5/7(土)に、知人と一緒に「置塩(おじお)城」に登城した「お城紀行」のブログを5/10に投稿しましたが、本日は、「置塩城」からその後に「姫路城」(兵庫県姫路市)へ訪城した時のブログを投稿します。
「速報」でも触れましたが、「姫路城」に入城したのが15時を過ぎていたこともあって、訪城者が少なくてゆっくり鑑賞すると共に写真も人を気にすることなくバシバシ撮ることが出来ました。
「三の丸」跡からのぞむ「天守群」

今回もいつもながら各所の写真を撮りましたが、その中で特徴あるスポットを中心に掲載したいと思います。
その前に、お城の歴史と城主に付いて少し触れておきます。
戦国時代後期に「小寺則職」に仕えた「黒田家」が、砦から「姫路城」を築城したのが最初で、「黒田孝高」が城代となった時に、「織田信長」の命で中国攻めに任じられ、よしみのあった「羽柴秀吉」に城を献上しました。
「秀吉」によって近世城郭に拡張されましたが、関ケ原の戦い後1601年に「徳川家」の信頼の厚い「池田輝政」が入城して、西国大名の監視を目的とする一大拠点として、現在の「天守群」を中心に広大な城郭建築が行われ1610年に完成しました。
その後、「本多忠政」が入城し、「三の丸」「西の丸」等が増築されますが、城主の変遷は目まぐるしく、「奥平松平家」、「結城松平家」3回、再び「本多家」、「榊原家」2回と入れ替わり、1749年に「酒井家」が入城してやっと落ち着きました。
「秀吉」の三重四階の天守は1581年に「姫山」に完成しましたが、その後の「池田輝政」の大改修によって、「天守台」は新しい「天守」の下に埋没されました。「昭和の大修理」の時に、「天守」地下からその石垣や礎石が見つかっています。
さて、「内曲輪」の入口は「菱の門」ですが、残念なことに現在修築中でシートで覆われていましたので写真はありません。「姫路城」では、建造物を順番に補修していってるようで、そこから真正面に見える「ロの櫓」と「ニの門」は補修塗り替え工事も終わったのか真っ白になって誇らしく建っていました。
補修塗り替え工事が終わった「ロの櫓」と「ニの門」(「菱の門」内側から)

「菱の門」の右奥は「三国濠」がありますが、今まで気に留めていなかった北側の石垣に、切った跡が有るのを見つけました。解説板によると、「三国濠」から奥に「濠」が伸びていた箇所を埋めた跡らしいです。これは長年「三国濠」を眺めていたのに全く気が付かなかったことでした。
「三国濠」から「西の丸」跡方向

「三国濠」から奥に「濠」が伸びていた箇所を埋めた跡

順路は、今まで「菱の門」から真直ぐ「いの門」「ろの門」を抜けて「はの門」へ向かうルートでしたが、そこは通行禁止となり、「西の丸」跡へ上がる順路となっていました。
「西の丸」跡からのビューポイントはやっぱり外すことが出来ないのでそこから撮影し、そして「ワの櫓」からは「百間廊下」に入城しました。
「西の丸」跡からの定番のビューポイント

「ワの櫓」から入城する「百間廊下」

一方通行ですので、混雑時には入城制限も有ったであろう「廊下」は殆ど人もおらず、廊下の遠くまで写真を撮ることができて最高でした。
「百間廊下」(遠くまで見えます)

途中段差があり二階へ上がります

「百間廊下」の左手は断崖絶壁ではありますが、ここをよじ登ってくる輩(やから)を排除する為に、「石落とし」や「狭間」が床に沿って施されていますが、曲がり角では腰の高さの所に「石落とし」を設けている所も有ります。
「石落とし」と「狭間」

腰ほどの高さにも「石落とし」が

途中、窓から瓦が見える所で覗くと、瓦の「丸瓦」と「滴水瓦」に「歴代藩主」の家紋が付いているを見つけました。「池田輝政」の「揚羽蝶(あげはちょう)」、「本多家」の「立ち葵」、「榊原家」の「源氏車」、「酒井家」の「剣片喰(かたばみ)」等の文様が見られます。「姫路城」は全部で10家(重複含む)32人も藩主が変わりましたので、このように家紋が各所で異なった見られるのでしょう。
ここでは4家の家紋が付いている

「カの渡櫓」に入ると、右手に襖の敷居を設けた部屋「長局」が並びますが、この辺りには女中部屋になっていたようで、その突当りが「化粧櫓」になっています。
「カの渡櫓」内の「長局」の部屋(右側)

角のこの部屋は大きめ、敷居がある

「化粧櫓」は、「徳川家康」の孫である「千姫」が当時城主であった「本多忠政」の嫡男「本多忠刻(ただとき)」に嫁すにあたり、その化粧料で1618年に造営された「西の丸」とともに「千姫」の生活の場として建築された櫓です。いつもは中を覗くと「千姫」らしき女性の人形が座っているのが見えますが、現在は「化粧櫓」内を一般公開しているのでそれは見えませんでした。時間が余りなかったので入らずに、「天守」に向かいました。
手前が「化粧櫓」、奥に「百間廊下」や「櫓」が繋がっている

「ろの門」は立入禁止で、「はの門」に向かう坂道に出ます。「土塀」に並ぶ「狭間」から皆さんがするように写真を撮り、「はの門」礎石前の「転用石」を確認しました。今まで、何故かこの「転用石」の写真を撮らずに通り過ぎていましたので、今回はシッカリと押さえました。
「土塀」の「狭間」からの眺め(あまり面白くない光景でした)

「はの門」

「はの門」の礎石に使用されている「転用石」

そして、門を潜った左上には補修工事が終わったばかりで美白効果満点になった「ロの櫓」の屋根に付く魔除けの「十文字瓦」をチェックしてから、坂道を上りUターンして美白の「にの門」を腰をかがめて潜ります。
「ロの櫓」の唐破風上に「十文字瓦」

綺麗に塗り直された「にの門」

いよいよ、「埋門」の「ほの門」を抜けると「天守曲輪」に入ります。
「速報」でも触れましたが、「天守外曲輪」部分(「ハの渡櫓」から「ちの門」まで)が閉鎖になっていることが残念でした。この区間は工事も終わり、3月には「トの櫓」と「との一門」等の内部が特別公開されていたので、外部からは一般公開されているものだと思っていたのですが通行禁止となっていました。
通行禁止区間が続く「天守外曲輪」跡

実は、「置塩城」へ登城した後に、「天守外曲輪」内にある「との一門」が「置塩城」から移築門であることを知人に話していたので、知人はそれを見るのを楽しみにしていたと思います。
以前に撮影した「との一門」(「置塩城」からの移築と謂われている)

「水一の門」から入り「水二の門」から下っていく道を降りて「水三の門」「水四の門」を抜けて階段を上がると、「天守群」の入口の「水五の門」になります。この上は「ニの渡櫓」となり「大天守」と「西小天守」を繋ぐ渡廊下になっています。
「水一の門」(左側には「築地塀=油塀」、内側から)

攻め手に錯覚を誘う下り坂(奥が「水の三門」)

「天守群」の入口の「水五の門」、この上は「ニの渡櫓」

私達は、「ハの渡櫓」内で靴を脱いで袋に入れて入城します。内側の窓が少し開いていたので、担当者の方に「天守群」の内側に建っていて普段なかなか見れない「台所櫓」の写真を撮らせてもらいました。「台所櫓」が現存しているお城は非常に珍しく、当城では「イの渡櫓」側に出入口が設けられています。
「ハの渡櫓」(奥が「西小天守」の入口の扉)

「台所櫓」(「ハの渡櫓」から見る)

「西小天守」は「ハの渡櫓」に繋がりますが、現在は入口は閉められていて、私達は「乾小天守」1階から入り、広くて長い「ロの渡櫓」を進みます。現在は中に展示物があまり置かれていないので、非常に広く感じます。
「乾小天守」1階(「乾小天守」が3小天守の中で最も大きい)

「ロの渡櫓」

突当りが「東小天守」で三小天守の中で最も小さいので1階もすぐに通り抜け出来て、「イの渡櫓」を渡りその突当りが六段程の階段を上り、蔵のような開いた扉からいよいよ「大天守」に入ります。
「東小天守」1階

「イの渡櫓」

「大天守」への入口

「大天守」は、1階の真中にある「身舎(もや)」の周囲は広い「武者走り」の廊下、天井は等間隔に並ぶ梁を支える腕木が見事に並び、壁には武器掛けがずらりと貼りつきます。
1階の「武者走り」、天井に梁とそれを支える腕木、壁には武器掛け

2階の「武者走り」と「身舎(もや)」

3階は、「身舎」の白壁上段に「竪格子窓の透かし」があり装飾性を持たせています。北側は、外から見ると「入母屋破風」となっているので、その内側全体が「内室(うちむろ)」として使用されているのを、今回初めて知りました。
3階の「身舎」の白壁上段に「竪格子窓の透かし」(「踊り場」から)

北側全体が「内室(うちむろ)」

「内室」は、「石打棚」の下にできる小さな空間の室だけだと思っていましたが、こんな大規模にも設えられていました。
「石打棚」とその下に「内室」

3階から4階への階段には「踊り場」がありますので、「踊り場」から下をのぞめます。
5階から6階への階段は平行に2基あり、西側の階段の脇には地階から天守を支える5階までの「西大柱」が見られます。
5階から6階へは平行に並ぶ階段

5階の「西大柱」

3階の「西大柱」

先日、NHKの再放送で過去の「プロジェクトX」の番組で、「昭和の大改装」時に「大天守」を解体したものの「西大柱」の中が腐っていて取替が必要となり、当時この大改装の責任者として文部省から派遣されていた「加藤さん」という方が、25m以上の真直ぐな杉の木を全国捜し歩いたとうドキュメントが放映されているのを見ました。
工期ギリギリで探し出した杉の木でしたが、運搬中に落下して折れてしまい途方に暮れていた時に、棟梁の「和田さん」という方が、二本の木を「継手」技術によって一本にする案を提案して、見事成功したというお話でしたので、この「西大柱」を見て痛く感動しました。
最上階では、窓が南北に各5箇所、東西には各3箇所で「引き戸」の窓ですが、「平成の大修理」で四隅の壁から8箇所の窓の跡が出てきたそうで、もしそれが導入されていたら大パノラマの最上階でしたが、強度の問題があって実現はしなかったそうです。その跡を改めて眺め写真に収めました。
6階の「まぼろしの窓」跡

6階にも襖を入れる敷居

閉館時間が17時ということで、退館を促す放送もなり始めましたので、急いで「大天守」を降りて、「備前丸」跡の広場から「上山里丸」跡へ下り、二重の「ぬの門」を潜って左手にある「埋門」の「るの門」を抜けました。
二重の珍しい「ぬの門」

「埋門形式」の「るの門」

抜けた左側の石垣には、「継目のある石垣」が確認できます。左側は「池田輝政」時代に積まれたもの、右側は「羽柴秀吉」時代のモノです。
「継目のある石垣」(左側は「池田輝政」時代、右側は「羽柴秀吉」時代)

更に石垣に付いては、「菱の門」を出て東側に進んだ「下山里曲輪」の北側の石垣壁面(「上山里曲輪」の石垣)は、見た目がゴツゴツ感溢れる、いかにも古さを感じる石垣で、それが「黒田官兵衛」が築いた「野面積み」です。
「黒田官兵衛」が築いた「野面積み」

「黒田官兵衛」が築いた「野面積み」

その前を通り過ぎると「姫路動物園」北側に「内堀」が入り込んでくる地形がありますが、そこが「内船場蔵」という船着場であったようで、 南石垣は「野面積み」と「打込接」が混在しているようでした。
「内船場蔵」の石垣

その場所の左手には、先程は立入禁止で見ることが出来なかった「腹切丸」跡の「帯郭の櫓」とその北側に建つ「帯の櫓」の裏側を、傾斜が厳しい「高石垣」の先に目にすることができ、またその合間からは「大天守」も覗けるという絶好の撮影ポイントでした。
「腹切丸」跡の「帯郭の櫓」と「帯の櫓」の裏側、傾斜が厳しい「高石垣」

知人が見たがっていた「との一門」から下ってきて「喜斎門」へ通じる最後の門である「との四門」は見えるのですが、やはりそこからも「との一門」は見ることが出来ませんでした。
「との四門」(この上に上がれば「との四門」があるがここからも立入禁止)

最後は「世界遺産 姫路城」碑の撮影で終了

時間も17時過ぎとなりお腹も減ってヘロヘロとなった二人は、夕食処を探し「大手道」を外れて歩きましたが、結局見つけることが出来ず「姫路駅」前まで辿り着いた所でトンカツ屋に飛び行った話は「速報」でもお話しましたのでこの辺で終わりとします。
「姫路城」は何度来ても、見所が多いので違う視点で巡ることができる貴重なお城です。次回の訪城では、何をテーマにして巡ろうかな~と既に考え始めている今日この頃です。
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