本日の譜代大名のお城シリーズは、「大垣城」の支藩で、美濃国と三河国の両国内に領地を持ち、三河国に藩庁として築いた「大垣新田陣屋(畠村陣屋)」(愛知県田原市福江町)を紹介します。

 

「大垣城」と言えば、「戸田氏鉄(うじかね)」が初代藩主ですが、「氏鉄」の次男「氏経」が旗本として三河国畠村等に1,500石が与えられます。

 

畠村は、元々「間宮家」が統治していましたがその後に入城したことになります。そして、「氏経」の兄である本家「大垣藩」の二代藩主や四代藩主の時に、新田を分与されるなど少しずつ加増されて1688年に1万石に達して大名となりました。その藩庁として、この地に「陣屋」を築きました。

 

「大垣新田(畠村)藩」は、江戸詰めの「定府大名」でしたので藩主は畠村へ帰ることもなかったので、「陣屋」在住の藩士は10名もいなかったことから、そんなに大きな建造物もなかったようです。

 

「田原藩」の藩士だった「渡辺崋山」が、畠村に訪れた時に陣屋をスケッチした絵が残っていますが、それによると、石垣が描かれている2ケ所の「冠木門」や「長屋門」「居館」があったようで、周囲は「柵」と北側には「堀」と「土塁」で境界を造っていたようです。

 

現在の陣屋跡は、「堀江市民会館」の敷地、住宅街となっている他に、私が訪問した時には、陣屋跡地に建てられていたスーパー跡地の広い敷地を、公園整備する為の工事真っ最中でした。

 

大垣新田(畠村)陣屋(戸田家10,000石、愛知県田原市堀江中紺屋、堀江市民会館敷地周辺)

堀江市民会館 (陣屋跡地)

大垣新田(畠村)陣屋跡に建つ住宅街

 

最新では、「福江公園」として子供の遊戯や防災機能を備えた広場になっていて、「畠村陣屋」に関する情報提供を案内板で発信されているようです。

 

陣屋跡地(公園整備工事中、公民館の西側から臨む、現在は福江公園に)

陣屋跡地(公園整備工事中、公民館の西側から臨む、現在は福江公園に)

 

「陣屋」が建つ場所は、海岸段丘の上に建てられていたので、現在でも「畠港」がある海岸に向けて坂道となっていて、地名にも「城坂」と残っている場所があります。

 

陣屋跡地は海岸段丘の台地上にあった

陣屋跡に隣接する畠神社の本殿

本日の譜代大名のお城シリーズは、「西尾城」(愛知県西尾市)です。

 

「西尾城」は、「足利義氏」が築いたお城をベースに戦国時代後期に「酒井重忠」によって「天守、櫓、櫓門」を建造し、その後に入城した「田中吉政」の時には「三の丸」の拡張や、大手黒門や櫓等の増設が行われ近世城郭化しました。

 

関ケ原の戦いの後は、「本多家」を皮切りに、「大給松平家」「太田家」「井伊家」「増山家」「土井家」の譜代大名が入れ替わりに入城し、1764年からからやっと「大給松平家」によって城主が定着します。

 

「西尾城」は「平山城」でその縄張りは「梯郭式」です。、背後の沼地を背にした西南隅に「本丸」を置き、北東から南東にかけて「二の丸」や「姫の丸」を、更にはその周囲に「北の丸」と「東の丸」を構え、それらを包み込む形で「三の丸」を置く、「惣構え」のお城です。

 

「本丸」には、四隅に「櫓」を築き「八幡社」が置かれていました。「姫の丸」と「二の丸」の出入口には「櫓門」を構えていました。

 

錀石(ちゅうじゃく)門前から丑寅櫓をのぞむ

 

「二の丸」の北隅には三重の「天守」が、北東隅には「隅櫓」を築き、「二の丸」の中は「御殿」が敷地一杯に建てられていたようです。「二の丸」からの出入口には「錀石(ちゅうじゃく)門」が構えていました。

 

「北の丸」「東の丸」にも、4基の「櫓」を構え、特に戌亥隅には「三重櫓」があったことが「正保城絵図」から見れます。「三の丸」との出入口は一か所で「櫓門」を構えていました。

 

上記の二つの曲輪を包み込む「三の丸」にも、三基の「櫓」があり、「大手門」ともう一つの門とともに「高麗門」と「櫓門」を組み合わせた「枡形」を形成していました。譜代大名のお城にしては、かなり立派な建造物で構成されていました。

 

「堀」も各曲輪の取り囲むように設けられていて、矢作川水系の水を取り込んだ「水堀」でした。

 

内堀と城郭建造物風の資料館

 

現在の「本丸」跡には、北東隅に下見板張りの「丑寅櫓」が木造で復元されています。その内側には「八幡社」が現存し、当時から城主(藩主)によって祀られています。

 

復元丑寅櫓

復元丑寅櫓

曲輪がわかる絵図

現存の八幡社

 

「二の丸」跡は、近衛家の「数寄屋棟」と「茶室棟」が移築され、「西尾市歴史公園」の一部にもなっています。

 

近衛邸

 

また、「姫の丸」や「北の丸」の出入口に当たる「錀石(ちゅうじゃく)門」が木造で復元されていて、「歴史公園」のシンボルにもなっています。

 

錀石(ちゅうじゃく)門、木造櫓門

西尾歴史公園

 

「二の丸」に建てられた「天守」は、「徳島城」天守が「東二の丸」に建っていた例もありますが、非常に珍しいです。近年、「天守」復元も検討されていて「天守台」は既に積み直しがされているようです。

 

私が「西尾城」に訪問したのは随分前で、写真も「本丸」と「二の丸」だけしか撮っていませんので、また機会があれば訪問したいと思っています。

 

本日は、譜代大名シリーズの続きで「西大平陣屋」(愛知県岡崎市大平町)を訪問します。

 

皆さんよくご存じの「大岡越前(えちぜん)」で有名な「大岡忠相(ただすけ)」が初代藩主です。

 

八代将軍「徳川吉宗」の信任が厚く、「江戸町南奉行」とし「吉宗」の「享保の改革」を江戸においてアシストしました。

 

「南町奉行」時代は、まだ旗本でしたが、その後は「寺社奉行」、「奏者番」とそれまでの功績が認められて4,000石の加増を受け、「西大平」 1万石の大名に昇りつめます。

 

そして、飛地が多い所領の中で、「西大平」に陣屋を構えました。

 

西大平陣屋跡に建つ模擬の高麗門と土塀

 

ただ、「忠相」を始めその子孫の「大岡家」は、参勤交代をしなくていい「定府大名」であった為に江戸に在住し、「西大平陣屋」で政務した者はいなかったようで幕末・維新まで続きました。

 

「西大平陣屋」は、三河の領地が多かったことや、江戸との連絡がとの連絡が便利なように「東海道」に近い場所が選定されました。

 

「大平村」の絵図は残っていますが、陣屋内の構成がそれからは読み取れずよくわかりません。陣屋に詰めていた藩士の人数は15人程度で、郡代1名、郡奉行1名、代官2名、その他手代や足軽が10人程度であったらしいです。

 

大平村絵図

 

現在は、陣屋の敷地は、「大岡家邸宅」跡が広場となり「高麗門」とその両脇を固める「土塀」が建っていますが、模擬の建造物ではないかと思います。

陣屋跡広場入口に建つ模擬の高麗門(正面より)

陣屋跡広場入口に建つ模擬の高麗門(広場内より)

 

その広場の中には「井戸」が残り、豊川稲荷の分社として「大岡稲荷社」が祀られています。

 

陣屋跡広場に残る井戸

陣屋跡広場の井戸付近から大岡稲荷社を見る

大岡稲荷社

 

また陣屋跡は、現在「男川小学校」になっている敷地まで含めたエリアとなっています。また、陣屋跡周辺には、旧家の屋敷が建っていていかにも陣屋に在住していた藩士の旧宅のようないでたちですが、その真偽は不明です。

 

陣屋敷地に建つ男川小学校

西大平陣屋跡地併設の旧家の屋敷 

西大平陣屋跡地併設の旧家の屋敷 

 

かつてテレビドラマでは「大岡越前」がシリーズ化され、「加藤剛」がその役を演じていました。その他にも、「北大路欣也」や最近では「東山紀之」の「大岡越前」が見られ、「水戸黄門」と同じように、日本人が好きな時代物番組だと思います。

 

本日、阪急宝塚線池田駅近くの施設に用事があったので、家から約30分歩いて行きました。

 

用事を済ませ、昼食時まで時間がありましたので、「池田城」(大阪府池田市)周辺を散策することにしました。ただ「池田城」は火曜日が休館日だったので、門の外からしか写真は撮れませんでしたが、以前撮った写真も掲出しておきます。

 

池田城 模擬天守(以前撮影した写真)

本日遠方より撮影した模擬天守(本日休館)

池田城西門(本日休館)

池田城の空堀

 

「池田城」の歴史については、2018年10月29日のブログで掲出していますので、どうぞ下のURLをクリックしてみてください。

https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12415367818.html

 

長年池田市内に居住していたにも拘わらず、市内に江戸時代や明治時代に建てられた古い家や商家が残り、絵になるような「歴史的建築物集積地区」が存在することを知りませんでした。あらためて、池田の素晴らしい歴史を感じることができました。

 

池田を通る 旧能勢街道・西国街道沿いの見どころ絵図

稲塚家住宅(国登録有形文化財、江戸時代の建造物)

呉春の北側に建つ古い建造物

池田銘酒の呉春

呉春の工場

古い民家の建造物

白壁の建造物

池田銘酒 吉田酒造の建造物(国登録有形文化財)

吉田酒造の蔵

弘誓寺の櫓門、本堂の襖絵は市指定文化財

 

また池田市は、「事始(ことはじめ)の町」と言われているようです。というのも、新しいモノやコトに取り組む人達を多く輩出しています。

 

阪急池田駅前に立つ観光案内と地図、「てるてる広場」は2003年にNHK朝ドラで舞台となった「てるてる家族」から命名

 

まずは、阪急電車の創始者「小林一三」氏ですが、宝塚に温泉を核とした「遊戯施設と歌劇団」を設けたり、池田の室町には「分譲住宅地」を売り出し、電車の乗客を増やす当時では斬新な手法を導入しました。また、「ターミナル百貨店」を始めて手がけたのも彼でした。

 

阪急電車宝塚線のラッピング車両は大胆なデザイン(2015年に実施)

阪急電車宝塚線のラッピング車両(手塚治虫の鉄腕アトム)

 

次に、今年の3月まで朝ドラ「まんぷく」の主人公であった「安藤百福」氏は、「インスタントラーメン」をこの池田の地で開発しました。現在「カップヌードル博物館」の中には、開発当時に使用されていたラーメン研究所を再現しています。また、国内外から非常に多くのお客様を集める人気施設にもなっています。

 

安藤百福氏の胸像(カップヌードル博物館)

再現されたインスタントラーメン研究所

 

それから、前上方落語協会会長だった「桂文枝(旧三枝)」氏は、古典中心の落語が本流だった時に「創作落語」を始めて導入しました。古典落語では「池田の猪買い」「池田の牛ほめ」「鬼の面」などの話の中で「池田」が舞台になっていることから、江戸時代には北摂の中心的なエリアだったことがわかります。

 

秋に開催される桂文枝と笑福亭鶴瓶の二人会のポスター

 

現在では、西本町の通り沿いに「落語ミュージアム」が建てられ、落語のメッカとして「社会人落語大会」が毎年開催され、沢山の新人落語家を世に送り出しています。

 

落語ミュージアム

 

大阪の通天閣最上階に置かれている「ビリケンさん」ですが、元は池田出身の繊維商社「㈱田村駒」の創業者が商標登録をしたそうです。

 

ビリケンさん

 

ずーと時代を遡る「応神天皇」の頃に、大陸から「呉織(クレハトリ)」と「穴織(アヤハトリ)」が池田に渡ってきて、織物や染色の技術を伝えたとの伝説が残ります。

 

クレハとアヤハ

 

その証(あかし)として、池田市内には多くの織姫伝説ゆかりの場所が残りますし、地名にも「綾羽町(あやはちょう)」と「呉服町(くれはちょう)」という場所もあります。

 

まだまだ、多くの有名人や有名な場所が沢山あって、更に今年は市政80周年の記念すべき「池田市」に住む私たちは、非常に誇りに思います。

ポストの上にウオンバットが(池田動物園で飼われているウオンバット)

 

NHK「ニュース7」を見たあと、「北海道150周年記念ドラマ・永遠のニシパ”北海道と名付けた男 松浦武四郎”」のドラマが始まりました。

 

「松浦武四郎」という「名前」と「北海道と名付けた男」で、思い出しました。

 

そう、昨年の北海道のお城巡りで、「根室のチャシ群」と「釧路のチャシ」を訪れた時に、釧路の住宅街のど真ん中にある「モシリヤチャシ」を見た後に、釧路の町並みや、釧路港とフィッシャーマンズワーフが見下ろせる高台があるとのことで、「出世坂」と呼ばれる階段を上りました。高台の公園の中に、ひっそりと銅像が立っていました

 

それが、本日ドラマの主人公であった「松浦武四郎蝦夷地探検像」で、その銅像の説明書きを読んでいたので、「松浦武四郎」の名前が結び付いたのです。

 

松浦武四郎蝦夷地探検像(釧路市内)

松浦武四郎蝦夷地探検像の解説

花時計のある高台(この上の公園内に銅像が立つ)

高台に登る出世坂

出世坂上がった高台よりフィッシャーマンズッワーフMOO方向

モシリヤチャシ跡の解説(釧路市内)

モシリヤチャシ跡

 

1時間半番組でしたが、見入ってしまいました。

 

「嵐」の「松本潤」演じる「武四郎」が、当時の蝦夷を隈なく探索して蝦夷地の地図を調べ、アイヌ民族との交流を深める努力をするのですが、当時蝦夷地を統治していた「松前藩」が、「アイヌ民族」を酷使と虐待による圧政を行っていたことから、アイヌ人の人口が激変している事実や地理的観点からの外国からの防衛等を、幕府に現状と蝦夷地の今後の在り方について進言します。

 

幕府から蝦夷地の探索とアイヌ民族の保護を進めることへのお墨付きを貰い、幕府が崩壊した後は新政府に替わり、「武四郎」は新政府の役人として蝦夷地運営に携わり、新政府のトップとなった「木戸孝允」に蝦夷地の名前を「北加伊道」(北海道)と提案したことも認められ、名付け親となります。そして更に「北海道」を探索するように指示されます。

 

しかしその後は、新政府のやり方に嫌気をさして、新政府を辞職し晩年は静かに過ごしたようです。

 

昨年巡ったチャシでも、和人とアイヌ人との争いの歴史が刻まれた説明書きが各所で見られ、悲しい歴史が長年あったことを知ることができました。

 

寛政の蜂起和人殉難墓碑 

ノツカマフチャシ の解説(和人とアイヌ民族との戦いの事について)根室半島チャシ群

ノツカマフチャシ跡

譜代大名のお城シリーズは、現在中部地方まで辿り着きました。本日は、「挙母(ころも)城」(愛知県豊田市)を紹介します。

 

昨日に続き、かなり前の訪問で、まだカメラはデジタル時代ではなく写真も少ないですが、お許しください。

 

復興隅櫓

 

紹介の前に1つ面白いエピソードを。

「挙母(ころも)城」、「小諸(こもろ)城」、「菰野(こもの)陣屋」の三か所は、それぞれ「愛知県豊田市」、「長野県小諸市」、「三重県三重郡」にあるお城・陣屋ですが、読み方が同じようですので、よく間違いがある三城です。

 

上記とはまた別の三城のお話ですが、「挙母城」には、三つの「挙母城」がありました。

1つ目は、1308年に築かれた砦に近いお城、二つ目は、関ケ原の戦い後に「三宅康貞」が築いた陣屋で桜の木が植えられたので「桜城」と呼ばれお城、三つ目は、本日紹介するお城で「挙母城」です。

 

「二つ目」の「桜城」には、「内藤政苗(まさみつ)」が2万石で入城しますが、何度も水害に会うのでお城改修を幾度も経験します。そこで、近くの場所から西側にある高さ65mの丘陵地にある「七洲城」現在の「挙母城」を築城しました。この築城には、幕府からの特別許可が降り、更には資金面の援助があったようです。

 

「七洲」の謂れは、丘陵地からは7国「三河」「尾張」「美濃」「信濃」「遠江」「伊勢」「近江」以上7洲(国)まで見えたことから「七洲城」と呼ばれたらしいです。

 

「七洲城 城図」に描かれた城内

 

「挙母城」は、「本丸」を中心に、東側に「二の丸」、西側に「三の丸」を置き、その中に櫓が2基、その他「門」が要所に築かれました。

 

二番目の「挙母城=桜城」の「本丸」に建っていた「三重櫓」を三番目の「挙母城」に移築しようとしますが、何度も遭遇する水害によって作業が阻まれたので、移築は断念したようです。

 

「七洲城図」には、櫓や門が細かく描かれていて、現在の「復興櫓」はこの絵図に描かれた「隅櫓」の形や装飾を参考に建てられたとのことです。

復興隅櫓

復興隅櫓

 

現在は、「豊田市美術館」や「城山公園」の敷地なっていて、「復興天守」とその櫓台以外には、見るべき遺構もありません。

 

本丸跡の豊田市美術館

 

 

本日も、譜代大名のお城シリーズの継続で「横須賀城」(静岡県掛川市)を紹介します。

 

横須賀城の最も特徴的で見事な玉石積み

 

私が訪れたのは随分前ですので、お城からみる写真の遠望が現在とは異なっている可能性もありますが、どうかお許しください。

 

「横須賀城」は、「徳川家」と「武田家」が駿河・遠江国の領有を巡って対立していた時に、「徳川家康」が二国の国境にある「高天神城」の攻略を行う為に、「大須賀康高」に築かせたお城でした。

 

「家康」が「高天神城」を得た後、「大須賀康高」が城主となりますが、「豊臣秀吉」によって「家康」が関八州に移された後は、豊臣系大名が城主となり近世城郭化が進みました。

 

関ケ原の戦い後は、一時「大須賀家」が再入城するものの「館林城」への移封があり、数年間の城主なしの後に1619年に「能見(のみ)松平家」が2万6千石で入城を果たします。

 

しかしその後も、譜代大名のお城の特徴でもある藩主が目まぐるしく変遷し、「井上家」「本多家」が入城し、1682年に「西尾忠成」が入城した後は城主が定着して幕末・維新まで続きます。二代目の「西尾忠尚」は、名君と言われ若年寄から老中にもなり加増されて3万5千石となっています。

 

さて「横須賀城」は、南側が海に面していましたが、更に「外堀」が南側を始め西側や北側にも掘られ、東西二か所に大手門を配備する堅固なお城でした。しかし、宝永の大地震では、南側の外堀部分が地盤隆起して堀が無くなってしまいます。

 

縄張りは、西側から「二の丸」「西の丸」「本丸」「三の丸」が一直線に並ぶ「連郭式」に近く、「本丸」の北側には「北の丸」が置かれました。

 

横須賀城跡の縄張り図

 

「本丸」には、三層四階の「天守」が建っていたようで、現在はその「鯱」が近くの「恩寺高」に二匹仲良く並んでいます。

 

本丸の天守台跡

 

また、「横須賀城」の最大の特徴は、天竜川の小石を集めて石垣が積まれている「玉石積み」で、全国では殆ど見ることができない美しい石垣です。「本丸」入口には「櫓門」が建っていたようで、その跡周辺まで「玉石積み」を見ることができます。

 

本丸正面の玉石積み

本丸跡から南方向をのぞむ

 

「本丸」南側には、「三日月堀」があり現在でも水を湛えています。また、「本丸」西側の「三の丸」との間には、「牛池」があって「掘」の替わりとなっていました。私が訪問した時には、発掘調査が行われて.いる時だったのか、水が抜かれて底部分が見られる状態でした。

 

三日月堀

本丸跡と三の丸跡の間にある牛池(調査中でした)

 

「二の丸御殿」跡は、私が訪問時には「幼稚園」の敷地となっていました。「二の丸御殿」の一部なのか判りませんが、町内の「善福寺」の庫裏の一部に移築されているとのことです。

 

二の丸御殿跡(現在 幼稚園敷地)

移築された御殿書院(善福寺の庫裏の一部が見える)

 

それ以外にも、城郭建造物が、移築されて再利用されたものも含めて、近隣に多く残っています。

まず「御殿書院」が、「掛川城大手門」の櫓門が移築されて有名な「油山寺」に、お寺の「書院」として、1859年頃に横須賀城主「西尾家」から寄進されて移築されています。

 

移築された御殿書院(現在は油山寺書院、県文化財)

 

更には、城下町の東の端には、藩役人が城下の出入りを常時監視する「町番所」がほぼ当時と同じ場所に建ちます。

 

横須賀城下の町番所

 

また東の端にあった「不明門」は、現在「撰要寺山門」として再利用されていて、薬医門の冠木には「本多家」の「立ち葵」の紋が入っています。そして「搦手門」は、現在「本源寺山門」として再利用されていて、欅づくりの立派な門が残っています。

 

不明門(現在 撰要寺山門、薬医門) 

不明門(現在 撰要寺山門、薬医門) 

不明門(現 撰要寺山門、薬医門) (本多立ち葵の紋が入る)

搦手門(現在 本源寺山門、立派な欅づくり) 

搦手門(現在 本源寺山門、立派な欅づくり) 

 

このように、「横須賀城」は、見るべきポイントが多数残っていますので、これらの史跡や遺構を訪ね歩くのも楽しいお城巡りになると思います。

 

 

本日は、譜代大名のお城シリーズで「小島(おじま)陣屋」(静岡県静岡市)を訪ねます。

 

「小島陣屋」は、1704年に「松平信治(のぶはる)」が、父「信孝」の後を継いだ時に、藩庁としてこの地に築城しました。

 

この「松平家」は、「三河十八松平家」の一つで、「徳川家康」に仕えていたので、幕藩体制下では「旗本」に組み込まれていましたが、「信孝」の時に、五代将軍「徳川綱吉」の下「若年寄」に昇進して、知行地も加増されて1万石を越えたので、大名に列することができました。

 

当初は、関東の何か所に知行地が飛んでいましたが、「信治」の時に纏められたので、この地に陣屋を築くことができました。その後明治元年の「徳川家達(いえさと)」駿府入りによる玉突きで、当「松平家」は上総国桜井へ移されました。

 

「小島陣屋」は、単郭の陣屋のように見えますが、1段目から3段目まで郭があります。その段毎に石垣が築かれてるので、一番下の郭から北側を見あげると数段の石垣が重なって見えます。

 

2段目郭から見上げる段々の石垣(谷積み)

南側の石垣

2段目郭の石垣

表門入った正面の三段目の郭石垣

北向き方向の段々石垣 

段々になった石垣(東方向)

 

石垣の積み方は、「切込接(はぎ)」が多いですが、最も新しい石の積み方である「落とし積み」も多用されています。また、陣屋建築時に積んだ石垣の上に石垣を積み上げた跡も見られます。

 

谷積み(落とし積み)の石垣-石を斜めに落し込む方法

横一直線に筋(石垣を後に積上げた)

 

「陣屋」の出入口は、東側に置かた「大手門」と北側の「裏門」があり、「大手門」は「枡形」を形成し入口付近の石は「切込接(はぎ)」で高さも4mもあります。

 

陣屋見取り図 

大手門通り(東方向)

本丸部分の4m級の石垣

裏門跡

 

「大手門」の手前右側の帯曲輪のような場所には現在、住宅地が一線に並んでいますが、ここは「馬場」跡として使用されていたところです。

 

陣屋馬場跡

 

「大手門」を抜けて右に折れると「本丸」へ登る階段が続き、上りきった敷地には「本丸御殿」が建っていて、「井戸」跡も見ることができます。

大手門(表門)の桝形入口と石垣

表門から本丸へ登る道

御殿跡(本丸)への階段と石垣

御殿跡(小学校があった)

陣屋井戸

 

現在は、「小島」の町の道沿いに、「御殿書院」が移築され集会所や史料館として再利用されています。「御殿書院」にしては”ちっぽけな”外観ですが、現在まで現役で使用されていることに驚かされます。

 

移築された御殿書院(市有形文化財)

移築された御殿書院

移築された御殿書院

 

「本丸御殿」跡には、大きな「国指定史跡 小島陣屋跡」の看板が建っていて、小学校の跡地でもあります。

 

小島陣屋跡碑(西向き)

 

周囲の城下では、「F家長屋門と正門」が城下町らしさを醸成していますし、小島藩主「松平家」の菩提寺である「龍津寺」は立派な山門を見ることができます。

 

家長屋門と正門

龍津寺山門(小島藩主滝脇松平家の菩提寺)

龍津寺本堂の襖取っ手(小島藩主 松平家の丸に桔梗の紋)

 

立地の場所は静岡市ではありますが、奥深い山間(やまあい)に、しかも総石垣造りのまるでお城に見紛うほどの「陣屋」が、18世紀の始めに築城を許可されたことが不思議であります。

 

大阪府池田市の「図書館」が、今までの館では老朽化と手狭になったことから、池田駅前でスーパーが営業していたフロアを改装して、先日新装オープンしました。

 

新装オープンした「池田市図書館」

 

新装後、初めて訪問しましたが、内装は明るくウッディな感じの非常にカジュアルなイメージとなりました。また入り口前には、これまたカジュアルなティールーム(喫茶店)ができて、かなりの人たちで賑わっていました。

 

新装図書館前のティールーム(喫茶店)

 

館内全体を回遊していると「日本のアジサイ図鑑」という書籍を見つけ、パラパラとめくりますと、色とりどりの「アジサイ」写真約600種類が、系統別に特徴が分かるように掲載されています。また、栽培方法や繁殖方法までも解説されていましたので、即借りることにしました。2週間の期間ですので、ザーと眺めるだけでも楽しそうです。

 

「日本のアジサイ図鑑」の表紙

図鑑の最初のページ

 

さて、我家の「アジサイ」達は、満開のピークもほぼ終わりを迎えています。例年ならば、梅雨入りと同時に開花を楽しめるのですが、今年の梅雨入りが遅れ、酷暑続きで「アジサイ」達もかなりグロッキーになっていました。

 

ここにきて、本格的な梅雨空が続くようなのに、雨に濡れたイキイキとした「アジサイ」の花が見られないのは寂しい限りです。

 

というのも、枯れかけた花を長く付けておくこともできず、いよいよ花や枝の剪定をせざるを得なくなって、先日実行しました。勿論、良く育った枝先を切って、挿し木用に使用もしました。その挿し木たちが、この本格的な梅雨中に入り、全てがうまく発根してくれたらいいのにと願っています。

挿し木

挿し木

 

しかしながら、まだ花が付いていて梅雨中でも見栄えがする枝は残しています。

 

オハヨウ、テマリピンク、ダンスパーティ(左から)

テマリピンク、ダンスパーティ、ユーミーパーフェクション(左から)

 

特に、「マジカル」系は、花の色が変化していくのを楽しめますので、もう少しそのままにしておこうと決めました。「マジカルアメジスト」は、「青色」が「緑色(ライムライト色)」に変化してきましたし、「マジカルコーラル」は少し遅れて開花したので現在は「ピンク色」ですが、こちらも「緑色」が混じってきますので、これからが楽しみです。

 

マジカルアメジスト

マジカルアメジスト

マジカルコーラル

本日は、「譜代大名」のお城ということで、「田野口陣屋(龍岡城)」を訪ねます。

 

「田野口陣屋(龍岡城)」」は、三河奥平藩主だった大給松平系統の「松平乗謨(のりかた)」は、信濃国佐久への本領移転を幕府に願い出を行いました。

 

そして許可が得られて1864年に建設開始し、1867年に完成しました。このお城は、「乗謨(のりかた)」の意向により「西洋稜堡式」のお城を築城しました。規模的には函館にある「五稜郭」の約半分の敷地面積で劣りますが、稜堡式のお城としては最後のお城となりました。

 

陣屋跡案内と五稜郭の絵図

 

「五稜郭」となっている所は「内城」で、その周囲には「外城」が取り囲み、「家中屋敷」を始め「米蔵」「藩校尚友館」が置かれていました。

 

「内城」には、大広間を持つ「御殿」が建てられていて、現存している「御台所(櫓)」もこの一角で使用されていたものですが、廃城後には、「大広間」「書院」「納戸」の他にも、「東通用門」「薬医門」が市内の各所に払い下げられて再利用されています。

 

御台所

御台所

陣屋敷地は現在「田口小学校」とその運動場

 

「御台所(櫓)」は、学校の校舎として利用されていましたが、1929年に現在の位置に移設されています。

 

「内城」の出入口は4箇所あり、北側から「黒門」、北東側には「大手門」、東南側には「通用門」、そして南側には「穴門」と、いずれも五角形の窪んだ箇所に置かれました。しかし、西側は未完であったことから窪んだ所には門を設けておらず、「堀」も西側だけ造らなかったようです。現在は、「穴門」跡がありませんが、「大手門」「黒門」「通用門」の各跡は石垣と土塁が残ります。

 

大手門橋と大手門跡

大手門跡(内側から)

黒門跡

 

「外城」北側に設けられた「大手虎口」は、「枡形」が導入され、「落とし積み」の手法が採り入れられています。

 

石垣は、基本「切込接(きりこみはぎ)」の「布積み」の様式で積まれ、特に石垣の一番上の「天端(てんば)」は、外側に迫り出す「刎出(はねだし)」を用いています。熊本の「人吉城」や北海道函館の「五稜郭」にも導入されています。そして、石垣の上は芝を植えることにより根を張らせて土を抑える効果がある「芝土居」としています。

 

鋭角になっている稜堡部分、芝土塁、刎出、切込接布積み石垣

鋭角になっている稜堡部分と堀

鋭角の稜堡部分、芝土塁、刎出、切込接布積み石垣

鋭角の稜堡部分、芝土塁、刎出、切込接布積み石垣

 

前述しましたが、移築した城郭建造物の一つ「東通用門」が、同市内の「成田山薬師寺」(佐久市中込)の山門として再利用されています。

 

佐久市の成田山薬師寺の参道(向こう山門が龍岡城の東通用門)

龍岡城東通用門(高麗門)現成田山薬師寺山門

東通用門格子板門扉