特に「やまとことば」の日本語ってやっぱりすごい!「身」とか「身を立てる」って言葉が実は深い?と思った話なのでシェアさせてください!
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美学者の今道友信に「身」という言葉と「身を立てる」についての論考がある。
まず「からだ」に対する「身」という語の幅広い広がり「身が持たない」「みをつくして」「身をまかせる」「身のおきどころがない」「身をきよめる」「御身は(あなたは)」など(どの用例でも「身」は「からだ」では置き換えられない)について言及し、また「実」(み)との関連性についても触れた後、「身を立てる」という言葉に注目する。
「身を立てる」は一般的に立身出世の世俗的な用例の文脈で使用されるが、いったんそれを切り離して再考を始める。
「身を立てるとは、身を超越にすっくと立てることなのである。それはすなわち、物体的な世界の合目的性を超え出て、理念を目的として、それに立ち向かうように身が立ち現れてくることにほかならない。それは主体的な目的性につながる「みづから」主体的決意を秘めた実(み)となった吾なのである。そこには物理的に水平に流れている時間はなく、身から溢れ湧く時間として、何か理念的なものとしての目的の実現のために、充実に向かう垂直的に立つ時間性があり、そこに身が立つ場があり、そしてそこに立つ身がある。」(「美の存立と生成」-「身の詩学」より)
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これを読み原初舞踏の最上和子さんの WS での「我ここにあり」という思いで「立つ」という稽古の経験の経験も思い出していた。
初めてのその稽古で「我ここにあり」の想いで、でも自分たちなりには全身全霊でつたなくもそれを行う、私を含む稽古生の姿を見て、とても美しく、皆宙を浮いているようにさえ見え感動したという主旨の言葉を最上さんからいただいた。
最上さんのその時の稽古から継続して今もずっと感じ続けていること。それは立つことの大変さ。
側弯などもあって身体の軸が脆弱な私は今だにちゃんと立てたことがないとすら感じている。。
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言葉の修辞的な意味論を超えて「立つこと」は主体的決意の極めて劇的で時に残酷でもあるドラマ。簡単なことではなく、また一回性で完結するものでもない。
歌もまた人の前に「立って歌う」ことを基本とする。
上記の今道先生の言葉の中では、「身から溢れ湧く時間として....充実に向かう垂直的に立つ時間性があり」がまさにこれ、歌うこと、音楽のことじゃないか!などとも感じてしまいます!
若くはないこの歳の身体になっても、身体をめぐって明るく開けている体験と認識がますます多くなってきていて、それはとてもありがたいことだと思っています。
主に「身」をもって「歌う」ことに絡めて丁寧にまた理解を深めていければと思ってます!
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(最近、雪も降りましたが、空気の匂いは着実に春に向かっていますよね。。この本も年末に旧友たちと吉祥寺で集ったら古本屋巡りになってしまい、そこで出会い「古本屋での本はたいてい2度と会えないことが多くて買っとかなくてずっと後悔することが多いから一応買っとくよお~」とかつぶやきならがのでとりあえず買っておいただけだったんですが、こうした優れた先生方の深い論考が電子検索にはひっかからないことでなかなか表層の出版物として残っていかないことは本当に残念に思い、でもどういうご縁か必要な言葉にはやっぱり出会える縁(えにし)の力も信じています。。)