只今「城スキーのお城紀行」は、「日本100名城」のお城を順次紹介しています。

 

「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。

 

発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。

 

「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。

 

紹介していく順番は、「日本城郭協会」が北から都道府県別に振っている番後に沿って紹介しています。

 

 

重文”三十間長屋”、戸室石が美しい玉泉院丸、黒漆喰海鼠壁の鼠多門「金沢城(2)

石川県金沢市

城主と歴史、立地と縄張り

前編「金沢」で、記載していますので、こちらからご覧ください。

                     ↓

 

お城の概要と特徴

<本丸付壇>

「本丸」跡の遊歩道を進んでいくと、「本丸付壇」の入口に「鉄門(くろがねもん)」跡があります。この石垣は「切込接・布積み」の櫓台です。

 

鉄門跡 ↓

 

ここでちょっと「金沢城」の「天守」に触れておきます。

1602年に「天守」が焼失したとの記録はありますが、往時の姿は不明です。その後、城のシンボルとして「三階御櫓」が三重五階の望楼型で建てられました。白漆喰の壁で1重目は海鼠壁を施し、一重目と二重目の大屋根には曲線を描いた唐破風造りの「出窓」を設けていましたので、今まで見てきた「二の丸菱櫓」のようだったかもしれません。

 

場所は、現在の「三十間長屋」の南側に建っていましたが1759年に焼失して以降再建はされませんでした。

 

天守代用の「三階御櫓之図」 ↓

 

その「三十間長屋」は、現存で重要文化財に指定されています。切込ハギの種類の「切石積み」と呼ばれ、4~5段の美しい石垣上に、「鉛瓦」で「海鼠壁」の二重長屋が建てられていて、内側は「格子窓」と入口が並びますが、「玉泉院丸」側には格式高い「唐破風」や「入母屋破風」を付けた「出窓」が三つも並んでいます。

 

三十間長屋 (鉛瓦、海鼠壁) ↓

三十間長屋(海鼠壁と出入口) ↓

三十間長屋 (海鼠壁、出窓あり) ↓

 

「本丸付壇」から坂道を登った所には「二の丸」に続く「坂門」跡があり、「極楽橋」を渡ると二の丸跡へ戻ります。「二の丸」と「本丸付壇」の間には「堀切」のような空堀が掘られています。

 

本丸付壇(左)と二の丸の間の空堀 ↓

 

<玉泉院丸>

「三十間長屋」の裏から覗き込んだ「玉泉院丸」は、回遊式庭園の復元と御殿風の建物が建築されています。

 

「玉泉院丸」は、初代藩主「前田利長」の正室「玉泉院」が晩年過ごした場所で、死後は庭園になりました。因みに「玉泉院」は、織田信長の四女「永姫(えいひめ)」のことです。

 

庭園の壁面には、この周辺土地から算出される「戸室石」による「色紙短冊積石垣」が復元されていて、長方形や正方形などの短冊に模したカラフルな色の石を積み上げた光景には、さすが前田100万石!と絶賛せざるを得ないです。 

 

玉泉院丸庭園の玉泉庵(三十間長屋 より見下ろす) ↓

復元玉泉院丸庭園 ↓

戸室石の色紙短冊積石垣(玉泉院丸庭園内) ↓

戸室石の色紙短冊積石垣(玉泉院丸庭園内) ↓

 

現在の「玉泉院丸」には模擬「御殿」が建っていて、その入口には「鼠(ねずみ)多門」と呼ばれる立派な二重櫓門が復元されています。

 

「海鼠壁」の目地に「黒漆喰」を使用していることが特徴の「鼠多門」と、 城内最大規模の木橋「鼠多門橋」が、明治期に失われて以来約140年ぶりに復元整備され、2020年7月に往時の姿が甦りました。 

 

鼠多門(玉泉院丸)と二の丸御殿の古写真-金沢城内掲出分 ↓

古写真の鼠多門(玉泉院丸)と鼠多門橋 ↓

木造復元「鼠多門」と「鼠多門橋」 ↓

木造復元「鼠多門」(玉泉院丸内から) ↓

復元「鼠多門」の丸瓦に前田家家紋「梅鉢紋」 ↓

復元「鼠多門」の黒漆喰海鼠壁 ↓

復元「鼠多門」1階 ↓

復元「鼠多門」2階 ↓

 

「玉泉院丸」から坂を上る壁面には、金沢城で唯一黒色の「坪野石」を使用した石垣があります。「玉泉院丸」の中で見てきたカラフルな色から一転した黒色は、良く引き立ちます。

 

金沢城で唯一黒色の坪野石を使用 ↓

 

<数寄屋屋敷>

そして登り切った所に藩主の側室が住んでいた「数寄屋屋敷」がありましたが、そこの石垣は、直方体に切られた「切石積み」(切込ハギの一種)の「布積」で見栄えが凄く素敵です。

 

数寄屋敷石垣(奥方が居住した数寄屋周辺で、切石積み)

 

跡地には「旧第六旅団司令部」が明治31年に置いた木造平屋建て建造物が建ちます。その正面には、現存の「切手門」が建っています。

 

現存「切手門」、奥に見えるのが「旧第六旅団司令部」建物 ↓

 

「切手門」を潜ると、「二の丸」の裏側にあった「二の丸裏門」跡に出ます。そして、その横から「二の丸菱櫓」まで堀が設けられています。

 

「二の丸裏口門」跡 ↓

 

左側には「北の丸」と「三の丸」を結ぶ土橋に面していたので「土橋門」の名がつけられた門跡の石垣があります。「土橋門」の「切石積み(切込ハギ)」の中には、「亀甲積み」の箇所があり、水に親しむ「亀」を置くことにより防火の願いを込めていたそうです。

 

「土橋門」跡 ↓

「土橋門」石垣(亀甲形石垣が組み込まれている) ↓

 

<新丸>

「新丸」は、元々は町人の住まいや寺院が建っていた場所でしたが、お城の拡張に伴い、「大手門」から「二の丸」へ入る曲輪として整備されました。

 

現在は広大な広場になっていて、「新丸」から見上げる「二の丸」跡に復元された「菱櫓」が美しく映えます。

 

新丸全景(土橋門跡付近から)​ ↓​​​​​​

新丸から望む「二の丸菱櫓」 ↓

 

「新丸」の広い広場を横切ると、「大手門(尾坂門)」跡の石垣群に行き当たります。ここには、かなり立派な櫓門が建っていたのだろうと思われる程の石垣が並びますが、実際は「棟門」が建てられていただけでした。

 

そして、丁度下から登ってくる正面には「鏡石」が据えられています。この門の制作にあたっては、「前田利家」が在住の頃に居候をしていた「高山右近」の指導によって、「大手門」をこの「尾坂門」に移したと言われています。

 

「大手門(尾坂門)」跡石垣(大きな石垣であるが、櫓門の設置はなく棟門だけ)

「大手門(尾坂門)」跡石垣の鏡石

 

「大手門」前には、「大手堀」が横たわり、「腰巻石垣」が見られます。そして、「大手堀」のもう一方の端と尾崎神社の間には「黒門」が置かれていて、その跡の石垣が見られます。 

 

大手堀と腰巻石垣 ↓

「黒門」跡 ↓

 

「尾崎神社」の拝殿は、元は「北の丸」に建てられていた「東照宮」が移築されたもので重要文化財に指定されています。

 

「東照宮」って各所で聞かれたことがあると思います。「東照大権現」たる「徳川家康」を祀った神社であって、江戸時代には全国で約500社建てられ、現存しているのが約130社あると言われています。

 

「東照宮」(重文、現尾崎神社拝殿) ↓

 

この他、前述の「鼠多門橋」を渡った敷地が「金谷口丸」跡で、現在は前田家の藩祖「前田利家」と正室「お松の方」を祀る「尾山神社」の敷地となっています。その敷地内には「金沢城」の「二の丸御殿唐門」が移築されています。

 

「尾山神社」 ↓

移築された「二の丸御殿唐門」 (現 尾山神社山門) ↓

 

また「尾山神社」の神門は、洋風建築を模した「擬洋風建築」で中国風が混ざっていて、竜宮城のような雰囲気です。

 

「尾山神社」の神門は、洋風建築を模した「擬洋風建築」 ↓

 

また、「犀川」を渡った所にある「中村神社」には、「二の丸能舞台」が拝殿として移築されていますので、足を延ばして見学することをお薦めします。

 

「二の丸能舞台」(現 中村神社拝殿) ↓

 

日本三大名園と言われている「兼六園」は、「金沢城」の出城的な位置づけで作られたものです。今回は、「兼六園」の特徴的な写真の掲載だけをして、その他は割愛したいと思います。

 

徽軫灯籠(ことじとうろう)と霞ケ池  ↓

霞ケ池と蓬莱島  ↓

唐崎の松(13代藩主「斉泰」が琵琶湖の唐崎から松の種を取り寄せる)  ↓

雁行橋(一枚一枚が亀の甲をしている、赤戸室石を鴈が列をなして飛ぶ姿を描く)  ↓

栄螺(さざえ)山(霞ケ池を掘った土でできた山、らせん状の道が栄螺に似ているのでこの名前が付いた) ↓

兼六園内の辰巳用水(1632年に堀の水や防火用水用として11km先の犀川から引いた)  ↓

重文 成巽閣(せいそんかく) (1863年に前田斉泰の母真龍院の隠居所として竹沢御殿跡の一隅に造営された)  ↓

 

 

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こんばんは! NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」を見ましたか-!

 

戦国時代を「豊臣秀吉」と「豊臣秀長」が兄弟で手を取り合って立身出世して、天下統一事業を成し遂げていくというのが基本的なお話ですね。


今日のお話ですが、先週の冒頭で「有岡城主」の「荒木村重」の所へ「小寺(黒田)官兵衛」が説得する為に単独で「有岡城」へ乗り込むと捕らわれの身となってしまい、約1年が経過してしまいました。

 

「織田軍」は「摂津攻め」と並行して「官兵衛」を助けるべく「有岡城」を攻めますが膠着状態が続きます。こんな中「羽柴秀長(小一郎)」は調略によって「村重」の奥方から説得させて、いよいよ「村重」は投降を決意しますが、家族や家臣達を置いたまま密かに「有岡城」を抜け出して単独で逃げることに成功しました。

 

その結果、「織田信長」の命で、「村重」の奥方を始め一族が打ち首、張付けとなっていまい、「小一郎」は心を痛めます。そして「小寺(黒田)官兵衛」は足を痛めたものの助け出されました。

 

一方「秀吉」は、「竹中半兵衛」が「三木城」攻城中に病没してしまいます(先週のお話)が、「三木城」を兵糧攻めによって城主「別所長治」を切腹に導き開城させることに成功します。

 

ということで、今回は「荒木村重」の居城有岡城」(兵庫県伊丹市と、番組最後の現地紹介で放映されていた「小寺氏」の御着城」(兵庫県姫路城)を、過去に掲載したブログの中からピックアップしましたので、どうぞご覧ください。また、姫路城の中における「小寺官兵衛・羽柴秀吉」時代の石垣の写真も掲載しました。

 

先日のブログでも掲載しましたが、一昨日(6/19)から「有岡城」を舞台に、「荒木村重」と「黒田官兵衛」を中心に戦国時代におけるミステリー超大作の映画「黒牢城」が封切りされています。

 

タイミングバッチリの映画でもあるし、俳優も「荒木村重」は「本木雅弘」、その妻「千代保(テレビでは「だし」)」は「吉高由里子」、「黒田官兵衛」には「菅田将暉」等の豪華キャストということもあって、是非鑑賞したいと思っています。

 

 

 

 

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只今「城スキーのお城紀行」は、「日本100名城」のお城を順次紹介しています。

 

「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。

 

発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。

 

「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。

 

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美白効果満点の石川門や復元建造物、多種石垣が共演する100万石の「金沢城(1)

石川県金沢市

歴史と城主

「金沢城」の前身は、「金沢御堂(尾山御堂)」と呼ばれる浄土真宗の寺院ですが堅牢な要塞となっていて、一向一揆の拠点にもなっていましたが、1580年に「柴田勝家」が「金沢御堂」を制圧して、配下の「佐久間盛政」が居城します。しかし、「賤ケ岳の戦い」で「勝家」側についた「盛政」は処刑されます。

 

その後に「豊臣秀吉」の盟友であった「前田利家」が領地を引き継ぎ、豊臣秀吉政権下の働きによって、加賀、越中と能登の一部を領地として与えられ、その後息子の「利長」も大改修を行い100万石(120万石)に相応しい大城郭と城下町づくりを行っています。

 

しかしながら、「利家」死後に「利長」によって大改修したことが、「利長」が幕府=徳川家康に対する不穏の動きありとの言いがかりを付けられたので、母「まつ」を江戸へ人質として差し出し和解をしました。

 

「関ヶ原の合戦」では、「利長」は東軍について加賀での働きを認められ、加賀、越中、能登の三か国119.5万石を領有することになります。そして、1605年に「利常」に家督を譲り隠居しました。

 

「利常」の子「光高」の時に、「光常」の弟二人に対して「富山藩」と「大聖寺藩」に分割したので、石高は102.2万石となりましたが、江戸時代通じて唯一100万石を保ちました。

 

「利常」の妻「珠姫(たまひめ)」は二代将軍「徳川秀忠」の娘であったこと、その息子の「光高」は「水戸徳川光圀」の姉の姫君を妻に迎えたこと、更には、13代藩主「前田斉泰」の正室「溶姫」も、11代将軍「徳川家斉」の娘でありました。因みに、本郷の加賀藩上屋敷に建てられた溶姫御殿の正門が現在の「東京大学の赤門」で有名ですが、このようにして、徳川家との繋がりが一層強固となるように努力し続け、前田家は存続を保ちました。

 

お城の概要と特徴

<縄張り>

「金沢城」の「大手門」は、「新丸」という曲輪の入口にありますが、現在では「搦手門(からめてもん)」である「石川門」から登城するのが一般的です。

 

石川門と三の丸菱櫓 ↓

 

「石川門」と「兼六園」の間には、「百間堀」という水堀があったのですが、現在は、堀底が「百間堀通り」に変貌していて、自動車の行き来が多い道路になっています。百間というと約180mという距離になりますが、そのような幅広の水堀でお城の東側は守られていました。

 

また、「本丸」は尾山という丘の頂部にあり、「二の丸」、「三の丸」、「新丸」、「北の丸」へと雛壇状態になった「平山城」であります。

 

百間堀跡 ↓

縄張り図 ↓

 

今回は「石川門」がある「三の丸」から見ていきたいと思います。

 

<三の丸>

「本丸」を取り囲むように、東側は「百間堀」、南側は「いもり堀」が掘られていましたが、この「いもり堀」は、現在僅かな水をたたえるだけの跡地となっています。

 

いもり堀跡 ↓

 

「いもり堀」の東側と三段状になった「本丸辰巳櫓」跡の下には「鯉喉(りこう)櫓」跡の石垣が横たわっています。「本丸辰巳櫓」は、特異な形をした櫓であったそうです。

 

鯉喉(りこう)櫓跡 ↓

辰己櫓跡と鯉喉櫓跡(手前) ↓

 

次に、重要文化財である「石川門」は、高麗門と右側へ直角に折れると「渡り櫓門」が横たわり、周りを「多聞櫓」と重要文化財の「三の丸菱櫓」で囲った枡形を構成しています。この一角が、「金沢城」の最初の見所で、かつて復元建造物が整備されていない時には、当城の目玉となっていた箇所です。屋根の白い鉛瓦とすごくマッチして、美白で美しいお城のイメージが印象づけられます。

 

三の丸菱櫓(重文) ↓

石川門の高麗門(重文) ↓

石川門の渡り櫓門(重文) ↓

 

この「石川門」枡形内の多聞櫓の石垣を見ますと、正面には切込ハギが入城者の視覚を意識して積まれたらしく、その横に繋がる「自然石積み(野面積み)」と「切込み接」の両方の積み方が採用されています。

 

「金沢城」は石垣の「宝石箱や~」という程に、各所で石垣の美しさと多様さが見られますので、これからその都度ご覧いただきますので、石垣好きの方は楽しみにしてください。

 

石川門の桝形 ↓

石川門桝形内の石垣の積み方が異なる(自然石積みと切込ハギ) ↓

 

「渡り櫓門」を潜り抜けますと、広大な「三の丸」跡が開けその先には、2001年に伝統木造工法で復元された「五十間多聞長屋」が目の前に広がります。白い鉛瓦と海鼠壁を持つ美白建造物には、ウットリと見とれてしまうほど優雅であり且つ雄大さが伝わってきます。

 

左から二の丸菱櫓、五十間長屋、橋爪続櫓、橋爪門(全て復元) ↓

復元橋爪続櫓と五十間長屋 ↓

 

そして三の丸の周りには控え柱と外側に「唐破風窓」が付いた「出窓」を持ち、下部は「海鼠壁」の格式が高い現存の「土塀」が続き、いずれも造形の美しさに見とれてしまいます。

 

石川門南東に延びる海鼠壁の土塀と唐破風を付けた窓(外側から) ↓

石川門から西北側へ延びる控え柱を付ける土塀 ↓

 

右手にデーンと構える櫓門が2010年に伝統木造工法で復元された「河北(かほく)門」で、東側に広がる曲輪「新丸」から登って入城する門です。高麗門(一の門)と櫓門(二の門)と土塀で構成する桝形となっています。当門は、江戸時代には「大手門」から「新丸」を通って入城する正門として使用されていました。

 

復元「河北(かほく)門」の櫓門(新丸から三の丸への門) ↓

復元「河北門」の高麗門(向こうは新丸) ↓

復元「河北門」櫓門内部 ↓

 

元々は、「石川門」と同じように櫓が付随していたようですが、「宝暦の大火」で焼失した後は櫓ではなく土塀に飾り窓を設けた「にらみ櫓台」になったそうで、今回の復元もそれに準じたそうです。「河北門」から「新丸」を一望できる位置に建てられていたことから、「三の丸」内に入城する者の監視の役割も大きかったと思われます。

 

「にらみ櫓台」上に建つ出格子 ↓

「河北門」から「新丸」跡をのぞむ ↓

 

「河北門」のすぐそばには、2001年に復元された「二の丸菱櫓」が建ち、そこから西側に向けて復元「五十間長屋」が続きます。この中に入る為には、この長屋前の堀沿い西側へ歩を進めて、復元「橋爪門」を潜り抜けて「二の丸」側からでないと入れません。

 

復元「二の丸菱櫓」(三層三階、河北門から) ↓

復元「五十間長屋」と復元「二の丸菱櫓」(三層三階) ↓

復元「橋爪門続櫓」と復元「五十間長屋」 ↓

 

<二の丸>

復元「橋爪門」は「二の丸」の正門となっていて、堀の橋を渡り高麗門(一の門、2001年復元)、櫓門(二の門、2015年復元)そして土塀による枡形内を抜けて入城しますが、門の脇には、2001年に復元の「橋爪門続櫓」という物見櫓が睨みをきかしています。

 

復元「橋爪門」の高麗門(枡形内から) ↓

復元「橋爪門」の櫓門 ↓

 

「橋爪門」の桝形を囲う土塀には飾り窓(出し)が2箇所も付き、更には櫓門(二の門)の床には、二の丸御殿と同じように色彩豊かな「戸室石」が敷かれるなど、金沢城三御門(石川門、河北門、橋爪門)の内、最も格式が高い門でした。 

 

復元「橋爪門」の桝形内土塀に付く飾り窓(出し) ↓

復元「橋爪門」の桝形内から櫓門と「橋爪門続櫓」を見る ↓

復元「橋爪門続櫓」内部 ↓

 

ここを抜けると「二の丸御殿」が建っていた「二の丸」跡でこちらも広大な広場になっています。「二の丸御殿」跡の場所では、2021年から埋蔵調査や古写真や資料を基に整備事業に向けた基本方針を策定、設計などの復元事業が始まり2024年からは復元建築工事が進められていて、2033年に第一期工事(表向き部分)が完成予定です。

 

埋蔵発掘調査時の写真 ↓

二の丸御殿イメージ図(現地に掲出) ↓

 

「二の丸跡」から見る「五十間長屋」は、ひと際美白効果が際立ち美しさに圧倒されます。建物内部には、裏側中央から入場します。

 

復元「橋爪門と橋爪続櫓」・復元「五十間長屋」(南側から) ↓

復元「二の丸菱櫓」と復元「五十間長屋」(二の丸跡側から) ↓

復元「五十間長屋」(二の丸跡側から) ↓

 

西側の復元「二の丸菱櫓」は三重三階で、石落としは「千鳥破風」と「唐破風」の出窓形式になっています。また「菱櫓」の謂れとなっている「菱形」構造である櫓の角(かど)の角度、鈍角100度、鋭角80度となっているのを、目で確認することができます。

 

復元「二の丸菱櫓」の内部1階

復元「二の丸菱櫓」の内部 北角部で100度

復元「二の丸菱櫓」の内部 東角部で80度

 

それを確認した後は、長屋の中をまずは二階から見学して、「橋爪門続櫓」まで歩き、そこから下へ降りて今度は一階を歩いて戻ります。元々は、二の丸を守る為の建造物だったので、石落しや鉄砲狭間となる格子窓、白塗漆喰壁や海鼠壁の防火構造になっていますが、その後は武器などの倉庫として使用されました。

 

復元「五十間長屋」の二階内部 ↓

復元「五十間長屋」の一階内部 ↓

 

内部は、伝統的な木造軸組工法に加え、階段昇降機やエレベーターなどを設置し、二階まではバリアフリーとなって復元されています。

 

<鶴の丸>

「本丸」跡へは「二の丸」跡から「鶴丸倉庫」の脇を通ります。「鶴丸倉庫」は、幕末に造られた凄く大きく外壁に石板が貼られた倉庫で重要文化財に指定されています。

 

そこから本丸跡に登っていく途中右手には「本丸東の丸」跡の「野面積み」石垣が拡がっています。

 

「鶴丸倉庫」(石板を貼った外壁) ↓

本丸東の丸の野面積み石垣 ↓

 

本丸、本丸本壇、天守について>

「本丸」跡は現在鬱蒼とした森になっていて、散策路を歩きますとその端三箇所に礎石など櫓跡が残ります。「戌亥櫓」台は少し石垣を積む程度のもので、そこからは「五十間長屋」が見下ろせます。「丑寅櫓」台からは、百間堀越えに「兼六園」が眼下に拡がっています。「辰巳櫓」台は、下から見ると三段の石垣が築かれ、前述したように長屋を伴う特異な形をした櫓でした。

 

戌亥櫓台上跡 ↓

丑寅櫓台 ↓

辰己櫓台上跡(長屋を伴った立派な櫓、1759年の大火で焼失) ↓

辰巳櫓台 ↓

 

「本丸」跡の遊歩道を進むと「本丸付壇」へ向かいます。次回のブログ「金沢城➁」では、「本丸付壇」の入口には「鉄門」跡から見て行きます。

 

 

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大小無数の曲輪が配備された難攻不落の「七尾城

石川県七尾市

●城主と歴史

能登守護に任じられた「能登畠山家」が、在国の守護大名となって15世紀の始めに石動(せきどう)山系の尾根に小規模な砦を築きました。

 

7代「畠山義総(よしふさ)」の時に、戦国の城郭として縄張りが整備され、七つの尾根に拡がりました。

「義総(よしふさ)」は、室町幕府や朝廷との関係を深めて自らの権威を強化し、一方では、越後の「長尾氏」や越中の「遊佐(ゆさ)家」等とも同盟を結んで領国の政情安定に努めましたが、「義総(よしふさ)」死後は重臣たちが権力を握り、重臣同士の対立や「上杉家」の能登侵攻によって、「能登畠山家」は滅亡してしまいます。

 

その後に「上杉家」のお城になり家臣が城代として入りますが、「織田信長」の能登侵攻によって「前田利家」に与えられます。

 

しかし「利家」は、「七尾城」から山麓の「小丸山城」に移り、更に「金沢城」に移ることによって1589年に廃城となります。

 

2024年(令和6年)1月1日に発生した「令和6年能登半島地震」により、「本丸西側」「二の丸東側」「桜馬場」の23カ所の石垣が一部崩落する被害が発生しました。応急復旧はされたものの、2025年11月から10年計画で保存修理工事が進められています。

 

お城の概要と特徴

<縄張り>

標高約300mの山上から幾重にも枝分かれした大小の尾根に築かれています。七尾の地名は、特に大きな七つの尾根に由来します。七つの尾根とは、松尾、竹尾、梅尾、菊尾、亀尾、虎尾、龍尾です。

 

「本丸」が置かれている「松尾」は、東西50m×南北40mで「天守台」が最高所に置かれました。北にかけて曲輪が並び、重臣屋敷が置かれた「遊佐屋敷」、「桜馬場」、重臣屋敷の「温井(ぬくい)屋敷」、「三の丸」「袴腰・靴掛」が並んでいて、「本丸」東下に弓矢等の武具をととのえた「調度丸」を、「桜馬場」の西側、堀切で遮断した所に「西の丸」を配備していました。

 

それでは、現在の駐車場から最も近い曲輪「調度丸」からスタートして、「本丸」→「遊佐屋敷」跡→「桜馬場」→「温井屋敷」跡→「二の丸」→「三の丸」→「大塚・寺屋敷」を巡って「調度丸」に戻るルートで見ていきます。

 

七尾城復元絵図 ↓

回遊ルート ↓

 

調度丸>

「調度丸」は、戦闘に備えて武具を整えた場所だったそうです。ここには、「石塁」が残っています。この右手には、「桜馬場」の五段の石垣を見ることができ、その迫力は凄いものがあります。

 

調度丸の石塁 ↓

桜馬場の数段にも及ぶ石塁(この石塁が地震に寄り崩落している) ↓

桜馬場の数段にも及ぶ石塁(この石塁が地震に寄り崩落している) ↓

 

遊佐屋敷>

「調度丸」から石段を上がった所に「遊佐屋敷」跡が拡がります。こちらは、守護代をしていた「遊佐家」の居館が建っていました。

 

調度丸から遊佐屋敷への石段 ↓

遊佐屋敷跡(本丸の西側にあり守護代遊佐氏の居館) ↓

 

本丸>

「遊佐屋敷」跡から「本丸」へ登る石段を進みますと、低い石垣を階段状に積上げていく本丸の「三段石垣」が左手に見えます。

 

本丸への石段(左側は本丸の三段石垣) ↓

本丸三段の石垣 ↓

 

「三段石垣」の上が「本丸」跡で、本丸の最高所は「天守台」ですが、「天守」は築かれていません。ここから七尾湾と能登半島がよく見渡せる場所です。「本丸」跡は東西50m×南北40mで「二の丸」まで一連の曲輪が続きます。

 

「七尾城」を攻略した「上杉謙信」は、七尾城外で諸将と月を眺めて漢詩を詠んだそうです。「絵像に写し難き景勝」と絶賛し、「霜は軍営に満ちて秋気清し、数行の過雁月三更、越山併せ得たり能州の景、さもあらばあれ家郷の遠征を想う」

 

本丸から臨む七尾湾と能登半島(標高300m) ↓

本丸跡(東西50m×南北40m) ↓

本丸跡に立つ七尾城址脾 ↓

 

桜馬場>

「桜馬場」跡は、軍馬を調教する場所で、その北側の斜面には、「調度丸」から見上げた五段の石塁があります。

 

桜馬場跡 ↓

桜馬場内の石塁 ↓

桜馬場内の土塁 ↓

 

<温井(ぬくい)屋敷・二の丸>

畠山氏を補佐する8臣の筆頭家老であった「温井家」の「温井屋敷」跡を通り過ぎて「二の丸」跡までの間右手に「九尺石」が横たわります。これは、城の鎮護の要石で石の大きさに因んで命名されました。

 

温井屋敷跡 ↓

九尺石 ↓

 

「二の丸」跡は、「本丸」に次ぐ曲輪で、尾根の分岐点となっていて周辺に多くの曲輪が取り巻いていました。そして「三の丸」とは、大きな堀切で遮断されていました。

 

「二の丸」跡南側の石積み ↓

「二の丸」跡 ↓

 

三の丸、安寧寺>

「三の丸」跡は、南北110m×東西25mで曲輪の中で最大規模でした。「三の丸」中央部には、「築地塀」の基礎の石積みが延びていて、重臣の屋敷があったそうです。

 

「三の丸」跡 ↓

 

「三の丸」跡の次には「安寧寺」跡があり、そこは、畠山氏墓碑や戦いで亡くなった武士の慰霊碑6碑が立ちます。

 

安寧寺跡 ↓

安寧寺跡と墓碑や慰霊碑 ↓

 

<袴腰・沓掛、その他>

「袴腰」「沓掛」と呼ばれる所に出ますと、そこからも七尾湾や能登半島の遠望をのぞめます。この小さな二つの曲輪は、名前からも分かるように、登城に際してここで衣服を整えたことから命名された曲輪名で、戦国乱世にあっても名門「畠山氏」の居城らしい格式を重んじたことが分かります。

 

「袴腰」「沓掛」 ↓

袴腰からの眺望(七尾湾、能登半島) ↓

 

そこから、高度を下げて坂を下っていくと「調度丸」跡と「大塚」「寺屋敷」跡へ入る道とが分岐します。「寺屋敷」は、墓守を兼ねた僧兵が居住していたそうです。

 

「大塚」「寺屋敷」跡方向 ↓

大塚跡 ↓

寺屋敷跡 ↓

 

 

「塔上」から「調度丸」へ戻る石段、そこからは「桜馬場の石垣」は何重にも重なって見えて圧巻です。

 

塔上から桜馬場に向う石段 ↓ 

塔上から桜馬場に向う石段と桜馬場の石垣 ↓

桜馬場の石垣 ↓

桜馬場の石垣 ↓

草で覆われた桜馬場の石垣 ↓

 

「調度丸」まで戻って1周した後は、更に「百間馬場」跡があった「城山展望台」からの眺めも壮大です。

 

城山展望台からの眺望 ↓

 

<一本杉通り、小丸山城>

さて、山麓に下りると「一本杉通り」という街並みには、紅柄色の格子戸や蔵造りの藩政時代から続く店舗や、明治時代に入ってからの店舗が軒を連ねます。

 

北島屋茶店(明治37年築、紅がら色の格子戸と腕木構造) ↓

鳥居醤油店(藩政時代から続く、明治41年築) ↓

高澤ろうそく店(明治43年築、土蔵造り) ↓

一本杉通りのしら井(昆布海産物) ↓

 

この「一本杉通り」の端には、「小丸山城」跡があります。「前田利家」は「信長」から能登半島を与えられ「七尾城」を居城としましたが、不便なので山麓の平城「小丸山城」を築きます。能登水軍の本拠地にもなりました。

 

更に、「金沢城」へ移ったので、1589年には廃城となります。城跡公園には、「前田利家」と「松子」の像があります。

 

小丸山城址公園碑 ↓

小丸山城跡 ↓

小丸山城跡公園に立つ前田利家と松子像 ↓

 

 

 

 

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只今「城スキーのお城紀行」は、「日本100名城」のお城を順次紹介しています。

 

「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。

 

発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。

 

「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。

 

紹介していく順番は、「日本城郭協会」が北から都道府県別に振っている番後に沿って紹介しています。

 

 

“前田利長”隠居のお城として築かれた「高岡城

富山県高岡市

城主と歴史

16世紀中頃にこのエリアは、「神保(じんぼ)長職(ながもと)」が築いた「富山城」管轄となりますが、「上杉謙信」によって追い払われます。しかし「織田信長」の後ろ盾で、「神保家」は「富山城」を奪還しますが、その後失脚して「信長」の家臣の「佐々成政」が「富山城主」となります。

 

「豊臣政権」では「佐々成政」は肥後に移封となり、1585年に越中3郡は「前田利長」に与えられます。父の「前田利家」が死去し、「関ケ原の合戦」では東軍についたので前田家は加賀・越中・能登120万石の大大名となり、1605年に「利長」は隠居して養子の「利常」に家督を譲り「富山城」に隠居します。

 

しかし1609年の「富山城」大火災で焼失した為、一時「魚津城」に移りながら指揮を執り、「高岡城」を築城して移ります。しかし「利長」は完成を見ることなく1614年に死去し、更に1615年の一国一城の令で廃城となり、その後は破城とせず江戸時代通じて「高岡町奉行所」が置かれ管理されましたので、当時の縄張りがほぼ残ります。

 

城の概要と特徴

<立地と縄張り>

当城は、「慶長の築城ブーム」の時期に、全く元々のお城がない場所に造営された稀なお城で、未完成のまま廃城になりました。しかし、特徴的なのは人工の「水堀」で全体面積の30%をも占めています。

 

高岡古城公園絵図 ↓

 

縄張りは、「本丸」「二の丸」「三の丸(民部丸)」「朝丸」「鍛冶丸」等で、現在でもほぼ完全に残っています。

 

<本丸、小竹藪>

最大の曲輪で周囲は幅広の「水堀」で囲われています。特徴的なのは、「二の丸」から「本丸」に渡るのは「土橋」を使っていた現在も「土橋」は残り、その側面には城内で唯一石垣が見られます。

 

この石垣には、約60種ほどの刻印が見られ、一大名家のお城に見られるのは珍しいですが、多分、業務分担の為に付けられたと思われます。

 

土橋の石垣 ↓

土橋の石垣 ↓

土橋石垣内に見える刻印 ↓

 

土橋」を渡った「本丸」跡の真正面には「射水(いみず)神社」横たわります。当神社は、古来より越中総鎮守として「二上山」という山麓にありましたが、1875年に官命によって本丸跡へ遷座され、社殿は1902年に再建されたものです。

 

土橋真正面の「射水(いみず)神社」 ↓

 

「本丸」跡は、現在「射水(いみず)神社」の境内になっていていますが広大な広場になっています。ここには、「米蔵」「塩蔵」「番所」「本丸門」が建っていました。

 

本丸跡(本丸広場、北東側から) ↓

 

「本丸」跡の南西隅には、「前田利長」像が立ちます。また「天守台」は設けられていますが、建造物は殆ど建てられなかったようです。

 

「前田利長」像 ↓

 

「本丸」跡の北端から「小竹藪」という曲輪に渡る赤い橋が「朝陽橋」で、そこから見る「北内濠」「中の島」方向は非常に美しいです。

 

赤い橋「朝陽橋」と、そこから見る「北内濠」「中の島」方向 ↓

朝暘の滝 ↓

赤い橋「朝陽橋」から見る南東方向の「内堀」 ↓

「小竹藪」跡の広場 ↓

 

<二の丸>

「二の丸」は、横長長方形で南北約170m×東西70mで、当時は「利長」夫人の「玉泉院」(織田信長の4女)の館等が置かれていましたがその後は、「番人小屋」「矢来門」が置かれただけでした。現在は、市民会館や「護国神社」の敷地になっています。

 

二の丸跡に経つ市民会館 ↓

 

<三の丸>

「三の丸(民部丸)」、前述しました「小竹藪曲輪」の南東にあります。東西約130m×南北90mと東西に長い曲輪で、北から東にかけて「外堀」に囲われています。当時は、加賀藩の家老職を務めた「今井民部」の屋敷があり曲輪内には「民部の井戸」がありました。

 

現在は、「市民体育館」の敷地ですが、その南隅には「民部の井戸」の8mの井戸とその「屋形」が残ります。また、「搦手口」はこの曲輪の南東隅にありました。

 

「民部の井戸」屋形 ↓

三の丸濠(搦手口から) ↓

搦手口 ↓

 

<明丸、鍛冶丸>

「三の丸(民部丸)」から南西にかけて「明丸」曲輪があり「焔硝蔵」「火薬庫」等が置かれていました。現在は小動物園となっています。

 

明丸跡の小動物園 ↓

 

ちょっと順番が逆になりましたが「明丸」の南西には、城外から入城する際の「大手口」がある「鍛冶丸」曲輪があります。そして「明丸」と「鍛冶丸」の間には「正方形」の形をした「枡形堀」が有るほか、「鍛冶丸曲輪」の南側には「外堀」が囲っていて、冒頭お話したように「水堀」の多さを実感することができます。

 

「明丸」と「鍛冶丸」の間には「正方形」の形をした「枡形堀」 ↓

「鍛冶丸」を取り巻く「南外堀」 ↓

 

そして、そこには「高山右近」像が立っていますが、何故こんなところに「高槻城」城主でキリシタンであった「右近像」が立つかを少し説明しておきます。

 

「高山右近」像(高槻城に立つ「右近像」と全く同じ) ↓

 

「前田利家」は、キリシタンである「右近」をキリスト禁止令で追放から免れるべく「高山右近」を金沢に招き入れますが、この「高岡城」は「右近」による縄張りだとの通説がありますので、その敬意を表して像が立てられています。

 

しかし、一方でそうではないという議論もあるので紹介しておきます。

 

「縄張り」の基本構造は、「前田利長」が再建した「富山城」の縄張りを発展させたもので、「豊臣秀吉」の「聚楽第」をモデルにした縄張りではないかとも言われています。というのも、「利長」が自ら指揮したという資料はありますが、「右近」が「高岡・富山城」に関わったという資料がないのと、「右近」の「高槻城」「船上(ふなげ)城」の縄張りとは違う等という意見もあります。

 

<城下>

見どころが沢山ありますがその中でも一番は、「前田利長」の菩提寺「瑞龍寺」と「前田利長墓所」です。

 

「前田利長墓所」は、「瑞龍寺」と対の場所に有って、「内堀」の中に囲われ、墓碑は5m、総高さは11.9mと聳え立っていて、日本最大の大名墓所です。

 

前田利長墓所と堀 ↓

前田利長墓碑 ↓

墓所周りを囲う堀 ↓

 

そして、墓所からは菩提寺「瑞龍寺」までの間を約80m幅の道「八丁道」が真っすぐに延びて両脇には燈籠が並ぶ姿は壮観です。

 

「八丁道」の燈籠 ↓

 

「瑞龍寺」も「山門」「仏殿」「法堂」が県内唯一の国宝となっています。

 

瑞龍寺(山門、仏殿、法堂が県内唯一の国宝、前田利長の菩提寺) ↓

 

またそれ以外には「高岡大仏」(現在のものは昭和8年5月開眼、1745年完成・1841年に再興)も見所です。

 

高岡大仏 ↓

 

また市内には、「山町筋(やまちょうすじ)」「 金屋町」「吉久(よしひさ)」の3箇所が「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されていて、それぞれ重厚な土蔵造りの町屋が立ち並ぶ商人町、千本格子が続く日本有数の鋳物街町そして町家や、土蔵造り、妻入り商家が見られる米の集積地・物流拠点の港町と、それぞれ特徴ある町して発展したエリアとなっています。

 

 

土蔵造りの町並み(重文「菅野家」) ↓

土蔵造りの町並み ↓

土蔵造りの町並み ↓

土蔵造りの町並み ↓

土蔵造りの町並み ↓

 

 

 

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「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。

 

発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。

 

「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。

 

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戦国最強の武将と言われた上杉謙信のお城「春日山城

新潟県上越市

 城主と歴史

「春日山城」は古くは、南北朝時代(1336年~1392年)に、越後の守護大名であった「上杉家」が、現在の直江津辺りの越後府中にあった「守護館」の「詰城」として築城されました。

 

守護は「上杉家」でしたが、守護代である「長尾為景(ためかげ)」が力を持つようになり、その後は、守護を追放したり追放されたりが続く中で、「為景」は1504年~28年の間に「春日山城」の大修築を行います。

 

「長尾為景」は隠居して息子の「春景」に実権を譲り、更に「春景」は弟の「景虎(上杉謙信)」に家督を譲って、更には、関東管領であった「上杉憲政(のりまさ)」の養子となって「上杉家」を相続しました。このようにして1550年に、「上杉謙信」は室町幕府将軍「足利義輝」によって越後国主の地位を確固なものにされます。

 

「上杉謙信」は1578年に亡くなりますが、その間の70もの戦いでは負けることがなかったと言われています。これが、戦国最強の大名と言われる由縁だと思います。

 

上杉謙信騎馬像(上越市埋蔵文化センター敷地内) ↓

 

「謙信」死後は、「謙信」の2人の養子となっていた「謙信」の姉の子供「景勝」と「北条氏康」の子供「景虎」との間で、跡目争いがあり「御館(おだて)の乱」によって「景勝」が勝利し、「春日山城」の城主となります。

 

御館(おだて)跡と現在

 

「上杉景勝」は、「豊臣秀吉」政権下では五大老となって会津への国替えがあり、その後に入城した「堀秀治」は、戦国時代の山城では政務が執りにくいとのことで、現在の「直江津」に大城郭「福島城」を築きそちらへ移り「春日山城」は廃城となります。

 

福島古城公園(福島城跡) ↓

福島古城の城図 ↓

 

お城の特徴と概要

<立地と縄張り>

「春日山」という山全体を城域にした要害で、標高182mの山頂に「本丸」(実城ともいう)を置き、その周辺に拡がる尾根伝いに多くの階段状の「二の丸」「三の丸」「屋敷」等の曲輪を配置し、地形も巧みに取り込んだ複雑な縄張りを備えていたので難攻不落のお城でした。

 

更に、近接する山にも多くの支城網を巡らせ防備を固めていました。このようなお城でしたので、戦国大名も「春日山城」を攻略しようとする者がいなかったようです。因みに現在は戦国五大山城(※)の一つになっています。

(※)春日山城、七尾城、小谷城、観音寺城、月山富田城

 

「山麓部」には、「居館」や「武家屋敷」が築かれていて、「堀」と「土塁」によって「総構」を構成していました。

それでは、麓から春日山を登りながら、各曲輪やそこに点在する普請物を中心に写真で追っていきたいと思います。

 

春日山城跡案内図 ↓

 

<大手>

馬に跨る「上杉謙信像」がある「上越市埋蔵文化センター」をスタートします。途中、「大手門」跡に至る「大手道」と分岐します。まだこの辺りは平地となります。

 

大手門入口 ↓

大手門への道 ↓

 

少し坂道を上った所の真正面に現われるのが、「上杉謙信」像で、こちらは頭巾をかぶる良く見る姿です。現在茶店がある敷地には「馬場」がありました。

 

春日山への昇り道(車道) ↓

上杉謙信像(馬場跡-売店前) ↓

馬場跡 ↓

 

「馬屋」跡からの山道途中からは、「二の丸」「三の丸」の遠景をのぞめます。

 

「馬屋」跡からの山道の途中

 

<三の丸>

「三の丸」には、「謙信」の養子となった「上杉景虎」の館が建てられていたそうです。現在の「景虎屋敷跡」は木々で覆われていますが、「米蔵」跡がある敷地周囲を「土塁」で囲い、「土塁」の奥には「竪堀」で防備している遺構を見ることができます。三の丸跡からの眺めは良く、頚城平野の市街地が見下ろせます。

 

三の丸跡の上杉景虎屋敷跡 ↓

三の丸跡の米蔵跡 ↓

三の丸米蔵跡付近にある土塁、その奥には竪堀 ↓

草で覆われているが「竪堀」が下へ落ちる ↓

 

<二の丸>

「二の丸」は「三の丸」から少し上った所で、「本丸」からは一段下にあり「本丸」を帯状に取巻く曲輪になっています。「堀切」で分断した独立した曲輪になっています。ここには、台所や井戸があり、また「御二重」と記載された古図がありますので、台所的な二階の建物があったのかもしれません。

 

二の丸屋敷跡(本丸の東側を取り巻く、御二階・台所等があった) ↓

 

<本丸>

いよいよ標高180mの最高所にある「本丸」跡です。ここは「堀切」で南北に分断していて、北側が「本丸」、南側が「天守台」となっています。

 

「天守台」と呼ばれていますが、実際に建てられた記述はないそうです。「本丸」は「天守台」から少し高い場所になっていて、そこには「本丸跡」や「春日山城」の碑が立っています。

 

天守台 ↓

天守閣碑 ↓

天守台から見下ろす頚城平野 ↓

天守台から見下ろす直江津市内 ↓

本丸跡に立つ春日山城跡碑 ↓

 

井戸曲輪、屋敷> 

「本丸」の西側には敵が攻めてきても登れないような仕掛けが設けられ「油流し」と言われています。

「本丸」の裏側(西側)の少し降りた所には、非常に大きな井戸がある「井戸曲輪」になっていて、今でも水を湛えています。

 

油流し ↓

春日山城井戸曲輪の井戸 ↓

 

「井戸曲輪」跡から「鐘楼台」跡を抜けると「上杉景勝屋敷」跡、更にその奥には「柿崎和泉守屋敷」跡があります。

 

鐘楼台 ↓

上杉景勝屋敷方向 ↓

 

<帯曲輪(宗教区域、お花畑)>

「本丸」跡すぐ北下に隣接する「帯曲輪群」には「毘沙門堂」や「諏訪堂」や「釈迦堂」などの仏堂が並ぶ宗教区域であったようです。そこには、「護摩堂」風にした休憩所や、昭和6年築に復興された「毘沙門堂」が建ち、その中には「毘沙門天の尊像」が安置されています。

 

訪堂跡 ↓

護摩堂風にした休憩所 ↓

復興毘沙門堂(昭和6年築、中には毘沙門天の尊像が安置) ↓

 

そこから下り坂となり「お花畑」という曲輪があります。戦国時代のお城の中になんともメルヘンチックな名前が付いた名称ですが、薬草や献上用のお花を栽培していたようですが、現在は何の遺構も見られません。

 

お花畑 ↓

 

<直江兼続屋敷>

その下は三つの段になった曲輪がありますが、こちらが「直江兼続屋敷」跡です。「直江兼続」とは言わずとも知られた「上杉景勝」の懐刀の人物で、兜の前立てに「愛」という文字を付けて戦場に臨んだことでも有名です。

 

また、「豊臣秀吉」死後に「徳川家康」が「上杉景勝」に対して上洛を促す手紙を出したが、「家康」の政治運営への不満を、「兼続」が「直江状」という手紙で反論して「家康」に送り返したことでも有名です。「直江家」は「上杉謙信」の父親「為景(ためかげ)」の時から「上杉家」の家老を務めている家です。

 

直江屋敷跡

 

この屋敷の麓側からの入口は、「虎口」を設け、更にはいくつかの「空堀」で守られていました。この「虎口」の下には「千貫門」という門で出入りの監視を行っていました。

 

虎口 ↓

空堀 ↓

 

千貫門跡の曲輪 ↓

 

千貫門跡 ↓

 

<春日山神社、林泉寺>

 更に下っていく途中には「春日山神社」が建立されています。こちらは、明治34年に「上杉謙信」を祭神として旧高田藩士「小川澄晴」が創建したもので、米沢の「上杉神社」から分霊されました。

 

春日山神社 ↓

 

「春日山城」の山麓部に行く前に、少し北側にある「林泉寺」に立ち寄ります。「林泉寺」は、「長尾家」と「上杉家」の菩提寺です。

 

ここの惣門は、「春日山城」の「搦手門」として使用されていた遺構のようで、以前は茅葺切妻造屋根の古風な「惣門」が良く観光パンフレット等にも使用されていましたが、2016年(平成28年)に茅葺から銅板に葺き替えられてしまいました。

 

嘗ての林泉寺惣門(春日山城の唯一の遺構で搦手門) ↓

銅板葺きとなった林泉寺惣門(上越市HPからお借りしました) ↓

林泉寺山門(鎌倉時代の様式を取り入れた大正14年建立) ↓

嘗ての「惣門」と「山門」 ↓

 

平坦分まで下城して振り返りますと「春日山」が見られます。この山全体が要塞化されているのが、今までの写真で良く解ると思います。

 

春日山の遠景 ↓

 

<山麓部>

山麓部は、「上杉景勝」が1598年に「秀吉」から会津へ国替えを命じられた後に入城した「堀秀治」によって、政務が執り易い平地への居館造りが行われ、同時に一層の防備の強化を行いました。総延長1.2㎞の「監物堀」と土塁を巡らせた「総構え」によって守りを固めています。

 

現在は、復元した「東砦」の上に復興「番所」を復元したりして、復元事業が進められています。

冒頭お話しましたように、「関ケ原の合戦」で一応は戦闘が終わりましたので、やはり管理しにくい山城よりも、平地にお城を築いて領地運営をすることが優先された結果だと思います。

 

春日山城史跡広場 ↓

堅物掘(東城砦方向)と土塁 ↓

堅物掘と土塁 ↓

東城砦(とうじょうとりで、城を守るための北東端の出城の一つ) ↓

東城砦から堅物掘(総構の外堀)を臨む ↓ 

東城砦の復興番小屋 ↓

復元土塁(外周) ↓

  

 

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3匹の鯱が乗り海鼠壁の木造復元「御三階櫓」が美しい「新発田城

新潟県新発田市

●城主と歴史

「溝口秀勝」は、当初は「織田信長」麾下の「丹羽長秀」に仕えていましたが、その後「豊臣秀吉」に仕えて戦功をあげたので「大聖寺城」城主となり、更に、「上杉景勝」の会津転封に伴って、「新発田城」主となりました。

 

「関ケ原の合戦」の際には、東軍につきましたので「新発田城」を安堵され、その後には石直しによって10万石に加増され、「溝口家」は幕末・維新まで続きました。

 

新発田藩主 初代 溝口秀勝像(加賀大聖寺から6万石で入封)

 

お城の概要と特徴

<立地と縄張り>

「新発田城」は、「本丸」を中心に北の「古丸」と南側の「二の丸」に囲われています。「本丸」と「二の丸」の間には、細長い堀に囲われた曲輪があり「土橋門」で防御しています。

 

「二の丸」南側には「大手中ノ門」が建ち、その南側には重臣屋敷が置かれた広大な「三の丸」が拡がっていて、その最南端には外枡形の「大手門」が置かれていましたが、土塁で囲われた枡形でした。

 

縄張図 ↓


 

<本丸>

「二の丸」から「本丸」へは、前述のように細長い堀に囲われた曲輪に築かれた「土橋門」を通り抜け、「本丸表門」から入ります。

 

帯曲輪と土橋門跡土塁(表門から臨む) ↓

本丸石垣と帯曲輪土橋門側間の堀、石垣は350m続く ↓

 

「本丸表門」は下部に「海鼠壁」を施し、入口前後には瓦の庇を設けて「石落とし」を装備していて重要文化財に指定されています。

 

重文「本丸表門」(「海鼠壁」が綺麗) ↓

重文「本丸表門」 ↓

重文「本丸表門」の両面には瓦庇が付く ↓

重文「本丸表門」の櫓部分(表側=右には石落とし) ↓

重文「本丸表門」脇の雁木 ↓


 

「本丸」の敷地は不整形な形をしていて四隅に櫓が置かれ、その中で最も大きな櫓が「御三階櫓」として天守の役割を果たしていました。

 

2004年(平成16年)に木造復元された特徴のある天守代用「御三階櫓」は「付櫓」が付随する「複合型天守」、日本で唯一の3匹の鯱が乗った「丁字屋根」であり、壁の下部は冬の凍結による亀裂防止として「海鼠壁」が採用されていて、とても美しいです。また「天守台」は綺麗な「切込接・布積み」で積まれています。

 

御三階櫓(三匹の鯱を配する珍しい屋根) ↓

御三階櫓(本丸側から、付櫓が見える) ↓

御三階櫓(最上階と三匹の鯱) ↓

御三階櫓(一階の海鼠壁) ↓

 

「鉄砲櫓」台には「旧二の丸隅櫓」が現存移築されています。二重二階の「旧二の丸隅櫓」も下部に「海鼠壁」を施し、瓦上には破風は一切なく、白壁の窓上には「長押」を設えています。こちらの櫓台も、綺麗な「切込接・布積み」で積まれています。

 

本丸鉄砲櫓台に移築された重文「旧二の丸隅櫓」(土橋門跡付近から) ↓

本丸鉄砲櫓台に移築された重文「旧二の丸隅櫓」 ↓

旧二の丸隅櫓(2階部分) ↓

 

また、前述の「御三階櫓」と同年に木造復元された「辰巳櫓」は窓の上下に長押(なげし)を表し、一重目の外側2箇所には「切妻出窓」を採用した白漆喰総塗籠の外観になっています。

 

復元本丸辰巳櫓(表門前付近から) ↓

復元本丸辰巳櫓 ↓

復元本丸辰巳櫓内部(2階部分) ↓

 

また、「本丸御殿」の古写真が残っていますが、屋根は全て杮葺きになっていたようです。「本丸裏門」からは古丸に繋がる門と橋があり、古丸の中には「乾櫓」と「丑寅櫓」2基が置かれていたようです。

 

<二の丸>

本丸の北側、北古丸、二の丸の一部は、現在は「新発田陸上自衛隊駐屯所」敷地になっていますので、「御三階櫓」内には入ることができず、遺構の一部も見ることができないのが残念であります。(自衛隊祭りの際には、内部の公開があるようです)

 

本丸 折掛櫓跡方向(本丸辰巳櫓から臨む) ↓

本丸裏門方向から二の丸跡(新発田陸上自衛隊駐屯所兵舎) ↓

二の丸跡(現在 新発田城跡公園) ↓

 

二の丸から三の丸内にあった門跡や櫓跡については、案内表示板が各所で立てられているので、凄く当時の位置関係が判りやすくなっているので、この場所は江戸時代にはどんなんだっただろうと想像ができます。

 

二の丸 大手中ノ門脇櫓跡(左側が旧中央病院跡) ↓

二の丸東櫓跡(二階建てだった、現中央病院跡) ↓

二の丸 西櫓跡付近(二階建て) ↓

大手門跡(高麗門と櫓門から構成、現警察署付近) ↓

大手櫓跡付近(大手門を守る役割、現警察署付近) ↓

 

<城下町とその周辺>

「新発田城」下にある「清水園」は、三代藩主「溝口宣直」が下屋敷を造営したもので、「清水谷御殿」を置きました。

 

清水園(園門、新発田藩下屋敷庭園) ↓

現存 清水谷御殿の式台 ↓

現存 清水谷御殿内の上段の間(国指定の名勝) ↓

現存 清水谷御殿(書院への廊下) ↓

 

四代藩主「重雄(しげかつ)」の時に、江戸の庭師「縣(あがた)宗和」を招いて、近江八景を採り入れた京風の池泉廻遊式庭園を作庭させました。中央には、草書体の「水」の字を描いた「大泉池」が配されています。現在は、国指定名勝となっています。

 

庭園内には、「寄棟造杮葺平屋建て」の書院「清水谷御殿」が現存するほか、池の周りに5つの茶室も点在しています。

 

茶室は、「桐庵(とうあん)」「夕佳亭(ゆうかてい)」「翠涛庵(すいとうあん)」「同仁斎(どうじんさい)」「松月亭(しょうげつてい)」で、それぞれの趣きが異なります。昭和20年代に、荒廃した庭園の修復工事と併せて、茶人の「田中泰阿弥」が、「清水谷御殿巻物」や古記録に基づいて築造したものだそうです。

 

清水園 池泉回遊式庭園 全景 ↓

清水園 回遊式池泉庭園(「水」の草書体を表す大池泉) ↓

清水園 茶室(夕佳庵) ↓

清水園 茶室(同仁斎) ↓

清水園 茶室(翠涛庵) ↓

清水園 茶室(松月亭) ↓

清水園 茶室(桐庵) ↓

 

また園内にある100年以上も前に建てられた「米蔵」は、且つては米1万俵が積まれたという蔵で、私が訪問した時はまだ郷土資料館として使用されていて、天井の高い建物でありました。現在は「米蔵ココロ」というレストランとなっています。

 

清水園内 米蔵(現 レストラン) ↓

清水園内 米蔵(郷土資料館当時の内部) ↓

 

「清水園」の北側には「三の丸知藩庁門」が移築されていて、「薬医門」型式の立派な門です。

 

三の丸知藩庁門(清水園に移築、表から) ↓  

 

「清水園」の入口付近には、茅葺平屋建で八間長屋の重文「旧新発田藩足軽長屋」が建っています。1842年に建てられた、足軽長屋としては非常に貴重な建物です。

 

重文 新発田藩足軽長屋(往時は北長屋と称していた) ↓

重文 足軽長屋(畳二室、板の間一室、踏込み土間、炊事場) ↓

重文 足軽長屋(表側、三間×二十四間、茅葺) ↓

 

また、「三の丸」にあった江戸後期の武家屋敷「石黒家」は、近くに移築復元されていて、上記下屋敷、庭園、足軽長屋とともに、この界隈は江戸時代の歴史を感じられる一帯となり、閑静なエリアになっています。

 

武家屋敷「石黒家」(市指定文化財、三の丸近くに建つ石黒家70石の居宅) ↓

 

そしてもう一ケ所、江戸を感じることができる国指定名勝の「五十公野(いじみの)御茶屋」は、ここから少し離れていますが、五十公野公園の中に遺ります。ここは、藩主「溝口家」の別邸で茶寮として使用されていました。

 

初代藩主「溝口秀勝」は「新発田城」に入るまで、ここを居城としていました。また、「溝口家」が参勤交代をする際には、新発田城内からここまでは盛装して行列を整え、ここで旅支度をしてから出立したそうです。庭園もあり、こちらは「心」の字の池が横たわっています。

 

五十公野御茶屋(数寄屋造りの建物、全般に木柄が細く簡素繊細) ↓

五十公野御茶屋 ↓ 

五十公野御茶屋の庭園(池泉回遊式、心字の形の池) ↓ 

五十公野御茶屋 座敷棟内 ↓

五十公野御茶屋 控えの間の床の間 ↓

 

「新発田城」は、木造復元の天守代用「御三階櫓」に鯱が3匹乗っていたり、現存の「下屋敷御殿」があったり、国名勝の庭園やら茶室や茶寮があったりと、興味をそそる物件が豊富にありますので、凄く魅力的でワクワクできる城下町であると思います。

 

 

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只今「城スキーのお城紀行」は、「日本100名城」のお城を順次紹介しています。

 

「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。

 

発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。

 

「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。

 

紹介していく順番は、「日本城郭協会」が北から都道府県別に振っている番後に沿って紹介しています。

 

 

春にコヒガンザクラで埋め尽くされる天然の要害と馬出的曲輪が取巻く「高遠城

長野県伊那市

歴史と城主

築城したのは諏訪家一族の「高遠家」で、戦国時代中期までの約200年間統治していましたが、「武田信玄」による「諏訪家」攻略によって1545年に落城します。

 

その後「信玄」は、伊那や木曽を攻める拠点として「山本勘助」等に拡張修築を命じ、武田風のお城造りが行われます。「武田家」の持ち城となり、城主には、武田家配下「秋山信友」「仁科盛信」等や「武田勝頼」も城主となります。

 

そして織田軍や徳川軍の攻略によって「徳川家」のお城となり、「家康」配下の「保科(ほしな)正直」が城主となりました。

 

江戸時代に入り、「保科正光」が初代藩主となり、二代将軍「徳川秀忠」の隠し子「保科正之(後の松平正之)」を嗣子として迎え大切に育てられました。そのことを知った三代将軍「徳川家光」は「正光」を優遇し、「保科正之」を加増させて「山形城」へ移封させています。

 

一方、「保科正光」の弟「正貞」が世子となっていましたが、「正之」が「保科家」を継いだことから、幕臣に取り立てられ、別家を興し「飯野藩」藩主として「飯野陣屋」を築きます。この家の領地の半分が摂津にあり「大坂定番」を良く務めたので、大阪府豊中市の浜に陣屋(浜陣屋)を設けていました。

 

建福寺山門(保科家の菩提寺) ↓

諏訪御料人(武田勝頼の母)の墓(建福寺内) ↓

保科正光(左)、保科正直(右)の墓(建福寺内) ↓

 

その後に入城したのが、「関ケ原の合戦」で「伏見城」を最後まで死守した「鳥居元忠」の孫「忠春」ですが、「鳥居家」は諸事件によって改易されます。

 

一時天領となりますが、1691年に「内藤清枚(きよかず)」が藩主となって以来、幕末・維新までは「内藤家」のお城となります。

 

「内藤家」は幕府内の業務に多く携わり、特に1714年には、江戸城大奥御年寄「江島」による歌舞伎役者「生島新五郎」への密通事件であった「江島生島事件」に関わり、流罪にされた「江島」の身柄を預かりました。現在は、お城近くに「江島囲み屋敷」が復元されています。

 

復元の「絵島囲み屋敷」 ↓

絵島囲み屋敷玄関と台所 ↓

 

お城の概要と特徴

<立地と縄張り>

「高遠城」の立地は、二つの川に挟まれた天然の要害である崖上に築かれています。

 

「本丸」は土塀に囲われ、真ん中には「御殿」が建ち、絵図では「巽櫓」「角(すみ)櫓」の2基と「櫓門」を含む「城門」が4基あったようです。その周囲は一部「水堀」でしたが殆どは「空堀」で囲われた「内堀」が備わっていました。

 

城図(郭図、現地に掲出、下が北方向) ↓

 

<本丸>

現在の「本丸」跡へは、「桜雲橋(おううんきょう)」によって「内堀」を渡ると、城下の「問屋役所」から「本丸門」跡に移築された「問屋門」が建ちます。

 

春になりますと、「本丸」跡から周囲までもピンク色が濃い「コヒガンザクラ」に覆われて、多くの観光客が訪れるスポットとなります。

 

桜雲橋(おううんきょう)と問屋門(本丸門跡に移築) ↓

本丸門跡に移築した問屋門(城下の問屋役所の門) ↓

本丸跡、コヒガンザクラの木々が一杯 ↓

コヒガンザクラ満開時の「桜雲橋」(長野伊那谷観光局HPよりお借りしました) ↓

本丸土塁跡 ↓

 

また「太鼓櫓」が「南隅櫓」跡に当城のシンボルとして建っていますが、廃城後別の場所へ移築されて時を告げていたようです。その後再度城内に移築されて、現在のモノは1913年に再築されましたが、中には太鼓はありません。

 

太鼓櫓(現在の物は1913年築で太鼓はない) ↓

 

<二の丸>

「二の丸」は、「本丸」の南から東側に築かれ、「二の丸」最大の出入口だった「二の丸門」跡から入城します。

 

二の丸門跡(木橋があり棟門、桝形、櫓門と続いた)

 

入ってすぐ左手には、「高遠(たかとう)閣」という元々集会所や観光客の休憩所として1936年(昭和11年)に建てられた木造二階建の建造物があります。入母屋鉄板葺(当初は杮葺の大型建造物)で「登録有形文化財」に指定されています。

 

二の丸跡に建つ「高遠閣」(登録有形文化財)

二の丸土塁跡

二の丸東側の土塁と空堀

 

<本丸周囲の曲輪群>

「本丸」の南側には「保科正之」と「静の方」が居住していた「南曲輪」が、更に西側に「笹曲輪」、北側には「山本勘助」が設計したとの言い伝えがある「勘助曲輪」が築かれていて、そこは現在駐車場となっています。


南曲輪跡(保科正之と静の方が居住、本丸とは堀内道で繋がっていた) ↓

勘助曲輪跡(現在グランド駐車場、本丸から) ↓

 

また、「法幢院(ほうどういん)曲輪」は、「南曲輪」から「土橋」で繋がりますが周囲は空堀で囲われていて、まるで「馬出」のような機能を持っていたようです。

 

法幢院曲輪跡(馬場があった、その昔は法幢寺があった)内の歌碑 ↓

二の丸跡と法幢院曲輪跡の間の空堀 ↓ 

 

「二の丸」周囲には「土塁」と「外堀」が築かれ「三の丸」と分断させています。

 

二の丸跡(右)と三の丸跡(左)の間のU字型空堀 ↓

三の丸跡から二の丸跡に入る脇の空堀 ↓

 

<三の丸、その他>

「三の丸」は、北側から西側にかけて大きな面積をとっていて、こちらに家老屋敷を含む武家屋敷、藩校「進徳館」、「土蔵」などが置かれていました。

 

「三の丸」南側には、石垣を持つ「大手門」が置かれ、北側には「馬出」を伴った「搦手門」が備わり、武田流のお城造りの一端を見ることができます。

 

現在、南側から「三の丸」跡へ入る場合は、かなり長いつづら折れの坂道を登っていきますが、上りきった所には「大手門」跡の石垣を見ることができます。

 

大手門坂 ↓

大手門坂と「高遠城下」 ↓

大手門跡付近から見下ろす「高遠城下」 ↓

大手門跡石垣(枡形、正保年間に西側に変わった) ↓

 

そこから少し北側に歩いた所に、元「高遠高校」であった敷地の正面に「大手門」が移築されていますが、現在は門柱を切断して低くなっています。

 

大手門跡から続く三の丸石垣 ↓

大手門(櫓門だったが薬医門に改築、高遠高校の正門として使用されていた) ↓

大手門(元高遠高校校門として使用) ↓

 

更に緩い坂道を上った左側は、藩校「進徳館」があります。「正門」と「玄関」、「東西2棟」が現存している他にも、復元されている建物含めて見学することができます。

 

進徳館の校門と寄宿寮式台(国史跡、藩主内藤頼直が1860年に創設) ↓

進徳館寄宿寮の式台と脇玄関 ↓

進徳館東西2棟は現存(全部で8棟あった) ↓

進徳館(手前から第一教場、第二教場、生徒控所) ↓

進徳館の教場と学監詰所

 

「三の丸」の「搦手門」跡は現在殆ど遺構らしきものはありませんが、その「搦手門」は、長野県岡谷市湊にある「久保寺(きゅうほうじ)山門」として移築されています。 

 

搦手門跡付近(搦手門は久保寺山門に移築) ↓

高遠城搦手門(久保寺山門に移築、長野県岡谷市湊) ↓

 

また、「信州高遠美術館」の脇には、三階建ての城郭建築が建ちますが、少し滑稽なお城風の建物です。

 

模擬城郭(信州高遠美術館内) ↓

 

色々とエピソードの多いお城

①武田風のお城づくりで「山本勘助」が活躍

②「徳川秀忠」の隠し子「保科正之」の養育の城

③「保科家」の元々の世子が別家を興し「飯野藩主」に

④江戸時代中期に生じた「江島生島事件」で流罪にされた「江島」の身柄拘束

 

公共交通機関では、なかなか行きづらいお城ではありますので、コヒガンザクラが満開の時に桜見の観光バスで行くのも良いですが、シーズン以外に訪問して、「高遠城」の武田流の曲輪配置と空堀、及び遺構として残る大手門や藩校等をゆっくりと観察するのもいいものです。

 

コヒガンザクラが咲き乱れる高遠城(長野伊那谷観光局HPよりお借りしました) ↓

 

 

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こんばんは! NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」を見ましたか-!

 

戦国時代を「豊臣秀吉」と「豊臣秀長」が兄弟で手を取り合って立身出世して、天下統一事業を成し遂げていくというのが基本的なお話ですね。


今日のお話ですが、先週の最後に「有岡城主」の「荒木村重」が「信長」を裏切ったとの情報が入ったことから、「小寺官兵衛」は「村重」を説得する為に単独で「有岡城」へ乗り込むと、捕らわれの身となってしまいました。

 

独断で入城したことで「官兵衛」が裏切ったとの噂が流され、「信長」は「長浜城」で「寧々」が人質として預かっていた「官兵衛」の息子「松寿丸」を殺害するよう「秀吉」に命じました。

 

この命に対して「羽柴兄弟」は戸惑いますが、「竹中半兵衛」は策を講じて、「松寿丸」を自分の城「菩提山城」に隠すことによって「信長」に対しては偽装した首を届けます。

 

「半兵衛」が「長浜城」から「松寿丸」を連れだすまでの、「寧々」を始めとした女性陣による城内でのドタバタが面白く描かれていました。

 

そして「秀吉軍」が、「毛利方」に寝返った「別所長治」のお城「三木城」攻めに、「半兵衛」が最後の調略で「毛利方」の「宇喜多直家」を「織田方」に寝返らすことで「三木城」を攻め落とし、最後まで戦いに参加していた「半兵衛」は戦場で亡くなり涙を誘うシーンとなりました。

 

この「三木城攻め」は、「三木の干殺し」とも言われ、兵糧を絶つ戦法を行ったことで有名ですが、今回は「三木城」の周囲に多くの出城を築いていた事が触れられていただけでした。

 

ということで、今回は「竹中半兵衛」が病気で倒れて命を落としながらも策略を講じて落城をさせた三木城」(兵庫県三木市を、過去に掲載したブログの中からピックアップしましたので、どうぞご覧ください。

 

 

 

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只今「城スキーのお城紀行」は、「日本100名城」のお城を順次紹介しています。

 

「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。

 

発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。

 

「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」「立地と縄張り」を説明した後に、「縄張り毎に建つ現在の建造物や普請物の遺構」を私が今まで撮ってきた沢山の写真を使って紹介していきたいと思います。お城によっては、城下町などの風情もお届けしていきたいと思います。

 

紹介していく順番は、「日本城郭協会」が北から都道府県別に振っている番後に沿って紹介しています。

 

 

“大天守”中心に五基の建造物群が“国宝”に指定されている松本城➁

長野県松本市

 

城主と歴史、立地と縄張り

前編「松本城➀」で、記載していますので、こちらからご覧ください。

                     ↓

 

縄張り図(パンフレットより) ↓

 

本日「松本城➁」では、天守群以外の「本丸」跡から「二の丸」「三の丸」「城下」を見て行きたいと思います。

 

主郭部の縄張図 ↓

 

<本丸と若宮曲輪>

「天守群」は「本丸」の西側に位置しており、その東側には「本丸御殿」が建っていました。

 

本丸御殿跡(月見櫓から)

本丸御殿越しの国宝「天守群」 ↓

本丸御殿跡

 

「本丸」の出入口は、メインが高麗門と櫓門で形成された枡形門の「黒門」、「本丸」北側には「北裏門」を構え、西側には「埋門」を置き、現在は真っ赤な橋が架けられていますが、当時は「足駄塀」が建っていました。この橋は、緊急時に塀を倒して「浮き橋」として使用することが可能で、幕末まで残っていたそうです。

 ※「足駄塀」とは、堀を区切るような塀が堀内に建てられたモノ。堀内に何か所もの杭を打って、その上に横木を渡して、更にその上に板塀を設置したもの。現在の赤い「埋橋」は、「天守」群の黒と相まって美しいですが、全くの模擬橋です。

 

埋門と埋橋

埋橋(天守から)

 

「埋門」を渡った右手に見える島状の曲輪が「若宮曲輪」跡です。嘗てここには「松本城」の鎮守である「若宮八幡宮」が祀られていた曲輪せす。

 

「若宮曲輪」跡と天守群 ↓

 

 「黒門」は、「本丸」と「二の丸」を繋ぐ門で、「渡櫓門(一の門)」が1960年に復元、「高麗門(二の門)」は1989年に復元された「枡形門」です。

 

出桝形の復元「黒門」 ↓

黒門正面の復元「高麗門(二の門)」 ↓

黒門正面の復元「渡櫓門(一の門)」桝形内から ↓

復元「渡櫓門」(本丸側から) ↓

 

<二の丸>

「黒門」を出ますと「二の丸」が「本丸」の東・西・南側を取り巻くような敷地になっています。「黒門」を出てすぐ左手の現在「市立博物館」の場所が「古山寺御殿」跡で、藩主の私的な生活空間用の御殿として存在していました。

 

古山寺御殿跡(現市立博物館) ↓

 

「二の丸」は、「古山寺御殿」の内堀越し北側に位置し、政庁と居所を兼ねた「二の丸御殿」が建てられていましたが、現在は御殿配置が判るようにプレートが配備されています。

 

二の丸御殿絵図 ↓

二の丸御殿の平面表示 ↓

二の丸御殿の平面表示 ↓

 

そして「二の丸」の北東隅には、「金蔵」が当時のままの姿で現存しています。「二の丸」唯一の現存城郭建造物です。

 

二の丸金蔵(現存、北東から) ↓

二の丸金蔵(現存、入口扉) ↓

 

「二の丸」の四隅、外堀沿いには「丑寅櫓」を始め「辰巳櫓」「未申櫓」「戌亥櫓」の四櫓が二重で構えていました。

 

二の丸丑寅櫓跡  ↓

二の丸裏御門橋 ↓

外堀(二の丸裏御門橋から西方向) ↓

外堀(二の丸東側)と二の丸土塁 ↓

 

「二の丸」と「三の丸」の行き来は、「太鼓門」を通行することになり、枡形形式で櫓門の脇には入城者に威圧感を与える目的の「鏡石」である「玄蕃石」が嵌め込まれています。当門も1999年に復元されています。

 

太鼓門の復元「高麗門(二の門)」 ↓

太鼓門の復元「高麗門(二の門)」桝形内から ↓

復元二の丸太鼓門の渡櫓門(一の門)桝形内から ↓

巨大な「玄番石」 ↓

復元二の丸太鼓門の櫓門(一の門) ↓

「太鼓楼」が建っていた「楼台」 ↓

 

<三の丸>

「三の丸」は、作事所と呼ばれる建築工事用の資材置き場となっていて、その北側には寺社を置きました。また、南側一帯には武家屋敷が拡がっていました。また、「三の丸」の周囲には「総堀」が掘られ、四か所に「馬出」を設け、いざという時の備えを行いました。現在はその「総堀」の一部が、三の丸の北東部分に残っています。

 

総堀(北側部分、南方向) ↓

総堀(南側部分、南方向) ↓

 

また「総堀」沿いの「土塁」も一部残っていたり、整備された所が見られます。

 

木が茂る下が残る「土塁」(北馬場柳井戸付近から) ↓

木が茂る下が残る「土塁」(市役所東側) ↓

整備された「西総堀土塁」 ↓

 

「お城」の北側では、水が豊富に湧き出る「井戸」が門脇などに掘られています。また、「総堀」に対して構えられた「馬出し」は現在殆ど見られませんが、一部「土橋」が残っている所もあります。

北門大井戸 ↓

「北門」の「馬出し」の土橋を利用した道 ↓

北馬場柳井戸 ↓

 

「大手門」跡は通りのど真ん中にあり、現在は道路が蛇行しているのが当時の桝形跡だということが解る以外は、全く面影がなく説明書きでのみ認識できます。

大手門跡付近 ↓

 

<城下周辺>

「松本城」の周囲、特にお城の南側を中心に残る昔の面影を色々と訪ねていきます。

 

「中町通り」は、「善光寺街道」沿いにあって、酒造業や呉服などの問屋が集まり栄えた通りでしたが、江戸末期や明治にかけて大火に見舞われました。その後、主に明治時代に、火災から守る為の「なまこ壁の土蔵」が建てられて、現在に至っています。

 

中町通りの海鼠壁土蔵 ↓

中町通りの海鼠壁邸 ↓

中町通りの街並み ↓

中町通り 青翰堂書店 ↓

中町通り 蔵風店舗 ↓

 

また、「なわて通り」は、「中町通り」から「女鳥羽川」を挟んだ対岸にあり、川に沿った細長いエリアで、昔の町並みを再現した下町情緒溢れる商店街となっています。

 

女鳥羽川となわて通り ↓

なわて通り ↓

 

そこから少し足を延ばしたところには、「旧開智学校」が保存されています。こちらは、明治時代初期の洋風校舎で重要文化財に指定されています。 

 

旧開智学校(国宝) ↓

 

松本は、国宝のお城だけでなく、城下にも多くの必見の価値ある通りや建物がある素晴らしい街です。

 

 

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