9/5(木)からスタートした今夏2泊3日の「夏恒例のお城巡り」3日目、今夏城巡りの旅の9城目は「向羽黒山城(前編)」(福島県大沼郡会津美里町)です。因みに当城は「続日本100名城」です。
昨晩「会津若松」のホテル入りして、この日は7時40分に「ニコニコレンタカー昭和町店」へ向かいました。8時過ぎにはスタートして「会津若松市内」から南方向にある「会津美里町」に到着、麓の登城口からドンドン岩崎山に向かって上がって行きました。
麓の登城口 ↓
「白鳳山公園散策map」 ↓
8時半前には「実城一曲輪」跡と「二曲輪」跡の中間にある駐車場に到着しました。今日は、虫よけスプレーをふりかけ、クマよけ鈴をリュックに装填し、ストレッキングポールを手にして万全の態勢で車道の北側にある「実城一曲輪(本丸)」跡を目指しました。
ここで「向羽黒山城」の歴史と城主についてお話をしておきます。
「葦名氏」のお城だったのは有名で、「蘆名氏」は相模の「三浦一族」でしたが、鎌倉幕府を樹立した「源頼朝」の御家人として、多くの軍功によって会津の北部を中心に領地を得ました。
「葦名氏」の全盛期を築いた16代「盛氏」は、度重なる戦いで新潟県東部から会津地方全域、中通り地方のほとんどを支配下に置き、「葦名家中興の祖」と呼ばれます。そして8年の歳月をかけて「向羽黒山城」を築きました。
しかし、「盛氏」の嫡男「盛興」は、1574年に若くして病没、そのため養子を取って継がせるも家臣に惨殺、その子も病死してしまいます。「盛氏」死後は、養子問題で家中が乱れ、1589年の「摺上原の合戦」で「伊達政宗」に大敗して「芦名氏」は滅亡、会津支配400年に終止符を打たれてしまいます。
「伊達政宗」の領地になるも、「豊臣秀吉」による「奥羽仕置」によって1590年に「蒲生氏郷」が「会津」等の地を賜り「黒川城」に入城し、「向羽黒山城」の改修を行います。
その後「蒲生騒動」の勃発で「蒲生氏」が転封となり、1598年に「上杉景勝」が入城すると2年かけて大改修を施し、更に「徳川家康」の会津攻撃の報を聞くや、「景勝」は「神指城」の築城をやめ、「向羽黒山城」を対家康戦の最後の砦として考えました。
しかし「関ヶ原の合戦」で西軍に加担した「景勝」は、1601年に「米沢」へ移封となると当城は廃城となりました。
「向羽黒山城」の立地と縄張りですが、まず立地は「観音山」、羽黒神社のある「羽黒山」、「実城一曲輪」のある「岩崎山」の3つの山から成ります。メインの「岩崎山」は標高408.7m、比高差は184mで、東西1.4㎞、南北1.5㎞と広大な城域があります。
縄張図(パンフレットに掲載) ↓
縄張りは、「岩崎山」の頂上に「一曲輪(実城)」を置きますが、そこが詰城の如く、東に「出桝形」の虎口、西側に数本の「堀切」を並べ、更に北側にも「横堀」と長い「竪堀」を施して守りを堅固にしています。
更にその北側は、西から「西曲輪群」の多くの小規模な曲輪群に続き東に向かって「二曲輪(二ノ丸)」が並びます。「二曲輪」は当時「本丸」的な位置付けだったようで、北側下には「二東曲輪群」「二西曲輪群」を配備して「虎口」や「石積み」を設け、内側には「水の手」も設えています。またその東側には長くて幅がある2本の「竪堀」によって防衛しています。
そこから下った北側は「大堀切」を隔てて「三曲輪」がありその辺りが「芦名盛氏」時代の遺構のようで、その東側には「盛氏」が隠居後に居住したと謂われる「盛氏屋敷」が堀と土塁に囲われて造成されていました。
さて車道から登城路に入り上って行くと、すぐ右側に頂上に向かって深くてがある「竪堀」が見られます。少し上ると今度は左手にシッカリとした「横堀」に出会います。
「実城一曲輪(本丸)」中心の縄張図(現地に掲出、上が北方向) ↓
車道から「実城一曲輪(本丸)」への登城口 ↓
頂上に向かって伸びる「竪堀」 ↓
南東に向かって伸びる「竪堀」 ↓
「横堀」も見られます ↓
「横堀」も見られます ↓
右横の「竪堀」がまだまだ続く脇を上って行くと「虎口」があり、左へ折れる桝形構造となっていて「一東曲輪」跡の西に入ります。
「虎口」 ↓
「虎口」の中は左折れ ↓
「虎口」から西向きに進み「小郭」の段部分を左手へ廻り込みながら、枡形構造の石段で上がると「小郭」に上がり、更に「小郭」の突き当りの石段を上がると「実城一曲輪(本丸)」跡に到着です。
「小郭」の左脇を廻り込む道 ↓
「小郭」へ上がる石段は右へ折れる ↓
更にもう一つの「小郭」先の石段を上がると「実城一曲輪」跡 ↓
「岩崎山」標高408.7mの「実城一曲輪(本丸)」跡からの北方向の眺めは素晴らしいです。「実城一曲輪(本丸)」跡は詰城的な位置づけですのでそれ程大きな面積はとっていません。
標高408.7mの「実城一曲輪(本丸)」跡 ↓
「実城一曲輪(本丸)」跡からの遠景 ↓
そこを直ぐに通過すると、西側には深い「堀切」が行く手を遮りますので「堀切底」まで下りて再び上がって行く行程となります。しかし、その次にも深い「堀切」が並びます。その両「堀切」からは、北側の麓に向かって落ち、途中から一本化した太い「竪堀」が下ります。
「実城一曲輪(本丸)」跡西側の深い「堀切」 ↓
「堀切」底 ↓
二本目の「堀切」 ↓
二本目の「堀切」底 ↓
二本目の「堀切」から「竪堀」へ ↓
3本目の「竪堀」に沿って車道の方へ下りていき、そして私は駐車場まで戻りました。
「駐車場」から「二曲輪(二ノ丸)」跡へ入る石段前には、当城の城主や関わりがあった戦国大名達のイラスト付き幟が風に靡き雰囲気が出ていましたが、その脇には「クマ出没注意!」の表示も掲出されていて、少し緊張を余儀なくされました。
「上杉景勝」の幟 ↓
「伊達政宗」の幟と「熊出没注意」表示 ↓
「二曲輪(二ノ丸)」跡へは直ぐに「虎口」があって入ることができます。そこは「実城一曲輪」跡に比べると広い敷地面積で、近世城郭の「本丸」的な位置付けで城主の居住地があったようです。
「二曲輪(二ノ丸)」跡の「虎口」 ↓
「二曲輪(二ノ丸)」跡 ↓
眺めも良く、北方向の密集地帯は「会津若松市街地」で「会津若松城天守」も見えますし、その後背には「会津磐梯山」が聳えて見えます。そばしそこで休息した後、「三日町虎口」と表示がある所から下へ下りていきました。
北方向の遠景では「会津若松市街地」と「会津若松城天守」が望める ↓
遠くには「会津磐梯山」が聳える ↓
「三日町虎口」と表示 ↓
次回のブログでは「二曲輪(二ノ丸)」の北側に拡がる多くの曲輪群等を見ていきたいと思います。
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