ボクシングの元東洋太平洋スーパーバンタム級チャンピオンで、3度世界挑戦した仲里繁(沖縄ワールドリング)が21日付で日本ボクシングコミッション(JBC)に引退届を提出した。
仲里は今年4月30日、フランスで行われた世界ボクシング協会(WBA)スーパーバンタム級タイトルマッチで王者マヤル・モンシプール(フランス)に挑戦。真っ向勝負の打撃戦となり、得意のハードパンチで優位に立つ場面もあったが、多彩なパンチを繰り出すモンシプールに6回TKO負けした。
33歳の仲里は2003年4月の世界初挑戦で王者オスカー・ラリオス(メキシコ)のあごを骨折させるなど強打で鳴らしたが、計3度の挑戦はいずれも失敗に終わった。
6月の母校宜野湾高校の講演会の中で「(試合は)もうやらないと思う。自分自身、納得している」と語って現役引退を表明していた。
仲里は1972年宜野湾市生まれ。22歳でボクシングを始め、94年12月にプロデビュー。右ファイター。全日本バンタム級新人王、東洋太平洋スーパーバンタム級王座などを獲得。戦績は33戦24勝(18KO)8敗1分け。
運がなかった
中真茂・沖縄ワールドリングジム会長の話 東洋太平洋タイトルをとった瞬間は心技体が全部そろって、最高のコンディションだった。最初のラリオス戦も良かったが、運の問題もあった。第2の人生を頑張ってほしい。
以上、沖縄タイムズより。
…僕がボクシング観戦にのめりこんだきっかけの一人は「仲里繁」だった。ラリオスとの2度にわたる「激闘」、そして、モンシプールとの「命懸けの戦い」…。
その戦績をつぶさに見られるよう、戦績を振り返る…。
…全33戦。凄まじい、その戦歴。僕は生憎リアルタイムで仲里を意識したのはラリオス2戦目からなのだが、手強い対戦者の名前がズラリ…。しかし、TKOで敗れたのはモンシプールと西岡利晃だけか…。この1戦は凄まじかったようだが、豪腕・仲里が屠った試合もたくさんあるはずだ。むむむ…、特に本人が厳しかったのだろう…と感じるのは、対・ジェス・マーカ戦からの数試合のように見える。西岡、瀬川、仲…と、負けている。瀬川は日本王座2階級制覇のボクシング界きっての「曲者」だし、仲は後に世界挑戦した関西の実力派だよな…。ボクサー「数珠繋ぎ」の妙を感じずににはいられませんな…。この苦節の98年からの2年間を乗り越えたからこそ、3度の世界挑戦を果たすだけの「実力」と「精神力」を培えたのだろう。自分を信じ、諦めずに鍛錬し続けた「軌跡」が、その後の「奇跡」のような名勝負を生んだのだ…。
並たいていの努力ではない。2度の日本王座挑戦を退けられ、その後に東洋太平洋王座を奪取するわけだが、辛かったろうな…って思う。そして、どれほど嬉しかったのかなって思う。
HIGEGE91的に最も印象深いのは「モンシプール戦」だ。
…スタミナ配分を無視して「倒すか倒されるか」の豪腕に対して豪腕で挑んだ事実上の「引退試合」となった、3度目の世界挑戦だ。同じファイタータイプのモンシプールとははっきり言って「噛みあった」。R5までが勝負、それより先のRは考えない、もし、それでも王者が立っていたら、その時は…。「特攻」作戦だった。玉砕戦法…。叩き潰して、叩き潰される…の息を呑む暇もない打ち合いは仲里にしか出来ない闘いであった。悔いを残さない為に、踏ん張れるだけ踏ん張って、R6、仲里はついに崩れ落ちた。「神風」は吹かなかった。仲里のパンチは思い切りクリーンヒットしてるが、モンシプールは想像以上にタフネスで、さらに精神的にも打たれ強かったのだ…とも思う。仲里は完敗した。…が、紙一重だったとも言える内容であった。モンシプールの心は折れなくとも、当たり所があと数センチ顎先によっていたら…って勝負でもあった。
しかし、仲里ほど「真っ向勝負」と言う言葉の似合うボクサーもなかなかいない…。
72年生まれ…ってことで、僕と同い年だったことがさらに僕を熱くした。天地が裂けようが絶対に勝って欲しいって思った。しかし、仲里は打ちのめされてしまった。見ているこっちも痛かった。これほど一緒に「痛い」って思えるボクサーはなかなかいない。
「世界のレベルも分かり、やれるところまでやったと、僕自身はすごく納得している。ただもう少し早くボクシングを始めていればとも思う。たくさんの県民の人に応援してもらい、感謝の気持ちでいっぱいだ。沖縄からボクシングをなくしちゃいけない。小学生や中学生からより楽しいボクシングを教えたい」 仲里繁・談
最高の『全身全霊ファイター 仲里繁』選手…。本当にお疲れ様でした。そして、ありがとうございました。
未来の世界王者を産みだしてください。また、別の形でその元気な姿を見せてください。楽しみにしています。本当に、ありがとうございました…。死ぬまで、絶対に忘れません。
つづく