村井秀夫刺殺事件の真相を追って -28ページ目

村井秀夫刺殺事件の真相を追って

村井秀夫は何故殺されたのか?徐裕行とは何者なのか?
オウム真理教や在日闇社会の謎を追跡します。
当時のマスコミ・警察・司法の問題点も検証していきます。
(2018年7月6日、麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚らの死刑執行。特別企画実施中。)

●徐裕行の楽しい刑務所生活


(改装前の旭川刑務所。)

懲役12年。村井秀夫やその家族、村井に殺された犠牲者のために与えられた、償いの期間である。しかし、受刑者の徐には贖罪などどうでもよく、大した問題ではなかった。

徐裕行「だらだらと楽しく過ごしても12年。何かに打ち込んで過ごしても12年。同じ12年を過ごすなら、大学に入ったつもりで、一所懸命勉強してみよう」。

上記の回想からは贖罪の言葉はない。
それどころか刑務所と大学を履き違えた態度を見せており、罪の意識は皆無である。

また、徐は法廷で上峯に不都合な証言をしているため、再度出廷を拒んだ経緯があるが、報復に怯えた様子も無い。刑務所の中で、徐はのびのびと過ごしていたのだ。

徐裕行「外部から隔絶された世界である刑務所は、外の世界のように楽しみへの誘惑も存在しない環境にある。そうした環境の中では、内省し自分を高めていくことも比較的簡単にできるのではないか。そう考えると刑務所生活もまんざら悪いことばかりとはいえないかもしれないと思いました」


●徐裕行の読書生活

刑務所生活は単調だった。読書の習慣をつけていた徐は、刑務所に備え付けられていた「官本」を借りると、月20冊のベースで読み続けた。肉親が尋ねにくると、徐は読みたい本をリクエストし、毎月5冊差し入れしてもらった。

父母は3ヵ月ごとに交互で面会に訪れた。手紙も毎月1回は送ってくれた。

当時、旭川刑務所は運動日と入浴日が交互にあり、それぞれ1日おきに実施されていたという。
旭川は雪国ということもあり、1年の半分は体育館でバトミントンや卓球などをして遊んだ。冬場は「外役」がグラウンドに大きなスロープを造り、スキーやそりをするイベントもあった。夏場はソフトボールが行われた。

徐裕行「僕も子供みたいに、わいわい楽しんでましたよ」

刑務所生活で最も楽しめた日は大晦日の晩から1月3日までの間だった。ご馳走や甘いお菓子が受刑者に振る舞われ、徐にとっては一番の贅沢だった。


「刑務所は社会の縮図であり、学ぶべきことも多い施設」

当時、短期受刑者と長期受刑者は刑務作業が分けられていた。

短期受刑者の場合は、刑務所の修繕などを行う「営繕」や、雪かきや草刈り、資材の運搬を行う「外役」、刑務所からは慣れた農業で作業を行った。


(木工場)


(印刷工場)

長期受刑者は一般工場で作業することが決められ、金属工場、木工場、印刷工場、靴工場などで働いた。しかし、徐が服役してから5年後からは制度が改められ、短期受刑者も一般工場で作業するようになった。また、受刑者達は暴力団員が多く、統率力があり、皆作業態度はまじめだった。


(徐が働いた金属工場)

徐が割り当てられたのは金属工場だった。そこで金属加工や溶接の仕事を学んだ。

ある時、教官が北欧製の巻きストーブを持ち込み、これを参考に巻きストーブを作ろうと提案してきた。徐と受刑者たちはストーブを細かく採寸すると、製図を引いて制作した。
作品は刑務所製品のコンクールに出品され、賞をとるほど好評だったという。


(旭川刑務所で制作されたストーブ)

刑務作業が終わると、徐は受刑者たちと舎房に戻り、他愛のない雑談をして過ごした。受刑者たちから村井刺殺についてきかれたり、過去の武勇伝について語り合った。短期受刑者は覚醒剤事犯や窃盗犯が多かった。覚醒剤常習犯同士が、シャブ談話を始めたときはまったく話に入ることができなかった。

徐が特に魅了されたのは、50代半ばの窃盗常習犯の話だったという。男は窃盗をしながら日本中を旅しており、全国の道に精通していたという。あまりに詳し過ぎるため、”人間ナビゲーター”のようだった、という。

徐裕行「聞いていて飽きない、興味深い話が多かった」。


●徐裕行の所持金額

作業所で働くと、受刑者達には僅かながら「作業賞与金」と呼ばれる賃金が与えられた。

最初の8ヵ月間は月600円から1,000円程度しか与えられず、7,000円しか貯められなかった。しかし、それを過ぎると「作業賞与金」は上がり、最終的には月1万2,000円ほど手にすることができた。徐はこの賃金の一部と領置金を使い、本や生活用品などを買って過ごした。ただ、監獄法改正前は本の購入は月3冊までしか許されなかった。

懲役で稼いだ金は社会復帰の際に役立てるのが建前だったが、2、3年の短期刑ではせいぜい5~6万円しか貯められなかった。誰かの協力なしでは社会復帰や更生は不可能である。
12年収監されていた徐も、2300万円の負債が残されている。このまま出所しても、裕福に生きるのは大変困難な筈である。


●徐の独房拘禁



旭川刑務所の刑務官は皆親切で人情味があった、と徐は回想している。
しかし、慰問で訪問した人物によると、旭川刑務官は、受刑者たちの前では非常に恐ろしい表情をしていたという。

ある時、徐は問題行動を引き起こし、自身の不徳から独居房に収監される羽目となった。この時徐がどんなトラブルを犯したかは定かではない。本人が詳細を語りたがらないあたり、相当苦痛に感じたようだ。刑務官の怒りを買った徐は独居拘禁されることとなる。

独居拘禁には、「夜間独居房」と「昼夜間独居房」の二種類ある。
夜間独居房とは、昼間は工場に出役して他の受刑者とともに働き、夜間は一人で舎房に過ごす、特別待遇のようなものである。

「昼夜間独居」とは「厳正独居」とも呼び、受刑生活の中で問題行動を起こした者が、昼夜、独居に収監される処罰である。収容されるものは概ね次の者をさす。

①一般受刑者と共同生活することが困難なもの
②受刑者の処遇上、独居生活が好ましいと思われるもの
③取り調べ、または懲罰中のもの
④入居時新入教育、または出所前教育中のもの
⑤病棟に収容しきれないときの代用病棟として

徐は昼夜間独居に2年間、収監されることとなった。

徐が収容された独居房は三畳ほどの個室で、トイレの便器と流し台がむき出しに設置されていた。懲罰中は1日8時間そこに座ったまま過ごさなければならなかった。
一応、本や新聞、ラジオの利用はできたが、他の受刑者との接触は禁止されているため、雑談相手がいない状態で過ごさねばならない。1日おきに30分程、運動する機会が与えられたが、一人でしなければならず、孤独な日々が続いた。

監獄法が改正されると、徐は他の受刑者と一緒に運動することが認められた。声を掛けると、相手は30年以上も独居拘禁生活を続けていた。その男は嬉しそうな様子で、次のように語ってきたという。

受刑者「最近、北朝鮮からミサイルが発射され日本海に落ちたでしょう。あれはね、私が撃ち落としたんですよ」

徐によれば、男はまともな会話ができなくなっていたという。

受刑者の支離滅裂な話を聞いて、徐は長年の独房生活が祟り、精神異常になったのだと解釈した。

2年間の拘禁生活で徐は失語症、拘禁病になった、後遺症が残ったと主張している。また、この経験を引き合いに、麻原の精神異常も詐病ではなく、拘禁生活によるのものだとしている。

(当ブログは犯罪者の主張に同調するものではない。よって徐の主張について詳しい言及は避ける。)

参考文献(徐裕行のブログ2012-01-09 )(刑務所のタブー 別冊宝島社2013-03-19)
●上峯裁判の迷走



1997年3月19日。
上峯憲司の判決公判が東京地裁で開かれた。
安広裁判長は「羽根組と村井殺害の利害関係は全く提出されておらず、実行犯の供述に高度の信用性は認められないとして無罪(求刑懲役15年)を言い渡した。

判決では、徐裕行の供述について、

①上峯被告が右翼団体を名乗るよう指示すれば、羽根組との関係が容易に分かってしまう

②殺害対象の教団幹部三人には、立場に大きな違いがあり、3人のうち1人の殺害指示は不自然

③犯行を指示された日にちなどについて供述を変えており不自然

④上峯被告の指示を自供した理由が合理性が乏しい


などを理由に「高度の信用性はない」と認定した。

また上峯被告が事前に周辺と口裏合わせしたとされた点について

「口裏合わせの指示は早急に行われるべきだったが、そのような態勢がとられていた様子はうかがえない」として「上峯被告は事前には犯行は知らなかった」

とされた。

この日の判決で、安広裁判長が統括する東京地裁刑事八部が95年11月、殺人の実行犯だった徐裕行に言い渡した判決の中で行った「上峯被告の指示」の認定を180度転換し、否定する内容となった。

裁判長は同じだが、合議体の裁判官は異なったのに加え、起訴事実を認めた徐裕行の公判に比べ、否認した上峯憲司の場合は、より供述の信用性を踏み込んで判断する必要があった。

安宏裁判長は「上峯被告からの指示内容に関する徐受刑者の供述は、相当程度具体的で詳細である」とはしながらも、結局その合理的信用性に疑問を呈した。

事実関係の不透明さや不合理な点に対する検察側の立証の不十分さを指摘した形となった。
上峯裁判は、暗礁に乗り上げつつあった。


松尾邦弘・東京地裁次席検事の話
「判決が実行行為者である徐受刑者との共謀を認めることなく、無罪を言い渡した点は遺憾だ。判決内容を子細に検討し、上級庁とも協議したうえで控訴を検討したい」


●徐裕行「裏切り者として逃げ隠れしなければならない」
1998年6月。
島田仁郎裁判長は、上峯裁判を再検証するべく、徐裕行に証人尋問を要請した。


島田仁郎裁判長
この時、警視庁捜査第四課の捜査員が旭川刑務所へ向かい、収容されていた徐と面会した。
ところが、徐は出廷を拒んだ。

徐裕行「すべて一審で本当のことを話した。上峯被告はシャバにいる。証言すると攻撃したとみなされ、家族が危ない。自分も出所後、裏切り者として逃げ隠れしなければならない」

1998年7月8日。
上峯の控訴初公判が東京地裁(秋山規雄裁判長)で開かれた。

「証拠の一審判決には事実誤認がある」として控訴した検察は、新たに39点の証拠調べを請求した。

秋山規雄裁判長は、このうち被告が犯行を指示した状況を裏付けるという理由で請求された証人3人を採用し、29日に証人尋問を行うことを決めた。

検察側は徐裕行の供述について「具体的で高度の信用性が認められ、共謀関係を認定できる」
とし、上峯被告の指示を改めて主張。

右翼団体構成員を名乗るよう指示されたとする徐裕行の供述について一審では「実質的に羽根組組員だった徐被告(当時)が名乗れば、同組や徐被告人に捜査の目が向くから、このような指示を被告人がするはずがない」などと疑問点を指摘。

これに対し検察側は『徐被告は同組の実質的な組員で、右翼団体構成員を名乗らせても捜査が組に向くことは必至」とし、「だからこそ上峯被告は『警察では自分とは関係なかったと言え』と口止めをしている」と反論した。

 この点について弁護側は「徐受刑者に指示すれば羽根組に捜査が来ると分かり切っていたとすれば、指示することは普通の感覚ではありえない」などと述べた。その上で弁護側は徐受刑者の供述について「信用性のかけらすらない」として控訴棄却を求めた。

1998年11月28日。
島田裁判長は徐服役囚を証人に採用した自らの決定を取り消した。


●二審も無罪判決

1999年3月29日
島田仁郎裁判長は「被告人に指示されたとする実行犯の供述は不自然、不合理で信用できないとした一審判決は指示できる」と一審の無地判決を支持し、検察側の控訴を棄却した。

島田裁判長はまず「事件の目的は全く明らかにされていない」とし、「背後関係が分からず、被告を有罪にするには他に強力な証拠がない本件では、徐受刑者の供述に、これを補うに足るだけの高度の信用性が必要」と述べた。

そのうえで、上峯被告が捜査対象になりかねないのに、徐受刑者に犯行後、上峯被告に関係ある右翼団体を名乗らせたりした点について「不自然、不合理で信用できないとした一審判決は基本的に支持できる」とした。

さらに、「徐受刑者の供述の信用を肯定する方向に働く事情もたくさんあるが、いずれも決定的なものとまではいえず、逆に重大な疑問点が残る」と結論づけた。

高野利雄・東京高検次席検事の話
「検察官の主張がいれられず、控訴棄却となったことは誠に遺憾である。今後の対応については判決内容を検討し、上級庁と協議して決めたい」


●上峯被告、無罪確定へ

1999年4月6日。
1、2審において無罪判決を受けていた上峯裁判について、東京高検は最高裁に上告しない方針を固めた。東京地裁、東京高裁の判決は、上峯と事件を結びつける唯一の直接証拠と位置づけた徐裕行の供述の信用性について、「不自然、不合理な点が多く、上峯被告の指示を認めるには合理的な疑いが残る」と判断した。徐裕行は控訴審では証人になること自体を拒み、東京高裁判決が「直接供述を得ることができないまま信用性を判断せざるを得なかったことは甚だ遺憾」と表明。
東京高検はこうした事情をふまえ、高裁の判断を覆すのは困難と判断した。


4月12日、上告期限当日。上峯憲司の無罪が確定した。

●強制送還

獄中の中、徐はある悩みを抱えていた。
「韓国籍なので、出所したら強制送還されるんじゃないか」
弁護士に悩みを打ち明けると、次のように回答してきた。

”日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法で強制送還された例はない”

徐は腹の中でニヤリ、とほくそ笑んだ。

●徐裕行、旭川刑務所へ



旭川市は上川支庁の中心都市である。人口は約34万人で、市内には陸上自衛隊第7師団の駐屯地が置かれている。

旭川と軍事施設の関係は古く、1961年に旧陸軍の第7師団が置かれて以来”軍都”と呼ばれていた。この軍都に刑務所が開庁したのは地方裁判所が開設された1916年5月で、翌年井は「札幌刑務所旭川分監」となり19年2月に「旭川監獄」として独立した。そして名称が管制改正で「旭川刑務所」になったのが市制が施行されたのが1920年10月であった。それ依頼、刑務所は市の中心部、8条通り13丁目10号にあったが、受刑者の増加で収容定数が限界にきたため、移転計画が検討され、現在地に施設が移転したのは1968年12月であった。

刑務所周辺は民家が2、3件建つ程度で他は田んぼばかりが広がる地域である。

ここに収容されている受刑者は刑期8年以上無期までの長期囚、それも「LB級」と称される再犯長期囚を主に収容する施設なのである。ほかに短期の再犯受刑者も収容しているが、ほとんどが暴力団関係者だといわれている。

刑務所には収容分類級が定められており、それぞれローマ字で分別されている。
L級は懲役8年以上(現在は10年以上)の者。
B級は再犯者または反社会集団への所属性が強く、反抗的で協調性に欠けて犯罪傾向が進んだ者。LB級は両方の烙印を押された者である。


(他には犯罪傾向が進んでいないA級、女性が対象のW級、禁固刑で罰せられた者を対象としたI級、処遇上配慮を必要とする外国人が対象のF級、26歳未満の服役囚が対象のY級、精神障害者が対象のM級、身体疾患、障害者を対象としたP級がある。)

長期囚の罪名は強盗、殺人、放火、覚せい剤の凶悪犯罪を犯した受刑者が多く、その数は当時45%を占めていた。(2014年時点で約55%)

空にダイヤモンドダストが輝くとき、気温は氷点下30度にまで下がる。暖房設備があっても数年間、150日も雪に埋もれるこの地での受刑生活は想像を絶する世界であった。

当時、旭川刑務所には1980年に神奈川県内でホステスを殺害し懲役9年で服役した滝沢利治や、1986年に北海道で国税庁監察官を装い1000万円を詐取した白岩弘行が収監されていた。


●サンプラザ中野と化した徐

1996年3月5日。東京拘置所に収監された徐裕行は未明に起床すると、身支度をした。拘置所の1階へ向かうと、旭川刑務所から3人の刑務官が、スーツ姿で待機しているのが見えた。

ここで、徐裕行本人の回想を「徐裕行のブログ(2012-03-05)」より引用してみよう。


手錠と腰紐をしっかりと固定し、ワンボックスカーへと乗り込んだ。車は首都高速に乗って羽田空港を目指す。
これからしばらくは娑婆の景色も見納めだと思うと何となく寂しい気がした。
その頃のお台場付近は工事中でだだっ広い荒地が広がるばかり、将来、どれほど開発されるのかイメージができなかった。

空港内へは職員の通用口を通り、待機中の飛行機へと向かう。
「これを、つけておけ」
旭川刑務所の総務部長がサングラスをぼくに手渡した。
「お前さんの顔を、見知ってる人がいるかも知れんからな」
他人にぼくの存在を知られないための心遣いである。親切な人だ。
ぼくは、黙ってサングラスをかけた。

まだ誰も搭乗していない飛行機に真っ先に乗り込む。これも手錠と腰紐の惨めな姿を他人に見られないための処置だろうと思った。ぼくたちは飛行機の最後部の席についた。これほどまでに他人にぼくの存在を知られないための気遣いをしてくれるのなら、ぼくもそれに協力しないわけにはいかないと思った。そこで、他の乗客が搭乗する前に小用を済ませることにした。

手錠と腰紐の姿でスチュワーデス(この時は、まだキャビンアテンダントではなかったと思う)たちの前を通る。ぼくの後ろには腰縄の一端をしっかりと握りしめた刑務官が付き添っている。
用を済ませ、座席に戻ると、総務部長がニコニコとぼくに笑いかけながら、
「スチュワーデスに、お前さんが誰だかわかるかって聞いたら、なんていったと思う?」
わかるわけがない。
(俺が、誰だかわかんないようにサングラスをかけさせたんだろうが!わざわざ、ひとに聞くんじゃねえよ!)

無言の抗議をした。
「いやぁ、バレてないかと思ってな」
総務部長は、ぼくの胸中を察したようにとりつくろった。
「で、なんていったと思う?」
「さぁ」
「わからんか、あはははは。なんと、サンプラザ中野だってよ、あはははは」
ひとりで、大うけである。坊主頭にサングラスをかければ、誰だってサンプラザ中野になれるだろう。こいつは、受刑者の押送をするたびに、こんなことをやってるんじゃないかと思った。

毛布で手錠と腰縄を隠し窓際に座った。飛行機が飛び立つと、北へ北へと向かう。眼下の景色は徐々に白みを帯び、旭川空港に着くころには一面の雪景色だった。

空港まで迎えに来ていた護送バスに乗り込み、刑務所へとむかう。その間も総務部長は話しかけてくる。
「旭川は寒いぞ。30分も裸で外に立ってたら、死んじまうぞ」
それはそうだろう。
「旭川刑務所は冬は(受刑者に)スキーもやらせるんだぞ。徐はスキーはやるのか?」
「スキーですか...まあ、多少は...」
ぼくは、広々としたゲレンデで受刑者が思い思いにスキーを楽しんでいる光景を思い浮かべた。
車窓を流れる家々の軒先には、見たこともないような巨大な氷柱が垂れ下がっている。
やはり北海道はスケールが違う。
刑務所内にゲレンデがあったっておかしくはないではないか、などと一人で得心していた。

そんな会話をしているうちに、刑務所に到着した。
たった今まで想像していた広大なゲレンデと立派な建物はどこ?と、我が目を疑ってしまうような、こじんまりとした建物が目の前にあった。
これから十二年間生活する旭川刑務所。住めば都というではないか。何はともあれこれからしっかり受刑生活を送ろう。


十数年前の恨みを未だに引きずり続け、ネット上で不満をぶちまける男、徐裕行。自ら進んで殺人を犯し官憲に拘束されたのだから自業自得な話であって同情の余地はない。自身が犯した事件の重大性よりもプライドに固執し、反抗的な態度を見せる徐の姿には、ただ呆れるばかりである。



(サンプラザ中野氏)

 
(サングラス姿の徐裕行)