9/5(木)からスタートした今夏2泊3日の「夏恒例のお城巡り」3日目、今夏城巡りの旅の11城目で最期を飾るのは「神指(こうざし)城」(福島県会津若松市)です。

 

「猪苗代城」の駐車場を12時15分に出て、途中コンビニで買ったおにぎりを車中で食べたので少し時間がかかり13時10分に「神指城二ノ丸北東隅土塁」に到着しました。

 

神指城」の歴史と城主についてですが、会津における新城の築城を「上杉景勝」が「直江兼続」に命じて、1600年3月に開始します。

 

「徳川秀忠」からは築城の承諾の書状が届くも、その後相国寺の「承兌(じょうたい)和尚」から築城の理由、上洛についてをただす書状が届き、それに対しての反論文「直江状」を書いたとされます。

 

町割りや本丸の石垣、門が築かれ、二ノ丸も堀と土塁がほぼ完成しますが、6月に「徳川家康」が上杉討伐命令を発したことで、作業に従事していた者達を国境の防備を造る方へ割り当てられ、築城は中止します。

 

1600年9月の「関ヶ原の合戦」で西軍だった「上杉景勝」は敗北してお城は自ら破城しました。

 

神指城」の縄張りは、完成予想絵図から見ると、「本丸」を中心に北西隅に「天守」を築き、周囲を「石垣」と「堀」で囲い、「本丸大手口」を東に設けて北、西に虎口を設ける予定でした。更に、「本丸」周囲には「二ノ丸」を設けた輪郭式の縄張りにする予定だったようです。

 

「縄張図」(現地案内板に掲出) ↓

「本丸の完成予想図」(パンフレットに掲出) ↓

 

私はまず、最も遺構が残っている「神指城二ノ丸北東隅土塁」を目指して運転していましたが、遠くからでも一目でわかるくらいに「土塁」上に大木(高瀬の大木)が植わっていました。

 

遠くからでも目立つ「神指城二ノ丸北東隅土塁」上の「高瀬の大木」(ケヤキ) ↓

 

「二ノ丸北東隅土塁」下には、説明書きや縄張り予定図が掲出されていました。「土塁」に上がれるようになっていて、途中には1983年にこの場所に移して保存された「本丸の基礎石」が置かれ、その後ろにはケヤキの大木が植わっています。

 

移設されて保管されている「本丸の基礎石」 ↓

「高瀬の大木」(ケヤキ) ↓

 

このケヤキは、築城当時からこの「土塁」上に植わっていた木だそうで、築城の色々な経緯を見ながら今日までの生き証人になっています。

 

「高瀬の大木」(ケヤキ) ↓

「神指城二ノ丸北東隅土塁」上の「高瀬の大木」(ケヤキ) ↓

「神指城二ノ丸北東隅土塁」上

 

グルっと1周し終えた後、周囲にも一部「土塁」の遺構や、中には入れないが「本丸」跡付近にも石垣が残っているとの情報がパンフレットに記載されていたので、車を乗って探しました。

 

パンフレットより ↓

 

しかしながら、周囲は見渡す限り田んぼで木々が植わっている場所があるものの、「本丸」跡の場所が特定できず、一カ所「土塁」の遺構を見つけたあとは、細い田んぼ中の道をグルグル回るだけになってしましまいました。

 

「神指城二ノ丸北西隅土塁」 ↓

「神指城二ノ丸北西隅土塁」 ↓​​​​​​​

 

ジックリ地図を見れば判ったと思いますが、時間的に焦っていたこともあってそれをしなかったのが致命傷となりました。家に戻り地図をジックリ見るとこの道を真っすぐ走っていれば・・・と後悔先に立たずでした。

 

ということで、中途半端なお城巡りとなった「神指城」ですが、「関ヶ原の合戦」前の歴史に少しでも触れることができて良かったと思っています。

 

レンタカー屋で車を返し、「会津若松駅」前のバスターミナルで「郡山」経由「福島空港」行きの乗車券を購入した後、駅構内のお土産ショップでお土産をゲットし、再びバスターミナルへ戻って待機しました。

 

高速バスと空港バスのセット券 ↓

JR「会津若松駅」 ↓

駅前の道路横断用地下へ下りる城郭風階段入口 ↓

 

予定のお城をほぼ全て無事に登城できてホッと一息、アイスクリームを食べながら14時50分発の「郡山」行高速バスに乗り込みました。

 

すると出発時間が5分前なのに動き出し車内案内が流れて「福島行バスにご乗車いただきありがとうございます」とのアナウンス、驚き一番後ろの席から運転席まで走り「郡山行」ではないんですかと聞くと「福島行」ですと言われ、ガーーン!

 

信号で停車したので降車させてもらい「良く確認してから乗車ください!」と釘を刺されましたが、降ろしてもらえて本当に良かったでした。危うくこのまま「福島」まで乗車していたら、その日に大阪まで戻れていなかったでしょう。運転手さんに感謝!

 

バスターミナル迄走って戻り5分後に発車の「郡山行」に無事乗車、「郡山」からは空港バスで「福島空港」に到着しました。

 

「郡山経由いわき行」の高速バス(郡山駅にて) ↓

空港バス(福島空港にて) ↓

 

フライトまで1時間15分あったので空港内のレストランで夕食、体力消耗したのでしょうか、3日連チャンの揚げ物(フライ定食)を身体が欲していました。

 

福島空港内で「フライ定食」を食す ↓

 

「福島空港」からは「IBEX」18時30分のフライト予定でしたが、飛行機の到着が遅れ10分遅れで伊丹空港へ飛び立ちました。窓側の座席を取っていたので、大阪平野に入り梅田上空のダイヤモンドを散りばめたような光景に暫しウットリしながらのフライトでした。

 

飛行機内から梅田辺りを見下ろす ↓

 

IBEXのジェットはボンバルディアのCRJ700という機種で、ボーディングブリッジ(搭乗橋)が届かないのか、数がないのか飛行機から下りて空港ビルまではバスでの移動でした。外に出ると、大阪特有のドンよりムーンとした空気で大阪に戻ったな~と実感しました。

 

IBEXのジェットはボンバルディアのCRJ700 ↓

ボンバルディアのCRJ700(バスの中から) ↓

 

今回の2泊3日の「夏恒例のお城巡り」は、スタートまで2回も予定変更を繰返し、フライト、ホテル、レンタカーの予約も都度変更という面倒な事態になりましたが、結果的に3日間は天候にも恵まれ、ほぼ当初の計画通りの進行でお城を巡ることができました。しかも新規のお城と2度目、3度目のお城を含めて11城も訪城できたことで、本当に充実した3日間になりました。

 

ブログも書き終えて、これからは秋に向けた「お城巡り」の計画を立てようと考えています。

 

 

 

 

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9/5(木)からスタートした今夏2泊3日の「夏恒例のお城巡り」3日目、今夏城巡りの旅の10城目は「猪苗代(いなわしろ)城」(福島県耶麻郡猪苗代町)です。

 

「向羽黒山城」から北東に向かって進んでいくと、途中「磐梯山」が最も美しいと言われているポジションで車を止めて撮影を、更にお城に近づくと白い花が一面に咲き誇っている畑に遭遇、それは「蕎麦」の花でした。

 

「磐梯山」が最も美しいと言われているポジションからの一枚 ↓

一面に「蕎麦」の白い花 ↓

 

約50分でお城の駐車場に到着しました。駐車場は「中門」跡の内側で、既に石垣が目の前に拡がっていました。

 

「表門」の「桝形虎口」(「中門」跡から) ↓

 

登城前に、少し「猪苗代城」の歴史と城主について触れておきます。

 

「奥州征伐」の論功行賞によって会津を与えられた「佐原義連」の孫「経連」を初代とした「猪苗代氏」が南北朝から室町期にかけて築城して代々居城したようです。


その後「猪苗代氏」は1589年の「摺上原合戦」で「伊達方」についてこの地を去り、1590年に「豊臣秀吉」の命により会津に入部した「蒲生氏郷」によって近世城郭へと改修されます。

 

江戸時代に入り一国一城の令発布後も例外として存続が認められ、「会津藩」の城代が置かれて東を守る支城として存続しました。しかし、幕末の「戊辰の役」で西軍(薩長軍)が会津領へ侵入すると城代は城を焼き払い会津へ撤退しました。

 

猪苗代城」の立地と縄張りですが、当城はなだらかな丘上にあり、それは「磐梯火山」のうちの「赤埴山」を造った火山活動のマグマや火山灰でできた丘だそうです。

 

「公園内」地図 ↓

 

そこに築かれた「猪苗代城」の縄張りは、東側に「桝形虎口」を構え、両脇に石垣が積まれた石段で「本丸」へ上がります。「本丸」は最高所にあって周囲を土塁が囲い、そこに「御座之間」や「茶室」を併設した庭の他、「塩蔵」「兵器庫」が置かれていたようです。

 

「本丸」南側には、馬出し的な「小郭」が備わり、東側には「ニノ郭櫓門」が、西側には「四脚門」が建てられて内部への出入りを制御していました。

 

「小郭」南側の段下が「南帯郭」で、それに繋がる西側の細い「帯郭」が北へ向かって延びて「本丸」北下に置かれた「北郭」と接続します。更には、「西帯郭」の西側には深い「空堀」「土塁」を設けて防御しています。

 

「御城代屋敷」は、北東の敷地に建てられていました。

 

「縄張図」(北は右方向) ↓

 

さて、私の目の前の「石垣」は「桝形虎口」で、正面の石垣から右折してできる両脇の石垣もキッチリと残されています。桝形内には「井戸」があり、左に折れると石段で上へ上がるようになっています。

 

正面虎口(桝形虎口)の石垣 ↓

正面虎口(桝形虎口)の石垣 ↓

正面虎口(桝形虎口)の石垣 ↓

「桝形」内の「井戸」 ↓

 

石段を上りおえると正面とそれに続く両脇にも石垣が築かれているようでしたが、石垣の孕みが生じていて土嚢を積んでいるとのことでした。

 

石段を上りおえた正面の石垣前には土嚢 ↓

石段を上りおえた正面の土嚢裏はこのような石垣配列 ↓

 

突当りを左へ真直ぐ進むと「胴丸」跡ですが、少し進んで更に石段を上がって行きます。ここの石段の両脇には「石垣」が積まれていて夏草を刈ってくれていたので良く判りました。

 

「石段」脇の「石垣」 ↓

「石段」脇の「石垣」 ↓

 

「石段」の突当りが再び左右に分かれていて、左側を見ると石垣積みが見られました。そこは、「ニノ郭櫓門」跡の石垣です(後段で内側からの写真があります)。右側へ進み「本丸東門」跡を抜けると「本丸」跡に出ます。

 

「ニノ郭櫓門」跡の櫓台石垣 ↓

「本丸東門」跡 ↓

 

「本丸」跡は芝生で綺麗に整備されていますが、周囲は「土塁」で囲われていました。「北土塁」から「切岸」を施した北下を見るとかなりの高さを感じることができて「北郭」跡が見下ろせます。

 

「本丸」跡(「北土塁」上から見る) ↓

「本丸」跡周囲の「土塁」 ↓

 

「西土塁」上からは、「切岸」の下に細長い「西帯郭」と「土塁」が見下ろせます。「西土塁」上には「武器庫」が置かれていたであろう跡があったり、庭が拡がっていた辺りには「雁木」も見られます。

 

「西土塁」上から見下ろす「切岸」下の細長い「西帯郭」 ↓

「西土塁」上の「武器庫」跡? ↓

庭付近の「西土塁」の雁木 ↓

 

一方「東土塁」は、土に石が混じった石列のようになっている所がありました。

 

土に石が混ざる「東土塁」 ↓

 

「本丸」跡南端の「南虎口」跡より数段下には馬出し状の「小郭」跡が配置されていて、南端には「野口英世胸像」がヒッソリと置かれています。この場所は「土蔵」が並んでいたようです。

 

「本丸」跡南端の「南虎口」跡前から北方向の「本丸」跡 ↓

「本丸」跡南端の「南虎口」跡

馬出し状の「小郭」跡(南端には「野口英世胸像」) ↓

馬出し状の「小郭」跡の周囲の「土塁」(石が混じる) ↓

 

この「小郭」の東側には「ニノ郭櫓門」が建ち現在でも両方の櫓台の石垣が残ります。一方の西側には「四脚門」が建てられ、ここにも石垣が見られます。

 

「ニノ郭櫓門」櫓台石垣 ↓

「ニノ郭櫓門」櫓台石垣 ↓

「四脚門」跡石垣 ↓

「四脚門」跡石垣 ↓

 

「小郭」跡の南東にある「井戸門」跡の奥に「井戸」があると思い探すも判らず、そのまま坂道を下ると「小郭」の段下になる所に「南帯郭」跡が拡がります。「帯郭」と名が付くものの扇形をした広い広場で、「焔硝蔵」や「番小屋」が置かれていた場所らしいです。

 

「井戸門」跡 ↓

「南帯郭」跡 ↓

「南帯郭」跡から「小郭」跡を見る(「切岸」がかかる) ↓

 

そこから南方向が開けていたので南方向を望むと、「猪苗代湖」の湖面が見えたので、帰りに湖岸近くまで立寄ろうと思っていたのをやめることにしました。

 

「猪苗代湖」の湖面 ↓

 

「南帯郭」跡の南側から「ニノ郭(西帯郭)」跡の西側にかけて、かなり深い「空堀」が上から見下ろせて、「空堀」の向こう側には幅がある「土塁」も確認できました。

 

「南帯郭」跡の「土塁」 ↓

「南帯郭」跡南側の「空堀」と「土塁」 ↓

「南帯郭」跡から「小郭」跡方向 ↓

「南帯郭」跡から「ニ之郭(西帯郭)」跡方向 ↓

 

「ニノ郭(西帯郭)」跡は、右手「本丸」跡の斜面と「土塁」の間にできた「横堀」の様な細長い敷地です。「本丸」跡に沿って北側に進むと広い敷地が開かれ「北郭」跡になります。

 

「ニノ郭(西帯郭)」跡(右手「本丸」跡の斜面) ↓

「ニノ郭(西帯郭)」跡

「ニノ郭(西帯郭)」跡の「土塁」から西下の「空堀」を見る ↓

「ニノ郭(西帯郭)」跡の「土塁」から西下の「空堀」と「土塁」を見る ↓

「ニノ郭(西帯郭)」跡(「北郭」跡から南方向) ↓

 

「北郭」跡は、「本丸」跡からの高低差がかなりあって非常に厳しい「切岸」が施されています。この敷地の北端には「角櫓」が建っていたようです。

 

「北郭」跡から「本丸」跡を見上げる ↓

「北郭」跡 ↓

 

「北郭」跡からは、「磐梯山」「赤埴山」がかなり大きく迫って見えました。

 

「北郭」跡から見える「磐梯山」「赤埴山」 ↓

 

「北郭」跡の北東から東側にかけて、「稲荷社」が建ち、南側にかけて広い敷地が「御城代屋敷」跡のようです。またその入口である「北中門」跡の礎石が残っていました。

 

「稲荷社」 ↓

「御城代屋敷」跡 ↓

「北中門」跡の礎石 ↓

 

私が当初抱いていた「猪苗代城」のイメージは、非常に簡単な土のお城でしたが、近世城郭化され石垣を多用したお城とは全く想定外だったので、非常にここまで足を伸ばした甲斐があったと思いました。

 

12時15分に「猪苗代湖」の駐車場を出ることができたので、予定時間よりも30分早くなりました。途中のコンビニで昼食用のおにぎりを買って車中食で済ませ、最後の訪城地「神指城」へ車を走らせました。

 

 

 

 

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9/5(木)からスタートした今夏2泊3日の「夏恒例のお城巡り」3日目、今夏城巡りの旅の9城目は「向羽黒山城(後編)」(福島県大沼郡会津美里町)ですが、情報量が多いので3回に分けて投稿していて、本日は「後編」です。因みに当城は「続日本100名城」です。

 

復習として「向羽黒山城」の歴史と城主について記載しておきます。

 

「葦名氏」のお城だったのは有名で、「蘆名氏」は相模の「三浦一族」でしたが、鎌倉幕府を樹立した「源頼朝」の御家人として、多くの軍功によって会津の北部を中心に領地を得ました。

 

「葦名氏」の全盛期を築いた16代「盛氏」は、度重なる戦いで新潟県東部から会津地方全域、中通り地方のほとんどを支配下に置き、「葦名家中興の祖」と呼ばれます。そして8年の歳月をかけて「向羽黒山城」を築きました。


しかし、「盛氏」の嫡男「盛興」は、1574年に若くして病没、そのため養子を取って継がせるも家臣に惨殺、その子も病死してしまいます。「盛氏」死後は、養子問題で家中が乱れ、1589年の「摺上原の合戦」で「伊達政宗」に大敗して「芦名氏」は滅亡、会津支配400年に終止符を打たれてしまいます。

 

「伊達政宗」の領地になるも、「豊臣秀吉」による「奥羽仕置」によって1590年に「蒲生氏郷」が「会津」等の地を賜り「黒川城」に入城し、「向羽黒山城」の改修を行います。

 

その後「蒲生騒動」の勃発で「蒲生氏」が転封となり、1598年に「上杉景勝」が入城すると2年かけて大改修を施し、更に「徳川家康」の会津攻撃の報を聞くや、「景勝」は「神指城」の築城をやめ、「向羽黒山城」を対家康戦の最後の砦として考えました。

 

しかし「関ヶ原の合戦」で西軍に加担した「景勝」は、1601年に「米沢」へ移封となると当城は廃城となりました。

 

向羽黒山城」の立地と縄張りについても同様に記載しておきます。立地は「観音山」、羽黒神社のある「羽黒山」、「実城一曲輪」のある「岩崎山」の3つの山から成ります。メインの「岩崎山」は標高408.7m、比高差は184mで、東西1.4㎞、南北1.5㎞と広大な城域があります。

 

縄張りは、「岩崎山」の頂上に「一曲輪(実城)」を置きますが、そこが詰城の如く、東に「出桝形」の虎口、西側に数本の「堀切」を並べ、更に北側にも「横堀」と長い「竪堀」を施して守りを堅固にしています。

 

更にその北側は、西から「西曲輪群」の多くの小規模な曲輪群に続き東に向かって「二曲輪(二ノ丸)」が並びます。「二曲輪」は当時「本丸」的な位置付けだったようで北側下には「二東曲輪群」「二西曲輪群」を配備して「虎口」や「石積み」を設け、内側には「水の手」も設えています。更にその東側には長くて幅がある2本の「竪堀」によって防衛しています。

 

そこから下った北側にある「大堀切」を隔てると「三曲輪」跡がありその辺りが「芦名盛氏」時代の遺構のようです。その東側には「盛氏」が隠居後に居住したと謂われる「伝盛氏屋敷」跡が堀と土塁に囲われて造成されていますし、堀を隔てた東側では「北(北東)曲輪」跡の高さと深さがある土塁と堀のアンジュレーションが見られます。

 

縄張図(パンフレットに掲載) ↓

 

「中編」では、「二曲輪(二の丸)」下の「二東曲輪・二西曲輪」跡を記載しました。本日は下山途中の車道脇にに点在する「弁天曲輪」「御茶屋場曲輪」「三曲輪」「伝盛氏屋敷」「北東曲輪」の各曲輪跡等をお届けします。

 

「弁天曲輪」「御茶屋場曲輪」「三曲輪」「伝盛氏屋敷」「北東曲輪」の縄張図(現地に掲出) ↓

 

駐車場から真直ぐ下りて車道がUターンした所に「弁天曲輪」跡があり「弁天神社」が建ちます。小さな曲輪で東下には「阿賀川」が流れているので、川からの攻撃に対する監視を目的にした櫓台にも使用していたのではないでしょうか。

 

「弁天曲輪」跡内の「弁天神社」の鳥居 ↓

「弁天曲輪」跡内の「弁天神社」 ↓

 

そこから一気に下る坂道になり東手には麓まで落ちる「竪堀」が二本あり、北側のモノは「御茶屋場曲輪」脇に設えられていますが、木々が邪魔して見下ろすことができません。

 

この辺りに「手洗清水」「竪堀」があるが夏草に覆われて見えない ↓

 

会津茶道発祥の地でもあると謂われる「御茶屋場曲輪」跡は、眺めの良い場所に設けられていて、茶道を楽しみながら眺めも愛でたことでしょう。現在でも「会津若松市街地」や後方に聳える「会津磐梯山」が一望できる好立地の場所です。

 

「御茶屋場曲輪」跡 ↓

「会津若松市街地」と「会津磐梯山」(「御茶屋場曲輪」跡からの遠望) ↓

 

車道をドンドン下っていくと駐車場があってその北側の車道両脇を大きく抉る(えぐる)「大堀切」が現れます。丁度「二西曲輪群」跡の西側から北側にかけて断崖絶壁になっている箇所で、登ってくる敵方の足止めをするのに大いに役立つ防御仕掛けです。

 

駐車場にも幟「蒲生氏郷」 ↓

駐車場にも幟「蘆名盛氏」 ↓

「大堀切」 ↓

 

「大堀切」の北側一帯が「三曲輪(三の丸)」跡になります。この場所は、「蘆名盛氏」時代の遺構らしく、馬の訓練場として造られ兵力養成場所にしようとしていたようです。ここも大小の曲輪が貼りついています。また、車道の右手(東側)下には、「土塁」が二本並ぶ「二重土塁」も見られました。

 

「三曲輪(三の丸)」跡 ↓

「三曲輪(三の丸)」跡 ↓

 

「羽黒山」の頂上を曲輪化した「羽黒山曲輪」跡と「羽黒神社」に向かう道が付いていましたが手前で写真だけを撮り、もう一方の内部に入っていく道を進みました。

 

「羽黒神社」が建つ「羽黒山曲輪」跡方向 ↓

 

この先には、「盛氏」が家督を譲って隠居した後に暮らした屋敷である「伝盛氏屋敷」跡があります。真直ぐ延びる道の行きあたり右手に段状になった「曲輪」群が見られます。

 

「伝盛氏屋敷」跡へ向かう道 ↓

「北(北東)曲輪」跡の「段曲輪」 ↓

 

その左手にコの字型の「土塁」で囲われ、更にその周囲を「堀」で囲った場所が「伝盛氏屋敷」跡のようです。

 

「伝盛氏屋敷」跡 ↓

「伝盛氏屋敷」跡(「土塁」で囲われた所) ↓

「伝盛氏屋敷」跡(周囲を「土塁」と「堀」で囲われている) ↓

 

「伝盛氏屋敷」跡の南から東側にかけて深い堀が掘られ、その分「土塁」の高さも高くなりそのアンジュレーションは奇抜な形をしていて、一度底に入ると這い上がるのに非常に難儀する仕掛けになっています。現地曲輪図ではこの辺りを「北東曲輪」跡とネーミングしています。

 

深い「堀」を挟んで「北東(北)曲輪」跡 ↓

「北東(北)曲輪」跡内の「横堀」 ↓

「北東(北)曲輪」跡内の「横堀」 ↓

「北東(北)曲輪」跡内の深い「堀」と「土塁」 ↓

「北東(北)曲輪」跡内の「虎口」 ↓

「北東(北)曲輪」跡内の深い「堀」と高さがある「土塁」 ↓

「北東(北)曲輪」跡内の深い「堀」と高さがある「土塁」 ↓

 

「北東(北)曲輪」跡、「伝盛氏屋敷」跡から車を置いていた場所に戻ると10時35分になっていましたので、予定時間から約10分の短縮です。今回「向羽黒山城」では2時間滞在しましたが、多分全体の1/2位しか見ていないように思われます。夏草や木々で覆われている箇所が沢山あったので仕方がないですが、ユックリ全てを探索しようと思うと約4~5時間は要するだろうな~と感じました。

 

しかし、東北最大の山城、全国的にも日本最大級の山城の一端でも見ることができたのは幸いでした。一昨年前(2022年)に登城しようと予定していたのは、JR只見線「会津本郷駅」から徒歩でアプローチする計画でしたが、それはかなり無理そうだということが解りました。

 

次回のブログは、「猪苗代城」をお届けしたいと思います。

 

 

 

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9/5(木)からスタートした今夏2泊3日の「夏恒例のお城巡り」3日目、今夏城巡りの旅の9城目は「向羽黒山城(中編)」(福島県大沼郡会津美里町)ですが、情報量が多いので3回に分けて投稿しています。本日は「中編」です。因みに当城は「続日本100名城」です。

 

もう一度復習として「向羽黒山城」の歴史と城主について記載しておきます。

 

「葦名氏」のお城だったのは有名で、「蘆名氏」は相模の「三浦一族」でしたが、鎌倉幕府を樹立した「源頼朝」の御家人として、多くの軍功によって会津の北部を中心に領地を得ました。

 

「葦名氏」の全盛期を築いた16代「盛氏」は、度重なる戦いで新潟県東部から会津地方全域、中通り地方のほとんどを支配下に置き、「葦名家中興の祖」と呼ばれます。そして8年の歳月をかけて「向羽黒山城」を築きました。


しかし、「盛氏」の嫡男「盛興」は、1574年に若くして病没、そのため養子を取って継がせるも家臣に惨殺、その子も病死してしまいます。「盛氏」死後は、養子問題で家中が乱れ、1589年の「摺上原の合戦」で「伊達政宗」に大敗して「芦名氏」は滅亡、会津支配400年に終止符を打たれてしまいます。

 

「伊達政宗」の領地になるも、「豊臣秀吉」による「奥羽仕置」によって1590年に「蒲生氏郷」が「会津」等の地を賜り「黒川城」に入城し、「向羽黒山城」の改修を行います。

 

その後「蒲生騒動」の勃発で「蒲生氏」が転封となり、1598年に「上杉景勝」が入城すると2年かけて大改修を施し、更に「徳川家康」の会津攻撃の報を聞くや、「景勝」は「神指城」の築城をやめ、「向羽黒山城」を対家康戦の最後の砦として考えました。

 

しかし「関ヶ原の合戦」で西軍に加担した「景勝」は、1601年に「米沢」へ移封となると当城は廃城となりました。

 

向羽黒山城」の立地と縄張りについても同様に記載しておきます。立地は「観音山」、羽黒神社のある「羽黒山」、「実城一曲輪」のある「岩崎山」の3つの山から成ります。メインの「岩崎山」は標高408.7m、比高差は184mで、東西1.4㎞、南北1.5㎞と広大な城域があります。

 

縄張りは、「岩崎山」の頂上に「一曲輪(実城)」を置きますが、そこが詰城の如く、東に「出桝形」の虎口、西側に数本の「堀切」を並べ、更に北側にも「横堀」と長い「竪堀」を施して守りを堅固にしています。

 

更にその北側は、西から「西曲輪群」の多くの小規模な曲輪群に続き東に向かって「二曲輪(二ノ丸)」が並びます。「二曲輪」は当時「本丸」的な位置付けだったようで北側下には「二東曲輪群」「二西曲輪群」を配備して「虎口」や「石積み」を設け、内側には「水の手」も設えています。更にその東側には長くて幅がある2本の「竪堀」によって防衛しています。

 

そこから下った北側は「大堀切」を隔てて「三曲輪」がありその辺りが「芦名盛氏」時代の遺構のようで、その東側には「盛氏」が隠居後に居住したと謂われる「盛氏屋敷」が堀と土塁に囲われて造成されていました。

 

縄張図(パンフレットに掲載) ↓

 

「前編」では、「二曲輪(二の丸)」まで記載しました。本日は「三日町虎口」と表示がある所から下りていきます。

 

上から見下ろす「虎口」は如何にも堅固な造りに見えます。「蒲生氏郷」時代に改されたようで「桝形虎口」で石垣に門を設けていたらしく石が散乱しています。

 

上から見下ろす「虎口」 ↓

石が散乱する「桝形虎口」 ↓

 

「虎口」を出ると「土橋」が「横堀」を跨ぎ、東に向かって延びる「土塁」との分岐点に「城道」が付いています。「城道」は坂を下って行き「二西曲輪」跡を通って「虎口」へ繋がっているようです。

 

「虎口」を出ところにある「土橋」 ↓

「城道」と東延びる「土塁」との分岐点 ↓

「城道」 ↓

「城道」 ↓

「城道」から繋がる「虎口」 ↓


一方の東へ延びる「土塁」は「横堀」を伴って東へ延びて行きますので、私は「横堀」底を歩いて進みました。暫く進むと石が散乱している「曲輪」跡に出ました。

 

「土橋」から東へ延びる「土塁」と「横堀」 ↓

その先には石が散乱する「曲輪」跡 ↓

 

「二の丸」跡方向へ向かう坂道の段面には苔むした「野面積み」と「落とし積み」の石垣が見られましたが、後者は苔むしているものの「後世」に積みなおされたものと思われます。

 

「東曲輪(二の丸)」下の坂道断面に「野面積み」の石垣 ↓

「東曲輪(二の丸)」下の坂道断面に「野面積み」の石垣 ↓

 

そこから北西に向かって下っていく「竪土塁」と「竪堀」を横目で見ながら下りていくと、斜面ながらも広々とした曲輪跡に出てきます。多分、そこが「東二曲輪群」跡と思われました。

 

「竪土塁」と「竪堀」 ↓

「竪堀」(下から見上げる) ↓

「二東曲輪群」跡 ↓

「竪堀」 ↓

「石積み」 ↓

 

西へ進むと半分を「土塁」に囲われ、中に草が生えている場所が「水の手」跡でした。「水の手」を真上から写真を撮ろうと「土塁」上まで歩むと一見「縄」かと思うモノが見つかりましたが、それは「蛇」でジーとしていましたがくねっていたので1mくらいあったのではないでしょうか。私は、思わず身を引いてあとずさりしてその場から逃避しました。一番嫌いな「蛇」に遭遇して寒イボがでました。

 

「水の手」跡 ↓

「水の手土塁」下から見上げる ↓

 

この後、「蛇」との再会を避けるべく、なるべく遠くへ離れたのですが、自分が歩いている場所(曲輪)が殆どわからなくなるパニックに陥りましたので、ここからの写真のコメントの位置が不正確かもしれません。

 

とにかく、「二曲輪」跡をだいぶ下まで下りてきたので、その周囲の曲輪群の写真を撮りまくりました。上へ戻る為に「竪堀」となった所からは両脇の「土塁」があまりにも高さがある(深い)ので、「土塁」下を廻り込みながら登って行きました。

 

「二東曲輪群」内の「横堀」 ↓

「堀底」から「土塁」を見上げる ↓

「堀底」から「土塁」を見上げる ↓

 

石が散乱している所まで辿り着いた場所が、最初にスタートした「駐車場」でしたので、再度少し西側の道で「竪堀」になっているところを下っていくと東方向へ視野が拡がる所へ出てきました。

 

「駐車場」手前の石が散乱している場所 ↓

「二西曲輪群」跡へ落ちる「竪堀」 ↓

 

そこは多分「二西曲輪群」跡と自分で納得させながら東側へ細長く延びる曲輪を進みました。細かい石が散乱している所で、「石列」との説明が施されていました。「曲輪」跡沿いに築かれた「土塁」を良く見ると内側に石が埋め込まれているのがわかります。「土塁」の補強の方策なんでしょう。

 

石が散乱している「二西曲輪群」跡? ↓

「二西曲輪群」跡?の「土塁」に「石列」 ↓

「二西曲輪群」跡?の「土塁」に「石列」 ↓

「二西曲輪群」跡?からの「虎口」脇の「横堀」 ↓

 

東側端まで進み、「城道」沿いに「二東曲輪群」沿いを再び上り「駐車場」へ戻ってきました。

 

とにかく、この「二曲輪」下の曲輪群だけでも広く、色々な防御施設の仕掛けが点在しているので、縄張り図を見ていても自分が今どの辺りに立っているのか分からなくなるくらいでした。

 

写真のコメントが間違っているかもしれませんがどうぞ大目にみてください。

 

「駐車場」からは車で下って行きながら、車道沿いの曲輪群や各種防衛施設を見ていくことにしました。

 

次回のブログ「後編」では、「弁天曲輪」跡からお届けします。

 

 

 

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9/5(木)からスタートした今夏2泊3日の「夏恒例のお城巡り」3日目、今夏城巡りの旅の9城目は「向羽黒山城(前編)」(福島県大沼郡会津美里町)です。因みに当城は「続日本100名城」です。

 

昨晩「会津若松」のホテル入りして、この日は7時40分に「ニコニコレンタカー昭和町店」へ向かいました。8時過ぎにはスタートして「会津若松市内」から南方向にある「会津美里町」に到着、麓の登城口からドンドン岩崎山に向かって上がって行きました。

 

麓の登城口 ↓

「白鳳山公園散策map」 ↓

 

8時半前には「実城一曲輪」跡と「二曲輪」跡の中間にある駐車場に到着しました。今日は、虫よけスプレーをふりかけ、クマよけ鈴をリュックに装填し、ストレッキングポールを手にして万全の態勢で車道の北側にある「実城一曲輪(本丸)」跡を目指しました。

 

ここで「向羽黒山城」の歴史と城主についてお話をしておきます。

 

「葦名氏」のお城だったのは有名で、「蘆名氏」は相模の「三浦一族」でしたが、鎌倉幕府を樹立した「源頼朝」の御家人として、多くの軍功によって会津の北部を中心に領地を得ました。

 

「葦名氏」の全盛期を築いた16代「盛氏」は、度重なる戦いで新潟県東部から会津地方全域、中通り地方のほとんどを支配下に置き、「葦名家中興の祖」と呼ばれます。そして8年の歳月をかけて「向羽黒山城」を築きました。


しかし、「盛氏」の嫡男「盛興」は、1574年に若くして病没、そのため養子を取って継がせるも家臣に惨殺、その子も病死してしまいます。「盛氏」死後は、養子問題で家中が乱れ、1589年の「摺上原の合戦」で「伊達政宗」に大敗して「芦名氏」は滅亡、会津支配400年に終止符を打たれてしまいます。

 

「伊達政宗」の領地になるも、「豊臣秀吉」による「奥羽仕置」によって1590年に「蒲生氏郷」が「会津」等の地を賜り「黒川城」に入城し、「向羽黒山城」の改修を行います。

 

その後「蒲生騒動」の勃発で「蒲生氏」が転封となり、1598年に「上杉景勝」が入城すると2年かけて大改修を施し、更に「徳川家康」の会津攻撃の報を聞くや、「景勝」は「神指城」の築城をやめ、「向羽黒山城」を対家康戦の最後の砦として考えました。

 

しかし「関ヶ原の合戦」で西軍に加担した「景勝」は、1601年に「米沢」へ移封となると当城は廃城となりました。

 

向羽黒山城」の立地と縄張りですが、まず立地は「観音山」、羽黒神社のある「羽黒山」、「実城一曲輪」のある「岩崎山」の3つの山から成ります。メインの「岩崎山」は標高408.7m、比高差は184mで、東西1.4㎞、南北1.5㎞と広大な城域があります。

 

縄張図(パンフレットに掲載) ↓

 

縄張りは、「岩崎山」の頂上に「一曲輪(実城)」を置きますが、そこが詰城の如く、東に「出桝形」の虎口、西側に数本の「堀切」を並べ、更に北側にも「横堀」と長い「竪堀」を施して守りを堅固にしています。

 

更にその北側は、西から「西曲輪群」の多くの小規模な曲輪群に続き東に向かって「二曲輪(二ノ丸)」が並びます。「二曲輪」は当時「本丸」的な位置付けだったようで、北側下には「二東曲輪群」「二西曲輪群」を配備して「虎口」や「石積み」を設け、内側には「水の手」も設えています。またその東側には長くて幅がある2本の「竪堀」によって防衛しています。

 

そこから下った北側は「大堀切」を隔てて「三曲輪」がありその辺りが「芦名盛氏」時代の遺構のようで、その東側には「盛氏」が隠居後に居住したと謂われる「盛氏屋敷」が堀と土塁に囲われて造成されていました。

 

 

さて車道から登城路に入り上って行くと、すぐ右側に頂上に向かって深くてがある「竪堀」が見られます。少し上ると今度は左手にシッカリとした「横堀」に出会います。

 

「実城一曲輪(本丸)」中心の縄張図(現地に掲出、上が北方向) ↓

車道から「実城一曲輪(本丸)」への登城口 ↓

頂上に向かって伸びる「竪堀」 ↓

南東に向かって伸びる「竪堀」 ↓

「横堀」も見られます ↓

「横堀」も見られます ↓

 

右横の「竪堀」がまだまだ続く脇を上って行くと「虎口」があり、左へ折れる桝形構造となっていて「一東曲輪」跡の西に入ります。

 

「虎口」 ↓

「虎口」の中は左折れ ↓

 

「虎口」から西向きに進み「小郭」の段部分を左手へ廻り込みながら、枡形構造の石段で上がると「小郭」に上がり、更に「小郭」の突き当りの石段を上がると「実城一曲輪(本丸)」跡に到着です。

 

「小郭」の左脇を廻り込む道 ↓

「小郭」へ上がる石段は右へ折れる ↓

更にもう一つの「小郭」先の石段を上がると「実城一曲輪」跡 ↓

 

「岩崎山」標高408.7mの「実城一曲輪(本丸)」跡からの北方向の眺めは素晴らしいです。「実城一曲輪(本丸)」跡は詰城的な位置づけですのでそれ程大きな面積はとっていません。

 

標高408.7mの「実城一曲輪(本丸)」跡 ↓

「実城一曲輪(本丸)」跡からの遠景 ↓

 

そこを直ぐに通過すると、西側には深い「堀切」が行く手を遮りますので「堀切底」まで下りて再び上がって行く行程となります。しかし、その次にも深い「堀切」が並びます。その両「堀切」からは、北側の麓に向かって落ち、途中から一本化した太い「竪堀」が下ります。

 

「実城一曲輪(本丸)」跡西側の深い「堀切」 ↓

「堀切」底 ↓

二本目の「堀切」 ↓

二本目の「堀切」底 ↓

二本目の「堀切」から「竪堀」へ ↓

 

3本目の「竪堀」に沿って車道の方へ下りていき、そして私は駐車場まで戻りました。

 

「駐車場」から「二曲輪(二ノ丸)」跡へ入る石段前には、当城の城主や関わりがあった戦国大名達のイラスト付き幟が風に靡き雰囲気が出ていましたが、その脇には「クマ出没注意!」の表示も掲出されていて、少し緊張を余儀なくされました。

 

「上杉景勝」の幟 ↓

「伊達政宗」の幟と「熊出没注意」表示 ↓

 

「二曲輪(二ノ丸)」跡へは直ぐに「虎口」があって入ることができます。そこは「実城一曲輪」跡に比べると広い敷地面積で、近世城郭の「本丸」的な位置付けで城主の居住地があったようです。

 

「二曲輪(二ノ丸)」跡の「虎口」 ↓

「二曲輪(二ノ丸)」跡 ↓

 

眺めも良く、北方向の密集地帯は「会津若松市街地」で「会津若松城天守」も見えますし、その後背には「会津磐梯山」が聳えて見えます。そばしそこで休息した後、「三日町虎口」と表示がある所から下へ下りていきました。

 

北方向の遠景では「会津若松市街地」と「会津若松城天守」が望める ↓

遠くには「会津磐梯山」が聳える ↓

「三日町虎口」と表示 ↓

 

次回のブログでは「二曲輪(二ノ丸)」の北側に拡がる多くの曲輪群等を見ていきたいと思います。

 

 

 

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9/5(木)からスタートした今夏2泊3日の「夏恒例のお城巡り」2日目、今夏城巡りの旅の8城目は「白石(しろいし)城」(宮城県白石市)です。

 

昼間に貴重な1本であった「米沢駅」13時8分発の電車に乗り「福島駅」へ向かいました。冬は雪が多いのでしょうか何か所かの駅にはトタン覆いの駅があり、特に「峠駅」では乗降客が結構いたのと、久しぶりに「駅弁売り」を見かけました。私の隣のご夫婦は「駅弁」を購入できて凄く喜んでいて写真に納めていました。

 

この日は「青春18きっぷ」使用(4回目、「左沢駅」では丸印はなかった) ↓

見にくいですが「峠駅」(スイッチバックの名残か?) ↓

 

後から知ったのですが、「峠駅」は嘗てスイッチバックの駅だったらしく「山形新幹線」が開通して無くなったとか。そういえば、トタン覆いの中に線路が違う方向に伸びているのが見えましたが、事前に良く予習しておくべきでした。

 

「福島駅」に着いて、東北本線「白石行」14時40分発まで46分もあるので、一旦駅へ出ると気温が30℃と丁度大阪では35℃位の日だったので涼しさを感じるも、「ドトール」で無性にソフトクリームを食べたくなってナメナメしながら待機しました。

 

「福島駅前」の温度計は30.4℃ ↓

「東北本線 白石行」 ↓

ホーム階段に「白石城」 ↓

 

「白石駅」に15時16分着、歩いて「白石城」を目指しました。当城には11年前に訪城していますが、駅周辺の面影は全くありませんでした。

 

それでは登城前に、「白石(しろいし)城」の歴史と城主についてお話をしておきます。

 

「白石」の地は、「後三年の役」以降から「藤原家」が治め、続いて「白石家」が居館を建てていました。

 

「豊臣秀吉」が全国統一を果たして「奥羽仕置き」による領地再編成を行った時に、「伊達政宗」から「会津若松城」と「白石城」を召し上げ、「白石城」は「蒲生氏郷」の家臣「蒲生郷成(さとなり)」に与えられて、本格的なお城造りを始めます。

 

その後「上杉景勝」の領地になり家臣を城代として置きますが、「関ケ原の合戦」の東北版「慶長出羽合戦」時の「政宗」と「景勝」との戦いで、「伊達家」が「白石城」を奪還して「仙台城」の支城とし、そこに「片倉景綱」を配置します。

 

そして、「一国一城の令」後も「伊達家」のお城として認められ、幕末・維新まで「片倉家」が城主として統治します。

 

白石城」の立地と縄張りは、河岸段丘上に築かれた「平山城」で、丘陵頂上に「本丸」を置き、北側に「厩曲輪」、西側から南側を囲うように「二の丸」を設け、更にその西側から南西にかけては「中の丸」を置き、続いて東側に「南の丸」「巽曲輪」が続きました。また、「中の丸」西側には、「沼の丸」「西曲輪」と数多くの曲輪を設けていました。

 

「本丸」東側に南北縦長の「帯曲輪」が設けられていますが、この東側には「白石川」から城内に引き込んだ水堀替りの「館堀(たてほり)川」が流れ、川越えした東側から北側にかけて「三の丸」が、更に堀を兼ねた用水路越しの東側から南側にかけて「外曲輪」が配置されていました。

 

縄張図(現地に掲出) ↓

 

私は、現在「ヨークベニマル」が建つ「三の丸」跡を抜けて「二の丸一ノ門」跡から坂道を上りました。坂途中に「二の丸ニノ門」跡の説明書きが立っていて、その門は「東口門」とも言われて現在は市内の「当信寺山門」に移築されている旨が書かれています。21年前に訪城した際に、訪れたので今回は割愛しますので、当時の写真を掲載しておきます。

 

この先が「二の丸一ノ門」跡 ↓

「二の丸ニノ門(東口門)」跡 ↓

「二の丸ニノ門(東口門)」(「当信寺山門」に移築、2003年の写真) ↓

「二の丸ニノ門(東口門)」(「当信寺山門」に移築、2003年の写真) ↓

 

坂道の左手には「本丸跡外郭石垣」と説明があり、 江戸時代に積替え工事があって「野面積み」と「切込接」の石積みの違いがそこで見ることができます。

 

「本丸跡外郭石垣」(「野面積み」と「切込接」の石積み) ↓

「本丸跡外郭石垣」(「野面積み」と「切込接」の石積み) ↓

 

坂道を上がり切った広場が「帯曲輪」跡で、真ん中に「井戸」屋形があります。「帯曲輪」跡側から見上げる天守代用「大櫓(三重櫓)」の北面は、小さな「付櫓」と一重目の切妻屋根の「出窓」が観察できます。

 

「帯曲輪」跡の真ん中に「井戸」屋形 ↓

「大櫓(三重櫓)」の北面(小さな「付櫓」と切妻屋根の「出窓」) ↓

 

「天守」と言わないで「大櫓(三重櫓)」と記載したのは、当時「仙台藩」では「仙台城」があったものの、「一国一城の令」では当城は幕府から支城として認められて廃城にしませんでしたので、幕府に遠慮して「天守」とは呼ばなかったようです。

 

「本丸」跡へ入城するに当たっては、まず復元「大手一ノ門」を通り抜け、横矢が掛かった「土塀」の出っ張りの奥に構える櫓門である復元「大手ニノ門」を潜ります。

 

復元「大手一ノ門」と「大手ニノ門」の位置(「大櫓」から) ↓

復元「大手一ノ門」 ↓

復元「大手ニノ門」前に「土塀」の石垣が出張り通路が狭くなる ↓

 

この櫓門の特徴としては、門扉が正面に付かないで右側に寄せて付けられています。敵の侵入に備えて出張った「土塀」も含めてジグザグに通行させるように仕掛けています。

 

復元「大手二ノ門」の門扉は右に寄る ↓

復元「大手二ノ門」裏側の「雁木」 ↓

 

「本丸」跡は非常に広く、「大手ニノ門」を潜ると右手に折れて「大櫓(三重櫓)」の東面を眺めることになりますが、天守台の周囲を土塀が取巻いているので四重に見え、「帯曲輪」跡から見上げた時よりもほっそりした見え方をします。

 

「大櫓(三重櫓)」の東面(四重に見えるが土塀の瓦) ↓

「大櫓(三重櫓)」の東面に付く「付櫓」 ↓

復元「大櫓(三重櫓)」(「本丸御殿」跡より) ↓

 

まずは「大櫓(三重櫓)」に入ることにしましょう。

 

「天守台」下から屋根付きの直線的な石段を上って1階に入ります。1995年に木造で復元され、「掛川城」の木造復元の翌年に建てられ、当時の木造復元ブームの推進力となりました。

 

「天守台」下から屋根付き直線的な石段を上って1階へ ↓

 

木造建造物は、木のぬくもり、暖かさを感じることができてホッとするところがありますし、資料や展示物類もあまり置かれていないのでスッキリしています。

 

「付櫓」内部 ↓

 

1階の「武者走り」「身舎(もや)」、壁の「狭間」や切妻出窓下の「石落とし」等を見ながら、中央に備えられた踊り場がある「階段」を上がります。

 

1階の「武者走り」 ↓

1階の「身舎(もや)」 ↓

1階の「狭間」 ↓

1階の「出窓下の石落とし」 ↓

 

2階の「武者走り」「身舎(もや)」を見て最上階の3階に上がると、下から見えていた「華頭窓」風の「高欄・廻縁」への出入口、東西南北の4箇所が大きく空いているので室内全体が明るく、爽やかな風が吹き抜けていきます。

 

2階の「武者走り」 ↓

2階の「身舎(もや)」 ↓

2階から踊り場を経て3階へ ↓

3階の「華頭窓」風の「高欄・廻縁」への出入口 ↓

3階の明るく風通しが良い室内 ↓

天井は「小屋組み」 ↓

 

また、出入口には「障子戸」も付いているので、開閉も可能になっています。

 

出入口の「障子戸」 ↓

 

「高欄・廻縁」に出て、これから廻る「本丸」跡、「二の丸」跡、「厩曲輪」跡などをある程度頭にインプットして下へ下りました。

 

「本丸」跡 ↓

「二の丸」跡 ↓

「厩曲輪」跡 ↓

 

「大櫓(三重櫓)」櫓台の直ぐ脇に建つ寄棟屋根の「鐘堂」ですが、当時は非常時や、堀と土手の清掃時に鳴らされたそうです。1661年に再鋳造された鐘が1870年のお城払下時に伊達郡桑折町の「傳来寺」に買い取られ、現存しているそうです。

 

寄棟屋根の「鐘堂」 ↓

 

「本丸御殿」跡には、御殿の平面図がCG写真と共に掲出されていて、「本丸」一杯に建物が建っていたのが分かります。

 

御殿の平面図 ↓

御殿のCG写真 ↓

 

 

「本丸」の南西隅と南東隅にはそれぞれ「未申櫓」と「辰巳櫓」が「土塁」上に建っていたことを示す標識が立っていました。この間は「土塁」が続き、丁度真ん中辺りに「南の丸」に出る「裏御門」があって現在でもその「土塁」が残ります。

 

「未申櫓」台 ↓

「辰巳櫓」台 ↓

「本丸」跡の南側は「土塁」 ↓

「裏御門」跡 ↓

「裏御門」脇の「土塁」 ↓

 

「南の丸」「中の丸」跡は、以前は「白石高校」でしたが、現在は廃校か移転したようです。

 

「南の丸」「中の丸」跡(「本丸」跡南の「土塁」上から) ↓

 

最後に、もう一度北側の「帯曲輪」跡に戻り、「二の丸」跡へ足を伸ばしましたが、小さい曲輪でした。「二の丸」跡と「本丸」跡の細長い敷地には「馬場」跡があります。

 

「二の丸」跡 ↓

「馬場」跡(左は「本丸」跡) ↓

「本丸」跡南西方向から見上げる ↓

 

更に北方向の「厩曲輪」「西曲輪」跡には「神明社」や「三荒神社」が鬱蒼とした森の中に建っていました。

 

「厩曲輪」「西曲輪」跡内に建つ「神明社」 ↓

「厩口門」は現存「延命寺山門」に移築(2003年の時の写真) ↓

 

「武家屋敷」は前回訪れていますので、カットして「白石駅」に向かって戻りました。しかし私は、次に乗る電車の時間を30分程早くと勘違いして慌ててしまいましたが、もう少しゆっくり周辺を廻れるところでした。

 

「白石駅」16時46分発の電車で「福島駅」へ向かい、そこで「郡山行」に乗換えて「郡山駅」に18時24分に到着しました。

 

「郡山駅」では「会津若松行」電車まで約50分の時間があったので、ゆっくりと食事がとれたので「ソースカツ丼定食」を食べて、その日使ったエネルギーを回復をしました(この日の最終歩数は約29,000歩でした)。

 

ボリュームたっぷりの「ソースカツ丼定食」 ↓

 

一昨年は、「郡山駅」に着いたものの大雨による「磐越西線」不通で、高速バスに乗って「会津若松」まで移動しましたが、今回は19時19分発の「快速あいず9号」に乗ることができました。気動車だと思っていたのが電車だったのと通勤時間帯だったこともあって満員だったことに驚きました。

 

「磐越西線」の「快速あいず9号」 ↓

 

「会津若松駅」に20時36分の到着して「ホテルα-1会津若松」に宿泊しました。いよいよ、翌日が「向羽黒山城」登城です。

 

 

 

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9/5(木)からスタートした今夏2泊3日の「夏恒例のお城巡り」2日目、今夏城巡りの旅の7城目は「米沢城」(山形県米沢市)です。

 

8時50分に「左沢駅」を乗車した気動車は「山形駅」に9時30分に到着し、すぐに「奥羽本線」の9時34分発の「米沢行」電車に乗り換えました。

 

「奥羽本線」在来線電車(米沢駅にて) ↓

 

「奥羽本線」の現在は、線路の幅を広軌にして在来線の車両と「山形新幹線」の車両が同じ軌道内を走るタイプになっています。従いまして、「山形新幹線」は1時間に1本(上下2本)が走行するおかげで、在来線の本数は極めて少なく、この9時34分を逃すと11時台まで電車はありませんでしたが、巧く乗り継ぐことができました。

 

「在来線」と「山形新幹線」は同じ軌道上を走る ↓

「在来線」と「山形新幹線」は同じ軌道上を走る ↓

.

 

「米沢駅」には10時21分に着き、そこからバスで「上杉神社前」まで移動しました。「米沢」は人気観光スポットのようでバスも満員、下車してからも車や観光バスによる観光客が多く来訪されていました。

 

ここで少し「米沢城」の歴史と城主についてお話をしておきます。

 

古くは12世紀末に「長井家」がこの地の地頭となりますが、14世紀後半に「伊達家」に滅ぼされ、「伊達家」本拠地のお城となり、「伊達政宗」はこのお城で産まれました。

「秀吉」による奥州仕置きによって、「伊達政宗」は「岩出山城」に移されたので、その後は「蒲生家」の支配地、続いて会津120万石「上杉景勝」の領地となりその家臣「直江兼続」が入城します。

しかし「関ケ原の合戦」の東北版「慶長出羽合戦」によって、西軍だった「上杉景勝」は30万石に大幅減封されて「米沢城」の城主となります。

 

その後、1644年に3代藩主「綱勝」が嗣子も養子も無く急死した為に無嗣断絶の危機になりましたが、「綱勝」の正室の父に当たる会津藩主だった「保科正之」が奔走して当時2歳だった「綱憲」を末期養子として立ててなんとか幕閣に認められました。しかしペナルティとして15万石に減封され、以降、幕末・維新まで「上杉家」が15万石で統治します。

その中で9代藩主「上杉治憲(鷹山)」は、質素倹約と殖産興業を推し進めて、藩政を立て直しました。「なせばなる なさねばならぬ何事も ならぬは人のなさぬなりけり」は、有名な「鷹山」の言葉で、これをコンセプトに実践しました。

 

米沢城」の立地と縄張りは、1608年に「上杉景勝」からお城の改修を命じられた「直江兼続」が、土塁中心の輪郭式で「本丸」「二の丸」がほぼ長方形、その周囲を「三の丸」で囲う近世城郭に大改修しました。

 

「本丸」の北西隅と北東隅の土塁上二カ所に三重の「御三階櫓」を建てて天守代用としました。「本丸」と「二の丸」の出入りは東側に内枡形の「大手門」を置くほか、外枡形の「北門」と「南門(菱門)」を置いてました。更に「三の丸」へは、東西南北に4カ所の門を設けていました。

 

松ヶ岬公園案内図(上が北側) ↓

縄張図(右が北側) ↓

縄張り絵図(現地に掲出) ↓

 

さてバスを降りてから「上杉神社」が建つ「本丸」跡までの間が「二の丸」「三の丸」跡の一部で、色々な施設、神社、銅像・碑が建ち並んでいます。

 

バス停がある「上杉城史苑」はレストランや土産店等のコミュニティパークですが、その南側には明治天皇の1881年東北巡幸の際に宿所が置かれた「行在所(あんざいしょ)遺跡」碑、14代藩主(最後の藩主)「上杉茂憲」の指導者の心得、「上杉鷹山」の座像、そして「松岬(まつざき)神社」が並びます。この「松岬神社」は、「上杉鷹山」を「上杉神社」から分祀して、「上杉景勝」「直江兼続」「細井平洲」等を合祀した6柱を祭神にした神社だそうです。

 

明治天皇の「行在所(あんざいしょ)遺跡」碑 ↓

「上杉鷹山」座像 ↓

「松岬(まつざき)神社」 ↓

 

更にこのエリア東側の芝生上には大きな近代的な建物の「伝国の杜」が建ち、米沢の歴史を知ることができる「米沢市上杉博物館」「置賜文化ホール」になっています。

 

「伝国の杜」(「米沢市上杉博物館」「置賜文化ホール」) ↓

 

いよいよ「本丸」跡に入って行きますが、「本丸」跡周囲は水を豊富に湛えた「水堀」が取巻いていて「大手口」である「舞鶴橋」を渡ります。

 

「大手口」の「舞鶴橋」 ↓

「東内堀」(「舞鶴橋」から北方向) ↓

 

入って直ぐ左手の石段を上がると大きな敷地が拡がりますが、そこが「上杉謙信祠堂」跡です。そこに、江戸時代通じて「上杉謙信」の遺骸を祀る御堂が建っていましたが、明治時代になり「上杉家御廟所」に移されました。またここには「戊辰戦争」「西南戦争」で戦死した「米沢藩将兵」を慰霊する「招魂碑」も立ちます。

 

「上杉謙信祠堂」跡 ↓

「上杉謙信祠堂跡」碑 ↓

「招魂碑」 ↓

 

ここを下りて「上杉神社」の正面の道に出ると、ここにも色々な碑や像が立ちます。

 

ここにも「上杉鷹山像」が今度は立像で立ち、その脇には「鷹山の名言」である「なせば成る、なさねば成らぬ何事も、成らぬは人のなさぬなりけり」の碑があります。この名言は、本当にいい内容で実行に移したいと思います。

 

「上杉鷹山像」立像 ↓

「鷹山の名言」の「なせば成る、なさねば成らぬ何事も、成らぬは人のなさぬなりけり」碑↓

 

そして「伊達政宗誕生の地」碑もあって、「伊達家」が元々は「米沢」を統治していたのが分かる碑です。「政宗」は青春時代までこの地で育ったようで、「秀吉」の奥州仕置きによつてこの後「岩出山城」へ移りました。

 

「伊達政宗誕生の地」碑 ↓

 

また道を挟んで北側には碑の下に大きく「天地人」と刻まれその上には「上杉景勝」「直江兼続」像が立ち並んでいます。2009年のNHK大河ドラマ「天地人」の放映に因んで立てられた像だと思います。

 

「上杉景勝」「直江兼続」像 ↓

 

道の真正面には、1876年に「上杉謙信」を祭神とした「上杉神社」が建ちます。鳥居の後ろには唐破風を付けた門、更にその奥には厳かな「本殿」が構えています。その南側には「上杉氏」の氏神で「林泉寺」の鎮守である「春日神社」が建ちます。

 

「本丸」跡に建つ「上杉神社」の鳥居 ↓

「本丸」跡に建つ「上杉神社」の唐門 ↓

「本丸」跡に建つ「上杉神社」の唐門の本殿 ↓

「春日神社」 ↓

 

「春日大社」の南側には「本丸菱門」跡があって、「南内堀」を渡る赤い「菱門橋」は遠くからでも目立つ存在の橋になっています。

 

「本丸菱門」跡(「菱門橋」から見る) ↓

「菱門橋」(「本丸」と「二の丸」を繋ぐ) ↓

 

一方「上杉神社」の北側には、「上杉神社稽照殿(けいしょうでん)」と呼ばれる宝物殿が建ち、その北西には「本丸西門」跡があり、西門の脇には「北西御三階櫓」が建っていました。当城には北東隅にも「北東御三階櫓」が建っていたので、「本丸」の両隅に二基の「御三階櫓」が建っていて、非常に珍しい構成になっていました。

 

「上杉神社稽照殿(けいしょうでん)」と呼ばれる宝物殿 ↓

「本丸西門」跡(「本丸」跡方向) ↓

「本丸西門」跡の右側に「北西御三階櫓」が建っていた ↓

 

私は「西門」跡から「北内堀」沿いに散策しましたが、「本丸北門」までの間の「北内堀」には蓮の葉が堀を元気よく乗り出して生えていました。「本丸北門」跡の城内は左折れの桝形形状になっていて、手前の「北内堀」側は「土橋」になっています。

 

「北内堀」と「北西御三階櫓台」(木々が茂っている辺り) ↓

「北内堀」と「北西御三階櫓台」(木々が茂っている所) ↓

「本丸北門」跡 ↓

 

「土橋」から見える「北東御三階櫓」台は、植木が形を整えて植わっているので櫓台の形が分かるようになっています。「本丸北門」跡から石段を上ると櫓台の上は13代藩主「上杉斉憲」が幕末の大変な時期に藩主だったことを顕彰する碑が立っていました。

 

「土橋」から見える「北東御三階櫓」台 ↓

北東隅から見る「北東御三階櫓」台 ↓

「北東御三階櫓」台に向かう石段 ↓

「北東御三階櫓」台上 ↓

「北東御三階櫓」台上に立つ13代藩主「上杉斉憲」顕彰碑 ↓

 

ここから再度「北門」跡を「二の丸」跡側に出て、「舞鶴橋」前を横切って、「二の丸」跡南側に建つ「上杉伯爵邸」へ歩を進めました。

 

「上杉伯爵邸」の門 ↓

 

「上杉伯爵邸」は、14代「茂憲(もちのり)」伯爵の本宅として1896年に建てられましたが、1919年の大火で焼失してしまいます。その後1925年に総ヒノキの入母屋造りで再建された建物が現在見られるモノで「国登録有形文化財」に指定され、庭園も見事なモノです。現在は、「米沢牛」や「郷土料理」を提供する日本料理店として利用されています。

 

「上杉伯爵邸」内にある三っ目の「上杉鷹山像」 ↓

「上杉伯爵邸」の玄関 ↓

「上杉伯爵邸」(庭園から) ↓

「上杉伯爵邸」(庭園から) ↓

「上杉伯爵邸」の庭園 ↓

 

庭園内は自由に回遊できますので、邸や庭園の写真を撮った後、先ほど見た「菱門橋」から南に残る「堀」沿いを進みました。

 

「二の丸」跡(現「米沢市児童会館」)西側の堀 ↓

 

この先のT字路の所が「南御門」があった場所のようで、その南西方向に「鷹山御隠殿 餐霞館(さんかかん)」跡の碑が立っています。この場所には、35歳で隠居した「鷹山」が38年間居住した「御殿」が建っていた東南隅辺りになるらしく、隠居後もそこに居住しながらも藩主の藩政のバックアップをしていたことが読み取ることができました。

 

「鷹山御隠殿 餐霞館(さんかかん)」跡 ↓

「鷹山御隠殿 餐霞館(さんかかん)」跡に立つ「上杉鷹山」の平面彫刻 ↓

「鷹山御隠殿 餐霞館(さんかかん)」の「御殿平面図」 ↓

 

以上で、「米沢城」並びにその周辺を巡ることができて、駅までの帰りのバスは「大町」バス停から乗る予定を組んでいました。しかし、ここから歩いて20分くらい駅から遠ざかる場所にある「上杉家廟所」へ行きたい思いもあり、「廟所」からの帰りに「御廟所西口」バス停からバスに乗れるとして行くべきだろうか、或いは当初通りにそのまま「大町」までブラブラ散策すべきかと迷いました。

 

しかし「鷹山」の名言「為せば成る、為さねばならぬ何事も・・・」の言葉を思い出し、「上杉家廟所」行きを決行しました。暑い日差しの中足早に歩き、「廟所」前に着いたのが12時07分のバス時間の15分前でした。

 

「上杉家廟所」入口(バス時間の15分前にここに到着、廟所はまだ奥でした) ↓

 

朝の「小漆川城」で迷ったように、廟所内に入るべきか断念すべきかどうか迷い、受付のおじさんに「御廟所西口」までのルートと廟所内を見てバスに間に合うか聞いてみると、もうギリギリでゆっくり見てられないから料金はいらないのでサッと見てきなさいと入らせてくれました。

 

何と心優しい臨機応変の対応をしてくれたのだろうと胸を熱くして、お言葉に甘えてサーッと見て写真だけ撮ってバス停留所に向かうことができました。

 

「上杉謙信」の御霊屋 ↓

「謙信」の御霊屋の両脇に代々の藩主の廟所が並ぶ ↓

「謙信」の御霊屋の両脇に代々の藩主の廟所が並ぶ ↓

2~8代は「社造り」、9~14代までは「宝形造り」 ↓

 

お陰でバスにも乗れ、無事「米沢駅」にも戻ることができました。

 

冒頭お話をしたように、「奥羽本線」の「福島駅」行の在来線は、乗車予定の13時8分を逃すと、次の電車は何と! 4時間後の17時44分までありません。

 

「米沢駅」の時刻表(右から3番目が「福島行」の時刻表) ↓

「米沢駅」に置かれた「米沢牛」 ↓

 

綱渡りの「米沢城」巡りでしたが、最後のおじさんの機転で「上杉家廟所」も見ることができ、いい日となりました。

 

次は「福島駅」で東北本線に乗り換えて「白石城」へ向かいます。

 

 

 

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9/5(木)からスタートした今夏2泊3日の「夏恒例のお城巡り」2日目、今夏城巡りの旅の6城目は「小漆川(こうるしかわ)城」(山形県西村山郡大江町)です。

 

「左沢楯山城」から下山してまだ列車の乗車時間まで25分くらいあったので、「小漆川城」跡とその移築門がある「巨海院」へ行こうと決意しました。時間は僅かしかないので、如何に早く歩けるかです。

 

小漆川城」の歴史と城主についてここで触れておきます。

 

「左沢楯山城」でも少し記載しましたが、1622年に山形城主だった「最上氏」が改易となったので、「庄内藩」の「酒井忠勝」の弟「酒井直次」が「左沢領」に1万2,000石で入り新たに造ったお城です。下記に「縄張り」を記載していますが、かなり城域が広く立派なお城でした。

 

しかし「直次」は、嗣子無く逝去したので「左沢藩」は廃藩となり、その後「天領」「出羽松山藩領」を経て「庄内藩領」となりお城も廃城になりました。

 

小湊川城」の縄張りは、現地案内板で詳細に記載されていましたが、「本丸」とその北西に「二の丸」を設けて周囲を堀で取り囲んでいました。

 

更に、その周囲を「三の丸」が囲い、北側に「小漆川」、南側に「うるし川」を天然の外堀とするとともに、東西には百間堀と堀を設けた守りを重視した縄張になっていました。

 

「縄張図」(現地に掲出) ↓

 

私はまず「小漆川」の北対岸から見える森になったような城跡を眺めましたが、そこは「神明社」と呼ばれる神社部分と住宅地内のようで「三の丸」跡です。

 

「小漆川」の北対岸から見える城跡(「三の丸」跡) ↓

「小漆川」の北対岸から見える「神明社」辺り ↓

 

住宅内を通る道を進むと「縄張図」が掲出されていて、更に坂道を上がって行くと大きな縄張図と説明書きが掲出されていました。その辺りが、丁度「本丸」跡の中心地だったようで、「本丸」跡と「三の丸」跡の南側方向に向けて少し高台になった所から望めましたが、殆ど周辺は住宅地になっています。

 

「本丸」跡付近 ↓

「本丸」跡に立つ立派な「説明図」 ↓

説明図が掲出された高台から望む「本丸」跡と奥が「三の丸」跡 ↓

説明図が掲出された高台から望む「本丸」跡 ↓

 

辛うじて、北側に「武家屋敷」だった場所でしょうか、城下の雰囲気が残っているエリアがありました。

 

「武家屋敷」跡? ↓

 

見るべき所が殆どなかったので、当城の「城門」が「山門」として移築されていると謂われている「巨海院」へ急ぎました。

 

「小漆川」を渡る橋から「三の丸」跡を望む ↓

 

しかしもう乗車予定列車の時間が刻々と迫っていたので足早に進み、もう少しで辿り着くところでしたが、あと5分しかなく見に行くと時間切れとなるので、断念せざるを得ませんでした。もう少し若い時でしたら、走ってでも見に行ったことでしょう。

 

「小漆川城城門」を移築したという「巨海院総門」(HP「山形への旅」に掲載の写真をお借りしました)↓

 

 

後ろ髪を引かれる思いでしたが、「左沢駅」に滑り込みセーフで8時50分発の「山形駅」行に乗ることができました。これを逃すと、その日1日の後の予定は全く成り立たなくなるのです。それについては、次回のブログで少し説明します。

 

JR「左沢線 左沢駅」 ↓

 

この日(9/6)は、「青春18きっぷ」を使用しての移動となりました。

 

 

 

 

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9/5(木)からスタートした今夏2泊3日の「夏恒例のお城巡り」2日目、今夏の旅の5城目は「左沢(あてらざわ)楯山城」(山形県西村山郡大江町)です。

 

旅館の和風朝食をいただき、6時40分に旅館を発ちました。もう北側直ぐの所には、お城がある「楯山」が断崖絶壁が迫ってきていますが、麓周辺はお城の「元屋敷」跡だった場所だったようです。

 

「楯山」の断崖絶壁の麓は「元屋敷」跡 ↓

 

JR「左沢線」の気動車が朝の通勤・通学用の為なのでしょうか、東北では珍しい6両連結で入線してくるのが見えました。

 

JR「左沢線」の6両連結の気動車が駅に入線 ↓

 

「左沢駅」西側から北に向かって伸びる舗装された坂道の自動車道を、早朝にも拘わらず汗をカキカキえんえん約20分歩いた所に「少年自然の家」がありそこから「楯山城址跡公園」へ入ります。

 

「左沢楯山城」の遠景 ↓

道の途中には「歓迎 日本一公園」の幟がなびく ↓

 

「楯山城址跡公園」は東西長い曲輪を活用して「日本一公園」と銘打っていて、そこから見下ろす「最上川」が「楯山」にぶっつかって曲線を描く光景が凄く力強さを感じさせます。

 

このお城の最大の見所(「最上川」が「楯山」にぶつかり方向を替える) ↓

 

そこで一服した後、いよいよ大きく二つある尾根沿いの縄張の南側から探索を始めますが、その前に「左沢(あてらざわ)楯山城」の歴史と城主についてお話をしておきます。

 

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で「鎌倉幕府」別当として重要な地位に就いていた「大江広元」が、1189年から「寒河江(さがえ)荘」を支配しました。「正平年間(1346~1370年)」に「大江氏」の一族である「左沢元時」が自然の地形を利用して当城を築きますが北朝方の「斯波氏」との戦いで自害します。しかしその後も「左沢氏」が約270年間この地を支配しました。

 

1584年に「寒河江城」主だった「大江高基」が「最上義光」に攻められて破れ自害したことで「大江氏」が滅亡し、「左沢」を含む「寒河江」は「最上氏」の支配下になります。

 

しかし1622年に「最上氏」が改易になると、庄内藩主「酒井忠勝」の弟「直次」が入り1624年に「小漆川城」を築城した為に「左沢楯山城」は廃城になりました。

 

左沢楯山城」の立地と縄張りは、標高112mの楯山にありますが、下を流れる「最上川」からは約110mの断崖上の220mの高さの丘陵地に築かれたお城です。

 

山頂は「八幡座」と呼ばれ物見的な「櫓」が置かれていたようです。その南側には中核的な「ゴホンマル」が築かれそこには掘立柱の建物ですが格式高い建物が建てられていました。

 

「ゴホンマル」を中心に三方の尾根には段曲輪が設けられて、東方向には「寺屋敷」と言われる敷地が拡がります。

 

西方向の「段曲輪」を下ると「蛇沢(へびざわ)」という峡谷を挟んだ尾根に曲輪群が連なります。西側から「八幡平」、現在駐車場と「楯山公園」になってる東西細長い「曲輪」が繋がり、そこから段曲輪が下りていきます。深い「堀切」を越えた所に「千畳敷」が築かれ、その南側には「畝状竪堀」を施しています。

 

この細長い尾根上の東西に長い「曲輪」の南側一帯が「断崖絶壁」になっていてその麓には「元屋敷」が「最上川」北側に拡がっていました。

 

「左沢楯山城跡図」(現地に掲出) ↓

「左沢楯山城縄張図」(現地に掲出) ↓

 

さて私は、「左沢楯山城跡公園」から東に延びる「段曲輪」を下りていきますが、どこの曲輪も夏草だらけ、その大きさや形は殆ど把握できず下へ下りていきました。ただ、北側は「蛇沢」と呼ばれる深い谷になっているし、「蛇沢」越しにはもう一つの尾根上にありこの後向かう「ゴホンマル」や「八幡座」の高い頂が見えますので北側の光景は素晴らしいです。

 

「左沢楯山城跡」碑と奥に見えるのが「ゴホンマル」「八幡座」 ↓

「左沢楯山城跡公園」がある曲輪 ↓

「段曲輪」から「蛇沢」越しに「八幡平」跡方向を見る ↓

「段曲輪」(下から見上げる) ↓

「段曲輪」(下から見上げる) ↓

 

昨日から登城してきた山城(天童城、長谷堂城そして左沢楯山城)に共通しているのは、尾根に沿って「段曲輪」が施されているということです。下から攻める敵軍を上から次々に攻撃を仕掛ける作戦なんでしょう。

 

上から四段目でしょうか、その曲輪の先端に盛土があったので櫓台かと思いきや「鉄砲場」との表示がありました。「蛇沢」を東側から上がってきた敵を狙い撃ちできるように盛られた場所です。

 

「鉄砲場」のある段曲輪 ↓

「鉄砲場」の盛土 ↓

「鉄砲場」下の「段曲輪」を見上げる ↓

 

そこから一段下の曲輪の東側に「堀切」が設けられていてその東側にある「千畳敷」と分断していました。

 

「堀切」を覗く ↓

「堀切」底 ↓

 

「千畳敷」跡は「堀切」の東側に拡がるようですが、「堀切」からかなりの高さがあるしそこへ通じる道が分からず、進軍することを断念して、「堀切」から「城道」と呼ばれている道に沿って「蛇沢」に少し入りました。

 

「堀切」奥に拡がる「千畳敷」跡へはよう行かず ↓

 

「蛇沢」は、両尾根に築かれたお城の中心を流れる沢で水源にもなっていたようで、「蛇」の様にくねって長い沢なのでそのような名前が付いたのでしょうか。「蛇沢」底を歩いて上って行くと「八幡平」辺りに辿り着くようでしたがチョッと不安でしたので止めました。

 

「城道」(「堀切」と「蛇沢」を繋ぐ盛土の道があったそう) ↓

「蛇沢」(西方向) ↓

 

「堀切」に戻り、さきほど下りてきた段曲輪を上がって行き「左沢楯山城址公園」まで戻り、「八幡平」方向への山道を上がりますと、すぐの所に南北に長い「八幡平」跡がありました。ここには当時「八幡神社」が建っていたそうで、標高206mでお城の西南部で最も高い場所だそうでした。

 

「左沢楯山城址公園」入口付近にある櫓台風の土壇(「吉峰神社」跡らしい) ↓

「八幡平」跡への道 ↓

「八幡平」跡(南方向) ↓

 

「土橋」を渡り、ドンドンすすみ「八幡座」への案内表示を見落としてそのまま「自然の家冒険コース」(後からその看板表示に書かれたその名前を知りました)を突き進んでいてその先が正に断崖絶壁で太くて長い頑丈なロープがたらされていました。

 

「土橋」(「八幡平」跡北側にある) ↓

「土橋」付近から「八幡座」「ゴホンマル」を見上げる ↓

間違って進んだ「自然の家冒険コース」の先にあった断崖絶壁 ↓

 

少しロープを伝い下りましたが、「縄張り図」にこんな場所は出てなかったな!と、登城道を間違っていることに気が付いて看板の所まで戻りました。

 

ぼんやりと通り過ごした場所に案内標識が立っていて「八幡座」を目指しなおしました。ここから今度は登りの「段曲輪」が並びます。少し広い曲輪からは、右手に出張った曲輪が見えたのでそこが「ゴホンマル」だと思い進みました。途中左手には張り出した曲輪の良く判る「切岸」を見ながら上がって行くとそこは「ゴホンマル」跡の下の段曲輪でした。

 

途中には「矢」を作る「矢竹」の群生地 ↓

「八幡座」に向かって上りの「段曲輪」 ↓

「段曲輪」(「ゴホンマル」方向) ↓

「ゴホンマル」跡方向 ↓

道沿いには「段曲輪」の「切岸」が見られます ↓

「ゴホンマル」下の曲輪 ↓

 

「ゴホンマル」跡は全面に夏草に覆われ大体の形だけが認識できました。説明書きには、この場所から格式高い建物や中国の焼き物など種々の遺物が発掘されたそうです。

 

夏草に覆われた「ゴホンマル」跡 ↓

 

この北側に向かって伸びる坂道先の一段高い曲輪が「八幡座」跡です。「八幡座」の虎口には、土留の杭が打たれいて敷地内には4m四方の櫓台がみつかったそうで、現在ではその大きさの板敷が施されていましたので実感ができました。

 

「ゴホンマル」跡脇から見上げる「八幡座」跡 ↓

「八幡座」跡 ↓

「八幡座」跡の「虎口」 ↓

「八幡座」跡に設置された「櫓台」(4m四方の)大きさの板敷 ↓

 

しばし222mの高さの「八幡座」から「左沢」の街並みを遠目で眺めつつ山中も見渡しました。この北東方向にも段曲輪があり、更には東から南東方向にかけてもまだまだ曲輪が続いていて、縄張図によると「寺屋敷」跡が拡がっつているようでしたが、そこまで行くのは断念して下山をしました。

 

「八幡座」跡から望む「左沢市街地」 ↓

北東方向に伸びる「段曲輪」 ↓

 

少し時間があったので、1622年に「最上氏」が改易になった後、庄内藩主「酒井忠勝」の弟「直次」が入って「左沢」に築城した「小漆川城」に向かいました。

 

次回は「小漆川城」をお届けします。

 

 

 

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9/5(木)からスタートした今夏2泊3日の「夏恒例のお城巡り」4城目は「山形城」(山形県山形市)です。

 

「長谷堂城」から約20分で山形城の「二の丸南大手門」跡近くにある「タイムズカーシェア」の駐車場に戻り車返却を済ませました。ここのカーシェアを選択したのも、戻って直ぐに「山形城」に訪城しようと計画を立てていたからです。

 

「山形城」には過去2回も訪城していますが、これから記載する今回のような周辺部を隈なく詳細に見たのは初めてでした。

 

それでは、まずは「山形城」の歴史と城主についてお話をしておきます。

 

1356年に、「斯波兼頼」が山形に城を築いたのが最初で、その子孫が苗字を「最上家」と改称します。

 

「最上義光(よしあき)」の時に「山形城」を拡張して近世城郭化を進め、「関ケ原の合戦」の東北版「長谷堂城の合戦」で武功をあげたことから57万石の大大名になります。

 

しかし、「義光」の孫の代に家臣の争いを収めきれず所領没収となり、「徳川家康」の忠臣だった 「鳥居元忠」の子「忠政」が入城して大城郭に改修します。

 

その後は、親藩や譜代大名の出入りが12家も続きます。特に、3代将軍の「徳川家光」の異母弟である「保科正之」が城主であった時は、20万石の立派なお城に変貌しましたが、その後入城する大名は、「幕政」で失政を行った譜代大名の左遷先となり、次々に石高の少ない譜代大名が入り、最後の城主「水野家」の石高は5万石まで減少していたので、大城郭を維持することや修築がままならない状況でした。

 

山形城」の縄張りは、ほぼスクエアな「本丸」を中心に、「二の丸」「三の丸」が堀を隔てて取り囲む「輪郭式」の縄張りです。

 

「本丸」に「天守」を設けなかったですが、入口に「本丸一文字門」を設けてその中に「御殿」を据えました。

 

「本丸堀」周囲は「二の丸」が取巻き、三隅などに「櫓」が設けられ、「二の丸」から「三の丸」へは「北不明門」「西不明門」「南大手門」、そして最も大きな「東大手門」を構えていずれも枡形構造を採っていました。

 

「縄張図」(パンフレットに掲載分) ↓

 

 

私は「二の丸南大手門」跡から入城しました。この門は両脇に石垣を施し左に折れる桝形構造になっていて、車も行き来できるだけの広さがあり、この道の先は「北不明門」跡に繋がります。門手前の両脇は「堀」になっています。

 

「二の丸南大手門」跡 ↓

「二の丸南大手門」跡の桝形 ↓

 

「南大手門」跡脇には「雁木」があり「南土塁」上を歩いて西方向に進むと「二の丸坤櫓」台が現存しています。発掘調査後に少し復元されていますが最大で4段の石積みになっています。

 

「二の丸南大手門」跡内側の「雁木」 ↓

「南土塁」上から「二の丸」跡を見下ろす(北方向) ↓

「二の丸坤櫓」台の「雁木」 ↓

「二の丸坤櫓」台 ↓

 

そこから北へ進んで左の場所には「西不明門」跡の石垣が残ります。「南大手門」跡よりは少しこぶりではありますがここも「桝形構造」となっていて、「矢穴跡」や「すだれ斫り」が施された石が多く見られました。この門に対する東側からの監視の意味で「二の丸西土塁」から「横矢が掛かり」ます。

 

「西不明門」跡 ↓

「西不明門」跡の「桝形」内 ↓

「西不明門」跡内の石の「矢穴」跡 ↓

「西不明門」跡内の石の「すだれ斫り(はつり)」 ↓

「西不明門」の監視をする「二の丸西土塁」 ↓

 

「西不明門」跡の枡形を抜けた所からは、高さと深さ共にあって良く整備された「本丸南土塁」「本丸南堀」と「本丸西土塁」「本丸西堀」が見れます。また「本丸西堀」には「埋門」跡の土壇が出張っています。

 

「本丸南土塁と南堀」(奥に見えるのが「本丸一文字門」) ↓

「本丸西土塁と西堀」 ↓

「本丸西堀」に出張る「埋門」跡の土壇 ↓

「本丸西土塁」越しに見える「霞城セントラル」のビル ↓

 

「二の丸南大手門」跡から「本丸」跡内を通り抜ける道が「二の丸北不明門」跡に伸びていますので、それに沿って北へ進みました。

 

「二の丸北不明門」跡も車の行き来ができるだけの広さがあり、ここも前述してきた門と同様に立派な「石垣」が積まれています。当門は、三の丸からは右折れの「桝形」構造になっていて、右手からも左手からも「横矢を掛けて」います。

 

「二の丸北不明門」跡 ↓

「二の丸北不明門」跡(「二の丸」跡に入ってすぐ右側) ↓

「二の丸北不明門」跡(「二の丸」跡に入ってすぐ左側の裏) ↓

 

この後私は、「北土塁」に上がりそのまま東に向かって土塁上を歩きました。「土塁」そのものはかなり高さがあります。東へどんどん進んでいくと石が並んでいる所が現れますが、それが「土塀」の礎石とのことでこのように並んでいる光景は始めて見ました。

 

「北土塁」(東方向) ↓

「北土塁」上(東方向) ↓

「土塁上」に残る「土塀礎石」 

 

左折れの先には「肴町向(さかなまちむかい)櫓」台が残り、最大5段の石積みと櫓台に上がる「雁木」「裏込石」が目にできます。

 

「肴町向(さかなまちむかい)櫓」台 ↓

「肴町向(さかなまちむかい)櫓」台と「雁木」 ↓

 

「北土塁」上を更に進むと、全国で初めて発見されたという遺構の「屏風折れ土塀」の「礎石」で、北方の防御を固めていたことが解ります。

 

「屏風折れ土塀」の「礎石」 ↓

 

「二の丸」跡の北東隅には「二の丸艮櫓」台が最大6段の石積みで雁木と共に残ります。この櫓台から「土塁」が南方向に延びますが、「土塁」東側の「東水堀」と共に「JR奥羽本線・山形新幹線」の路線が見下ろせます。

 

「二の丸艮櫓」台 ↓

「二の丸艮櫓」台と「雁木」 ↓

「二の丸」跡北東隅の「土塁」 ↓

「東土塁」から見下ろす「東堀」内を走る「奥羽本線・山形新幹線」路線 ↓

 

「東土塁」から見下ろした「二の丸」はかなり下の方に見えますので、「土塁」の高さが良く判ります。

 

「東土塁」から見下ろした「二の丸」跡 ↓

 

また「東土塁」上でも顕著に「横矢が掛かる」所があり、この場所にも「土塀」の礎石が見られました。

 

「東土塁」上の「横矢掛り」と「土塀礎石」 ↓

 

「東土塁」が終点の所に、巨大な「二の丸東大手門」が復元されています。手前からその構成建造物の「多門櫓」、控柱付の「土塀」沿いを歩いて「雁木」を下りた所が、「渡櫓門」脇の櫓台になります。

 

復元控柱付「土塀」 ↓

「土塀」前から「雁木」 ↓

 

「渡櫓門」と「高麗門」と「多門櫓」でできている大きな「桝形」は立派です。「渡櫓門」内の見学ができたようです。しかし既に16時を過ぎていたので見れませんでしたが、これだけの立派な復元「二の丸東大手門」を見れたので満足です。

 

手前「渡櫓門」と「土塀」「多門櫓」「高麗門」とでできている大きな「桝形」 ↓

「二の丸東大手門」を構成する非常に大きな「渡櫓門」(枡形内から) ↓

「二の丸東大手門」を構成する「高麗門」(枡形内から) ↓

綺麗な「すだれ斫り(はつり)」 ↓

 

「渡櫓門」の「二の丸」跡側には、暴れ馬に跨った勇壮な「最上義光像」が入城者を迎え入れてくれます。

 

復元「二の丸東大手門」(「二の丸」跡側から) ↓

復元「二の丸東大手門」(「二の丸」跡側から) ↓

「最上義光像」 ↓

「最上義光像」 ↓

 

「本丸」跡方向へ進むと「本丸東堀」沿いに、「堀」内に埋められていた1855年(安政二年)の「刻印」や「朱色文字」が施されている石垣の石が並んでいます。

 

「刻印石」の一つ ↓

「朱書き」した石 ↓

 

「本丸」跡内へ入る「本丸一文字門」手前の「大手橋」は既に時間を過ぎて通行止めになっていて「本丸」跡内に入ることができませんでしたが、「大手橋」と「本丸一文字門 高麗門」は堀越しに見ることができました。「本丸一文字門」の完成時イラストが以前から掲出されてましたが「本丸一文字櫓」の完成はいつごろになるのでしょう。

 

「本丸」跡と「本丸東堀」 ↓

「本丸一文字門 高麗門」と「桝形」 ↓

「本丸一文字門 高麗門」 ↓

「本丸一文字門 櫓門」の完成イラスト ↓

「本丸」跡と「本丸南堀」 ↓

 

夕暮れも近づいてきて太陽の光が鈍くなってきたので、最後に「二の丸」跡南東隅にあるレトロな「山形市郷土館(旧済生館本館)」の写真と、「二の丸東大手門」正面からの写真を撮って、「山形駅」へ向かいました。

 

レトロな「山形市郷土館(旧済生館本館)」 ↓

「二の丸東大手門」正面 ↓

「二の丸東大手門」正面から「山形駅」方向 ↓

 

この日はあまりにもお腹が減っていたので「山形駅」での夕食には「カルビ丼」を食べ、翌早朝の山城巡りに備えました。

 

夕食の「カルビ丼」 ↓

 

夕食後、「JR左沢線」の18時34分発「左沢(あてらざわ)」行は、通勤、通学客で4両編成の車両は満席、辛うじて座ることができたぐらいです。途中「寒河江(さがえ)」で多くの人が降りましたが、駅名は良く聞く名前でしたので人口も多いのでしょう。

 

宿泊は、「左沢駅」に2軒しかない旅館の一つで「あてらざわ温泉湯元旅館」、着いて直ぐに温泉で身体を癒しました。

 

翌朝は、「最上川」の曲線部分が良く見下ろせる「左沢楯山城」ですので、早めに就寝を取りました。

 

 

 

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