ボクサーは「なぜ」戦うのか…? | ボクシング&ロック野郎 higege91の夜明けはまだか?

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人生の曲がり角に遭遇したボクシング&ロック・マニアhigege91。暇を見つけてはホール通い。ああ、俺は戦っているか!? ああ、俺は俺の求める『俺』に近づいているのか!?

この衝撃の写真を敢えて貼らせていただきます…





辛い、胸が痛い…が、目を背けてはならないのではないでしょうか?


元世界王者が死亡、6人に臓器提供  (スポーツニッポン)


チェ・ヨサム選手に寄せられた皆様の声 (昨日のコメント欄)


…チェ選手の「脳死判定」に伴い、プロスポーツとしての「ボクシングのあり方」、さらに、「選手の健康問題とその協会による管理・検証」…と多くの問題提起が溢れました。


また、彼(チェ選手)は「ボクサー」として、あるいは「人間」として果たして『本望』であったか…?


…的な議論に至ってはもう複雑過ぎて、皆様それぞれに突き詰めて頂くしかないかな、と考えている次第であります。僕には「答え」は見つからないし、それは恐らく永遠にそういうことだと思います。ただし、『彼の死』を無駄にしてはならない、と言う気持ちだけは絶やさぬよう、そこだけは皆様と意思統一できれば嬉しいと思っております。


さて、ここに昨日のコメントで頂いた「シュガー」さんの言葉を貼ります…


今朝電車の中で携帯から読んだのですが、なんと奥深い言葉でしょうか…


ボクサーたちにとっての「戦いの意義」にかなり肉迫しておられます…


以下、転載…


ボクシングは単なる殴り合いではなく「競技」でありその意味で人間の知恵の産物「文化」であると思います。ボクサーはボクシングを通じて多くの人と関わり多くの人に支えられ多くの人を支えもするでしょう。成功を夢を見、技術の習得の喜び、人間的に成長する喜びを味わうでしょう。もちろん悲しみと苦しみと、そしていくばくかのお金と。その中でボクサーにとってリング上ですることは単なる「人を殴る」ことではないでしょう。


そこは数ヶ月あるいは数年を費やした夢の実現の場であり、自らの磨きぬいた技術を発揮しあう場所であり、その意味で崇高な場所であるでしょう。だからボクサーにとってボクシングは単なる殴り合い以上のもの、場合によっては「人生そのもの」ですらあるでしょう。そのためには命の危険も顧みない。


人間はその意味では人間の命よりも大事なものを創り出してしまったとは言えるのです。観戦者達、かれらも単なる消費者ではありません。鑑賞も一つの創造的な行為です。

崔選手がベッドに横たわる写真、たしかに衝撃的でした。これを見て今までと同じ気持ちでボクシングの試合を見れなくなることはあるでしょう。かくいう私も今はそういう気分ですから。まして人がそう感じることについて私はそれを変えることはできません。ただしボクシングが危険ではあるだろうが野蛮なものではないこと、精神の営みであること、このことは忘れないでもらいたいと思うのです。ボクシングほどではないが危険な格闘技系スポーツ(武道)に関わっていた者としては。


シュガー


…これは素晴らしいコメントでありますね。


リングとはボクサーにとっての「晴れ舞台」、「表現の場」…


また、いつだったかウィラポンと戦った辰吉丈一郎選手が自らのタイトルマッチを奇しくも『作品』…と表現したことを思い出します。


自己実現と作品…


これはボクシングに限らず「全ての人々」にとっての『命題』であります…


非常に興味深く、悩ましく、そして、意義深い問題であると思います。


改めて、チェ選手の冥福を祈るとともに、その「噛み締めなければならない意味」を胸に刻みたいと思います。


御愛読感謝


つづく