新企画の「石・石塁・石垣シリーズ」を展開中ですので、どうぞご覧ください。

 

初回プロローグでピックアップした切口による下記の「分類表」から「①②-(1) 野面積み・乱積み」を使用しているお城の例を「東北地方」から掲載しています。本日から中国地方。「中国方(備前・備中)」のお城の中で「野面積み・乱積み」を導入している例をお届けします。

 

中国地方も石が採れる石場が各所にあるので、戦国時代初期から「土塁」の崩落回避などで「石」を積上げる手法「石塁」の導入が行われているお城が多いです。

 

そして、中国地方へは、当時「織田信長」の命を受けた「羽柴秀吉」による中国侵攻によって多くのお城が築城されたり、その後「豊臣政権」になると、「秀吉」に臣従した西国大名達の多くがが、「秀吉」のお城「大坂城」「聚楽第」「伏見城」を見る事によって、自領に戻るとそれらのお城を参考にして築城するようになり、石垣技術の採り入れを進んでするようになりましたので、今までの「石塁」からは大きな発展をとげることになります。

 

「石垣」と「石塁」の違いは、簡単に言うと「石垣」は「裏込石」を裏側に入れて排水を良くして「根石」の上から少し傾斜させて「石塁」よりは高く積上げていけますが、「石塁」の場合は「土塁」の前に「石」を真上に積上げるだけで裏側や根石の処理がされず高さも低いということです。ただ、表から見てもなかなか見分けがつかない場合が多いです。

 

ということで、前述のように見分けがつかない場合が多々ありますので、私は一応、「織豊時代」以前に築城された時のモノであろうと思う場合は「石塁」に分類しました。従いまして、これから掲載する「野面積み・乱積み」を採用しているお城の中に無い場合は、「石塁」へ分類している場合があり、今後に掲載しますのでよろしくお願いします。

上でも触れましたが「野面積み・乱積み」は、自然石を殆ど加工することなく積上げる手法ですので、排水性は良いですが高くは積上げることが出来ません。石と石との間は隙間があくので「間詰石(まづめいし)」という小石を間に詰めました。

 

また自然石ですので、大小色々な石を積み上げているので、殆どの場合が見た目が乱雑に積んでいるように見えますので「乱積み」といいます。

 

石を加工をする技術が乏しかった戦国時代の後半(天正年間 1573年~92年)に多く導入されています。

 

石を積むというのは、守るべき敷地の角度を持たす為に行う行為とともに、崩れにくくする効果もありますが、それを施すためには、近くに石が豊富に有ること(石場という)と、積上げる技術を持った石工が多くいる必要があります。

 

従いまして、石の少ない地方や石工がいない地方では、必然的に石垣を積むことが出来ませんでした。

 

 

「岡山城」(岡山県岡山市)<「天守台」北面>

「岡山城」(岡山県岡山市)<復興「要害門」と「六十一雁木」脇の「天守曲輪」跡北側の石垣>

「岡山城」(岡山県岡山市)<「天守曲輪」跡南側の高石垣>

「岡山城」(岡山県岡山市)<「西の丸北門」跡、「北西隅櫓」跡付近の石垣>

「岡山城」の詳細はこちらからご覧ください。↓

 

 

 

 

 

 

 

「備中松山城」(岡山県高梁市)<「大手門」跡と「三の丸」跡、「厩曲輪」跡の各石垣と岩盤>

「備中松山城」(岡山県高梁市)<手前から「三の丸」跡、「厩曲輪」跡の復元・現存土塀、「二の丸」跡の各石垣>

「備中松山城」(岡山県高梁市)<「大手門」跡と「番所」跡の各石垣>

「備中松山城」(岡山県高梁市)<「三の丸」跡から見上げた「厩郭」跡と「二の丸」跡の各石垣>

「備中松山城」(岡山県高梁市)<「二の丸」跡の石垣>

「備中松山城」(岡山県高梁市)<「鎬馬出」の石垣、復元「五の平櫓」「六の平櫓」>

「備中松山城」の詳細はこちらからご覧ください。↓

 

 

 

 

 

「津山城」(岡山県津山市)<「月見櫓台」>

「津山城」(岡山県津山市)<「小姓櫓台」、「裏中門」跡への石段脇の石垣>

「津山城」(岡山県津山市)<「裏中門」跡の石垣>

「津山城」(岡山県津山市)<「肘櫓台」(「裏下門」跡から)>

「津山城」(岡山県津山市)<「三の丸」跡南側沿いの石垣>

「津山城」の詳細はこちらからご覧ください。↓

 

 

 

 

 

 

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初回プロローグでピックアップした切口による下記の「分類表」から「①②-(1) 野面積み・乱積み」を使用しているお城の例を「東北地方」から掲載しています。本日は「近畿地方(播磨、淡路)」のお城の中で「野面積み・乱積み」を導入している例をお届けします。

 

近畿地方には、戦国時代初期から「土塁」の崩落回避等で「石」を積上げる手法「石塁」の導入が行われているお城が多いです。

 

そして、近畿地方には「穴太衆」という石工集団があったので、特に「織田信長」「豊臣秀吉」の時代(織豊時代)になると、彼らを重宝する時の権力者やその臣下達が彼らを競って雇い、「石垣」を導入するようになりますので、今までの「石塁」からは大きな発展をとげることになります。

 

「石垣」と「石塁」の違いは、簡単に言うと「石垣」は「裏込石」を裏側に入れて排水を良くして「根石」の上から少し傾斜させて「石塁」よりは高く積上げていけますが、「石塁」の場合は「土塁」の前に「石」を真上に積上げるだけで裏側や根石の処理がされず高さも低いということです。ただ、表から見てもなかなか見分けがつかない場合が多いです。

 

ということで、前述のように見分けがつかない場合が多々ありますので、私は一応、「織豊時代」以前に築城された時のモノであろうと思う場合は「石塁」に分類しました。従いまして、これから掲載する「野面積み・乱積み」を採用しているお城の中に無い場合は、「石塁」へ分類している場合があり、今後に掲載しますのでよろしくお願いします。

上でも触れましたが「野面積み・乱積み」は、自然石を殆ど加工することなく積上げる手法ですので、排水性は良いですが高くは積上げることが出来ません。石と石との間は隙間があくので「間詰石(まづめいし)」という小石を間に詰めました。

 

また自然石ですので、大小色々な石を積み上げているので、殆どの場合が見た目が乱雑に積んでいるように見えますので「乱積み」といいます。

 

石を加工をする技術が乏しかった戦国時代の後半(天正年間 1573年~92年)に多く導入されています。

 

石を積むというのは、守るべき敷地の角度を持たす為に行う行為とともに、崩れにくくする効果もありますが、それを施すためには、近くに石が豊富に有ること(石場という)と、積上げる技術を持った石工が多くいる必要があります。

 

従いまして、石の少ない地方や石工がいない地方では、必然的に石垣を積むことが出来ませんでした。

 

 

「姫路城」(兵庫県姫路市)<「備前丸」の南面石垣>

「姫路城」(兵庫県姫路市)<「西の丸」の南面石垣>

「姫路城」(兵庫県姫路市)<「上山里丸」の南東石垣、「官兵衛の石垣」>

「姫路城」(兵庫県姫路市)<継ぎ目のある石垣(左手は「池田輝政」時代のモノ、右手は「羽柴秀吉」時代のモノ)>

「姫路城」(兵庫県姫路市)<埋門跡(中曲輪「南西隅櫓」の脇>

「姫路城」(兵庫県姫路市)<「内京口門」跡の石垣と「中濠」 >

「姫路城」(兵庫県姫路市)<「車門」跡の石垣>

「姫路城」の詳細はこちらからご覧ください。↓

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「龍野城」(兵庫県たつの市)<模擬「隅櫓台」>

「龍野城」の詳細はこちらからご覧ください。↓

 

 

「鶏龍山(けいろうざん)城」(兵庫県たつの市)<「本丸」跡の破城隅部石垣>

「鶏龍山(けいろうざん)城」(兵庫県たつの市)<「本丸」跡の破城石垣>

「鶏龍山(けいろうざん)城」の詳細はこちらからご覧ください。↓

 

 

 

「三日月陣屋」(兵庫県佐用郡佐用町)<「物見櫓」台など修築石垣>

「三日月陣屋」(兵庫県佐用郡佐用町)<建物群東側の石垣>

「三日月陣屋」(兵庫県佐用郡佐用町)<「御殿」跡の段々石垣>

「三日月陣屋」の詳細はこちらからご覧ください。↓

 


 

「洲本城」(兵庫県洲本市)<「小天守台」>

「洲本城」(兵庫県洲本市)<「東の丸」跡の石垣>

「洲本城」(兵庫県洲本市)<「南の丸隅櫓台」>

「洲本城」の詳細はこちらからご覧ください。↓

 

 

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初回プロローグでピックアップした切口による下記の「分類表」から「①②-(1) 野面積み・乱積み」を使用しているお城の例を「東北地方」から掲載しています。本日は「近畿地方(但馬)」のお城の中で「野面積み・乱積み」を導入している例をお届けします。

 

近畿地方には、戦国時代初期から「土塁」の崩落回避等で「石」を積上げる手法「石塁」の導入が行われているお城が多いです。

 

そして、近畿地方には「穴太衆」という石工集団があったので、特に「織田信長」「豊臣秀吉」の時代(織豊時代)になると、彼らを重宝する時の権力者やその臣下達が彼らを競って雇い、「石垣」を導入するようになりますので、今までの「石塁」からは大きな発展をとげることになります。

 

「石垣」と「石塁」の違いは、簡単に言うと「石垣」は「裏込石」を裏側に入れて排水を良くして「根石」の上から少し傾斜させて「石塁」よりは高く積上げていけますが、「石塁」の場合は「土塁」の前に「石」を真上に積上げるだけで裏側や根石の処理がされず高さも低いということです。ただ、表から見てもなかなか見分けがつかない場合が多いです。

 

ということで、前述のように見分けがつかない場合が多々ありますので、私は一応、「織豊時代」以前に築城された時のモノであろうと思う場合は「石塁」に分類しました。従いまして、これから掲載する「野面積み・乱積み」を採用しているお城の中に無い場合は、「石塁」へ分類している場合があり、今後に掲載しますのでよろしくお願いします。

上でも触れましたが「野面積み・乱積み」は、自然石を殆ど加工することなく積上げる手法ですので、排水性は良いですが高くは積上げることが出来ません。石と石との間は隙間があくので「間詰石(まづめいし)」という小石を間に詰めました。

 

また自然石ですので、大小色々な石を積み上げているので、殆どの場合が見た目が乱雑に積んでいるように見えますので「乱積み」といいます。

 

石を加工をする技術が乏しかった戦国時代の後半(天正年間 1573年~92年)に多く導入されています。

 

石を積むというのは、守るべき敷地の角度を持たす為に行う行為とともに、崩れにくくする効果もありますが、それを施すためには、近くに石が豊富に有ること(石場という)と、積上げる技術を持った石工が多くいる必要があります。

 

従いまして、石の少ない地方や石工がいない地方では、必然的に石垣を積むことが出来ませんでした。

 

 

「出石城」(兵庫県豊岡市)<「大手門」跡の石垣=現在は「辰鼓楼」台>

「出石城」(兵庫県豊岡市)<「西門」跡の石垣>

「出石城」(兵庫県豊岡市)<「山里丸」跡の石垣>

「出石城」(兵庫県豊岡市)<「稲荷曲輪」跡の石垣>

「出石城」(兵庫県豊岡市)<「本丸」跡北西隅の石垣>

「出石城」の詳細はこちらからご覧ください。↓

 

 

 

「有子山城」(兵庫県豊岡市)<横矢掛かりが見られる 「主郭」跡北面の石垣>

「有子山城」(兵庫県豊岡市)<「第三曲輪」跡南面の石垣>

「有子山城」(兵庫県豊岡市)<「第三曲輪」跡北面の石垣>

「有子山城」(兵庫県豊岡市)<「第六曲輪」跡の石垣>

「有子山城」の詳細はこちらからご覧ください。↓

 

 

 

「竹田城」(兵庫県朝来市)<「天守台」>

「竹田城」(兵庫県朝来市)<「天守台」>

「竹田城」(兵庫県朝来市)<「天守台」下の平台の石垣>

「竹田城」(兵庫県朝来市)<「本丸」跡から「南二の丸」跡にかけての石垣>

「竹田城」(兵庫県朝来市)<「南二の丸」跡の石垣と「櫓台」>

「竹田城」(兵庫県朝来市)<「大手門」跡虎口の石垣>

「竹田城」の詳細はこちらからご覧ください。↓

 

 

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初回プロローグでピックアップした切口による下記の「分類表」から「①②-(1) 野面積み・乱積み」を使用しているお城の例を「東北地方」から掲載しています。本日は「近畿地方(丹波・丹後)」のお城の中で「野面積み・乱積み」を導入している例をお届けします。

 

近畿地方には、戦国時代初期から「土塁」の崩落回避等で「石」を積上げる手法「石塁」の導入が行われているお城が多いです。

 

そして、近畿地方には「穴太衆」という石工集団があったので、特に「織田信長」「豊臣秀吉」の時代(織豊時代)になると、彼らを重宝する時の権力者やその臣下達が彼らを競って雇い、「石垣」を導入するようになりますので、今までの「石塁」からは大きな発展をとげることになります。

 

「石垣」と「石塁」の違いは、簡単に言うと「石垣」は「裏込石」を裏側に入れて排水を良くして「根石」の上から少し傾斜させて「石塁」よりは高く積上げていけますが、「石塁」の場合は「土塁」の前に「石」を真上に積上げるだけで裏側や根石の処理がされず高さも低いということです。ただ、表から見てもなかなか見分けがつかない場合が多いです。

 

ということで、前述のように見分けがつかない場合が多々ありますので、私は一応、「織豊時代」以前に築城された時のモノであろうと思う場合は「石塁」に分類しました。従いまして、これから掲載する「野面積み・乱積み」を採用しているお城の中に無い場合は、「石塁」へ分類している場合があり、今後に掲載しますのでよろしくお願いします。

上でも触れましたが「野面積み・乱積み」は、自然石を殆ど加工することなく積上げる手法ですので、排水性は良いですが高くは積上げることが出来ません。石と石との間は隙間があくので「間詰石(まづめいし)」という小石を間に詰めました。

 

また自然石ですので、大小色々な石を積み上げているので、殆どの場合が見た目が乱雑に積んでいるように見えますので「乱積み」といいます。

 

石を加工をする技術が乏しかった戦国時代の後半(天正年間 1573年~92年)に多く導入されています。

 

石を積むというのは、守るべき敷地の角度を持たす為に行う行為とともに、崩れにくくする効果もありますが、それを施すためには、近くに石が豊富に有ること(石場という)と、積上げる技術を持った石工が多くいる必要があります。

 

従いまして、石の少ない地方や石工がいない地方では、必然的に石垣を積むことが出来ませんでした。

 

 

「丹波亀山城」(京都府亀岡市)<大半が積み直しの「天守台」、現在は「大本教の神域」>

「丹波亀山城」(京都府亀岡市)<大半が積み直しの「天守台」、現在は「大本教の神域」>

「丹波亀山城」(京都府亀岡市)<「本丸」跡の石垣、現在は「大本教の神域」>

「丹波亀山城」の詳細はこちらからご覧ください。↓

 

 

 

「篠山城」(兵庫県丹波篠山市)<「天守台」(南東方向から)>

「篠山城」(兵庫県丹波篠山市)<「本丸」跡の「南西隅櫓台」と「本丸南面」の石垣 >

「篠山城」(兵庫県丹波篠山市)<「二の丸」跡の「南西隅櫓台」>

「篠山城」(兵庫県丹波篠山市)<「中門」跡桝形内の石垣>

「篠山城」の詳細はこちらからご覧ください。↓

 

 

 

 

 

 

「福知山城」(京都府福知山市)<復興「天守」の「天守台」(西面)>

「福知山城」(京都府福知山市)<復興「天守」の「天守台」(東面)>

「福知山城」(京都府福知山市)<「天守台」の中にかなりの数の「転用石」>

「福知山城」(京都府福知山市)<「本丸」跡の石垣、北面>

「福知山城」(京都府福知山市)<「本丸」跡の石垣、東面>

「福知山城」の詳細はこちらからご覧ください。↓

 

 

「山家(やまが)陣屋」(京都府綾部市)<「陣屋」内の石垣>

「山家陣屋」の詳細はこちらからご覧ください。↓

 

 

 

「丹後田辺城」(京都府舞鶴市)<「本丸」跡の石垣(あやめ池側)>

 

「丹後田辺城」(京都府舞鶴市)<「本丸」跡の石垣(東面)>

「丹後田辺城」(京都府舞鶴市)<積み直しによる「天守台」>

「丹後田辺城」の詳細はこちらからご覧ください。↓

 

 

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初回プロローグでピックアップした切口による分類の下記表から「①②-(1) 野面積み・乱積み」を使用しているお城の例を「東北地方」から掲載しています。本日は「近畿地方(摂津・山城)」のお城の中で「野面積み・乱積み」を導入している例をお届けします。

 

近畿地方には、戦国時代初期から「土塁」の崩落回避等で「石」を積上げる手法「石塁」の導入が行われているお城が多いです。

 

そして、近畿地方には「穴太衆」という石工集団があったので、「織田信長」「豊臣秀吉」の時代(織豊時代)になると、彼らを重宝する時の権力者やその臣下達が彼らを競って雇い、「石垣」を導入するようになりますので、今までの「石塁」からは大きな発展をとげることになります。

 

「石垣」と「石塁」の違いは、簡単に言うと「石垣」は「裏込石」を裏側に入れて排水を良くして「根石」の上から少し傾斜させて「石塁」よりは高く積上げていけますが、「石塁」の場合は「土塁」の前に「石」を真上に積上げるだけで裏側や根石の処理がされず高さも低いということです。ただ、表から見てもなかなか見分けがつかない場合が多いです。

 

ということですが、前述のように見分けがつかない場合が多々ありますので、私は一応、「織豊時代」以前に築城された時のモノであろうと思う場合は「石塁」に分類しました。従いまして、これから掲載する「野面積み・乱積み」を採用しているお城の中に無い場合は、「石塁」へ分類している場合がありますのでよろしくお願いします。

上でも触れましたが「野面積み・乱積み」は、自然石を殆ど加工することなく積上げる手法ですので、排水性は良いですが高くは積上げることが出来ません。石と石との間は隙間があくので「間詰石(まづめいし)」という小石を間に詰めました。

 

また自然石ですので、大小色々な石を積み上げているので、殆どの場合が見た目が乱雑に積んでいるように見えますので「乱積み」といいます。

 

石を加工をする技術が無かった戦国時代の後半(天正年間 1573年~92年)に多く導入されています。

 

石を積むというのは、守るべき敷地の角度を持たす為に行う行為とともに、崩れにくくする効果もありますが、それを施すためには、近くに石が豊富に有ることと、積上げる技術を持った石工が多くいる必要があります。

 

従いまして、石の少ない地方や石工がいない地方では、必然的に石垣を積むことが出来ませんでした。

 

 

「旧二条城」(京都市上京区)<「京都御苑」内に復元石垣、「足利義昭御所」で跡碑は当地の西側に立つ>

「旧二条城」(京都市上京区)<「二条城」の「二の丸」跡西側内に移築展示>

「旧二条城」の詳細はこちらからご覧ください。↓

 

 

 

 

「指月城(伏見城)」(京都市伏見区)<発掘石垣の展示>

「伏見城(木幡城)」(京都市伏見区)<模擬「伏見桃山城」内駐車場付近の石垣>

「伏見城」の詳細はこちらからご覧ください。↓

 

 

※「伏見城」の移築遺構(伝承も含む)については下記からご覧ください↓

 

 

 

「淀城」(京都市伏見区)<「天守台」下曲輪の北面>

※「天守台」等他の石垣の大半は「打込接」のお城です。

 

「淀城」の詳細はこちらからご覧ください。↓

 

 

 

 

「勝竜寺城」(京都府長岡京市)<「主郭」西側の石垣で上段は復元>

「勝竜寺城」(京都府長岡京市)<「主郭」西側の石垣、上段の復元について>

「勝竜寺城」の詳細はこちらからご覧ください。↓

 

 

 

「茨木城」(大阪府茨木市)<城跡内に建つ「茨木神社本殿」西側通り沿い下の石垣>

「茨木城」の詳細はこちらからご覧ください。↓

 

 

 

「豊臣期大坂城」(大阪市中央区)<ドーンセンター北側の「三の丸」跡から出土石垣の復元展示>

「豊臣期大坂城」(大阪市中央区)<追手門学院小学校東側の「三の丸」跡から出土石垣の復元展示>

「豊臣期大坂城」(大阪市中央区)<「本丸」跡の「御金蔵」付近で発掘された石垣の写真-工事現場に掲出>

「豊臣期大坂城」(大阪市中央区)<「本丸」跡の「御金蔵」付近で発掘された石垣の写真-工事現場に掲出>

「豊臣期大坂城」の詳細及びその関連はこちらからご覧ください。↓

 

 

 

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「お城紀行」の投稿で、「石・石塁・石垣シリーズ」を一時お休みしましたが、本日より再開しますので、どうぞご覧ください。

 

初回プロローグでピックアップした切口による分類の下記表から「①②-(1) 野面積み・乱積み」を使用しているお城の例を「東北地方」から掲載しています。本日は「近畿地方(和泉・紀州)」のお城の中で「野面積み・乱積み」を導入している例をお届けします。

 

近畿地方には、戦国時代初期から「土塁」の崩落回避等で「石」を積上げる手法「石塁」の導入が行われているお城が多いです。

 

そして、近畿地方には「穴太衆」という石工集団があったので、「織田信長」「豊臣秀吉」の時代(織豊時代)になると、彼らを重宝する時の権力者やその臣下達が彼らを競って雇い、「石垣」を導入するようになりますので、今までの「石塁」からは大きな発展をとげることになります。

 

「石垣」と「石塁」の違いは、簡単に言うと「石垣」は「裏込石」を裏側に入れて排水を良くして「根石」の上から少し傾斜させて「石塁」よりは高く積上げていけますが、「石塁」の場合は「土塁」の前に「石」を真上に積上げるだけで裏側や根石の処理がされず高さも低いということです。ただ、表から見てもなかなか見分けがつかない場合が多いです。

 

ということですが、前述のように見分けがつかない場合が多々ありますので、私は一応、「織豊時代」以前に築城された時のモノであろうと思う場合は「石塁」に分類しました。従いまして、これから掲載する「野面積み・乱積み」を採用しているお城の中に無い場合は、「石塁」へ分類している場合がありますのでよろしくお願いします。

上でも触れましたが「野面積み・乱積み」は、自然石を殆ど加工することなく積上げる手法ですので、排水性は良いですが高くは積上げることが出来ません。石と石との間は隙間があくので「間詰石(まづめいし)」という小石を間に詰めました。

 

また自然石ですので、大小色々な石を積み上げているので、殆どの場合が見た目が乱雑に積んでいるように見えますので「乱積み」といいます。

 

石を加工をする技術が無かった戦国時代の後半(天正年間 1573年~92年)に多く導入されています。

 

石を積むというのは、守るべき敷地の角度を持たす為に行う行為とともに、崩れにくくする効果もありますが、それを施すためには、近くに石が豊富に有ることと、積上げる技術を持った石工が多くいる必要があります。

 

従いまして、石の少ない地方や石工がいない地方では、必然的に石垣を積むことが出来ませんでした。

 

「岸和田城」(大阪府岸和田市)<「本丸」南東隅の石垣>

「岸和田城」(大阪府岸和田市)<「本丸」北側の石垣>

「岸和田城」(大阪府岸和田市)<「本丸」南西隅の復興「隅櫓」台と復興「多聞櫓」台の石垣>

「岸和田城」(大阪府岸和田市)<「二の丸伏見櫓」台の石垣>

「岸和田城」の詳細はこちらからご覧ください。↓

 

 

 

 

「和歌山城」(和歌山県和歌山市)<復元「二の門(楠門)」と「二の門櫓」台の石垣>

「和歌山城」(和歌山県和歌山市)<「天守一の門」の石垣、緑泥片岩>

「和歌山城」(和歌山県和歌山市)<「松の丸」跡の「本丸」跡下の石垣、緑泥片岩>

「和歌山城」(和歌山県和歌山市)<「山吹渓(やまぶきだに)付近の石垣、緑泥片岩>

「和歌山城」(和歌山県和歌山市)<「松の丸櫓台」脇の表坂登り階段の石垣、「松の丸櫓台」は「切込接」

「和歌山城」の詳細はこちらからご覧ください。↓

 

 

 

 

 

「新宮城」(和歌山県新宮市)<「本丸」跡下の「南東隅櫓台」の石垣>

「新宮城」(和歌山県新宮市)<「水ノ手曲輪」跡内の「炭納屋群」跡付近の石垣>

※「新宮城」の大半は「切込接」の石垣です。

 

「新宮城」の詳細はこちらからご覧ください。↓

 

 

 


「赤木城」(三重県熊野市)<「虎口」跡の石垣>

「赤木城」(三重県熊野市)<「虎口」跡の石垣>

「赤木城」(三重県熊野市)<「主郭」跡南面の石垣>

「赤木城」(三重県熊野市)<「西廓1」跡の南石垣>

「赤木城」の詳細はこちらからご覧ください。↓

 

 

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5/7(土)に、知人と一緒に「置塩(おじお)城」に登城した「お城紀行」のブログを5/10に投稿しましたが、本日は、「置塩城」からその後に「姫路城」(兵庫県姫路市)へ訪城した時のブログを投稿します。

 

「速報」でも触れましたが、「姫路城」に入城したのが15時を過ぎていたこともあって、訪城者が少なくてゆっくり鑑賞すると共に写真も人を気にすることなくバシバシ撮ることが出来ました。

 

「三の丸」跡からのぞむ「天守群」

 

今回もいつもながら各所の写真を撮りましたが、その中で特徴あるスポットを中心に掲載したいと思います。

 

その前に、お城の歴史と城主に付いて少し触れておきます。

 

戦国時代後期に「小寺則職」に仕えた「黒田家」が、砦から「姫路城」を築城したのが最初で、「黒田孝高」が城代となった時に、「織田信長」の命で中国攻めに任じられ、よしみのあった「羽柴秀吉」に城を献上しました。

 

「秀吉」によって近世城郭に拡張されましたが、関ケ原の戦い後1601年に「徳川家」の信頼の厚い「池田輝政」が入城して、西国大名の監視を目的とする一大拠点として、現在の「天守群」を中心に広大な城郭建築が行われ1610年に完成しました。

 

その後、「本多忠政」が入城し、「三の丸」「西の丸」等が増築されますが、城主の変遷は目まぐるしく、「奥平松平家」、「結城松平家」3回、再び「本多家」、「榊原家」2回と入れ替わり、1749年に「酒井家」が入城してやっと落ち着きました。

 

「秀吉」の三重四階の天守は1581年に「姫山」に完成しましたが、その後の「池田輝政」の大改修によって、「天守台」は新しい「天守」の下に埋没されました。「昭和の大修理」の時に、「天守」地下からその石垣や礎石が見つかっています。

 

 

さて、「内曲輪」の入口は「菱の門」ですが、残念なことに現在修築中でシートで覆われていましたので写真はありません。「姫路城」では、建造物を順番に補修していってるようで、そこから真正面に見える「ロの櫓」と「ニの門」は補修塗り替え工事も終わったのか真っ白になって誇らしく建っていました。

 

補修塗り替え工事が終わった「ロの櫓」と「ニの門」(「菱の門」内側から)

 

「菱の門」の右奥は「三国濠」がありますが、今まで気に留めていなかった北側の石垣に、切った跡が有るのを見つけました。解説板によると、「三国濠」から奥に「濠」が伸びていた箇所を埋めた跡らしいです。これは長年「三国濠」を眺めていたのに全く気が付かなかったことでした。

 

「三国濠」から「西の丸」跡方向

「三国濠」から奥に「濠」が伸びていた箇所を埋めた跡

 

順路は、今まで「菱の門」から真直ぐ「いの門」「ろの門」を抜けて「はの門」へ向かうルートでしたが、そこは通行禁止となり、「西の丸」跡へ上がる順路となっていました。

 

「西の丸」跡からのビューポイントはやっぱり外すことが出来ないのでそこから撮影し、そして「ワの櫓」からは「百間廊下」に入城しました。

 

「西の丸」跡からの定番のビューポイント

「ワの櫓」から入城する「百間廊下」

 

一方通行ですので、混雑時には入城制限も有ったであろう「廊下」は殆ど人もおらず、廊下の遠くまで写真を撮ることができて最高でした。

 

「百間廊下」(遠くまで見えます)

途中段差があり二階へ上がります

 

「百間廊下」の左手は断崖絶壁ではありますが、ここをよじ登ってくる輩(やから)を排除する為に、「石落とし」や「狭間」が床に沿って施されていますが、曲がり角では腰の高さの所に「石落とし」を設けている所も有ります。

 

「石落とし」と「狭間」

腰ほどの高さにも「石落とし」が

 

途中、窓から瓦が見える所で覗くと、瓦の「丸瓦」と「滴水瓦」に「歴代藩主」の家紋が付いているを見つけました。「池田輝政」の「揚羽蝶(あげはちょう)」、「本多家」の「立ち葵」、「榊原家」の「源氏車」、「酒井家」の「剣片喰(かたばみ)」等の文様が見られます。「姫路城」は全部で10家(重複含む)32人も藩主が変わりましたので、このように家紋が各所で異なった見られるのでしょう。

 

ここでは4家の家紋が付いている

 

「カの渡櫓」に入ると、右手に襖の敷居を設けた部屋「長局」が並びますが、この辺りには女中部屋になっていたようで、その突当りが「化粧櫓」になっています。

 

「カの渡櫓」内の「長局」の部屋(右側)

角のこの部屋は大きめ、敷居がある

 

「化粧櫓」は、「徳川家康」の孫である「千姫」が当時城主であった「本多忠政」の嫡男「本多忠刻(ただとき)」に嫁すにあたり、その化粧料で1618年に造営された「西の丸」とともに「千姫」の生活の場として建築された櫓です。いつもは中を覗くと「千姫」らしき女性の人形が座っているのが見えますが、現在は「化粧櫓」内を一般公開しているのでそれは見えませんでした。時間が余りなかったので入らずに、「天守」に向かいました。

 

手前が「化粧櫓」、奥に「百間廊下」や「櫓」が繋がっている

 

「ろの門」は立入禁止で、「はの門」に向かう坂道に出ます。「土塀」に並ぶ「狭間」から皆さんがするように写真を撮り、「はの門」礎石前の「転用石」を確認しました。今まで、何故かこの「転用石」の写真を撮らずに通り過ぎていましたので、今回はシッカリと押さえました。

 

「土塀」の「狭間」からの眺め(あまり面白くない光景でした)

「はの門」

「はの門」の礎石に使用されている「転用石」

 

そして、門を潜った左上には補修工事が終わったばかりで美白効果満点になった「ロの櫓」の屋根に付く魔除けの「十文字瓦」をチェックしてから、坂道を上りUターンして美白の「にの門」を腰をかがめて潜ります。

 

「ロの櫓」の唐破風上に「十文字瓦」

綺麗に塗り直された「にの門」

 

いよいよ、「埋門」の「ほの門」を抜けると「天守曲輪」に入ります。

 

「速報」でも触れましたが、「天守外曲輪」部分(「ハの渡櫓」から「ちの門」まで)が閉鎖になっていることが残念でした。この区間は工事も終わり、3月には「トの櫓」と「との一門」等の内部が特別公開されていたので、外部からは一般公開されているものだと思っていたのですが通行禁止となっていました。

 

通行禁止区間が続く「天守外曲輪」跡

 

実は、「置塩城」へ登城した後に、「天守外曲輪」内にある「との一門」が「置塩城」から移築門であることを知人に話していたので、知人はそれを見るのを楽しみにしていたと思います。

 

以前に撮影した「との一門」(「置塩城」からの移築と謂われている)

 

「水一の門」から入り「水二の門」から下っていく道を降りて「水三の門」「水四の門」を抜けて階段を上がると、「天守群」の入口の「水五の門」になります。この上は「ニの渡櫓」となり「大天守」と「西小天守」を繋ぐ渡廊下になっています。

 

「水一の門」(左側には「築地塀=油塀」、内側から)

攻め手に錯覚を誘う下り坂(奥が「水の三門」)

「天守群」の入口の「水五の門」、この上は「ニの渡櫓」

 

私達は、「ハの渡櫓」内で靴を脱いで袋に入れて入城します。内側の窓が少し開いていたので、担当者の方に「天守群」の内側に建っていて普段なかなか見れない「台所櫓」の写真を撮らせてもらいました。「台所櫓」が現存しているお城は非常に珍しく、当城では「イの渡櫓」側に出入口が設けられています。

 

「ハの渡櫓」(奥が「西小天守」の入口の扉)

「台所櫓」(「ハの渡櫓」から見る)

 

「西小天守」は「ハの渡櫓」に繋がりますが、現在は入口は閉められていて、私達は「乾小天守」1階から入り、広くて長い「ロの渡櫓」を進みます。現在は中に展示物があまり置かれていないので、非常に広く感じます。

 

「乾小天守」1階(「乾小天守」が3小天守の中で最も大きい)

「ロの渡櫓」

 

突当りが「東小天守」で三小天守の中で最も小さいので1階もすぐに通り抜け出来て、「イの渡櫓」を渡りその突当りが六段程の階段を上り、蔵のような開いた扉からいよいよ「大天守」に入ります。

 

「東小天守」1階

「イの渡櫓」

「大天守」への入口

 

「大天守」は、1階の真中にある「身舎(もや)」の周囲は広い「武者走り」の廊下、天井は等間隔に並ぶ梁を支える腕木が見事に並び、壁には武器掛けがずらりと貼りつきます。

 

1階の「武者走り」、天井に梁とそれを支える腕木、壁には武器掛け

2階の「武者走り」と「身舎(もや)」

 

3階は、「身舎」の白壁上段に「竪格子窓の透かし」があり装飾性を持たせています。北側は、外から見ると「入母屋破風」となっているので、その内側全体が「内室(うちむろ)」として使用されているのを、今回初めて知りました。

 

3階の「身舎」の白壁上段に「竪格子窓の透かし」(「踊り場」から)

北側全体が「内室(うちむろ)」

 

「内室」は、「石打棚」の下にできる小さな空間の室だけだと思っていましたが、こんな大規模にも設えられていました。

 

「石打棚」とその下に「内室」

 

3階から4階への階段には「踊り場」がありますので、「踊り場」から下をのぞめます。

 

5階から6階への階段は平行に2基あり、西側の階段の脇には地階から天守を支える5階までの「西大柱」が見られます。

 

5階から6階へは平行に並ぶ階段

5階の「西大柱」

3階の「西大柱」

 

先日、NHKの再放送で過去の「プロジェクトX」の番組で、「昭和の大改装」時に「大天守」を解体したものの「西大柱」の中が腐っていて取替が必要となり、当時この大改装の責任者として文部省から派遣されていた「加藤さん」という方が、25m以上の真直ぐな杉の木を全国捜し歩いたとうドキュメントが放映されているのを見ました。

 

工期ギリギリで探し出した杉の木でしたが、運搬中に落下して折れてしまい途方に暮れていた時に、棟梁の「和田さん」という方が、二本の木を「継手」技術によって一本にする案を提案して、見事成功したというお話でしたので、この「西大柱」を見て痛く感動しました。

 

最上階では、窓が南北に各5箇所、東西には各3箇所で「引き戸」の窓ですが、「平成の大修理」で四隅の壁から8箇所の窓の跡が出てきたそうで、もしそれが導入されていたら大パノラマの最上階でしたが、強度の問題があって実現はしなかったそうです。その跡を改めて眺め写真に収めました。

 

6階の「まぼろしの窓」跡

6階にも襖を入れる敷居

 

閉館時間が17時ということで、退館を促す放送もなり始めましたので、急いで「大天守」を降りて、「備前丸」跡の広場から「上山里丸」跡へ下り、二重の「ぬの門」を潜って左手にある「埋門」の「るの門」を抜けました。

 

二重の珍しい「ぬの門」

「埋門形式」の「るの門」

 

抜けた左側の石垣には、「継目のある石垣」が確認できます。左側は「池田輝政」時代に積まれたもの、右側は「羽柴秀吉」時代のモノです。

 

「継目のある石垣」(左側は「池田輝政」時代、右側は「羽柴秀吉」時代)

 

更に石垣に付いては、「菱の門」を出て東側に進んだ「下山里曲輪」の北側の石垣壁面(「上山里曲輪」の石垣)は、見た目がゴツゴツ感溢れる、いかにも古さを感じる石垣で、それが「黒田官兵衛」が築いた「野面積み」です。

 

「黒田官兵衛」が築いた「野面積み」

「黒田官兵衛」が築いた「野面積み」

 

その前を通り過ぎると「姫路動物園」北側に「内堀」が入り込んでくる地形がありますが、そこが「内船場蔵」という船着場であったようで、 南石垣は「野面積み」と「打込接」が混在しているようでした。

 

「内船場蔵」の石垣

 

その場所の左手には、先程は立入禁止で見ることが出来なかった「腹切丸」跡の「帯郭の櫓」とその北側に建つ「帯の櫓」の裏側を、傾斜が厳しい「高石垣」の先に目にすることができ、またその合間からは「大天守」も覗けるという絶好の撮影ポイントでした。

 

「腹切丸」跡の「帯郭の櫓」と「帯の櫓」の裏側、傾斜が厳しい「高石垣」

 

知人が見たがっていた「との一門」から下ってきて「喜斎門」へ通じる最後の門である「との四門」は見えるのですが、やはりそこからも「との一門」は見ることが出来ませんでした。

 

「との四門」(この上に上がれば「との四門」があるがここからも立入禁止)

最後は「世界遺産 姫路城」碑の撮影で終了

 

時間も17時過ぎとなりお腹も減ってヘロヘロとなった二人は、夕食処を探し「大手道」を外れて歩きましたが、結局見つけることが出来ず「姫路駅」前まで辿り着いた所でトンカツ屋に飛び行った話は「速報」でもお話しましたのでこの辺で終わりとします。

 

「姫路城」は何度来ても、見所が多いので違う視点で巡ることができる貴重なお城です。次回の訪城では、何をテーマにして巡ろうかな~と既に考え始めている今日この頃です。

 

 

 

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昨日は、月に1度の「天満橋」での用事を済ませた後、「日本橋」にある歯医者へ行くために予約時間まで1時間半程ありましたので、1時間弱の「大坂城」(大阪市中央区)訪城をしました。

 

「天満橋」からは、「大阪府庁舎」が並び「乾櫓」と「天守」が一直線に並ぶ通りを進みました。

 

今まであまり気にせず歩いていましたが、その2つの建造物が重なり合う写真は撮ったことがなかったので初めての撮影です。

 

「天守」と重文「乾櫓」

 

そこからは、いつものコースで「乾櫓」前から「西外堀」沿いを歩いて「大手門」に向かいました。「乾櫓」はいつみても迫力あります。

 

重文「乾櫓」

重文「千貫櫓」と重文「大手門渡櫓門」

「大手門渡櫓門」と「土橋」沿いの「雁木」

 

今回一番確認したかったのが、「千貫櫓」の櫓台水面ギリギリの所にある「算木積み」の石に「八」という文字が刻印されているという情報を得ていたのでそれを確認したく、「大手門」の「土橋」端の「雁木」越しに見下ろしました。

 

その「八」というのは、「水堀」に隠れた「根石」から八番目の石だということらしいのですが、「水堀」水面から更に水に隠れた部分が七段の石垣が積まれているということです。

 

眼を凝らしましたがなかなか判らずスマホカメラに頼りましたが、結局写ってなくて、次回はカメラで撮影しようと思いました。

 

「千貫櫓台」の「算木積み」下から二番目の石に「八」の字が刻印されているらしいが・・・

 

今回は、それ以外は特にテーマもなくブラリと途中定番の写真を撮りながら「本丸」跡まで行きました。

 

重文「大手門渡櫓門」(「大手門」桝形内から)

「二の丸」跡から「本丸」跡に入る「桜門」前の「土橋」

 

「桜門」からの見える、「蛸石」「天守」は、人もいなくてバッチリ撮れます。ここは、コロナも収まり訪日客を増やしていってインバウンドが再開されると絶対撮れないビューポイントですから、「今でしょ!」です。

 

しかし「大坂城」にとっては、各国から来訪する人達にもっと来城してもらい、早く再アピールしたいと言っているような気がしました。

 

重文「桜門」の間から見える「蛸石」と「天守」(今でしか撮れないビューポイント)

もう一度「蛸石」を!(左で「蛸」ちゃんが踊っています)

復興「天守」だけれど美しい外観、御年90歳!

人影もまばらな「本丸」跡、「早く多くの人に見て貰いたいな~」と訴えているようです

 

今回は「本丸」跡内で、今まで気付かなかったポイントを2箇所見つけました。

 

1つ目は、「本丸御殿」跡の解説板の横に「大阪城址 明治天皇駐蹕之所」碑が立っていました。石の状態からするとかなり古そうです。

 

「鳥羽伏見の戦い」後の1868年に「明治天皇」が、大阪湾内の天保山沖で新政府軍の軍艦の訓練を観るために「京都」から行幸した際に、滞在したのではないかと思われます。

 

「大阪城址 明治天皇駐蹕之所」碑

 

2つ目は、「秀吉時代」の「大坂城石垣」が発掘された所で現在はその観覧場所を造成工事中の西側に、木々の茂みの中にあり大きな木の下に立つ古い石碑です。今まで、全く気にも留めていなかった石碑です。

 

そこには説明書きがあり、「秀吉手植えの樟(くすのき)」のことについて記載された石碑で、その後ろに植わっているのが「樟」とのことでした。

 

「秀吉手植えの樟(くすのき)」のことについて記載された石碑

 

しかしこの「樟」は、「大坂城」を陸軍が管理使用していた1898年に、師団長の「小川又次」という人が植えたとのことです。というのも、明治維新の大火で枯れ株になっていたのを惜しんで改めて植えたようです。

 

ただ、「秀吉手植え」というのは、実際には現在の「大坂城」の地表は「豊臣時代」のモノではないので、明治維新以降に盛り上がった「秀吉顕彰気運」を捉えた伝説のようです。

 

今残っている「秀吉手植えの樟」と「石碑」

 

その後「本丸」跡を出て、何か気が付いた対象物の写真を撮りながら、最後は、やはり私が一番お気に入りのビューポイントである「南外堀沿いの六番櫓と他の櫓台の屏風折れ」を眺めて「大坂城」を後にしました。

 

「はつり仕上げ」の石垣の表面(鉄のノミではつった跡が見えます、「桜門」櫓門の櫓台)

長大な巨石に付く「矢穴」(「桜門」桝形内西面の「振袖石」の横)

私が最もお気に入りのビューポイント「南外堀沿いの六番櫓と他の櫓台の屏風折れ」

 

「谷町六丁目」から地下鉄「谷町線」に乗り「谷町九丁目」経由で「日本橋(にっぽんばし)」で下車しました。

 

歯医者の予約時間まで少し時間が有りましたので、久々の「黒門市場」の散策をして南下しました。

 

4年前のインバウンドで雑踏化していた「黒門市場」は、昼過ぎなので殆ど買物客も通行しておらず、店舗の店先も、インバウンド時代の「置けば何でも売れる高いお値段の商品」ではなくて、「近隣のお客様需要に対応した商品」が並べられていて、本来の「市場」が復活したように見られました。

 

本当の「黒門市場」を見るなら「今でしょ!」と言いたいですね。

 

閑散とした市場内

インバウンド当時(2018年10月)の市場内は人ひとでごったがえしていました

 

インバウンドで急に出店をしたドラッグストアなども影を潜め、シャッターが下りている所も多いように感じました。

 

シャッターを閉じた店舗もあちらこちらで

インバウンド当時(2018年10月)の市場内の店舗は大盛況

 

また、コロナ禍がまだ収束していないことを印象付けているのは「無料PCR検査場」に替わっている所もありました。

 

この「無料PCR検査場」は「堺筋」沿い(以前は何かの店舗だった)

 

最後には、「堺筋通り」沿いの「髙島屋史料館」「シタディーンなんば大阪(ホテル)」「コミュニティフードホール大阪等が入居している「髙島屋東別館」を道路挟んで写真を撮りました。

 

「ホテル」や「フードホール」等が入居する「髙島屋東別館」

 

1928年~37年にかけて建築された百貨店建造物で、当初は「松坂屋大阪店」が百貨店営業していましたが、1968年以降は「髙島屋」が取得して使用していた建物です。

 

2019年に解体・外壁補修のリニューアルが施されてホテル等が入居し、更には2021年に重要文化財に指定されました。アール・デコ調で、アカンサスのテラコッタの外壁や通路沿いの赤い庇が綺麗です。

 

アール・デコ調のデザインが外観からもわかる重文「髙島屋東別館」

アール・デコ調のデザインが外観からもわかる重文「髙島屋東別館」

 

昨日は、インバウンド前後で大きく影響を受けた2か所を巡り、再インバウンドを待ち焦がれている方々が朗報になるような状況になれば良いなと感じる1日でした。

 

 

 

 

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「速報」で「置塩城・姫路城」へ訪城したお話を簡単にしましたので、本日は「置塩(おじお)城」(兵庫県姫路市)の詳細についてお届けしたいと思います。

 

「置塩城」が有る城山の「登山口」は、神姫バス「塩田・前之庄行」で「宮置」バス停を下車して約15分、「夢前川」を渡って川沿いに北上した所にあります。

 

進行方向に見える「城山」は370m(比高330m)で、尾根が左に下っていきその角度は30度位ありそうです。

 

「置塩城」がある「城山」(標高370m)

 

登山口には、「置塩城跡」碑と案内板が立ちます。私達は、ストレッキングポールを持参しましたが、杖も沢山完備されています。

 

「置塩城跡」碑

「案内板」

 

登城前に少し、「置塩(おじお)城」の歴史と城主について触れておきましょう。

 

1469年に「赤松正則」が築城したそうで、戦国時代には播磨の守護を務めたことから、「赤松氏」の本城となりました。

 

1537年に「尼子氏」の侵攻で一時「播磨」を追われますが、1575年頃に「赤松則房」が「織田信長」に従属します。しかし1580年に「信長」が播磨を平定すると「羽柴秀吉」の命で「置塩城」が壊されてしまいます。

 

その後の「赤松則房」は、「蜂須賀家政」の与力として阿波に移ることとなりました。

 

 

さて、獣除け網戸を開けていざ出発!ですが、早速急坂な山道にはゴロゴロと大きな石が転がり、更に進むと小川を越えます。登山口から十八丁(約2km、1丁=109m)の距離で城跡に到達し、1丁ごとに道標がありますので励みになります。

 

速報でもお伝えしましたが、直線ではなく綴れ折れですのでまだマシですが、やはりキツイのに変わりはなく、まずは1/3の六丁まで一気に上がりましたが、その後は途中にある「炭焼窯」等の写真を撮ったりしてなんとか十八丁まで35分で辿り着きました。

 

「六丁」の道標

「六丁」から見上げるもまだまだ先

「十八丁」目で城跡へ到達、「本丸」跡はまだまだ先

 

縄張りを明示した「案内板」が立っていて、そこで左回りに進むことにしました。

 

「案内板」(赤字で曲輪名と標高を追加しました)

 

少し西側に廻り込んだ「二の丸」跡の南東隅には「石塁」が見られ、「馬場」跡の広い敷地が南北に伸びます。

 

「二の丸」跡南東隅の「石塁」

「馬場」跡北方向

 

左手は「切岸」で段倍絶壁になっていて、右手には「二の丸」跡からの「切岸」が「馬場」跡まで断崖絶壁となり、その隙間には所々岩や「石塁」が見られます。

 

「馬場」跡から見上げる「二の丸」跡

 

「馬場」跡の突当りの盛り上がった敷地が「三の丸」跡で、私達は「虎口」らしき所から上がりました。

 

左が「三の丸」跡、右が「二の丸」跡の間の「堀切」

「三の丸」跡の「虎口」

 

「三の丸」跡は北西方向に伸びた広い敷地で、少し中に入った左手(西側)に「土塁」が確認できましたが、右手(東側)にある「数回の折れ」が見られるという事前情報の「土塁」は良く判らずじまいでした。

 

「三の丸」跡の西側「土塁」

 

更に、中央辺りには段が少し下がっていて、「三の丸」跡の北西隅まで行きますと、高い「切岸」の断崖絶壁の真下から拡がる「北曲輪群」跡の最上段部分が見下ろせました。

 

「三の丸」跡の中央部分には段が見られる

「北曲輪群」の最上段(「三の丸」跡から見下ろす)

 

更には、西側には「西曲輪群」跡が10数段の曲輪群が段を重ねていて下っていくようでその最も下には「大手門」跡があったようですが、今回はそこまでは行かずに「本丸」跡を目指しました。

 

「三の丸」跡虎口を出ると西側と南側に「土塁」に囲われた低くて水が浸みだしている水気の多い敷地があり、そこが「台所」跡になっていました。その中には窪みもあって、何かしら囲炉裏の跡なのか想像を掻き立てられました。

 

「台所」跡(水たまりが見られた)

「台所」跡内の窪み

「台所」跡の西から南にかけての「土塁」

 

「台所」跡から東に進んだ場所には「二の丸北曲輪群」跡の敷地が並びますが、右手(南側)から迫ってくる「二の丸」跡の崖との間が「堀切」のようになっていて長い「横堀=空堀」を形成しています。

 

「二の丸北曲輪群」跡

「二の丸北曲輪群」跡の最上段を「横堀=空堀」越しに見る

「二の丸跡」(左)と「二の丸北曲輪群跡」の間の「横堀=空堀」

 

このような長い「横堀」を見ることが出来るお城は珍しいので、写真も沢山撮影しました。

 

「二の丸北曲輪群」跡は、4段になっているようで、最上段の「横堀=空堀」面には「石塁」が見られました。

 

「二の丸北曲輪群」跡南面の「石塁」

 

「二の丸北曲輪群」跡の最下段の東面が、「本丸」跡がある山部分の西面との間で底を形成した感じになっています。

 

「二の丸北曲輪群」跡の最下段(東面)

 

「本丸」跡山麓の最下段には「石塁」が見られ、現在でも崩落があるので立入禁止となっています。「石塁」の役割は「本丸」跡西面の下の崩落防止ではなかったかと思われます。

 

「本丸」跡山麓の最下段に見られる「石塁」

 

そこから約40m位の山道を登って「本丸」跡に辿り着きます。中央には「置塩山城」碑が立ち、この周囲には「列(せんれつ)建物」跡があった場所で、建物は「礎石」上に建ちますが外壁の基礎に「塼(せん)」と呼ばれる瓦製のタイルを貼り付ける構造だったそうです。

 

「本丸」跡の「虎口」

「本丸」跡に立つ「史跡 置塩山城」碑

 

「本丸」跡には、瓦の細かな破片があちらこちらに散乱していて、瓦屋根のある建物が有ったという証です。ただ、「土塁」等の防御仕掛けは全くない敷地でした。

 

「瓦の破片」が散乱

 

ここが370mの最高峰ですので、北側と南側の遠望が楽しめますが、特に南側は「相生港」から「家島諸島」まで望める絶好の場所です。

 

「本丸」跡からの遠望(うっすら見えるは「家島諸島」か?)

 

そこで、爽やかな風を浴びながら「おにぎり」2個の昼食を済ませました。当初予定からかなりスケジュールが押していたので、「宮置」バス停13時24分発を諦めざるをえなくなっていました。

 

「本丸」跡をあとにして先程の底部分へ下っていき、そこから約20mの高さのある「二の丸」跡へ虎口から入りました。

 

「二の丸」跡下段と上段(「台所」跡付近から「横堀=空堀」越しに見上げる)

 

城内最も広い「二の丸」は、「本丸」の詰城に対して、居館的な機能を持ち「枯山水の庭園」も備えていたようです。また、周囲には石積み構造を持つ「築地塀」が取り巻いていたようで、その基礎部分も見つかっているそうです。

 

「二の丸」跡碑

「二の丸」跡内の石積み構造を持つ「築地塀」の基礎跡か?

 

中央部分には、東西に走る「土塁」が確認でき、中央部分で切れていて「二の丸」跡の南側に繋がっているようでした。更に南側は、断崖絶壁の「切岸」が施され、下の段の曲輪が見られます。

 

「二の丸」跡内の東西に伸びる「土塁」

「二の丸」跡内の東西に伸びる「土塁」

「二の丸」跡内の東西に伸びる「土塁」

「二の丸」跡南側の「切岸」

「二の丸」跡西側の「切岸」(右下は「馬場」跡)

 

「二の丸」跡北西角部や南東角部にも「土塁」が確認できました。

 

「二の丸」跡北西隅の「土塁」

 

そこから、「南西曲輪群」跡の最下段にある「大石垣」を見る為に、少し急な坂を虎ロープで伝いながら降りていくと、3段目の西面に「石塁」が壁に貼りついています。結構大きな石も積まれていました。

 

「南西曲輪群」跡の「大石垣」

「南西曲輪群」跡の「大石垣」

「南西曲輪」跡最下段(この右手に「大石垣」)

「南西曲輪」跡最下段からの眺め(南西方向)

 

再び、「案内板」のある場所まで戻って今度は「茶室」跡を見ます。

 

「茶室」跡は北側から西側にかけて「土塁」が良く判る形で残っており、また東面には「石塁」が2か所確認できました。

 

「茶室」跡

「茶室」跡西側の「土塁」

「茶室」跡北西隅の「土塁」

「茶室」跡東面の「石塁」

「茶室」跡東面の「石塁」

 

「茶室」を持ったり、「二の丸」内には「枯山水庭園」を造営したりと、「赤松氏」は優雅な生活をこの山城において営んでいたことが伝わってきますが、それが戦国時代になっては足枷となり守護職ながらも「織田信長」に従属する羽目になったかもしれません。

 

「茶室」跡の先端から南側にかけては「南曲輪群」跡が5段の曲輪を構成して、各々段差が見られます。3段目の南面には「石塁」があるとの情報でしたので、急な斜面を降りてみたものの大したモノでもなくガッカリしました。

 

「茶室」跡南端から見下ろした「南曲輪群」跡の1段目

「南曲輪群」跡の3段目の南面に「石塁」

「南曲輪群」跡4段目から3段目を見上げる

 

ほぼ見尽くしたので、「宮置」に14時24分に向かって下山を行いましたが、下りも結構急なので足に応えました。余裕でバスに間に合うと思っていましたが、意外と下山に時間がかかり、バスの時間にギリギリでした。

 

この時点で既に17,000歩も歩いていたので、バスの35分間は貴重な休憩時間となりました。

 

次は、「姫路城」へ向かいました。

 

 

 

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「速報」!

昨日(5/7)は、知人と一緒に姫路へ出掛けました。行先は「置塩(おじお)城」と「姫路城」です。

 

朝8時に阪神梅田駅で、その知人と待ち合わせ久しぶりの再会でした。

 

実はその知人は、私のホームページやブログ、ツイッター等のSNS講座の先生でしたが、現在は転職されていて趣味としてお城巡りに没頭されているという話を伺い、それでは一緒にお城巡りをしましょうということになりました。

 

1時間40分の山陽姫路行「直通特急」車内ではお城の話で終始して、あっという間に山陽姫路駅に到着、神姫バスで「宮置」まで35分、下車して登場口まで15分の徒歩でしたが、バス車内から見えていた370m(比高330m)の「城山」は近づくにつれて威圧感を与え、2人で少しビビリながらの登城となりました。

 

「置塩城」がある「城山」(標高370m、比高330m)

 

登山口から城跡までは十八丁(約2km、一丁=約109m)あり、一丁毎に道標があるので励みになります。

 

当日は、爽やかな風が気持ちよく吹いていましたが、やはり暫くすると汗が流れてくるし、息と心臓の鼓動が上がってきます。

 

ここの山道は、直線ではなく綴れ折れですのでまだマシではありますが、やはりキツイのには変わりはなく、まずは1/3の六丁まで一気に上がりましたが、その後は途中写真を撮ったりしながらなんとか十八丁まで35分で辿り着きました。

 

「六丁」の道標

「六丁」からの下の眺め

 

縄張りを明示した「案内板」が立っていて、そこで左回りで「馬場跡」→「三の丸」跡→「台所」跡→「空堀=横堀」を通り→「二の丸北曲輪群」跡→「本丸」跡へ向かいました。

 

ここまでの各曲輪の「速報」として主な写真を貼り付けておきます。

 

縄張図の「案内図」(現地掲出)

 

途中、所々に「石塁」が見られましたが、大掛かりなモノはあまりなかったようです。

 

「二の丸」跡南西隅の「石塁」

「三の丸」跡内の「土塁」

「二の丸北曲輪群」跡(右)と「二の丸」跡との間に横たわる「空堀(横堀)」

「台所」跡

「本丸」跡に立つ「史跡 置塩山城」碑

「本丸」跡から南方向

 

「本丸」跡で微風に吹かれオニギリを食べた後は、「二の丸」跡の「土塁」→「南西曲輪群」跡の「大石垣」→「茶室」跡→「南曲輪群」跡と廻り、13時25分から下山をしました。

 

「二の丸」跡に東西に伸びる「土塁」

「南西曲輪群」跡の3段目の南面にある「大石垣」

「茶室」跡の西側の「土塁」

「南曲輪群」の2段目

 

実は、計画では「宮置」を12時24分発で出発する予定を組んでいましたが、全く甘い計画でして2時間後の14時24分のバスに乗車しました。

 

次は「姫路城」へ向かうべく「大手前」停留所で下車しました。ここでもう既に17,000歩も歩いていたので少し足の筋が吊りそうな違和感が有ったものの、「姫路城天守群」を目の前にしたらもう頑張る他ないという身体内のアドレナリンが湧き出てくるのが解りました。

 

「大手前」から見える「天守群」(これを見るとアドレナリンがフツフツと!)

 

GW期間中の土曜日ということで、混雑を覚悟していましたが、時間が既に15時であったこともあり非常に城内、西の丸百間廊下、天守群内はスムーズに観覧でき、写真も人に気を遣うことなくバシバシ撮れました。

 

「西の丸百間廊下」(誰も歩いていません!)

「大天守1階」(こちらも誰もいません)

 

約1年ぶりの登城でしたが、いつきてもその美しさや偉大さ、仕掛けの凄さ、堅固さには惚れ惚れするお城です。

 

「天守群」(「西の丸」跡からのぞむ)

「化粧櫓」と「西の丸百間廊下」

「狭間」から覗く「土塀屋根瓦」

「三国濠」越しの「化粧櫓」

 

ただ残念だったのは、「天守外曲輪」部分(「ハの渡櫓」から「ちの門」まで)が閉鎖になっていることでした。この区間は工事も終わり、3月には「トの櫓」と「との一門」等の内部が特別公開されていたので、外部からは一般公開されているものだと思っていたのですが通行禁止となっていました。

 

「天守外曲輪」は入場禁止区域

 

知人は、午前中に訪城した「置塩城」から「との一門」に移築された現物を見て写真を撮りたがっていたのですが、叶うことが出来ず残念がっていました。

 

「置塩城」から移築したと謂われている「との一門」(以前の写真)

 

「菱の門」の閉門が16時半ということで慌てて出て、野面積みの「官兵衛石垣」と「腹切丸」下の高石垣を見に行き17時過ぎに「姫路城」をあとにしました。

 

野面積みの「官兵衛石垣」

左から「帯郭の櫓」「帯の櫓」の高石垣

 

昼食は、「置塩城本丸」跡でのオニギリだけでしたので、無性にお腹が減り、ガッツリ何かを食べたいと2人で店を探し、「姫路駅」近くのビル1階にある「豚屋とん一」というトンカツ屋へ飛び込みました。

 

ガッツリ「トンカツ、トンテキ、卵付定食」をオーダー、これで1日の消費カロリーを一気に挽回できました。

 

「トンカツ、トンテキ、卵付定食」(生卵は食べ放題)

 

「シーサイド1DAYチケット」を利用していたので帰りも「山陽姫路駅」から乗車して18時35分発、終始お城の話や近況の話に盛り上がり、やはりあっという間の1時間40分でした。

 

阪神「大阪梅田行」の山陽電車「直通特急」(山陽姫路駅)

 

また一緒にお城巡りの出掛けることを約束して、「阪神梅田駅」で別れました。本当に久しぶりの再会で、非常に楽しい12時間を過ごすことが出来て満足して帰宅の途に着きました。

 

各「置塩城」「姫路城」の詳細報告は、後日あらためて投稿いたしますので、また御覧ください。

 

 

 

 

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