只今「城スキーのお城紀行」は、「日本100名城」のお城を順次紹介しています。
「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。
発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。
「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。
紹介していく順番は、「日本城郭協会」が北から都道府県別に振っている番後に沿って紹介しています。
天然の地形を利用し“北条家”のお城に仕上げた「鉢形城」
(埼玉県大里郡寄居町)
●城主と歴史
「山内上杉家」の家宰「長尾景信」死後、その跡目を巡り「長尾景春」は意義を申し立てして、1476年に「景春」が「鉢形城」を築城して籠城します。
その後、「景春」は、「太田道灌」によって追放され「山内上杉顕定」が入城してその養子の「顕実」が継ぎます。しかし「上杉憲房」が攻めて城を得た後、「憲房」に従う「藤田家」の支配下に置かれましたが、1546年の「河越城」の争奪戦となった「河越夜戦」で「憲房」は「北条氏康」に大敗して、「北条家」のお城となります。
1569年頃に「武田信玄」による「小田原攻め」で侵攻されますが、「北条氏邦」が「鉢形城」を本拠地として、守り切ります。
1590年の「豊臣秀吉」による「小田原攻め」では、「氏邦」は3,000名の兵で籠城しましたが、「前田利家」「上杉景勝」等の35,000名の包囲網に屈して開城しました。
●お城の概要と特徴
<立地と縄張り>
「鉢形城」は、「荒川」と「深沢川」の間の切り立った崖の上の天然の要害に造られた「梯郭式」のお城です。
鉢形城曲輪配置図 ↓
荒川(正喜橋から) ↓
「鉢形城跡」碑 ↓
「荒川」と「深沢川」の合流地点から「笹曲輪」-「本丸(本城)」-「二の丸」-「三の丸(伝秩父曲輪、伝逸見曲輪)」と扇子状に広がり、「深沢川」を越えたエリアは「外曲輪」になっていました。
曲輪間には、「土塁」と「空堀」を多用し、「北条家」が得意とした「馬出」も見られ、現在でもそれらの遺構が良く残っています。
それでは、それらの遺構を「外曲輪」から「笹曲輪」にかけて見ていきたいと思います。
<外曲輪>
「外曲輪」跡は約200mの長さもある細長い曲輪ですが、現在は「歴史館」やその駐車場等広大の広場となっていて、「歴史館」の裏側に降りて「深沢川」から一旦「堀切」を下っていきます。
外曲輪跡 ↓
深沢川 ↓
「深沢川」から上る道沿いには高い立派な「土塁」が並びます。
土塁 (深沢川からニの曲輪への途中 ↓
土塁 ↓
<三の曲輪>
「三の曲輪」は、北側と南側部分にわかれ、北側部分は「伝秩父曲輪」とも呼ばれています。天正年間(1573~92年)に家臣の「秩父孫次郎一族」が住んで守備していました。
発掘調査で、「石積石塁」や庭園跡が見つかって、「石積石塁」は整備復元されています。石使いをしているお城は、関東の中世城郭(川越城、忍城、岩槻城)では無く「鉢形城」の特徴でもあります。
発掘調査に基づいて復元されているのは「四脚門」やその脇の「南石積土塁」、「北石積土塁」、「石組排水溝」があります。そして、「北石積土塁」と「南石積土塁」の間には「土塁」でできた「虎口」と「門」跡が見られます。
三の曲輪跡と復元四脚門・虎口方向 ↓
復元四脚門 ↓
南石積土塁 ↓
復元四脚門脇の復元石積土塁
北石積土塁 ↓
復元四脚門脇の土塀と石組排水溝復元 ↓
南側の「伝逸見曲輪」方向は広大で、家臣の「逸見家」が居住していたと言われています。「角馬出」や「空堀」一部「水堀」も導入していました。
三の曲輪跡から伝逸見曲輪跡方向 ↓
馬出跡とおくり泉水跡 ↓
馬出跡 ↓
<二の曲輪>
「三の曲輪」と「二の曲輪」の間には、長い「空堀」と「土塁」で分断されています。「二の曲輪」では、「畝」「土塁」なども見られます。
三の曲輪(左)と二の曲輪の間の堀と土塁 ↓
二の曲輪跡の畝、空堀、土塁 ↓
<本曲輪>
「二の曲輪」の北側には「本曲輪」が広がっていて、上段と下段に分かれています。
上段は「伝御殿曲輪」と呼んでいて、現在は道路の北側部分の広場になりますが、その北側「荒川」に沿ってかなりの高さの「土塁」が続いています。その土塁上からは、「荒川」を見下ろすことができます。
伝御殿曲輪の土塁 ↓
本曲輪跡 ↓
本曲輪跡から荒川を望む ↓
正喜橋から見る本曲輪跡の崖と荒川) ↓
下段は「伝御殿下曲輪」と呼ばれ、現在は道路の下になり「植物園」になっていますが、更に下に降りると「土塁」が平行に走っています。
伝御殿下曲輪の南下で両側に土塁 ↓
<笹曲輪>
「荒川」と「深沢川」の合流地点の曲輪で、笹の葉のように小さな曲輪という意味がこめられているそうです。この曲輪の西側側面には石垣の跡が見られます。この場所に、全体の模型が置かれているので全体像が把握できます。
笹曲輪 ↓
笹曲輪西面の石垣 ↓
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