭馬出から大堀切土橋と二の丸方向 ↓

 

「郭馬出」の入口は「郭馬出西虎口」で、そこには2016年に「櫓門」が復元されています。

 

郭馬出西虎口の復元門 ↓

郭馬出側から ↓

 

「二の丸」は、敵を引き付けて殲滅する目的を持った曲輪として配置され、木柵や櫓台の遺構が発掘されています。

 

二の丸跡 ↓

 

<三の丸>

「二の丸」跡の西南方向には「三の丸」跡があり、更に降りていくと「鍛冶曲輪」となります。「三の丸」「鍛冶曲輪」跡には「井伊直政」時代に築いたという「野面積み」の石垣が残っています。

 

二の丸跡から三の丸跡方向 ↓

三の丸跡石垣 ↓

鍛冶曲輪跡 ↓

鍛冶曲輪跡石垣 ↓

 

更に下まで降りると、「大手虎韜門(ことうもん)」跡の石垣と碑が立ちます。この命名は、「井伊直政」が行ったそうで、「虎韜(ことう)」とは虎の巻のことだそうです。「井伊」時代に、こちらが「大手門」となったようです。

 

大手虎韜門(ことうもん)の石垣 ↓

 

再度「三の丸」跡まで上り「本丸」跡を目指します。「本丸」跡へは「三の丸」跡から「南虎口」を通ります。「本丸」跡を取り巻く形で、深い「空堀」が残ります。「空堀」跡の中に周囲より少し高くなっている所がありますが、これは「蔵屋敷」から「本丸西虎口」に渡る「橋台」です。「御膳曲輪」跡側にも、橋が架かっていた痕跡をみることができますが、2022年にはそこに「蔵屋敷間木橋」が復元がされ、更に2026年4月には「本丸」跡側に「本丸西虎口門」が復元されました。

 

本丸南堀 ↓

本丸西堀 ↓

空堀内の本丸西虎口に渡る「橋台」(この上に「蔵屋敷間木橋」が復元された) ↓

復元「蔵屋敷間木橋」(高崎市文化財情報から写真をお借りしました) ↓

 

<本丸・御前曲輪>「本丸」跡入口付近には、大きな石でできた「箕輪城跡」碑が立ちます。「本丸」跡は「長野家」の居館が建っていたそうです。かなり広い敷地になっていて東側には長い「土塁」跡が見られます。そして、北側には「本丸北虎口」があり「御膳曲輪」との出入口になっていました。また「本丸西虎口」には前述した「西虎口門」の復元門が見られます。

 

本丸南虎口(本丸門)前の馬出し跡 ↓

「箕輪城跡」碑 ↓

本丸跡全景 ↓

本丸跡内の土塁 ↓

「御膳曲輪」全景 ↓

御膳曲輪跡にある「本丸西虎口」 ↓

復元「本丸西虎口門」 (高崎市文化財情報から写真をお借りしました) ↓

 

「御膳曲輪」は、「本丸」を北からの攻撃に備えて造られた曲輪の一つで、当曲輪は「詰丸」であって、代々の城主の位牌を納める「持仏堂」がありました。更に「御前曲輪」の西側には深い堀を隔てて「通仲(とおりなか)曲輪」、北側に「新曲輪」が、東側に「稲荷曲輪」が置かれているので、堀は四方向に延びています。

 

御膳曲輪の石垣(腰巻石垣) ↓

御膳曲輪の北堀 ↓

御膳曲輪、通仲曲輪、稲荷曲輪、新曲輪の四曲輪が集まる堀 ↓

 

以上、「箕輪城」をほぼ一周してきました。

 

「箕輪城」の南側の集落の中には、「下田邸宅の書院」という建物があります。戦国時代の城主「長野家」の家臣「下田家」の子孫が、江戸時代には「安房勝山藩」の飛地代官所の代官として箕郷を支配した屋敷です。

 

下田邸の門 ↓

下田邸の書院 ↓

 

 

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「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。

 

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土塁と水堀で囲われた鎌倉武家の方形居館「足利氏館

栃木県足利市

● 城主と歴史

平安時代後期に活躍した「河内源氏」の棟梁「源義家」から開拓地を継承した四男「義国」が、鳥羽上皇の「安楽寿院」に寄進して「足利荘」が成立しました。

 

そしてその荘官を務めた領主が「足利氏」を名乗り、「義国」の次男「義康」が鳥羽上皇に仕える北面武士として京都に常駐していましたが、ある事件で下野(しもつけ)へ下向して「足利荘」に「居館」を築いたのが「足利居館」で1150年です。

 

「義康」の四男「義兼」は、1180年に伊豆で挙兵した「源頼朝」に従い「鎌倉幕府」の創設に加わり、「義兼」の正室は「北条時政」の娘「時子」(「頼朝」の正室「政子」の妹「時子」)と結婚するなど「足利氏」は当初、幕府内で高い席次を与えられていました。

 

1185年~90年頃には「足利学校」を開設し、1196年には「居館」内に「持仏堂」を建立し、これが鑁阿(ばんな)寺」の創建となりました。

 

しかしその後、1333年に隠岐から脱出した「後醍醐天皇」の討伐命令が「鎌倉幕府」から「足利8代目」の「足利尊氏」に命じられ京都へ向かいます。

 

しかし、突如反旗を翻した「尊氏」は、京都の幕府方の「六波羅探題」を襲い、「後醍醐天皇」と共に行動して「鎌倉幕府」を倒します。そして、「足利一門」は京都或いは鎌倉へ移り、空き城となった「足利居館」内の鑁阿(ばんな)寺」は「鶴岡八幡宮」の支配下となりました。

 

因みに「室町幕府」を立ち上げた「足利尊氏」は、この「足利氏館」で産まれました。

 

足利尊氏像 ↓

 

その後「足利」は、「鎌倉公方 足利持氏」や「関東管領 上杉家」「相模 北条家」に支配された後に江戸時代は幕府領となり、そして「足利藩」の「足利陣屋」が建ちました。「足利氏館」はそのまま「鑁阿(ばんな)寺」として残り現在に至っています。

 

足利陣屋跡 ↓

陣屋跡内の井戸 ↓

 

お城の概要と特徴

縄張り

中世初期の城郭の面影を残す東西がやや長い約200m四方の、ほぼ方形に近い単郭の縄張りです。

 

ただ、往時の「足利氏館」の居館は一辺が500m前後の広大な複郭の縄張りだったという研究者もいるようです。

 

いずれにしても、ここは、典型的な鎌倉時代の「単郭方形館(やかた)」であり、お城の発展の過程(歴史)で現れた形式として「日本100名城」に採り上げられています。

 

同時代の「御家人」の居館は一辺100m前後が多いですが、「足利氏館」の規模は巨大であることから、「足利氏」の鎌倉幕府内での地位を示しています。

 

<単郭=現在「鑁阿(ばんな)寺」>

鎌倉時代の武士居館の典型的な形をしていて、方形の居宅で周囲を水堀と土塁で囲われ、東西南北に門を構えていました。

 

現在は、この方形の中に「鑁阿(ばんな)寺」が残り、周囲は「水堀」と「土塁」で囲われていて当時の状態であります。土塁は、下部の幅は7~8mあり高さは3~4mもの大規模です。

 

鑁阿(ばんな)寺の伽藍図 ↓

鑁阿(ばんな)寺の太鼓橋と堀と土塁 ↓

東堀と土塁 ↓

北堀と土塁 ↓

 

正面には当寺の象徴ともいえる「太鼓橋」と「仁王門」が構え、敷地内には2015年に国宝指定された「本堂」を中心に重要文化財の「経堂」や「鐘楼」などが建っています。

 

鑁阿(ばんな)寺の太鼓橋と仁王門(国指定史跡) 旧足利氏館 ↓

鑁阿寺大御堂(重文) ↓

一切経堂(室町時代建築) ↓

鐘楼と庭園 ↓

 

鎌倉時代に建築された四脚門の「東門」や江戸時代に再築された薬医門の「北門」、「御霊屋」「多宝塔」など時代を感じさせる建造物が豊富に林立し、いずれも栃木県指定の文化財となっています。

 

東門(鎌倉時代建築)-四脚門 ↓

北門(江戸時代建築)-薬医門 ↓

西門(鎌倉時代建築) ↓

御霊屋(江戸時代再建) ↓

二重塔(江戸時代再建) ↓

 

更には、「足利氏館」の南側には、「足利学校」があります。こちらは、日本で最も古い学校として歴史の教科書には必ず掲載されていますね。

 

足利学校 孔子廟を臨む ↓

 

奈良時代の創建や平安時代の創建、鎌倉時代の「足利義兼」が創建したという諸説があるようですが、室町時代の1439年に「上杉憲実(のりざね)」が鎌倉の「円覚寺」から初代校長を招聘して学校の再興をしたところから、史実として明らかになっています。

 

また1549年には、イエズス会の「フランシスコ・ザビエル」によって「坂東の大学」として世界に紹介されています。

 

「孔子廟」に向かって延びる道の最初の入口は「入徳門」、次に「学校門」が並び、「孔子廟」の門である「杏壇(きょうだん)門」が一直線に並びます。

 

足利学校 入徳門 ↓

足利学校 学校門 ↓

足利学校 杏壇(きょうだん)門 ↓

足利学校 孔子廟 ↓

 

これらは、1668年に創建されましたが、その後「入徳門」は焼失して1840年頃に修築されたものです。また「杏壇門」も1892年の火災で一部が焼失して修築しています。

 

この東側には、「庫裏」や「書院」「方丈」の他に「衆寮」「土蔵」等は復元された建造物です。

 

足利学校 復元庫裏と復元書院 ↓

足利学校 復元方丈 ↓

足利学校 復元方丈内部 ↓

足利学校 復元方丈と車寄せ ↓

 

 

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只今「城スキーのお城紀行」は、「日本100名城」のお城を順次紹介しています。

 

「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。

 

発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。

 

「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。

 

紹介していく順番は、「日本城郭協会」が北から都道府県別に振っている番後に沿って紹介しています。

 

 

要害の台地上に連郭で築かれた土のお城「水戸城

茨城県水戸市

城主と歴史

古くは、12世紀最後に「馬場資幹(しげもと)」が、現在の「本丸」跡に「馬場城」を築きます。しかし1426年に「佐竹家」配下であった「江戸通房」が占拠し「江戸家」が支配します。

 

「佐竹家」は、「豊臣秀吉」による「小田原平定」にいち早く反応し「秀吉」に近づいて自分の領土固めを行いますが、「江戸家」は「水戸城」の明け渡しを拒否した為に、「佐竹家」は「水戸城」を攻撃して「江戸家」を追い出します。そして、本格的な城普請を行い、現在の4つの大きな曲輪を増築します。

 

「関ヶ原の合戦」では東軍に組しなかった「佐竹家」は出羽秋田へ国替えとなり、その後に「家康」の五男「新吉」、十男「頼宣」を経て十一男「徳川頼房」が入城します。その後幕末・維新迄、「徳川御三家」の一角ではあるものの、本家や他の二家とは違うスタンスで存続することとなります。

 

● お城の概要と特徴

<縄張り>

「那珂川」と「桜川」に浸食された台地の先端に築かれた「平山城」です。北に「那珂川」南には「千波湖(せんばこ)」によって防御が優れた場所でした。

 

「佐竹家」の時代にはほぼ規模は確立されて、「徳川家」が入って整備されました。東から「東二の丸(下の丸)」「本丸」「二の丸」「三の丸」が直線的に繋がる「連郭式」の縄張です。

 

その東側と西側には城下町が拡がり、全体を掘と土塁で囲む「総構え」になっていて、石垣は全くない土のお城です。

 

西側から続く台地には、五重の堀を築き、特に「本丸」と「二の丸」の間、「二の丸」と「三の丸」の間の「内堀」は重要でした。

 

縄張り図 ↓

 

今回は、「本城」となっていて復元「大手門」が建つ「二の丸」からみていきたいと思います。

 

<二の丸>

「大手橋」前に進みますと、橋の袂には、幕末の烈公と言われた「徳川斉昭」像が立ちます。2021年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」で名演だった「竹中直人」さんの青筋を立てた顔が浮かびます。

 

幕末の烈公「徳川斉昭」像 ↓

 

 「大手門」は、「佐竹家」が城主だった1601年頃に建てられ、その後何度かの建て替えがあったものの明治時代まで残り、古写真の中にも納められています。江戸時代初期の様式を残す古風な外観であり、今回の2020年2月の復元でもそれが踏襲されています。

 

木造復元の「大手門」と「大手橋」 ↓

「大手門」の古写真(城内の説明板に掲出) ↓

 

桁行9.5間、梁行3間というかなり大きな規模の櫓門で、柱が見える「真壁造り」で「連子窓」が付きます。また、土塁と土塁の間に建てられているので門と土塁の間には「瓦塀」が繋ぎとなっています。

 

「大手門」の門扉と門内部 ↓

桝形内から見上げる「大手門」 ↓

土塁と大手門との間に「瓦塀」 ↓

 

「大手橋」の下は、「二の丸堀」が深い「堀切」となり、現在は車道になっています。この堀沿い「二の丸」跡側には、「大手門」から新たに「土塀」が復元されてその先端には木造復元された「二の丸角櫓」が建っています。

 

道路になっている「二の丸堀」跡 ↓

「大手門」から「二の丸角櫓」に繋がる復元「土塀」 ↓

 

そして「大手門」を潜ると、桝形構造になっていて左手に折れて「二の丸」跡に入ります。

 

「大手門」桝形から「二の丸」跡方向 ↓

「水戸学びの道」から見る「大手門」と「土塁」 ↓

 

「二の丸」跡の中心道路は「水戸学びの道」として整備され、その名前に相応しく「水戸城二の丸展示館」が「大日本史編纂之地」である「彰考館」跡に建ち、そこから道の両脇には「付属小学校・幼稚園」「水戸第二中学校」「水戸第三高校」が白壁塀の中に並びます。文教地区と「二の丸」跡が一体化された素晴らしいゾーンになっています。

 

「水戸学びの道」と「白壁」 ↓

「水戸城二の丸展示館」(「大日本史編纂之地」である「彰考館」跡) ↓

安積澹泊(たんぱく)像(助さん、格さんの「格さん」のモデルとなった人) ↓

 

「二の丸角櫓」は木造復元されて2021年6月から公開されています。「二重櫓」に北と東向けに「続櫓」が伴います。白漆喰総塗籠めで内側には一切窓がなく、外側には「竪格子窓」を設けています。

 

復元「二の丸角櫓」(城内の説明板に掲出写真) ↓

復元「二の丸角櫓」 ↓

木造復元「二の丸角櫓」(東側に続櫓、南方向から) ↓

木造復元「二の丸角櫓」(北側に続櫓、北西方向から) ↓

 

「二の丸御殿」跡には、「水戸第三高校」が建っていますが、その敷地の南崖付近には天守代用の「御三階櫓」が戦前まで建っていました。

 

「二の丸御殿」跡に建つ「水戸第三高校」 ↓

「二の丸御殿」平面図(城内の解説板に掲出) ↓

 

「御三階櫓」は三重五階で、一重目の内部は三階となり、その外壁の下部には海鼠壁が施されていて、「天守台」は無く地上から直に立ち上がっていました。

 

戦災で焼失してしまった「天守(代用含む)」7城の内、復元されていないのは「水戸城」のみで、特異な形をした「御三階櫓」の復元に期待したいと思います。

 

「御三階櫓(天守代用)」(古写真、城内の解説板に掲出写真) ↓

 

「水戸第三高校」前には「水戸城跡の大シイ」が植わり、木造復元された「杉山門」が建ちます。

 

「大シイ」 ↓

 

「杉山門」は、藩主御殿のあった「二の丸」曲輪に繋がる重要な「杉山坂」から入城する「二の丸」の北口に当たり、「土塁」を設けて「桝形」になっていましたが、現在は門のみが復元されています。ただ、解説板には、規模が4間1尺だったとのこと、約7.5mもの大きさは復元門では実現していないので、厳密な復元ではないような気がします。

 

「杉山坂」 ↓

木造復元「杉山門」 ↓

木造復元「杉山門」(高麗門) ↓

 

「水戸学びの道」の突き当りが「本丸堀」を渡る「本城橋」となります。「本丸堀」も険しいV字の「堀切」となっていて、現在はその底を単線のJR「水郡線」が走っています。

 

「二の丸」跡から「本城橋」と「本丸」跡方向 ↓

「本丸堀」底を走るJR「水郡線」(左側が「本丸」跡) ↓

 

<本丸>

「本城橋」を渡った所が「本丸」跡で、その入口には「本丸橋詰門」が構えていました。現在はその門の「土塁」と右折れする「桝形」が残されていて、そこを抜けると「水戸第一高校」の敷地になっていますが、正面に迫る大きな「薬医門」は、「水戸城」内で現存する唯一の城郭建造物となっています。

 

「本丸」跡入口の「橋詰門」跡(桝形、「本丸」跡内から「本城橋」方向) ↓

「薬医門」(県重文、正面) ↓

 

この「薬医門」は「佐竹家」時代のモノで、「橋詰門」跡に構えていたものが他所へ移築されていましたが、1981年に現在の場所へ再移築されました。

 

「薬医門」(県重文、横から) ↓

 

門は、三間一戸で両脇に潜り戸を設け、屋根下の大きな「蟇股」や「化粧垂木」の先の反り増し等が特徴で、県指定有形文化財となっています。

 

「薬医門」の大きな蟇股 ↓

「薬医門」の「化粧垂木」先の反り増し ↓

「本丸」跡周囲の「土塁」(「水戸第一高校」敷地入口付近) ↓

 

<東二の丸>

「本丸」跡から更に南東に向かう国道51号線沿いに「東二の丸」跡が続いていて、その先端には「浄光寺門」が設けられていました。現在は、「水戸第一高校」のグランドになっています。

 

国道51号線沿いの「東二の丸」跡 ↓

「東二の丸」跡の先端 ↓

 

<三の丸>

「二の丸」跡に沿って坂道を降りると初代水戸藩主の「徳川頼房」像が立ち、木造復元された高麗門の「柵町坂下門」が建ちます。当門は、二の丸南口で「三の丸」南側の入口となります。

 

初代水戸藩主の「徳川頼房」像 ↓

木造復元「柵町坂下門」 ↓

木造復元「柵町坂下門」(高麗門) ↓

「柵町坂下門」の古写真(現地の解説板に掲出の写真) ↓

 

坂道を下りきった所には、「義公生誕の地」碑と「水戸黄門神社」があります。ここは、「水戸光圀」の生誕地で4歳まで過ごした場所だそうです。 

 

「水戸黄門神社」 ↓

 

「三の丸」跡の西側は、東半分に「弘道館」「鹿島神社」「八卦堂」が建ち並び、西半分には「県三の丸庁舎」「茨城県立図書館」「水戸警察署」等の行政施設が集まっていますが、その西側に「南堀」「中堀」「北堀」の3つの「空堀」が残っています。 「空堀」に沿って連なる「土塁」の雄大さには目を見張るものがあります。

 

「三の丸南堀」(北方向)と「土塁」 ↓

「三の丸中堀」(U字型、北方向)と「土塁」 ↓

「三の丸北堀」と「土塁」(北方向) ↓

「三の丸」跡に建つ「県三の丸庁舎」 ↓

「三の丸」跡の西側を守る「土塁」(向こう側が「三の丸堀」) ↓ 

「三の丸」跡の西側を守る「土塁」(向こう側が「三の丸堀」) ↓

 

「三の丸」跡の東半分に位置するのは藩校「弘道館」です。「二の丸」に入る「大手門」の西側前に藩校「弘道館」の正門があります。

 

「弘道館」正門 ↓

 

「弘道館」は今回割愛しますが、内部はこのような配置図になっています。

 

「弘道館」内の配置図(現地で掲出) ↓

「孔子廟門」 ↓

「孔子廟」 ↓

 

「正門」の裏手には「八卦堂(はっけどう)」が建っていて、「弘道館」の建学の精神を示す「弘道館記」の碑が収められている建物で、見るからに古い建造物ですがが、戦災に会って1953年に復元されたものです。 

 

復元「八卦堂」 ↓

 

<水戸東照宮>

ここは、初代「徳川頼房」が、父親であり神君の「家康」を祀る神社として創建したもので、地元の方は「権現(ごんげん)さん」と呼んでいるそうです。

 

太平洋戦争で焼失したことで1962年に再建されたそうで、既に、色鮮やかな唐門が閉められていて中を見ることが出来ませんでしたが、「銅灯篭」や「徳川斉昭」が作らせた日本最古の「戦車」もあるそうです。

 

「水戸東照宮」 ↓

「水戸東照宮」唐門 ↓

 

 

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本日は、中学校時代の友人10人で構成する「チームラリー」のメンバーと、池田市内の「五月山」麓に4月にオープンしたての「五月山サファリビストロ」でランチ会をしました。

 

 

池田市内では初めてではないかと思うぐらいの、自然の木々の中に建ち、ウッディカジュアルで明るくオシャレな店舗です。また店員の皆さんも、清潔で爽やかないで立ちで皆さんニコニコと凄く居心地のいい雰囲気でした。

 

「五月山サファリビストロ」 ↓

 

 

 

 

 

座席にはクッションもあって首の調子が良くない私としては凄く快適に食事ができました。

 

その食事は、8種のメインディッシュ+前菜盛り合わせプレート+フォッカチャで2,000円〜2,500円とリーズナブルなお値段で、私は「グリルハンバーグステーキ」を頼みました。セットで付いてくるフォッカチャの中はフワフワで美味しく追加を頼むと、塩味のフォッカチャも同値段で提供してくれます。

 

メニュー表 ↓

中がフワフワのフォッカチャ ↓

前菜盛り合わせプレート+フォッカチャ ↓

メインの「グリルハンバーグステーキシャリアビンソース」 ↓

追加の塩味「フォッカチャ」 ↓

 

1時間半、食事と歓談で楽しみ、店員さんが写真も撮ってくれて満足して退店しました。

 

この後当初の予定では、五月山ハイキングコースを歩いて、夏のお盆過ぎに開催される池田名物「大文字」が点灯される場所まで登山する計画でしたが、当日の気温予想は27度とこの時期としては異常な暑さの予想でした。

 

しかし、お腹も一杯だし、山の中を歩いたら木々で陰になってそんなには暑くないのでは、とのことで決行することになりました。ここで用事があった2人と別れて8人で出立しました。

 

私は、首の調子はそんなには良くないのですが、このハイキングコース登山を歩き切ることで、今後の「山城巡り」が可能かどうかを試めす試金石となると思い、登る気はムンムンしていたので張り切って歩きました。

 

ハイキングマップ ↓

 

トレッキングポールは持参していたし、少し首が疲れると左手で首を支えながらドンドン上がることが出来ました。

 

「ひょうたん島コース」から「自然とのふれあいコース」を通って、途中には自然に咲くピンク色の「シャクナゲ」がしんどさを吹き飛ばしてくれる効果があったり、意外と爽やかな風が身体に心地よく当たってくれるので、そんなに汗もかくことなく「大文字」が点灯される場所へ辿り着きました。

 

途中の「ひょうたん島」 ↓

咲き乱れる「シャクナゲ」の大木 ↓

「大文字」が点灯される火床「大」の一部 ↓

 

そこからは、大阪平野が一望でき、遠くには「梅田」のビル群や更に奥の「阿倍野ハルカス」、明石海峡の橋脚等々がドンヨリした中でも見ることが出来ました。

 

梅田方向 ↓

神戸方向 ↓

 

近場での池田市内では、自分の家が見えないか探したりして休憩がてら遠望を楽しみました。

 

池田市内と大文字火床 ↓

 

記念写真を撮り、水分補給をして下山をしましたが、「五月平高原コース」の急な道を降りて行ったので、結構足に疲れがきました。

 

案内図 ↓

 

五月丘のバス道に出た時には、さすがに私含め皆も疲れがピークに達していたようでした。

 

今回は、ビストロレストランでランチをした後でしたが、少し登山には不安があったものの他のメンバーの励ましもあってチャレンジができて、今後のお城巡りにも自信が持てた素晴らしい1日になりました。

 

メンバーに感謝! 感謝!

 

 

 

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只今「城スキーのお城紀行」は、「日本100名城」のお城を順次紹介しています。

 

「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。

 

発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。

 

「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。

 

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東北では珍しい総石垣造りで且つ高石垣を多用したお城「白河小峰城(後編)

福島県白河市

 

城主と歴史、立地と縄張り

「城主と歴史」「立地と縄張り」及び「白河小峰城(前編)」は下記URLからご覧ください。

 

 

主郭の縄張図(左が北方向) ↓

主郭の絵図(デアゴスティーニ「日本の城」より、上が北方向) ↓

 

「小峰白河城」の石垣は、「三の丸」から見ると「太鼓門」が正面に控える「二の丸」が一段目、「清水門」が正面にある「帯曲輪」が二段目、そして「本丸」が三段目となります。

 

<二の丸>

・二の丸の一二三段の一段目

現在は「城山公園」の広場となっていて、「小峰歴史館」が建つほか、大きく窪んだ「空堀」跡が見られます。

 

広場内の小峰城跡碑と御三階櫓  ↓

空堀跡 ↓

 

また、「二の丸」南端にあった「太鼓門」西側に建っていた「太鼓櫓」が、現在「北小路門」跡辺りに移築されて建っています。

 

これは民間払い下げ後当初は紅葉土手にありましたが1930年に現在地に移築されたそうです。前回訪れた時は、民家の中に建っていたようでしたが、現在は区画がされてかなり手を施されて綺麗になっていました。

 

移築現存の「太鼓櫓」 ↓

紅葉土手時代の「太鼓櫓」(古写真、現地にて掲出) ↓

 

<帯曲輪、本丸の高石垣>

帯曲輪の一二三段の高石垣

「帯曲輪」跡へ入る「清水門」跡の両脇が「水堀」になっていて、「土橋」を渡ると「清水門」跡です。当時の「清水門」はかなり大きな「渡櫓門」で、現在復元に向けて工事中で2027年3月に完成予定となっています。

 

「清水門」跡前の「土橋」左側の「水堀」 ↓

「清水門」跡に建つ「冠木門」(「清水門」復元工事前の写真) ↓

「清水門」(白河市公式HPのCGをお借りしました) ↓

 

その西側には「月見櫓」台が聳えますし、東方には「竹の丸二重櫓」台もあります。

 

「月見櫓」台 ↓

「竹の丸二重櫓」台 ↓

 

一二三段の高石垣(本丸)

 「清水門」跡を入ると、真正面に「本丸」跡石垣の南面が見られ、高さ10m、長さ50mにわたって続いていて、その中に「半同心円状落し積み」 (車軸積み)が見られます。これだけの大規模な「半同心円状落し積み」はなかなか見れない貴重な遺構だと思います。

 

「本丸」跡石垣の南面で見られる「半同心円状落し積み」 (車軸積み) ↓

下部を拡大した「半同心円状落し積み」 (車軸積み) ↓

 

左手の「本丸」跡南面沿いを西へ向けて延びる「帯曲輪」跡を進みますと、「本丸」跡の高石垣が続き色々な形で見ることが出来ます。

 

「本丸」跡南面の門跡、横矢掛り、櫓台の高石垣が続きます ↓

 

少し進むと、右手には「本丸」跡に上がる「桜之門」跡が構えます。ここは「本丸御殿」南入口の前だったので、藩主の通用門であったらしいです。また門形式は「渡櫓門」で入って右に折れて石段を上がっていきます。

 

「桜之門」跡(ここは「切込接・布積み」) ↓

「桜之門」跡(正面で右折れ、櫓門が建っていた) ↓

 

その脇には、櫓台と思うような出張の石垣がありますが、「横矢掛り」の石垣です。そしてその前には「帯曲輪」の出入口になっている「帯曲輪御門」跡の石垣が行き手を塞ぐような形で立ちはだかります。間口13mで「杮葺き切妻屋根」の「渡櫓門」だったようです。

 

「本丸」跡の「横矢掛り」 ↓

「帯曲輪御門」跡(「杮葺き切妻屋根」の「渡櫓門」が建っていた) ↓

 

その脇には「月見櫓」跡の櫓台が有り、お城の南側の監視と「帯曲輪御門」の管理を担っていたようです。

 

「月見櫓」台(「帯曲輪」跡内から見る) ↓

 

「帯曲輪」跡に入ると西側に広い敷地が確保されていて、「本丸」南西隅に建つ「富士見櫓台」と北東隅に建つ「雪見櫓台」が良く目につきます。この両櫓は「二重櫓」だったようです。月見や富士見や雪見といった風流な名前を付けた櫓が固まっています。

 

「富士見櫓台」(「帯曲輪」跡西側から) ↓

「雪見櫓台」(「帯曲輪」跡西側から) ↓

 

北側と東側から堀越しに見える高石垣

「小峰城歴史館」の西側にあった「会津門」跡から「西水堀」を眺めながら北西隅に差し掛かった所からお城を見ると「帯曲輪」跡と「本丸」跡の二段石垣が望めます。 

 

「会津門」跡 ↓

「会津門」跡から望む「西水堀」 ↓

「帯曲輪」跡と「本丸」跡の二段石垣 ↓

 

 続いて「北水堀」沿いに進んでいくと「御三階櫓」の北面が見られるのと同時に、「矢の門二重櫓台」跡の高石垣や「搦手門(尾廻門)」跡の石垣が見られます。 

 

「北水堀」(東方向) ↓

「矢の門二重櫓台」跡の高石垣 ↓

「搦手門」跡 ↓

「北堀」越しに見る「御三階櫓」 ↓

 

そこから、東に進むと広大な敷地が続き、その奥には.石垣の壁が延々と続いています。林だった木々を伐採したことによって見える化した石垣群で見事な眺望です。

 

お城の東側の石垣の壁面が続く ↓

一番東端にも「櫓台」が ↓

 

<外曲輪> 

JR「白河駅」の南側に拡がる芝生に覆われたイベント広場には、「道場門」跡の石垣と「外堀」沿いの石垣を見ることが出来ます。主郭内の跡に比べると立派な石垣ではなく、発掘調査で出てきた石垣群を並べたモノです。

 

「道場門」跡 

 

● 城下について

戊辰戦争の爪跡

「戊辰戦争」の戦いの一つで「白河口の戦い」が1868年6月に勃発して約2ケ月半続きました。これは、新政府軍と「奥羽越列藩同盟」とが「白河城」を巡って戦った内戦です。

 

当初は、「列藩同盟」が「新政府軍」の「白河城」を攻撃して「白河城」を奪い取りましたが、新政府軍は700名を投入して「白河城」を奪還します。これらの戦いによって、死者が両軍合わせて約1000人(内新政府軍100人、列藩同盟900人)となりました。

 

「長寿院」の境内には、「新政府軍戦没者の墓地」が有り、新政府軍として戦い命を落とした諸藩の藩士の90基ものお墓が並びます。入口には、「明治天皇」が東北巡行した時に随行した「岩倉具視」「大久保利通」が奉納した灯篭が残ります。

 

「長寿院」の境内の「新政府軍戦没者の墓地」(中に「岩倉具視」「大久保利通」が奉納した灯篭) ↓

「長寿院」の境内の「新政府軍戦没者の墓地」(灯篭には、明治9年と刻まれている) ↓

 

その近くには、「脇本陣柳屋旅館」があり、「戊辰戦争」時に「新選組」の「斎藤一(はじめ)隊長」らが宿泊してそこから出陣したそうで、また1881年の「明治天皇」の東北巡行時には宿泊した際の「玉座」も残されているとのことで、この界隈は維新時の歴史を感じることができるエリアです。

 

「脇本陣柳屋」 ↓

「脇本陣柳屋の蔵座敷」 ↓

 

 

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美しい形状の復元”御三階櫓・前御門”と総石垣で造られた「白河小峰城(前編)

福島県白河市

 

歴史と城主(藩主)

「白河」は、古来より「関所」が設けられるほど重要な拠点で、「結城親朝(ちかとも)」が「小峰城」を築城して、代々「白河結城家」が家督を相続します。しかし、「豊臣秀吉」による奥羽仕置によって、「白河結城家」は所領を没収され、42万石で会津に入封した「蒲生氏郷」が統治します。

 

江戸時代に入った1627年に、外様大名ながら「大阪夏の陣」の戦功があり築城上手な「丹羽長重」を徳川将軍家が重用して、北の「伊達政宗」に対する備えを意識した近世城郭に大修築させました。

 

当城は、幕府にとっては重要ポイントであったことから、築城が終わった「丹羽家」は「二本松」に移され、その後は「譜代大名」や「御家門」が次から次へと交替して入城しました。

 

「榊原忠次」→「本多家」→「奥平家」→「松平直矩等の越前松平家」→「久松松平家」→「阿部家」と変遷して、1866年に「阿部正静(まさきよ)」が「棚倉城」へ移封となった後は幕府領として「二本松藩の預かり地」となり、最後は新政府軍に攻められます。

 

「戊辰戦争」では、「小峰白河城」は奥州の玄関口に当たる重要拠点であったことから、新政府軍と幕府との長期間(約100日)に亘る攻防戦が繰り広げられました。当初は新政府軍が占拠しましたが、一時「奥羽越列藩同盟」軍が奪還します。しかしながら、再び新政府軍が奪還してからは「同盟」軍の7回に渡る攻撃を受けましたが、新政府軍が守り切り城郭建造物の大半が焼失してしまいました。

 

お城の概要と特徴

<立地と縄張り

「白河小峰城」は、「阿武隈川」上流に位置する盆地の丘陵に建てられた「平山城」で、「本丸」は北堀を背にして「帯曲輪」が北側から西側、南側にかけて、東側は「竹の丸」が取り囲みます。

 

「本丸」南側にはほぼ方形の「二の丸」を設け、南側から東側にかけては「三の丸」が取り囲みました。更には堀を隔てて南側から東側にかけて「外曲輪」を設けるという「梯郭式」の縄張りで構成されていました。

 

石垣は「本丸」から一二三段状に築かれた総石垣造りのお城で、周囲を取り巻く堀には水が潤い、その幅もかなりの広さを確保しています。

 

主郭の縄張り図(左が北方向) ↓

主郭の絵図(デアゴスティーニ「日本の城」より、上が北方向) ↓

 

本丸

・前御門と天守(御三階櫓)外観

「竹の丸」跡から石段を上がると、「本丸」跡に入る「前御門」が迎えてくれます。この「前御門」は「御三階櫓」の南側に一段下がって建てられ、1991年に「御三階櫓」と共に木造復元した「渡櫓門」形式で「下見板張り」の門です。

 

JR「白河駅」から見える復元「御三階櫓」 ↓

復元「御三階櫓」(本丸跡より) ↓

復元「前御門」と復元「御三階櫓」 ↓

復元「前御門」 ↓

 

「前御門」を潜ると目の前に拡がる広場が「本丸御殿」跡です。「前御門」から南東隅を経て「清水御門」の上くらいまで「多門櫓」が延びていたようで、その「多門櫓」跡が残ります。

 

「本丸御殿」図 ↓

「本丸御殿」跡(西方向) ↓

「本丸」跡の南東部分を防備した「多門櫓台」 ↓

 

「本丸御殿」跡の中心から見る「御三階櫓・前御門」は非常に美しい姿を放出しています。

 

美しさが目立つ復元「御三階櫓」と復元「前御門」(「本丸御殿」跡内から) ↓

復元「御三階櫓」を見上げる ↓

復元「御三階櫓」(西面、手前の「張出玄関」から入館) 

 

復元にあたって、発掘調査は勿論の事、1808年に当時の藩主「松平定信」が命じて作成させた「三重御櫓建絵図」の立面絵図も参考にしながら実行に移されました。

 

「三重御櫓建絵図」(城内に掲出分) ↓

 

「御三階櫓」は三重三階で、外観特徴は「下見板張り」で、1階南側、1階北側、2階東側に切妻屋根の「張出し」があり、下には「石落とし」を装備しています。

 

復元「御三階櫓」の2階東側に切妻屋根の「張出」 ↓

復元「御三階櫓」の1階北側に切妻屋根の「張出」、下は「石落とし」 ↓

復元「御三階櫓」の1階南側に切妻屋根の「張出」 ↓

 

前御門と天守(三重櫓)内部

「付櫓」のような「張出玄関」から中へ入ります。木造復元されて30数年経過しますが、木の光沢は失せることなく暖かみを提供してくれます。やはり木の壁面はいいものです。1階の周囲は「入側(武者走り)」で「身舎(もや)」の中央に「階段」があります。

 

1階の周囲は「入側(武者走り)」 ↓

1階「身舎(もや)」中央に急な階段 ↓

 

壁面には、「矢狭間・鉄砲狭間」「石落とし」が装備されている一方で、「竪格子」窓の内側は「障子」が嵌められ、壁の上部は白壁になっているので居住性を感じさせられます。

 

1階「張出」部分の「鉄砲狭間」と「石落とし」 ↓

「竪格子窓」 ↓

「矢狭間」と「鉄砲狭間」、その上の窓には「障子」が嵌る ↓

2階障子貼りの内窓 ↓

 

2階も同様で、梁の「手斧(ちょうな)」の跡が綺麗です。また、四隅の天井には「火打梁」の耐震構造が見られます。

 

「手斧仕上げ」の梁 ↓

3階壁は白壁、各階隅部には耐震構造として「火打梁」 ↓

 

最上階3階の天井は天井板の無い「小屋組み」になっていてますが、1階、2階と内装は変わりません。

 

最上階3階 ↓

小屋組みの天井 ↓

 

本日はここまで。次回「白河小峰城(後編)」は、「二の丸」、一二三段となっている各曲輪の「高石垣」、「外曲輪を含む城下」を見て行きたいと思います。

 

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只今「城スキーのお城紀行」は、「日本100名城」のお城を順次紹介しています。

 

「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。

 

発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。

 

「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。

 

紹介していく順番は、「日本城郭協会」が北から都道府県別に振っている番後に沿って紹介しています。

 

本丸を固めた櫓群と出丸、総構えには16カ所の虎口があった「会津若松城(後編)

福島県会津若松市

城主と歴史、立地と縄張り

「城主と歴史」「立地と縄張り」及び「会津若松城(前編)」は下記からご覧ください。

 

 

本日の「会津若松城(後編)」は、「本丸」跡から見て行きます。

 

本丸-櫓群、茶室など

「前編」でも記載しましたように、復元「干飯櫓」は本丸と帯曲輪の周辺を取巻く土塁と石垣上に建ちます。この北側には「塩蔵之内櫓」そして時計回り順に「鐘之櫓」「北西櫓」「弓櫓」「茶壷櫓」「月見櫓」の七基の櫓が取り巻いていました。因みに、あと西出丸に二基、北出丸に二基の合計十一基の櫓がありました。

 

月見櫓跡(白壁総塗り込めの櫓・常に武器が保管、搦め手の物見櫓としても機能) ↓

塩蔵之内櫓跡 ↓

茶壷櫓跡 ↓

 

「天守」の東側には「本丸御殿」が建ち並び、その東側にある「本丸書院庭園」には、藩主のご休息所であり客用の「御亭(おちん)」と呼ばれる「御三階」と庭園がありました。

 

本丸御殿跡(天守屋根が黒瓦の時) ↓

御三階居間の庭跡 ↓

 

現在では、「御三階」の櫓台石垣が残っていましたので、その復元の検討がされていて色々な資料を収集しているそうです。ただ、その「御三階」は、城下の「阿弥陀寺」に本堂として移築されていますので、外観復元は可能と思われます。「阿弥陀寺」は一見の価値があります。

 

「御三階」の櫓台石垣 ↓

「阿弥陀寺」に本堂に移築された「御三階」 ↓

入口には「松平家葵紋」が付く ↓

 

本丸にはまだ見所があり、「茶壷櫓」跡の前に、「千少庵」が造った茶亭「麟閣(りんかく)」が現存再移築で残されています。

 

麟閣の表門(戊辰戦争後に城下へ移築、平成2年に元の場所へ移築) ↓

麟閣内 蒲鶴亭(ほかくてい) ↓

麟閣 蒲鶴亭 鎮<クギリ>の間(平成2年に森川家から移築) ↓

 

「少庵」は、「千利休」の子供で、利休が追放された後に「蒲生氏郷」に保護されて、この地で茶の湯三昧の生活を送ることができたようです。この茶室は、1871年の廃城令時に「石州流」の茶人が自宅で保存していたものを1990年に本丸内で再現したものです。

 

因みに、その後「千少庵」は子供の「宗旦(そうたん)」とともに京都に帰り、「千家」を再興。更に、孫の「宗左(そうさ)」は表千家を、「宗室」は裏千家を、「宗守(そうしゅ)」は武者小路家を興しました。

 

西出丸曲輪、北出丸曲輪

「西出丸」曲輪へは「西中門」を通り抜けて「梅坂」を下ると大きな「西出丸大手門」の枡形が入口となります。「西中門」虎口石垣上には「時撞堂」があり城下に時を告げていました。

 

「西中門」の枡形 ↓

「西出丸大手門」の枡形 ↓

「西中門」虎口石垣上には「時撞堂」 ↓

 

「北出丸」曲輪へは「太鼓門」の枡形を通り「椿坂」を下って右に折れると「大手門」の枡形に出ることができます。

 

太鼓門跡枡形(椿坂から) ↓

大手門跡(枡形の外門跡、雁木) ↓

 

総構え

「会津若松城」を中心に周囲約10㎞の水堀と土塁に囲まれた「惣構え」を形成していて、武家屋敷エリアと町とを分ける境界線となり、16箇所の虎口がありました。虎口には、門と番所が設けられており、主要虎口には石垣が築かれていました。

 

「戊辰戦争」時には、一旦「甲賀町口郭門」の中まで新政府軍が侵入しましたが、城内の守備の固さから「惣構え」から退去し、その後は外部からの砲弾による攻撃にならざるを得ませんでした。

 

現在は「甲賀町口郭門」の石垣が残り、その石碑が建てられています。また、「天寧寺口門」付近の「天寧寺口土塁」が現存しています。

 

甲賀町口門跡(北東から) ↓

天寧寺土塁(東西に延びる、西北側から) ↓

天寧寺土塁(北東隅) ↓

 

惣構え内部には、「御薬園(御薬園)」という「御茶屋御殿」と呼ばれる数寄屋書院や茶亭「楽寿亭(らくじゅてい)」が建てられている所があります。ここは、「保科正之」が別邸として改装したり、その後はその子である正経(まさつね)が園内で薬草栽培を始めたり、正経の子正容(まさかた)は朝鮮人参の栽培をしたりしていました。

 

御薬園 御茶屋御殿 ↓

御薬園 楽寿亭と御茶屋御殿 ↓

 

「旧滝沢本陣横山家住宅」は、藩主が参勤交代の時に旅支度を整える為の休息所でしたので、藩主「御座の間」や藩主用の風呂や厠までも設備されています。しかし、「戊辰戦争」の際にはこの場所が大本営となったことから戦いの場に変わり、柱には刀傷や弾丸の跡が生々しく残ります。

 

会津藩滝沢本陣正面(重文、1596年築、1679年開設) ↓

滝沢本陣 御座之間(手前は御次之間) ↓

滝沢本陣 戊辰戦争時の刀疵 ↓

 

ここから近い場所には、「白虎隊」が自刃した「飯森山」がありますが、その麓には「さざえ堂」(重文)という1796年に「僧郁堂」が考案建造した六角三層の建物があります。

 

この建物はさざえの螺旋形に似た形で、入口から入って螺旋階段を上るといつの間にか下っていて1階の出口に出てくるという魔訶不可思議な建物です。

 

さざえ堂(昔は三十三観音を安置、明治以降は皇朝二十四孝の絵額を掲げる) ↓

「飯盛山」で自刃した白虎隊士19人の墓 ↓

 

幕末の「松平容保」が藩主だった時の家老「西郷頼母(たのも)」邸をかなり詳細に復元した「武家屋敷」が復元されています。「容保」には、「京都守護職」を受けることを最後まで反対していた家老でしたが、「戊辰戦争」の際には、会津若松の為に最後まで必死に働き、しかもその家族全員が新政府軍の捕虜になりたくないとの思いで、「頼母」の屋敷で自刃したという悲しいドラマがありました。そのシーンを、この復元屋敷内で人形で再現しています。

 

復元家老屋敷の玄関 ↓

復元家老武家屋敷(御成御殿) ↓

 

この敷地内には、「中畑陣屋」の屋敷が現存移築されています。これは、福島県西白川郡矢吹町中畑にあった旗本「松平家」五千石の代官所で、当時の地方行政を担った代官所の建物構造が良くわかる建造物です。

 

「中畑陣屋」主屋の式台 ↓

「中畑陣屋」(二つの表座敷と台所) ↓

「中畑陣屋」の「表座敷」 ↓

 

城下町の見所はまだまだ沢山ありますが。御三階櫓が移築された阿弥陀寺がある「七日町通り」は、越後街道沿いに開けた街並みで、重厚な建物群も見られる賑わいのある町であります。

 

 

 

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「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。

 

発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。

 

「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。

 

紹介していく順番は、「日本城郭協会」が北から都道府県別に振っている番後に沿って紹介しています。

 

 

戊辰戦争では徹底攻撃を受けるも崩落しなかった天守の「会津若松城(前編)

福島県会津若松市

城主と歴史

当城の前身は、会津守護職であった「蘆名家」によって築かれた「黒川城」ですが、「伊達政宗」が奪いました。しかし、「豊臣秀吉」の命で、「蒲生氏郷」を会津に入封させて新たに築城したお城に「若松城」と命名しました。その後、「上杉景勝」が入城して、「徳川家康」の征伐軍に備えるために、会津領内のお城を大改築しました。

 

「関ケ原の合戦」後は、「加藤明成」が入城しましたが、「蒲生氏郷」時代に現在の廊下橋前の「大手門」の位置を、「北出丸」を増築してその北東部へ移して北からの防御の備えにしました。

 

復元天守(本丸御殿跡から) ↓

 

その後に入封したのが「保科正之」です。彼は、二代将軍「徳川秀忠」の息子ですが、三代将軍になった「家光」とは腹違いの弟でした。「正之」は、父「秀忠」が側室に産ませた子供でしたが、恐妻「お江(おごう)」に気兼ねして高遠藩の「保科家」に成人となるまで預けられていました。

 

正室の子として「家光」の下には弟「忠長」がいましたが、幼少時から「家光」より健康で且つ優秀であったことから、両親やその取巻き達は「忠長可愛いしや」で次の将軍も「忠長」との呼び声高かったのですが、乳母の「春日局」の「徳川家康」への働きかけで、一転して「家光」にスポットが当たり逆転の将軍就任となりました。

 

以上の話は良く知られたエピソードですが、「秀忠」と「お江」の逝去後、「家光」は異母弟がいることを知り、自分のもとに高遠から招き入れ可愛がりました。一方、実の弟「忠長」に対しては、厳しい措置を取り、駿府に居城していましたが改易させ更には高崎藩お預かり後自刃に追い込ませました。

 

一方、「正之」は1643年に会津藩23万石で大名として取り立てられ、その後は「正之」の子孫は、「会津松平家」として幕末・維新まで存続します。「家光」からは、四代将軍となる「家綱」の補佐役となるように命じられ、幕閣の中心となり文治政治を推進しました。

 

特に、末期養子の禁を緩和したり、各藩の断絶を減らして、浪人を出さないようにしました。更に、先君が亡くなれば当時は家老達が殉死する習慣が残っていましたが、その禁止も普及させました。

 

また、財政再建も進め、江戸城天守の再建機運が高まっていたものの、巨額のお金が必要となる天守再建を断念させてことでも有名です。

 

この「会津松平家」は、幕末にもう一度、大きくスポットが当たります。尊王攘夷など幕末の混乱期に「京都守護職」を命じられた「松平容保(かたもり)」は、会津藩九代藩主でしたが、幕府からの再三の要請によっり、福島から多くの藩士を率いて京都の秩序維持の為に京都東山の「金戒光明寺」に常駐しました。

 

京都守護職門(現存) ↓

京都の金戒光明寺(松平容保が駐在) ↓

 

滞在して京都の安全警護に尽力したこともあり、「孝明天皇」には凄く信頼され、公武の均衡を保つことができていましたが、「孝明天皇」が逝去した後は、政敵として位置づけられる等、大変な期間を京都で過ごすこととなります。

 

結局は、最後の将軍「徳川慶喜」とともに江戸へ逃げ帰ることになり、更に会津若松へ戻りますが、「武家の棟梁たる徳川家への絶対随順である」という会津松平家の家訓を遵守して、徳川家を守る為に、会津若松城で徹底抗戦を行うこととなりました。

 

「会津若松城」には、新政府軍から多数の大砲が撃ち込まれ、特に天守も無残な姿になる写真を我々は目にすることができます。

 

古写真(戊辰戦争で砲弾を撃ち込まれた後の天守) ↓

 

その会津若松城は、現在は「天守」を始め、「鉄門」「走長屋」「南走長屋」「干飯櫓」が復元されています。

 

天守と走長屋 ↓

 

お城の概要と特徴

縄張り

会津若松城は、「小田垣」の丘に建つ平山城です。その本丸東側には二の丸、三の丸と二重三重もの備えがありました。

 

「蒲生家」「上杉家」時代は、「連郭式縄張り」だったものを、「加藤明成」が本丸・帯曲輪の中心地から西側には「西出丸」、北側には「北出丸」の各々馬出的な曲輪を設けて北西の守りを固めました。その後、「保科正之」が入城して一部修築があったものの、ほぼそのままの形で使用されました。

 

縄張鳥瞰図 ↓

 

今回は「三の丸」跡からスタートをします。

 

三の丸、二の丸

まず、「三の丸」跡から「二の丸」跡に入るのに「二の丸東門」跡を通ります。その右手には、現在はテニスコートになっている「伏兵曲輪」跡があります。

 

「東門」跡からは鬱蒼とし見えない死角の場所になっていて、もし攻められた際には、そこに兵を待機させる絶好の場所だったようです。

 

二の丸東門跡(三の丸方向より) ↓

伏兵曲輪と三の丸の間の堀 ↓

 

二の丸跡の南側にも「二の丸南門」があり三の丸跡に繋がりますが、「瓢箪堀」が迫ってきて門の外側は土橋状になっています。

 

二の丸南門跡 ↓

瓢箪堀の南端(二の丸南門跡を出て左手) ↓

 

帯曲輪

二の丸跡から、赤い「廊下橋」跡を渡って「帯曲輪」跡経由で本丸跡へ入ります。「蘆名時代」は、屋根が付いた廊下橋であったらしいです。そして、橋の下東側は「土橋」で、左右の水堀の水位を保つ為に「水戸違い」となっていました。

 

廊下橋(水戸違いになっている。茶壷櫓跡から) ↓

 

廊下橋を渡ると虎口は石垣となっているのと、特に向かって左側の石垣は高石垣の「打込接(はぎ)」が築かれていて、忍び返しの美しい扇の勾配を見ることができます。

 

茶壷櫓跡(草が生えている所)と高石垣(打込接で、高さ20m) ↓

廊下橋門跡(蒲生・上杉時代は本丸正門だった。廊下橋から) ↓

 

「廊下橋虎口門」跡を抜けますと、左側は石垣の壁が天守北東隅まで続きますが、これは、「本丸」と「帯曲輪」を分ける目的があります。これに沿いながら前進すると、「北出丸」へ繋がる「太鼓門跡」にぶつかります。そして更に前に進むと「帯曲輪」が拡がります。

 

帯曲輪と本丸を区切る石垣(氏郷時代にできた) ↓

 

更に進むと「天守」から南方向へ延びる復元の「走長屋」「鉄門(くろがねもん)」「南走長屋」「干飯櫓」の建物群が本丸に入るのを阻止するように、横たわっています。

 

天守と走長屋(左は鉄門) ↓

鉄門(本丸側から、帯曲輪から本丸に入る表門、扉や柱が鉄板に囲われている) ↓

手前は「鉄門」 ↓

 

手前から走長屋、鉄門、南走長屋、干飯櫓 ↓

 

2001年に「南走長屋」「干飯櫓」が木造で復元され、「天守」から「走長屋」「鉄門」の中を通り抜けて内部が見れるようになりました。「干飯櫓」は後述しますが、「本丸」周囲を取り巻く七基の櫓の一つです。

 

復元の「南走長屋」と「干飯櫓」 ↓

木造復元「走南長屋」の内部 ↓

木造復元「干飯櫓」の内部 ↓

 

 いよいよ、本丸へ入城です。

 

 本丸-天守

「天守」は巨大ですので、三の丸跡や二の丸跡からも見えていましたが、本丸に入ると真ん前に迫ってきます。この「天守」は野面積みの天守台の上に、1965年にRC造りの外観復元されたものです。幸いにも、冒頭見ました古写真に基いて外観復元をコンクリート造りで再築されました。

 

「天守」自体は五重七階ですが、南東方向から見ると六重にも見えます。これは、天守台の南東に土塀が取り巻いていることから、その屋根部分が天守の屋根の一部のように見えるからです。また、「切妻破風」の屋根までも数えると七重にも見えます。

 

復元天守(天守台の北側に天守が建ち、南側は土塀が囲むので6重に見える、南東方向より) ↓

復元天守(本丸御殿跡から、東側面) ↓

 

写真の瓦の色は赤瓦で、寒さが厳しい場所に建つ城郭建造物には瓦内に浸み込む水分が凍結するのを防止する釉薬を施します。かつては、瓦は黒色で復元されていましたが、2011年に、江戸時代(1648年に葺き替え)に葺かれていた瓦色の赤色に取り換えられました。

 

現在の「赤瓦」の「天守」 ↓

2011年の赤瓦葺き替え前の「黒瓦」の時の「天守」 ↓

 

天守台は「野面積み」で隅石も算木積みにはならず古いタイプです。「天守」入口は、天守台の石垣に開けられた出入口からの入場となり、入口には立派な一枚岩が頭上に置かれています。

 

天守台の内部地階は塩貯蔵庫として使用されていて現在、人形を使ってそれを再現しています。「天守」はコンクリート造りの資料館ですので、ビル内と変わりない雰囲気です。

 

「天守台」とその「隅石」 ↓

「天守台」に切られた入口 ↓

入口の一枚岩 ↓

天守台内部の塩貯蔵庫の再現 ↓

天守内部(階段部分) ↓

天守内部(最上階) ↓

「本丸御殿跡」(天守最上階から) ↓

 

「会津若松城(後編)」では、「本丸」跡から始め、「西出丸」「北出丸」更には「総構え」等を見て行きたいと思います。

 

 

 

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