全国の城郭建造物「御殿(居館)シリーズ」をお届けしています。

 

御殿については、「はじめに」の中で、軽く触れましたのでどうぞご覧ください。

 

全国「御殿」を巡る”はじめに” ↓

 

名古屋城」の木造復元「本丸御殿」を分けてお届けしています。当城の「本丸御殿」は1945年に太平洋戦争で「天守群」と共に焼失しましたが、「本丸御殿」の復元事業は2009年から三期に分けて順次行われ、9年かけて2018年に完成しました。

 

一期目は「玄関」「中之口部屋」「溜之間」「表書院」、二期目は「下御膳所」「対面所」「鷺之廊下」「梅之間」「孔雀之間」「柳之間」「上台所」、三期目は「上洛殿」「御湯殿書院」「黒木書院」「上御膳所」が各々完成していきました。

 

写真が沢山ありますので、数回に分けてお届けをしています。

 

名古屋城」(愛知県名古屋市中区

「御三家」の一つ「尾張藩」に、「家康」が1610年に天下普請で築城を始め1612年に完成させて、「家康」の九男「徳川義直」を入城させます。

 

当時まだ「豊臣方」が「大坂城」で健在だったことから、「名古屋」から以東の徳川領土を如何に防衛するか、また「徳川」の力を如何に見せつけるかに主眼が置かれた為に、堅固で立派なお城が造られました。

 

その後7代藩主だった「徳川宗春」は、当時の江戸幕府八代将軍「徳川吉宗」の「質素倹約政策」「財政緊縮策」に対抗して、当時の日本では唯一、今でいう「規制緩和策」や「経済拡大策」を採った藩主だったとのことです。

 

幕末時には、14代と17代の藩主になった「徳川慶勝(よしかつ)」は「尾張藩」の支藩だった「高須藩」からの養子でしたが、幕政にも参画して「井伊直弼」に対抗しましたが、「安政の大獄」で隠居謹慎を命じられます。

 

「井伊直弼」が「桜田門外の変」で暗殺された後は、上洛して14代将軍の補佐を命じられるとともに「尾張藩」の実権を握り、「徳川家」にも拘らず藩内の「佐幕派」に圧力をかけて「新政府軍」に参加します。

 

 

「本丸御殿」は前述したように太平洋戦争で焼失、その後「天守群」は1959年にRC造りで外観復元しましたが、「本丸御殿」は遅れること50年経った2009年に木造復元工事が開始され、三期9年の歳月をかけて2018年に完成しました。

 

戦前の「本丸御殿」と「天守群」の古写真 ↓

 

建物は当時の古写真や図面等から形や素材を正確に踏襲し、内部の襖や壁画、天井画全てが、殆ど戦災から免れた絵を元に精密な手作業で復元されていて、色鮮やかなモノを目にすることができます。

 

本日は、第二期工事で完成を見た「対面所」「梅之間」「鷺之廊下」を掲載いたします。

 

「本丸御殿」図(入館時配布のパンフレットより掲載) 

 

「対面所」の役割は、藩主とその家族との私的な対面、家臣との私的な対面、更には宴席をする場所として使用されました。

 

「対面所」の外観(右側、左側は「上洛殿」) ↓

 

壁や襖絵には、「上段之間」は、四季の京都の風物と名所、「次之間」は和歌山の風物と名所が描かれています。ほぼ生活の場として使用されていたので、落ち着いた四季が描かれています。

 

「対面所」を彩る絵画の解説(「上段之間」は京都名所、「次の間」は和歌山の名所)↓

 

「対面所 上段之間」(左から床、違い棚、帳台構えで襖絵は京都愛宕山が描かれる) ↓

「対面所 上段之間」 (床の間と違い棚、愛宕山が描かれる) ↓

「対面所 上段之間」 (床の間と違い棚、愛宕山が描かれる) ↓

「対面所 上段之間」(違い棚と帳台構え) ↓

「対面所 上段之間」(違い棚と帳台構え 、加茂競馬が描かれる) ↓

 

「対面所 上段之間」(襖絵、田植え等が描かれる) ↓

「対面所 次之間」(和歌山の風俗画が描かれる) ↓

「対面所 次之間」の天井(二重折上げ小組格天井で格縁が黒漆塗) ↓

「対面所 次之間」の襖絵裏側(「取っ手」が金装飾) ↓

 

納戸之間」は「上段之間」「次の間」の北側に並ぶ控室のことで、「納戸一之間」は藩主が最後に身支度を整えた部屋で「床の間」が付き、「納戸二之間」は身内や親しい家臣が控える待合の部屋でした。

 

「納戸一之間」 ↓

「納戸一之間」 ↓

「納戸ニ之間 ?」 ↓

「対面所」に繋がる廊下 ↓

「対面所」の北側(右側に「納戸一之間」と「納戸二之間」が並ぶ) ↓

 

鷺之廊下」は、「対面所」と「上洛殿」とを繋ぐ廊下で、壁には「鷺」の絵が描かれています。また、その北側は「梅之間」になっています。

 

「対面所」(右側)と「上洛殿」(左側)の間が「鷺之廊下」外観 ↓

「鷺之廊下」 ↓

 

梅之間」は、「上洛殿」と「対面所」の間にある北側の部屋で、将軍のお世話をする尾張藩上級家臣の控えの部屋でした。

 

「梅之間」 ↓

「梅之間」 ↓

「対面所」の「釘隠し」 ↓

 

いよいよ次回は、将軍が上洛時に使用した豪華絢爛の「上洛殿」をお届けします。

 

 

 

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御殿については、「はじめに」の中で、軽く触れましたのでどうぞご覧ください。

 

全国「御殿」を巡る”はじめに” ↓

 

 

名古屋城」の木造復元「本丸御殿」を分けてお届けしています。当城の「本丸御殿」は1945年に太平洋戦争で「天守群」と共に焼失しましたが、「本丸御殿」の復元事業は2009年から三期に分けて順次行われ、9年かけて2018年に完成しました。

 

一期目は「玄関」「中之口部屋」「溜之間」「表書院」、二期目は「下御膳所」「対面所」「鷺之廊下」「梅之間」「孔雀之間」「柳之間」「上台所」、三期目は「上洛殿」「御湯殿書院」「黒木書院」「上御膳所」が各々完成していきました。

 

写真が沢山ありますので、数回に分けてお届けをしています。

 

名古屋城」(愛知県名古屋市中区

「御三家」の一つ「尾張藩」に、「家康」が1610年に天下普請で築城を始め1612年に完成させて、「家康」の九男「徳川義直」を入城させます。

 

当時まだ「豊臣方」が「大坂城」で健在だったことから、「名古屋」から以東の徳川領土を如何に防衛するか、また「徳川」の力を如何に見せつけるかに主眼が置かれた為に、堅固で立派なお城が造られました。

 

その後7代藩主だった「徳川宗春」は、当時の江戸幕府八代将軍「徳川吉宗」の「質素倹約政策」「財政緊縮策」に対抗して、当時の日本では唯一、今でいう「規制緩和策」や「経済拡大策」を採った藩主だったとのことです。

 

幕末時には、14代と17代の藩主になった「徳川慶勝(よしかつ)」は「尾張藩」の支藩だった「高須藩」からの養子でしたが、幕政にも参画して「井伊直弼」に対抗しましたが、「安政の大獄」で隠居謹慎を命じられます。

 

「井伊直弼」が「桜田門外の変」で暗殺された後は、上洛して14代将軍の補佐を命じられるとともに「尾張藩」の実権を握り、「徳川家」にも拘らず藩内の「佐幕派」に圧力をかけて「新政府軍」に参加します。

 

 

「本丸御殿」は前述したように太平洋戦争で焼失、その後「天守群」は1959年にRC造りで外観復元しましたが、「本丸御殿」は遅れること50年経った2009年に木造復元工事が開始され、三期9年の歳月をかけて2018年に完成しました。

 

戦前の「本丸御殿」と「天守群」の古写真 ↓

 

建物は当時の古写真や図面等から形や素材を正確に踏襲し、内部の襖や壁画、天井画全てが、殆ど戦災から免れた絵を元に精密な手作業で復元されていて、色鮮やかなモノを目にすることができます。

 

本日は、第二期工事で完成を見た「対面所」を周囲を取巻く「下御膳所」「上台所」と第三期工事で復元した「上御膳所」の写真を中心に掲載いたします。

 

「本丸御殿」図(入館時配布のパンフレットより掲載) ↓

 

下御膳所」は、食事の配膳や温め直しをした場所で、中央には「囲炉裏」と天井に「煙出し」が備わっています。

更に西側の「上洛殿」に近い場所には格式の高い「上御膳所」が置かれています。(「上御膳所」は三期目に復元されましたが、ここで掲載します)

 

「下御膳所」(左)と「対面所」(右) 北側から見る ↓

「中之口部屋」から「下御膳所」への廊下 ↓

「下御膳所」の手前の間 ↓

「下御膳所」内の床には「囲炉裏」 ↓

「下御膳所」内の天井には「煙出し」 ↓

「上御膳所」(「下御膳所」より格式が高く、上段之間、上之間、御膳場と呼ばれる3つの部屋があった) ↓

古写真「上御膳所」の「上之間」? (現地で掲出写真) ↓

 

上台所」は、将軍専用の食事を作る建物で、火を使用するので屋根は「本瓦葺」、庇は「杮葺」となっていて屋根には「煙出し」があります。

 

「上台所」の北東隅 ↓

「上台所」の北面 ↓

「上台所」(中はミュージアムショップに) ↓

 

次回は「対面所」をお届けします。

 

 

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御殿については、「はじめに」の中で、軽く触れましたのでどうぞご覧ください。

 

全国「御殿」を巡る”はじめに” ↓

 

 

名古屋城」の木造復元「本丸御殿」を分けてお届けしています。当城の「本丸御殿」は1945年に太平洋戦争で「天守群」と共に焼失しましたが、「本丸御殿」の復元事業は2009年から三期に分けて順次行われ、9年かけて2018年に完成しました。

 

一期目は「玄関」「中之口部屋」「溜之間」「表書院」、二期目は「下御膳所」「対面所」「鷺之廊下」「梅之間」「孔雀之間」「柳之間」「上台所」、三期目は「上洛殿」「御湯殿書院」「黒木書院」「上御膳所」が各々完成していきました。

 

写真が沢山ありますので、数回に分けてお届けをしていきます。

 

名古屋城」(愛知県名古屋市中区

「御三家」の一つ「尾張藩」に、「家康」が1610年に天下普請で築城を始め1612年に完成させて、「家康」の九男「徳川義直」を入城させます。

 

当時まだ「豊臣方」が「大坂城」で健在だったことから、「名古屋」から以東の徳川領土を如何に防衛するか、また「徳川」の力を如何に見せつけるかに主眼が置かれた為に、堅固で立派なお城が造られました。

 

その後7代藩主だった「徳川宗春」は、当時の江戸幕府八代将軍「徳川吉宗」の「質素倹約政策」「財政緊縮策」に対抗して、当時の日本では唯一、今でいう「規制緩和策」や「経済拡大策」を採った藩主だったとのことです。

 

幕末時には、14代と17代の藩主になった「徳川慶勝(よしかつ)」は「尾張藩」の支藩だった「高須藩」からの養子でしたが、幕政にも参画して「井伊直弼」に対抗しましたが、「安政の大獄」で隠居謹慎を命じられます。

 

「井伊直弼」が「桜田門外の変」で暗殺された後は、上洛して14代将軍の補佐を命じられるとともに「尾張藩」の実権を握り、「徳川家」にも拘らず藩内の「佐幕派」に圧力をかけて「新政府軍」に参加します。

 

 

「本丸御殿」は前述したように太平洋戦争で焼失、その後「天守群」は1959年にRC造りで外観復元しましたが、「本丸御殿」は遅れること50年経った2009年に木造復元工事が開始され、三期9年の歳月をかけて2018年に完成しました。

 

戦前の「本丸御殿」と「天守群」の古写真 ↓

 

建物は当時の古写真や図面等から形や素材を正確に踏襲し、内部の襖や壁画、天井画全てが、殆ど戦災から免れた絵を元に精密な手作業で復元されていて、色鮮やかなモノを目にすることができます。

 

本日は、第一期工事で完成を見た「表書院」の写真を中心に掲載いたします。「書院造り」の格式が順次上がって行くのをどうぞ見比べてみてください。(次回以降掲載の「対面所」「上洛殿」)

 

「本丸御殿」図(入館時配布のパンフレットより掲載) ↓

 

表書院」は、「玄関」から「大廊下」で繋がり、その役割は、正式な謁見の場所で、「本丸御殿」の中では最も広い建物で「大広間」とも言われます。「表書院」の構成は、「三之間」「二之間」「一之間」と並び、藩主が坐する為に一段高くなっている「上段之間」があります。

 

「表書院」の外観南面(手前は「大廊下」、玄関前より西方向) ↓

「表書院」の外観(「上洛殿」南東隅より) ↓

「表書院」の外観(「鷺之廊下」より) ↓

「表書院」の立派な「懸魚」 ↓

「表書院 三之間」 ↓

「表書院 三之間」の襖絵 ↓

「表書院 三之間」の正面襖絵(じゃ香) ↓

「表書院 二之間」 ↓

「表書院 二之間」から「三之間」を見る ↓

「表書院 二之間」から「一之間」を見る ↓

「表書院 二之間」の東襖絵 ↓

「表書院 二之間」の西襖絵 ↓

「表書院 一之間」から「上段之間」を見る ↓

「表書院 一之間」から「二之間」「三之間」を見る ↓

「表書院 一之間」の東襖絵 ↓

 

いよいよ、藩主が坐する「上段之間」です。「床の間」には松の大木をあしらい、右横の「違い棚」の壁面は「床の間」から続く松の根元の苔が描かれています。更に「帳台構え」には右に大きく伸びる紅梅とその下には雉が描かれています。全てのバック(壁面)は金地になっていて豪華さが伝わります。

 

天井は、「折上げ小組格天井」と言われ、格子状の中に小組が見られます。

 

「表書院 一之間」から「上段之間」を見る ↓

「表書院 上段之間」の「床の間」 ↓

「表書院 上段之間」の「床の間」 ↓

「表書院 上段之間」の「違い棚」と「帳台構え」 ↓

「表書院 上段之間」の「帳台構え」 ↓

「表書院 上段之間」の「折上げ小組格天井」 ↓

「表書院 入側(廊下)」 ↓

「表書院裏 納戸之間(右)」 ↓

 

次回は、「第二期」に復元された箇所をお届けしていきます。

 

 

 

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本日(7/19)、元会社の同僚の友と一緒に「尼崎市立歴史博物館」で実施されている「尼崎の近世古文書を楽しむ会」に体験参加しました。

 

前々から古文書の解読ができればいいな~と漠然と思っていた私ですが、同僚くんは自分の先祖を辿っていくために古文書に触れ始めていたこともあり、古文書講座を探していたところ、尼崎の「市立歴史博物館」で開講しているとの情報を得てきてくれたので、一度どのような講座かを体験してみようということで本日参加しました。

 

体験参加の私達2人を除き、本日は8人のメンバーが、現在「上坂部村(現尼崎市上坂部)の徳永孝哉氏文書」のコピーを解読されていて、自宅で一人ひとり解読した文章(文字おこし=ワード化)を発表されていました。

 

さすがに尼崎は「尼崎藩」の城下町であり、その周辺の村々もその管理下にあった為でしょうか、古文書というものが各庄屋等に多く残されているようです。

 

私達も、その古文書のコピーを借りそのコピーからワードで落とし込んだ文面とを見比べながら体験させていただきましたが、全くのチンプンカンプン。

 

しかし、今回の「文書」内容は、幕府や藩から村々への通達であり、幕末の夷敵対策のために村々に大砲や小銃や鐘があれば供出するようにとのお触れであったり、差出人が歴史で習ったことがある「安藤信正」の名前があったりと、非常に興味深いことがその古文書に書かれてあるとのことを発表者の方々解読で知ることになり、所々読める漢字があったりもして、体験だけでなく本チャンで学ぼうという意志が強くなりました。

 

メンバーの方も親切で、最初の内は全く読めなくてもいつかは内容が理解できるようになりますよ、毎回少しずつレクチャー時間も用意しますよ、とのお言葉をいただき、2人は凄いやる気になって、次回以降の参加申し込みをしました。

 

「尼崎市立歴史博物館」は、「尼崎城」の「本丸」跡に建った高校や中学校の校舎を再利用した建物で、丁度、体験講座を受けた部屋の隣の部屋では企画展「描かれた近世尼崎 -絵図に見る城と城下町-」を開催している最中で、写真撮影はできませんでしたが、江戸時代に描かれた現存の城下を描いた城群図、城郭図、本丸御殿平面図、天守閣等の立面を描いた天守閣及び櫓図、掘割図などが展示されていて、尼崎の歴史の奥深さや尼崎城の重要性を知る事ができました。

 

企画展「描かれた近世尼崎 -絵図に見る城と城下町-」のパンフ ↓

1636年の「尼崎城下」絵図(パンフより) ↓

尼崎城郭図(廃城令時に作成、パンフより) ↓

「尼崎城天守閣及び櫓図」(パンフより) ↓

「尼崎城堀割図」(パンフより) ↓

 

当博物館の玄関前には、こんもりと木々が茂った所があり、その中に据えられた大石には「尼崎城天守閣遺蹟」と刻まれた石碑がありましたが、木々が茂っていたこともあり字が見えないのが残念でした。

 

「尼崎城天守閣遺蹟」と刻まれた石碑(辛うじて見える) ↓

「尼崎城天守閣遺蹟」と刻まれた石碑(本来の姿) ↓

 

「天守閣」は、現在の「尼崎市立歴史博物館」の東端辺りに建っていて、明治時代以降はそこに「天守山」と呼ばれる小山があったそうですが、女学校の校舎建築で山は崩され、新たにその北東に山が築かれ、そこに1931年に据えられたのがこの石碑だそうですが、この小山も昭和30年代に壊されて石碑は今の場所に移されたそうです。

 

「尼崎市立歴史博物館」と茂みの中に「尼崎城天守閣遺蹟」碑 ↓

 

この石碑の北側の敷地沿いには、「尼崎城の石垣の石」がモニュメントとして並べられていました。

 

「尼崎城の石垣の石」 ↓

「尼崎城の石垣の石」 ↓

「尼崎城の石垣の石」 ↓

 

現在の「天守」は、「本丸」跡が元学校の敷地であったことから、「西二の丸」跡に場所を替えて建てられましたので、厳密には模擬と言うのかもしれませんが、外観は絵図や立面図の形を再現しているので私は外観復元或いは絵図を元にしているので外観復興と言ってもいいのではと思います。

 

「尼崎駅」で同僚の友と別れてホームへ上がると、南東方向に美しい形の「尼崎天守」を眺めることができました。

 

阪神「尼崎駅」から望む「尼崎城天守」 ↓

 

私は「難波」で買物があったので「阪神難波線」に乗りましたが、丁度入線した列車は相互乗り入れしている「近鉄電車」の車両でした。

 

凄く派手なラッピング列車で、「奈良」をアピールした車両、内部も「鹿」の写真やつり革には鹿がぶら下がり、インバウンドの方々には喜ばれそうな車両でしたが、あまりにもド派手で過ぎでもう少し落ち着いたデザインでもいのにと思いました。

 

「近鉄電車」の車両(「奈良」を全面にアピールしたラッピング列車) ↓

「近鉄電車」の車両(「奈良」を全面にアピールしたラッピング列車) ↓

「近鉄電車」の車両(「奈良」を全面にアピールしたラッピング列車) ↓

「近鉄電車」の車両(「奈良」を全面にアピールしたラッピング列車) ↓

「近鉄電車」の車両(「奈良」を全面にアピールしたラッピング列車) ↓

「近鉄電車」の車両(「奈良」を全面にアピールしたラッピング列車) ↓

「近鉄電車」の車両(「奈良」を全面にアピールしたラッピング列車) ↓

「近鉄電車」の車両(内装も「奈良」をイメージ) ↓

「近鉄電車」の車両(吊革には鹿さんがぶら下がります) ↓


今日は、同僚の友には先祖へのアプローチの仕方等色々と教えを請い、その後の古文書講座では体験から本チャンに向けた意欲と期待を膨らませ、更には「尼崎城」の天主閣碑の歴史も知ることができる有意義な1日を過ごすことができました。

 

 

 

 

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御殿については、「はじめに」の中で、軽く触れましたのでどうぞご覧ください。

 

全国「御殿」を巡る”はじめに” ↓

 

今回は、「名古屋城」の木造復元「本丸御殿」をお届けします。当城の「本丸御殿」は1945年に太平洋戦争によって「天守群」と共に焼失しましたが、「本丸御殿」の復元事業は2009年から三期に分けて順次行われ、9年かけて2018年に完成しました。

 

一期目は「玄関」「中之口部屋」「溜之間」「表書院」、二期目は「下御膳所」「対面所」「鷺之廊下」「梅之間」「孔雀之間」「柳之間」「上台所」、三期目は「上洛殿」「御湯殿書院」「黒木書院」「上御膳所」が各々完成していきました。

 

写真が沢山ありますので、何回かに分けてお届けをしていきたいと思います。

 

名古屋城」(愛知県名古屋市中区

「御三家」の一つ「尾張藩」に、「家康」が天下普請で「名古屋城」を1610年に築城を始め1612年に完成させて、「家康」の九男「徳川義直」を入城させます。

 

当時まだ「豊臣方」が「大坂城」で健在だったことから、「名古屋」から以東の徳川領土を如何に防衛するか、また「徳川」の力を如何に見せつけるかに主眼が置かれた為に、堅固で立派なお城が造られました。

 

その後7代藩主だった「徳川宗春」は、当時の江戸幕府八代将軍「徳川吉宗」の「質素倹約政策」「財政緊縮策」に対抗して、当時の日本では唯一、今でいう「規制緩和策」や「経済拡大策」を採った藩主だったとのことです。

 

幕末時には、14代と17代の藩主なった「徳川慶勝(よしかつ)」は「尾張藩」の支藩だった「高須藩」からの養子でしたが、幕政にも参加して「井伊直弼」に対抗しましたが、「安政の大獄」で隠居謹慎を命じられます。

 

「井伊直弼」が「桜田門外の変」で暗殺された後は上洛して14代将軍の補佐を命じられるとともに「尾張藩」の実権を握り、「徳川家」にも拘らず藩内の「佐幕派」に圧力をかけて「新政府軍」に参加します。

 

 

「本丸御殿」は前述したように太平洋戦争で焼失、その後「天守群」は1959年にRC造りで外観復元しましたが、「本丸御殿」は遅れること50年経った2009年に木造復元工事が開始され、三期間9年の歳月をかけて2018年に完成しました。

 

戦前の「本丸御殿」と「天守群」の古写真 ↓

 

建物は当時の古写真や図面等から形や素材を正確に踏襲し、内部の襖や壁画、天井画全てが、殆ど戦災から免れた絵を元に精密な手作業で復元されていて、色鮮やかなモノを目にすることができます。

 

本日は、第一期工事で完成を見た「玄関(車寄せ)」「中の口部屋」「溜之間」の写真を掲載いたします。「書院造り」の格式が順次上がって行くのをどうぞ見比べてみてください。(次回以降掲載の「表書院」「対面所」「上洛殿」)

 

「本丸御殿」図(入館時配布のパンフレットより掲載) ↓

 

「車寄せ」は、「檜皮葺き」の屋根で「軒唐破風」を設けていて、内側の黒漆塗りの枠には「葵の紋」が並びます。その後ろに見える屋根は「玄関」部分で、中は「一之間」「二之間」が並び西側へは「大廊下」を通り「表書院」へ繋がります。

 

木造復元「本丸御殿」の「車寄・玄関」 ↓

木造復元「本丸御殿」の「車寄・玄関」(檜皮葺き、軒唐破風) ↓

木造復元「本丸御殿」の「車寄・玄関」(東方向) ↓

「中之口部屋」(「本丸御殿」の実質的な玄関、家老の部屋にも使用されていた、現在は館内への入口) ↓

「中之口部屋」と「玄関」を繋ぐ廊下(玄関方向) ↓

「溜之間」の外壁 ↓

「溜之間」 ↓

 

「玄関」の役割は、「本丸御殿」に訪れた者がまず通されて、対面を待つ場所です。「一之間」と「二之間」から成り、手前の「一之間」には床の間や違い棚を備え、襖や壁には、金地の中に「虎」や「豹」が描かれ、訪問者に対して威圧感を与えます。

 

「玄関一之間」(金地の中に「虎」や「豹」を描写して威圧感を与える) ↓

「玄関一之間」(金地の中に「虎」や「豹」を描写して威圧感を与える、襖の向こうは「二之間」) ↓

「玄関一之間」には「床の間」と「違い棚」 ↓

「玄関一之間」の「違い棚」 ↓

古写真「玄関一之間」の「違い棚」(現地に掲出写真) ↓

「玄関 一之間と二之間」 ↓

「玄関 二之間」(襖絵と壁絵) ↓

「玄関 二之間」(壁絵) ↓

「玄関」から「大廊下」と続き「表書院」方向 ↓

 

 

 

 

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全国の城郭建造物「御殿(居館)シリーズ」をお届けしています。

 

御殿については、「はじめに」の中で、軽く触れましたのでどうぞご覧ください。

 

全国「御殿」を巡る”はじめに” ↓

 

今回は、「越前大野城」で、七代藩主「土井俊忠」が1862年に家督を三男「利恒」に譲った後に、生活を送っていた「隠居所」です。

 

越前大野城」(福井県大野市)

越前は、「斯波家」「細川家」「畠山家」の三管領が守護の座を争っていましたが、「斯波家」の重臣だった「朝倉家」が越前国を平定しました。しかし1573年の「織田信長」の侵攻によって「朝倉義景」は滅び、その後に越前一向一揆を平定した「金森長近」が越前に入り「越前大野城」を築きました。

 

「長近」の後には、「青木家」や「織田信雄」が入城しましたが、「関ケ原の合戦」を経て越前一国は「結城秀康」の支配下となり、城代として「土屋家」「小栗家」が入りました。

 

1624年に「結城秀康」の三男「松平直政」が5万石で入り、弟の「直基」など「松平家」が3代続きますが、1682年に「土井利房」が4万石で入城後は、幕末・維新まで続きます。特に、4代の「利貞」の時に発生した出火で「大野城」が全焼したことから、7代の「利忠」は財政再建などの藩政改革を断行して財政難を乗り切りました。

 

 

明治時代になって、「利忠」の偉業を湛えてお城の麓には「柳廼社(やなぎのやしろ)」が建てら、その「社務所」として「利忠」が藩主を退いた後に居住していた「隠居所」を使用していました。

 

そして2020年まで「柳廼社の社務所」として使用されていた建物は現在、観光や物販の拠点となる「結(ゆい)ステーション」内の無料休憩所として一部使用されています。

 

「藩主隠居所」(「柳廼社の社務所」から現在は一部「結ステーション内の無料休憩所」、南面) ↓

「藩主隠居所」(「柳廼社の社務所」から現在は一部「結ステーション内の無料休憩所」) ↓

「藩主隠居所」(「柳廼社の社務所」から現在は一部「結ステーション内の無料休憩所」) ↓

「藩主隠居所」(「柳廼社の社務所」から現在は一部「結ステーション内の無料休憩所」) ↓

「藩主隠居所」(「柳廼社の社務所」から現在は一部「結ステーション内の無料休憩所」、北西から) ↓

「藩主隠居所」(「柳廼社の社務所」から現在は一部「結ステーション内の無料休憩所」、西面) ↓

 

 

 

 

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御殿については、「はじめに」の中で、軽く触れましたのでどうぞご覧ください。

 

全国「御殿」を巡る”はじめに” ↓

 

今回は、「金沢城」で現在木造復元工事を進めている「二の丸御殿」の完成予定の絵図、発掘調査状況、御殿の平面図をお届けします。未完成でこれからですが、今後の進捗状況が楽しみです。

 

それから、「兼六園」内に現存している13代藩主「前田斉泰」の母「真龍院」の隠居所である「成巽閣(せいそんかく)」も一部ですが紹介します。

 

金沢城」(石川県金沢市

元々の「金沢城」は、加賀一向一揆の拠点「尾山御坊」があった跡地に「織田信長」は城を築かせ「佐久間盛政」を配置しました。豊臣政権下では「前田利家」が入ると、加賀、越中と能登の一部を領地として与えられ五大老の一角を占めました。

 

「関ヶ原の合戦」では、「利家」の息子「利長」は東軍に付いて加賀での働きが認められ、加賀、越中、能登の三か国119.5万石(その後、富山藩、大聖寺藩に分与して102.5万石)を領有することになりますが、「徳川家康」から「利長」に不穏の動きありとの不興を買いましたので、母「まつ」を江戸へ人質として差し出し和解をしました。

 

そして、1605年に「利長」は弟の「利常」に家督を譲り隠居しますが、「利常」の妻「珠姫(たまひめ)」は二代将軍「徳川秀忠」の娘であったことや、息子の「光高」は「水戸徳川光圀」の姉の姫君を妻に迎えたこと、更には、本郷の加賀藩上屋敷に建てられた溶姫御殿の正門が「東京大学の赤門」で有名ですが、13代藩主「前田斉泰」の正室「溶姫」も、11代将軍「徳川家斉」の娘でありました。

 

このようにして、「徳川家」との繋がりを一層強固となるように努力し続け、「前田家」を盤石な家柄として幕末・維新まで続く原動力になりました。

 

 

さて「金沢城」の政治・行政を執り行う「二の丸御殿」は、幕末・維新まで現存していて、一部古写真に見ることができます。廃藩後は軍隊の管轄に置かれ、兵舎として利用されましたが、1881年に失火により焼失してしまいました。

 

古写真(「鼠多門」の後方に見えるのが「二の丸御殿」の一部) ↓

 

2018年より、「二の丸御殿」の復元整備に向けた取り組みを進めるべく学識者による検討や各種調査等を進めてきて、2021年に「二の丸御殿」の復元整備に向けた基本方針を策定しました。

 

調査により分かった御殿内の「釘隠し」など(現地にて掲出) ↓

調査により分かった御殿内の「壁紙」など(現地にて掲出) ↓

 

その後、復元整備事業に着手し、基本方針に沿って発掘調査や設計等の取り組みを進めています。そして、いよいよ2024年からは復元工事がはじまるとのことです。

 

「発掘調査」現場 (2023年9月時点の状況) ↓

「発掘調査」現場 (2023年9月時点の状況) ↓

「発掘調査」現場 (2023年9月時点の状況) ↓

 

「二の丸御殿」は、藩の政庁である「表向」、藩主の日常空間である「御居間廻り」、藩主の家族が暮らす「奥向」の3エリアで構成されていますが、今回復元されるのは「表向」で、「御殿玄関や式台」などが第1段階として着工され、第2段階では「大広間(竹の間)」などが、第3段階では「書院」などが復元される予定です。今後の発掘調査等が進めば「御居間廻り「奥向」の復元の可能性もあるようです。

 

「二の丸御殿」の平面配置図(現地に掲出) ↓

「二の丸御殿」の平面配置図(江戸時代前期、現地に掲出) ↓

「二の丸御殿」の平面図(今回の復元は赤枠の部分、現地に掲出) ↓

「二の丸御殿」の屋根伏せ図(現地に掲出) ↓

 

「二の丸御殿」玄関の立面図(現地に掲出) ↓

 

「二の丸御殿玄関・式台」の復元イメージ図(現地に掲出) ↓

「二の丸御殿 表向主要部」の復元イメージ(現地に掲出)↓

 

 

「兼六園」内に建つ「成巽閣(せいそんかく)」は、1863年に13代藩主「前田斉泰」の母「真龍院」の隠居所として「竹沢御殿跡」の一隅に造営された建物で、「大名書院造り」と「数奇屋風書院造り」の二つの様式を持つ風格ある佇まいが建物全体に醸し出されています。

 

2023年9月に訪城した際は休館日で内部には入れずでしたので、内部は2002年に訪れた時の写真です。

 

「成巽閣(せいそんかく)」の門 ↓

「成巽閣(せいそんかく)」の外観 ↓

 

玄関は、立派な唐破風を備え、中に入ると、一階の「謁見の間」は床の間、違い棚、付書院、帳台構えを持つ城郭建築の豪華さがあり、二階の「群青の間」「網代の間」は、細やかな意匠の違い棚、群青色の美しい天井、そして華燈窓を持つ部屋となっています。

 

「成巽閣(せいそんかく)」の唐破風付き「玄関」 ↓

   

「成巽閣」二階の「群青の間」

 

 

 

 

 

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今回は、「福井城」内の「本丸御殿の一部」が福井市内の臨済宗「瑞源寺」へ移築され「本堂」「書院」で使用されているのをお届けします。また、お城の北東には、藩主「松平家」の別邸だった「御泉水屋敷」 (浩養館)も紹介します。

 

福井城」(福井県福井市

「関ケ原の合戦」後、「北ノ庄」へ67万石の恩賞をもって入城したのが、「徳川家康」の次男で、「豊臣秀吉」の養子から「結城家」の養子として出された「結城秀康」でした。

 

北陸方面における「大坂方(豊臣方)」への抑えとして「家康」の縄張りで「天下普請」で築城されたのが「福井城」です。

 

そして、1604年には、「結城性」から「松平性」を使用することが許され、晴れて「徳川家」の家門として復活しました。

 

以降は、「秀康系」の子孫(越前松平家)が、代々「福井城」の藩主となり統治します。ただ、「秀康」の嫡男「忠直」は「大坂の陣」の論功行賞に不満を持ち反幕府的な態度を取ったことから1623年にその乱行を理由に「豊後大分」に流されます。

 

その後に「忠直」の弟「忠昌」が50万石で入城しますが、その後支藩への分封や藩主の発狂による強制隠居処分などで石高を大幅に減らし、32万石で幕末・維新まで続きます。

 

幕末の藩主「松平慶永(春嶽-しゅんがく)」は名君といわれ、「島津斉彬」「山内容堂」「徳川斉昭」とともに、「安政の大獄」では「井伊直弼」との対立から登城が禁じられたりしましたが、大政奉還後も徳川家存続に注力しました。

 

 

「福井城本丸」跡は、現在県庁や県警本部や県議会場の建物が建ち並んでいますが、幕藩体制時には大きな「本丸御殿」が横たわっていました。

 

「福井城本丸」内の「本丸御殿」絵図 ↓

 

その「本丸御殿」の北側にあった「御小座敷」が1860年に、「大奥御座之間」が天保年間以降に、それぞれ福井市内の臨済宗「瑞源寺」へ移築されていて、現在でもお寺の「本堂」と「書院」として利用されています。

 

「福井城本丸御殿 御小座敷」が移築されている「瑞源寺本堂」 ↓

「福井城本丸御殿 御小座敷」が移築されている「瑞源寺本堂」 ↓

「福井城本丸御殿 御小座敷」の廊下部分(瑞源寺本堂廊下) ↓

「福井城本丸御殿 御小座敷」(床の間からの方向、瑞源寺本堂) ↓

「福井城本丸御殿 御小座敷」(向こう側が床正面だった、瑞源寺本堂) ↓

「福井城 大奥御座之間」(瑞源寺書院に移築) ↓

「福井城 大奥御座之間」(違い棚、瑞源寺書院に移築) ↓

「福井城 大奥御座之間」(床の間、瑞源寺書院に移築) ↓

「福井城 大奥御座之間」(漆塗りの障子戸、瑞源寺書院に移築) ↓

「福井城 大奥御座之間」(先の尖った釘隠し、瑞源寺書院に移築) ↓

 

瑞源寺の「書院」脇の「御成の間」は、「福井城本丸御殿」の一部を移築したモノではなく、藩主が菩提寺である「瑞源寺」にお参りした際に使用したお寺の「御成の間」で、壁は「赤壁」をあしらっています。

 

瑞源寺の書院脇の「御成の間」の赤壁 ↓

 

お城の北東には、藩主「松平家」の別邸だった「御泉水屋敷」 (浩養館)がありました。江戸時代初期に完成した後、1600年後半に改修されました。

 

「回遊式林泉庭園」内に、その景色を楽しめるように配置された「数寄屋造り」の建物が建っていましたが、太平洋戦争で建物は焼失、庭園は辛うじて残りましたので、1993年に建物を復元させました。

 

「御泉水屋敷」 (浩養館)入口 ↓

復元「御泉水屋敷」 ↓

復元「御泉水屋敷」 ↓

「回遊式林泉庭園」 ↓

 

 

 

 

 

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今回は、「新発田城」城下の現存下屋敷「清水谷御殿」及び藩主「溝口家」の別邸で茶寮として使用された現存「五十公野御茶屋」をお届けします。

 

新発田城」(新潟県新発田市

新発田には、鎌倉時代頃から「新発田家」が居館を構えていて国人領主としてのし上がり、戦国時代には「上杉家」と対等の力を付けますが「上杉謙信」配下となり「上杉家」を支えます。その後、「上杉家」の跡目争いでは「上杉景勝」の勝利に貢献しますが、「新発田重家」の時に「景勝」に対して反旗を翻したことから「新発田家」は滅ぼされます。

 

「豊臣秀吉」政権下では、「上杉景勝」の会津転封に伴って、「新発田城」主となったのが「溝口秀勝」です。「関ケ原の合戦」の際には東軍につきましたので「新発田城」を安堵され、石直しによって10万石に加増され、「溝口家」は幕末・維新まで続きました。

 

 

新発田城下には、三代藩主「溝口宣直」が「下屋敷」を造営して「清水谷御殿」を築き、更に四代藩主「重雄(しげかつ)」の時に、江戸の庭師「縣(あがた)宗和」を招いて、近江八景を採り入れた京風の「池泉廻遊式庭園」を作庭させました。中央には、草書体の「水」の字を描いた大泉池が配されています。

 

現在は、「清水園」といわれ「国指定名勝」に指定されていて、「清水谷御殿」は「寄棟造杮葺平屋建て」の書院の建造物となっています。

 

下屋敷「清水園」(園門、新発田藩下屋敷庭園) ↓

下屋敷「清水谷御殿」の式台 ↓

下屋敷「清水谷御殿」内の「上段の間」 ↓

下屋敷「清水谷御殿」の「書院」内 ↓

下屋敷「清水谷御殿」内の「書院」に続く廊下 ↓

 

庭園内には、書院「清水谷御殿」が現存するほか、池の周りに5つの茶室も点在しています。茶室は、「桐庵」「夕佳亭」「翠涛庵」「同仁斎」「松月亭」で、それぞれの趣きが異なります。昭和20年代に、荒廃した庭園の修復工事と併せて、茶人の「田中泰阿弥」が、「清水谷御殿巻物」や古記録に基づいて復元築造したものだそうです。

 

「清水園」の池泉回遊式庭園 全景 ↓

「清水園」の池泉回遊式庭園(「水」の草書体を表す大池泉) ↓

「清水園」の池泉回遊式庭園内の灯籠 ↓

「清水園庭園内」の復元「茶室(夕佳庵)」 ↓

「清水園庭園内」の復元「茶室(同仁斎)」 ↓

「清水園庭園内」の復元「茶室(翠涛庵)」 ↓

「清水園庭園内」の復元「茶室(松月亭)」 ↓

「清水園庭園内」の復元「茶室(桐庵)」 ↓

 

「御殿」ではないですが、園内には100年以上も前に建てられた「米蔵」(現在は「米蔵ココロ」というレストランに再利用)や「清水園」入口付近には、茅葺平屋建で八間長屋の重要文化財「旧新発田藩足軽長屋」が建っています。足軽長屋としては非常に貴重な建物です。

 

また、三の丸にあった江戸後期の武家屋敷「石黒家」は、近くに移築復元されていて、上記下屋敷、庭園、足軽長屋とともに、この界隈は江戸時代の歴史を感じられる一帯となり、閑静なエリアになっています。

 

清水園内 米蔵(現 レストラン) ↓

「新発田藩足軽長屋」(重文、1842年築、往時は北長屋と称していた) ↓

 

そして、「新発田城」下でもう一ケ所、江戸を感じることができる国指定名勝の「五十公野(いじみの)御茶屋」は、ここから少し離れていますが、五十公野公園の中にあります。ここは、藩主「溝口家」の別邸で茶寮として使用されていました。

 

 

初代藩主「溝口秀勝」は「新発田城」に入るまで、ここで居城していました。また、「溝口家」が参勤交代をする際には、「新発田城」内からここまでは盛装して行列を整え、ここで旅支度をしてから出立したそうです。庭園もあり、こちらは「心」の字の池が横たわっています。

 

「五十公野御茶屋」(数寄屋造りの建物、全般に木柄が細く簡素繊細) ↓

「五十公野御茶屋」(歴代藩主は、江戸参勤交代の行き帰りにここで休息と旅装を整えた) ↓

「五十公野御茶屋」の庭園(池泉回遊式、心字の形の池) ↓

「五十公野御茶屋」の「式台」 ↓

「五十公野御茶屋」(座敷棟内) ↓

「五十公野御茶屋」(「座敷棟」から「控えの間」棟方向) ↓

「五十公野御茶屋」(「控えの間」の床の間) ↓

「五十公野御茶屋」(「控えの間」の天井) ↓

 

 

 

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今回は、忠実に木造復元された幕府直轄の「水原代官所」をお届けします。

 

水原代官所」(新潟県阿賀野市

もともと「新発田藩」領だった当地は広大な水田が広がり年貢の収益が高かった事から、1746年に「幕府」主導によって領地替えが行われ幕府直轄の「天領」となりなりました。

 

それによって、もともと「水原城」の跡地に「代官所」が設けられ、初代の代官「内藤十右衛門」が着任して以降1868年3月の「戊辰戦争」に伴い会津藩預かりとなり、その後西軍の侵攻により会津藩が退散して同年7月に廃止されるまでの約120年間続きました。歴代の代官の人数は22代、石高は5万石から10万石を領していました。

 

「代官所」の役割は年貢の徴収と民政、福島潟の開発、更には外様大名のお城がある「新発田藩」「村上藩」の監視も重要な業務となっていました。

 

 

現在は、1995年に当時の「水原代官所」の平面図を基に忠実に木造復元されたので、当時の姿を見ることが出来ます。「水原城館」跡及「水原代官所」跡は1969年に「阿賀野市指定史跡」に指定されています。

 

外観も内部も忠実に木造復元された「水原代官所」 ↓

「水原代官所」の古絵図 ↓

「水原代官所」の平面図 ↓

 

代官所の建物は、中庭を中心に各部屋が配備されていて、特に「奥御庭(おくみにわ)」前には「代官」の執務室である「上ノ間」を始め「中ノ間」、そして接客用の「使者ノ間」が並んでいます。

 

木造復元された「水原代官所」の「玄関」 ↓

木造復元「水原代官所」の「中庭」 ↓

木造復元「水原代官所」の「代官所玄関」、右は「使者の間」から「上の間」部分 ↓

木造復元「水原代官所」の「上ノ間」には「床の間」と「違い棚」を備える ↓

木造復元「水原代官所」(「使者の間」から「中ノ間」「上ノ間」を見る) ↓

木造復元「水原代官所」(「中ノ間」から「大玄関」方向を見る) ↓

 

そのエリアを両側から挟む位置にある左手には「代官」を支える「用人」の「御用人部屋」や「中間部屋」が置かれていました。

 

木造復元「水原代官所」(「御用人部屋」から「中間部屋」を見る) ↓

 

そして、もう一方の側には「大広間」、更には取り調べを行う「公事場」「訴所」「白洲」が配備されています。

 

木造復元「水原代官所」の「大玄関」 ↓

木造復元「水原代官所」の「公事場」 ↓

木造復元「水原代官所」(「公事場」前の「白洲」) ↓

 

「上ノ間」「中ノ間」「使者ノ間」の「中庭」を挟んだ対角線上には、耕地、税取り立て等地方行政を執り行う「御用場」や「書役部屋」等の部屋があり行政を司る役人が詰めていました。また「奥勝手」「奥御台所」「御台所」の生活するために必要な施設や「温故堂」という名前の「御学問所」も設けられていました。

 

木造復元「水原代官所」の「御用場」 ↓

木造復元「水原代官所」の「御学問所」(右側の建物) ↓

 

文字通り当地域の行政、軍事の中心施設として機能していました。

 

木造復元「水原代官所」(復元「代官所大門」 から「代官所玄関」を見る) ↓

木造復元「水原代官所」(復元「代官所大門」 から「代官所玄関」を見る) ↓

木造復元「水原代官所」(復元「代官所大門」 と跡碑) ↓

木造復元「水原代官所」周囲は「土塁」で囲われている ↓

 

 

 

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