村井秀夫刺殺事件の真相を追って -19ページ目

村井秀夫刺殺事件の真相を追って

村井秀夫は何故殺されたのか?徐裕行とは何者なのか?
オウム真理教や在日闇社会の謎を追跡します。
当時のマスコミ・警察・司法の問題点も検証していきます。
(2018年7月6日、麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚らの死刑執行。特別企画実施中。)

有田芳生



2013年6月17日、新宿ロフトプラスワンで鈴木邦男、徐裕行と上祐の対談ショーが開催された。



サプライズの飛び入りゲストは有田芳生。
トークショーは一部、二部に分けられた。有田は時間の都合上一部のみの出演。徐は2部に出演。徐裕行と入れ替わる形でのショーとなった。(すれ違い時、有田は徐に挨拶したという。)


(有田のツイート。現在削除済み。)

有田芳生と北朝鮮



オウム事件当時、ジャーナリストとして活動した有田ヨシフは、2010年に第22回参議院議員に当選。現在は反レイシズム運動の筆頭として活動している。有田は、在日本大韓民国民団や朝鮮総連の幹部層との交流をTwitter上で公にしており、拉致被害者家族会を批判する声明を出している。

極左暴力団「しばき隊」や「男組」のデモに参加しては「在日特権を許さない市民の会」と対立し、保守層から激しい批判を受けている。

2015年5月12日、朝鮮総連議長の息子らがマツタケ不正輸入の疑いで逮捕された件に対し、「この事件捜査の背景には、外務省主導の日朝交渉を妨害しようとする者たちの意図が隠されていると判断しています。拉致問題を解決したくないというのが本音です。」とツイートした。

訪朝

2012年10月24日、中国視察後、北朝鮮の平壌を訪問していたことが判明。北朝鮮への渡航は政府によって自粛が求められていた中でのことだった。これについて外務大臣の玄葉光一郎は記者会見で「政府・与党に相談なく、与党議員が訪朝するのは残念だ」と不快感を示した。

2013年4月27日、「北朝鮮に拉致された日本人の早期救出を求める国民大集会」が、日比谷公会堂で開かれた。



「出て行け!」「帰れ、有田!」
「場違いだよ、お前は!」

加害者側に立つ者が拉致被害者から歓迎されるはずはない。


また有田は江川紹子との対談の中でオウムと北朝鮮は無関係だと主張し続けている。「週刊朝日」(95年6月2日)

「最近は捜査員が、僕のところにも問い合わせてきますが、変なのは北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)との関係をしきりに聞くんだよね。よほど、そこに結びつけたいらしいんだな。接点が皆無というわけじゃないけど、そのわずかな点と点を強引に結びつけようとする。自分たちの存在意義にかかわるからね。」



有田は新右翼団体と親密な関係を築いている。
「一水会を鼓舞する会」では発起人名簿に名を載せている。
ところがそんな有田に災難がふりかかった。
新右翼団体の象徴、野村秋介を「暴力団幹部」と呼び、新右翼の怒りを買ったのだ。



(Facebookで有田芳生に抗議する徐)


その中でも野村秋介の門下生、蜷川正大はブログで以下の声明文を表明し怒りをあらわにした。一部抜粋。

…昨日の参議院の予算質問の場において民主党の有田芳生という男が、毎日新聞が報道した長谷川三千子先生の記事に関して、こういう質問をした。

「委員長(山崎力君) 次に、有田芳生君の質疑を行います。有田芳生君。」

「有田芳生です。一九九三年に朝日新聞の社内で野村秋介さん、暴力団の幹部ですが、拳銃で自殺をしました。そういう事件、記憶におありの方もいらっしゃると思いますけれども、今朝の毎日新聞に、「新聞社拳銃自殺事件」、「NHK経営委員が礼賛 対メディア圧力黙認」と、新聞社に対する暴力行為それに対してNHKの経営委員が礼賛していると、そういう大きな記事が出ております。」(平成26年2月5日 予算 【未定稿】参議院記録部)

この有田という男は、野村先生を「暴力団幹部」と発言をしたのだ。どういった意図があるのかは分からないが、言語道断。国会議員と言うよりも人間の資質を疑ってしまう。

長々と、野村先生や私たちと一水会との関わりを書いたのにはわけがある。有田芳生は、一水会の会合や式典には必ずと言ってよいほど出席している。例えば、平成12年の2月26日に行われた「一水会を鼓舞する会」では、長谷川先生や私たちと一緒に発起人に名を連ねている。

「一水会を鼓舞する会」 発起人名簿(略)

発起人
有田芳生(ジャーナリスト)

その他、有田は一水会の機関紙「レコンキスタ」に原稿を載せている。勘違いしないでほしいのは、有田と一水会との交際をけしからんと言っているのではない。そんなことに目くじらを立てるほど器量は狭くない。問題は、恐らく有田は、野村先生と一水会、すなわち鈴木邦男さんや木村三浩会長との関係を知っていて、野村先生を「暴力団関係者」と言ったのだ。とするならば一水会と野村先生及び我々一門とどう違うのか有田の見解を聞いてみるつもりでいる。野村先生が、河野邸焼き討ち事件、経団連事件、朝日新聞社での自決事件を引き起こしているから「暴力団」とするならば、一水会も様々な非合法事件を引き起こしているし、木村三浩会長も「Wikipedia」での紹介欄に、「昭和59年に東郷健襲撃事件において傷害罪にて逮捕される」とある。

自分の付き合いのある右翼は良くて、付き合いのないのは「暴力団関係者」では筋が通らないだろう。そうじゃないかい有田さん。




蜷川に呼応するように、徐裕行をはじめ暴力団関係者や新右翼関係者も有田を名指しで非難。
追いつめられた有田は発言を撤回し、騒ぎはなんとか収拾した。


蜷川正大(にながわまさひろ)とは



1951年3月21日、神奈川県横浜市生まれ。
私立横浜高等学校在学。20代の頃に「三島事件」に触発され民族派運動に参加、野村秋介の門下生となる。1985年、野村が主宰した「大悲会」の第二代会長になるが、1987年に住友不動産会長宅襲撃事件を引き起こし逮捕される。1990年出所。その後大悲会を後継者に譲り、野村が設立した出版企業「株式会社二十一世紀書院」の代表を務める。

住友不動産会長宅襲撃事件
1987年1月13日、蜷川は住友不動産を狂乱地価の元凶と主張し、中台一雄、針谷大輔と共犯して安藤太郎会長宅を襲撃、占拠する事件を起こした。その結果網走刑務所に5年服役した。


蜷川の獄中生活

蜷川「私が逮捕されたのは、日本がバブルに突入していく1987年です。当時の住友不動産会長・安藤太郎さんの自宅へ行って、拝金主義・マネーゲームを先導していると抗議したんです。ちょうど『地上げ』などが社会問題化している時期。逮捕されることは前提の上での行動でした。逮捕されたあと、私は裁判で控訴をする気はまったくなかったので、早々に刑が確定しました。その時の裁判官の言葉をよく覚えています。久保真人さんという裁判官でした。判決の時に、こう言ってくれたんです。
『これは私見ですが、君たちはこれからも運動を続けなさい。ただし、合法的に!』

こう言ってもらえたのが印象的でした。私たちの抗議活動を理解してくれていると思いましたね。

 拘置所に入ると、しばらくして「刑務所はどこがいいか希望を聞くと言われたので、私は網走刑務所を希望しました。

その理由は、野村秋介先生(民族派活動家。1935~1993年。朝日新聞社社長室で自殺)が、最初に服役したのが網走だったからです。師の追体験をしたいということもあって、極寒の地を希望しました。あと、関東の刑務所だと知り合いの民族派活動家の街宣車が来て、『蜷川くん頑張れ!』みたいなことやりかねないから、それを避けたいというのもありましたね。応援してくれるのはありがたいけど、刑務所にも周囲の住民にも迷惑になってしまう。網走なら知り合いの右翼はほとんどいないから、静かに務めができると思ったわけです。

 網走では夜間独居(昼間は一般受刑者と作業をし、夜は独居房に入る)でした。思想犯はそうなんでしょうが、知らない人と生活を共にするのは嫌だったので、私には快適な空間でしたね。

赤落ち(刑が確定して刑務所に行くこと)すると、まず最初に『新入工場』というところで『基礎行動』で作業することになりました。解放農場で塀もないところです。25人ぐらいの模範囚が農作業を行う。けっこうつらい作業だけど、仮釈放も近くなるところです。夏と秋、そこで主に作ったのはビート大根。砂糖大根というやつでグラニュー糖の原料になる。あとはジャガイモだとかカボチャも作りましたね。網走は農園刑務所として有名なんです。

 冬になると雪が降って畑仕事ができなくなるので、山奥の『住吉農場』ってところに移って木こりをやるんです。枝払いをやったり間伐したり木を削ったり、伐採の仕事ですね。アノラックの上下を着て、フードをかぶって、耳あてをして、手袋も二重の防寒装備です。それでも寒いから、作業で体を動かすしかない。いちばん寒いときは零下27度くらいです。山の上に行く時には腰の上ぐらいまで雪が積もっている道を、私みたいな体の大きいのが4人ぐらい並んで、人間ラッセル車みたいになって先頭を行くわけです。後ろに続く人が、雪を踏み固めて道を確保していく。汗びっしょりになるので、寒さを忘れるには最高でしたね。樹氷やダイヤモンドダストも初めて見ました。ロマンチックでしたよ(笑)

網走には750人ぐらい受刑者がいたんだけれど、私みたいな政治犯は1人か2人しかいなかった。というのも刑務所は、暑さ寒さや作業もつらいんだけど、もっとつらいのは『言葉が通じないこと』なんです。

 私のような民族派と対立する左翼であっても、公安事件で捕まった人なら言葉が通じる。思想は違っても同じ政治運動をしていれば価値観が重なる部分は多いからです。でも、窃盗犯だとか密輸犯だとか、そういう人たちに天下国家のことを話しても通じないわけです。

受刑者に話しかけられて、私が一番ショックだったことがあります。

『蜷川さん、あの事件やって、いくらになったの?』

『いや、一銭にもならないですよ」と答えたけど、まったく信じてくれない。
『嘘でしょ。それで、なんであんなことするの』と言ってくる。結局、カネのことしか考えていない。まったく言葉が通じないんですね。だいたい7割強ぐらいが覚せい剤関連の受刑者でした。うったり買ったり密輸したり、覚せい剤がらみの窃盗犯などが多かったです。

 あと、嫌だなあと思ったことがあります。昭和天皇の体調が心配されていた時期に、みんなが『恩赦区』を話題にしはじめたんです。私が服役している時に昭和天皇は崩御されたんですが(1989年1月7日)、その前から周囲の受刑者がみんな『恩赦があるぞ』と言い出した。知ったかぶりする人物もいて、「サンフランシスコ条約の時には刑務所がカラになった」だとか言い出すわけです。それをみんな信じて、なかには家族から洋服を送ってもらって出る準備をしている受刑者もいた。

 私はそういう話が聞こえてくるのが、とにかく嫌だった。恩赦目当てで、天皇陛下の死を期待しているわけです。まあ、何か言ったらケンカになっえつぃまうので、わたしは黙っていましたが。結局、平成になった時、恩赦で出た人は網走では一人もいなかったんじゃないかと。

 受刑者で印象に残っているのはヤクザの幹部の人たちですかね。そういった人たちは、入って来るとどこの組の誰なのかすぐにわかっちゃうんです。だから上のクラスは半端なことはしない。新入工場にいた時に、組長クラスの人に新しい作業服を渡そうとしたら『いや蜷川さん、私はションベン刑ですぐに出るんだから古いので大丈夫です。それよりうちの若い者が来たらよくしてやってください』と言うもんです。だから、そういう人がいる工場ってのはあんまり違反がない。睨みをきかせているし、おのずと周囲もその人の顔を立てようということになるんです。

刑務所では読書が何より楽しみでした。
 私は服役中の3年半の間に870冊ぐらい読みましたね。ゴールデンウィークとか連休の前には独房に5冊とか持っていくんだけど、面白い本だとあっという間に読んでしまう。そうすると読むものがなくなって、無聊を託つことになる。だから、なるべく難しい本を選ぶとうにするんです。分厚い宗教書や巻数の多い歴史書だとか。『史記』や『十八史略』など、中国の古典はほとんど読みました。今の中国じゃなくてかつての中国の奥行きの深さとか、中国で使われていた故事来歴は、現代の我々の知恵に繋がっている。なんでもっと早く勉強しなかったのかなあと思ったもんです。
 私の座右の書は野村先生の獄中句集『銀河蒼茫』ですが、いろんなことを教わったという意味では、伝記作家の小島直記さん。彼は「男たちシリーズ」というものを書いていて、たとえば『逆境を愛する男たち』や『志に生きた先師たち』という作品がある。その本の中に紹介されているものを次々富みました。あとは高橋和己さん。彼は中国史に造詣がとても深い。それに惹かれました。「左の高橋、右の三島」って言われてたのに、右の私が『邪宗門』などを読んで感銘を受けていたんです。高橋和己さんには野村先生に通じる『亡びの美学』みたいなものがあると思いましたね。
読書していろいろ学ぶ前までは、赤いものを見たら許さない、単なる反共青年だった(笑)。半分冗談ですが、消防車や郵便ポストを見ても「このアカ野郎!」って感じだったんです。でも思想書や宗教書を独房で読んで視野が広くなった。かつてのテロは「一人一殺」でしたが、刑務所での私は「一日一冊」だったんです。

食べることも楽しみでしたね。「ひもじさと、恋を寒さを比べれば、恥ずかしながら、ひもじさが勝ち」……というわけで、食事時間は待ち遠しかった。メニューだけ見ると「悪さをした奴らがこんなにいいもの食って」と思うかもしれないけど「用等を揚げてく肉を売る」の類です。実際に出てくるものをみたら「まあ……このぐらいで勘弁してやるよ」という程度のもの。
 入ってすぐの時に「ニシンの塩焼き大根おろし添」ってメニューがあった。さすが北海道だと思っていたら、真っ黒な小さな魚が出てきてたまげましたね。それが大根おろしの汁でびちゃびちゃなわけです。『これ、なんすか……?』と刑務官に聞いたら『ニシンだよ』と。ああ……二度と悪いことしないようにしようと思ったもんです(笑)。
私が好きだったのはカレーですね。あと、お汁粉がうまかった。酒を飲まなくなると、なぜか『甘シャリ』(甘味)が欲しくなるんです。作業するところによって食事の量が違うのですが、私がいた農場は重労働だから量が多かった。お汁粉もラーメンどんぶり一杯ぐらい出るんです。食べ終わった瞬間から、次のお汁粉の日が待ち遠しくなるくらい、中毒性がありましたね。

 私は出所する時、当時でいう『一級』だったんです。今は一類、二類……って言うみたいだけど、一番の模範囚だった。当時、750人の中で一級は5人だけ。宝くじに当たるくらいすごいって言われたもんです。
 今でも、刑務所に入ったことにまったく後悔はないです。志があれば刑務所なんてなんともないし、もし若かったらまた10年ぐらい入って勉強したいと思ったりしますよ。シャバは誘惑が多すぎて、なかなか勉強に集中できませんからね(笑)

出所当日、蜷川を迎えに野村秋介ら200人近くの仲間が網走刑務所まで訪れた。この後、蜷川はホテルでお茶漬けの饅頭を30個ほど一気に食したという。

株式会社二十一世紀書院
神奈川県横浜市南区平楽148-3-312
民族派運動における情報発信を目的に、野村秋介が創設した出版社である。
主に野村の著書や機関誌「燃えよ祖国」を販売する他、野村の命日に、追悼集会「群青忌」を開催している。前身は大悲会機関誌の「大悲ジャーナル」。



徐裕行と蜷川
徐裕行とヤクザとフィリピン闇社会

徐裕行は父親から「日本人とは結婚するな」と躾けられた。徐は在日同朋とは結ばれなかったものの、出所後フィリピン人女性と結婚し、間に一人娘が生まれている。


(フィリピンで凧揚げを楽しむ徐裕行)

自称右翼の朝鮮人(犯罪者)とフィリピン人。一体何故、犯罪者が結婚にありつけたのか不思議な話である。その背景には暴力団とフィリピンの只ならぬ関係があったと考えられる。


ある弁護士の怪死事件…フィリピンに死す



東京・JR恵比寿駅近くの恵比寿ガーデンプレイスにあるウェスティンホテル。
後藤組元組長・後藤忠政は高級ホテルが好みで、上京時はこの外資系ウェスティングホテルを常宿にしていた。宿泊に当たってデジポットとして100万円ぐらいをぽんと支払って宿泊しており、収入面だけを考えればホテルにとって上客だった。



しかし、上京して滞在するたびに次第に態度が尊大になり、子分の方は富士宮あたりのナンバーが付いた元組長の高級ベンツをホテルの真ん中に長時間置きっぱなしにしたり、一見してヤクザと分かる複数の人物がロビーを徘徊したり、夜中のルームサービスでも無理難題を言うようなことが続いたという。そのため怯えた従業員がホテルの総支配人に後藤元組長を退去させてほしいと申し出たのだ。

総支配人はそれも自分の役目と思いおそるおそる元組長の部屋のドアをノックし「有名な組長さんがご宿泊されているということで、ホテルの従業員が皆怖がって仕事になりません。何とかお引き取り願えませんか」と切り出したという。

ところが元組長は、やはり頭がいいから、宿泊約款をぱっと開いて総支配人に示し、「暴力団員は宿泊禁止ってどこに書いてあるんだ」と反論され、総支配人は答えに窮してしまった。

それでも総支配人は約3時間も粘り、元組長に泣いて土下座し、懇願したところ、元組長は「おまえ、なかなかいい根性しているな。分かった。引き上げてやろう」ということになり、元組長一行はやっとホテルから退去させることができたという。

後日、元組長は100万円のデジポットを受け取らずに引き揚げてしまったためホテルはその精算に頭を悩ませた。返送する先も分からないし、へたに一方的に送り付けていんねんをつけられても困るし、現金を受け取りに来てくれというのも怖い。それで、精算をどうしたらいいかという相談を、第一東京弁護士会所属の弁護士、猪狩俊郎氏に依頼した。

猪狩弁護士はデジポット精算案件を受任したという通知を後藤組本部に送付したところ、一番町の総合法律事務所に元組長の代理として組長秘書がやって来た。猪狩弁護士はその人物との間で宿泊解約の合意書を作成し、指定口座に100万円を送金して処理を終えた。騒動は一旦落ち着いた。

(1992年、伊丹十三監督は暴力団を批判した映画「ミンボーの女」を制作し、後藤組から因縁をつけられ襲撃されている。なお、伊丹が制作した「ミンボーの女」の内容は、ホテルに乗り込んだ暴力団を従業員と弁護士が追い出そうとする物語であり、ウェスティンホテルの騒動と酷似している。)



猪狩氏は福島県村田市出身。横浜地検に検事として勤務し、1990年に弁護士登録。 東京都の「万引防止協議会」議長を経験した他、携帯電話の不正利用問題に取り組んだり、 テレビの法律相談番組「ザ・ジャッジ!」にも出演するなど社会派弁護士として活躍していた。

猪狩弁護士はこの後藤組騒動をきっかけに、企業の契約書や取引約款に暴排条項を取り入れようと考えた。暴力団とトラブルが起きた時、企業側が「約款にはこういう暴排条項がありますので」と説明すれば現場対応に役立つのではないか、という発想である。

暴力団排除運動を発展させるため、猪狩弁護士は日弁連の民事介入暴力対策委員会委員などを歴任。 また、警察と連携してプロ野球界枠に蔓延る、暴力団の外野席の転売ビジネスやダフ屋行為の排除に注力した。

また角界の野球賭博問題については「暴力団との関係はプロ野球よりも 角界の方がはるかに深い」と辛辣なコメントを産経新聞に寄せている。

しかし、悲劇は起きた。

2010年8月27日、フィリピンマニラ首都圏マカティ市内の高級住宅街で猪狩氏の遺体が発見された。遺体にはベッドの上でカッターで手首を切ったような形跡があり、周辺には複数の薬品を服用した形跡があった。この事件でフィリピン警察は自殺の可能性が高いと発表した。
猪狩氏は8月11日にフィリピンを訪れ、22日に日本へ帰国する予定だった。帰国せず連絡が取れ­ないため、猪狩の日本の友人が心配して在マニラ日本大使館へ連絡、遺体が発見された。猪狩氏はしばしばフィリピンを訪問し、マニラで民家を借りていたという。



猪狩氏は生前、「『反社会勢力』があなたの会社を食いつぶす!」など暴力団対策に関する著書を多数上梓していた。光文社は猪狩弁護士の死を悼み、猪狩氏の体験談をまとめた本『激突!』を出版。後藤組にまつわる話や似非右翼団体が企業からカネをゆすりとる方法について詳しく紹介している。
(猪狩氏が亡くなったマカティ市内は、事情通の間では日本の暴力団員が拠点を置く地域として知られている。)


フィリピンで暗躍するヤクザたち



70年代のセックスツアーで進出して以来、ヤクザはフィリピンに第二の故郷を見出した。実際、フィリピンは韓国に次ぐヤクザの国際活動の中心となっている。フィリピンは若く積極的なヤクザにとって興奮を覚えさせる場所である。アメリカの旧植民地は7,000の島からなる靄のかかった蒸し暑い汗まみれの列島であり、中心は1,000万以上の人口を抱える首都マニラ。英語がつうじ、発展途上の経済を持ち、広範な腐敗行為にまみれた国で、ドルと円が実にものをいうところである。
 ヤクザでは日本でつちかったいくつかの手法を使って、フィリピンの8000万国民を支配する人々と重要な政治コネクションを作り、買収によって地方実業家と官僚の両方にもうけとなる長期的関係を築きあげている。商売熱心なヤクザは、適切なところに賄賂を贈ることで投獄や国外追放を避け、あやしげなビジネスを維持し、何も開かれずに何度も税関を通過してきた。

合衆国麻薬取引局の秘密報告書によると80年代なかばごろには、山口組、稲川会、住吉会の幹部らはマニラのウォールストリートと呼ばれるマカティに事務所を開いていた。スラム街の脇に立ち並ぶマカティの高層ビル群やモール、国際ホテルなどは、ヤクザが表看板にして使いたがる貿易会社や旅行会社にとって過度な場所を提供する。報道によると、町井久之(本名:鄭建永)の犯罪組織は「フィリピン珊瑚礁探査権」を取得したという。しかし最大の初期投資はマニラのアーミタ地区でおこなわれ、ここはフィリピン性貿易の中心である。マニラの主要日刊紙「タイムズ・ジャーナル」は82年に、この地区の少なくとも30のクラブ、レストランがヤクザ所有だと警察当局者は述べたと報じている。フィリピン人の表向きの所有者を持つこれらのビジネスは、銃器や麻薬の密輸、女性人身売買のフロント(隠れ蓑)として機能しているといわれた。

80年代はじめになると、マニラの新聞はヤクザ活動のセンセーショナルな記事であふれるようになる。ある日刊紙は「ヤクザの見分け方」という大きな囲み記事を掲載したが、刺青の入った背中や小指のない手の写真が入ったものである。別の新聞は「奴隷貿易ヤクザ、追跡」という全段抜きの見出し記事を載せた。一方、マニラ警察はあるマニラ在住のヤクザから、ヤクザは情事数百人活動しているとの証言を引き出した。88年にはフィリピン高官が国内(おもにマニラ周辺)へ100人のヤクザが活動と推定している。


(ダナオの銃器製造工場。)

洗練度を増していくフィリピンギャングと協力しながらヤクザは、賭博、詐欺、マネーロンダリングなどにも進出していったが、性貿易の次に重用ししたのは密輸活動の基地としてだった。何千もの島(ほとんどが未開発)をかかえたフィリピンは、悪臭を放つ覚せい剤工場を造るのに便利な場所を提供する。さらにヤクザが関心あるのは拳銃で、フィリピンには豊富にある。フィリピンは銃器の主要な供給源となり、日本に何千もの拳銃を供給している。ヤクザのカネは、フィリピン中央部に位置するセブ島の沿岸沿いの町ダナオ周辺に零細な銃器製造産業を発展させた一つの引き金にさえなっている。この地域では5000人もの職人が、マグナム、コルト、ベレッタなどの安価なまがい物を造るようになった。最大の史上は国内向けで、顧客は共産主義やイスラムの反政府組織から各種の思想・心情をもつ地方武装集団、犯罪者までさまざまである。しかしヤクザも頻繁な買い手で、88年、京都・会津小鉄会はフィリピン銃器職人を5人呼び、日本に地下工場を造らせることまでやっている。創業は2年しか続かなかった。日本の警察に乗り込まれたのである。しかしその間、160丁ほどの銃をつくり、約60万ドルの就役をもたらした。86年10月、世界は武器市場の一端をかいま見ることになった。マニラから大阪に向っていた対航空のジェット機後部を爆発が揺り動かしたのである。飛行機は衝撃のため急降下し、数分で6・5キロも高度をさげ、乗客は座席から放り出され、14人が負傷し、飛行機はやっとのことで緊急着陸した。調査の結果、爆発を起こしたのはフィリピンから帰国途中の山口組員が密輸していた手榴弾だったと判明したのだ。警察によると、問題の組員は税関をとおり抜けるためトイレに行ってアメリカ製手榴弾を包もうとしていたところ、飛行機が乱気流に入り、誤ってピンを引いてしまったとのことである。(タイ航空機爆発事件)

手榴弾やほかの武器はフィリピン内の不良兵士や闇史上から入手できる。マニラコネクションと呼ばれる重機製造グループの本部にマニラ警察が乗りこんだとき、マシンガン、自動小銃、拳銃50丁、小さな攻防戦に使えるほどの弾薬、さらにさまざまな麻薬が見つかったと報じられている。これに先立って、製造グループの黒幕・31歳になるクミトモヒロアキというヤクザが、マニラ郊外の駐車中の車のなかで死んでいるのが見つかり、これまで数人のヤクザがマニラの濁った川に浮かんでいるのが見つかっている。グループの内紛、あるいはフィリピンパートナーとの紛争後である。実際、善人であれ悪人であれ、多くのフィリピン人はヤクザが来たことに強く憤慨している。ある時点では、フィリピンゲリラ組織の「処刑」の標的となったヤクザもいた。


(マニラの汚染された河川)

 ときには犠牲者が罪のない日本人の場合もある。ひどい詐欺事件に巻き込まれた者である。何年にもわたってフィリピンは、日本人が仕掛けた一連の契約殺人の舞台となった。78年から81年には、フィリピン警察は少なくとも4件の日本人殺人事件を保険金殺人と結びつけている。まず暴力団が日本で実業家をおどし、多額の保険金をかけさせ、組員を受取人とする。そして何らかのかたりで獲物をマニラまでおびき出し、フィリピンの殺し屋をわずか2500ドルで雇う。フィリピン訪問中の日本人の4件目の殺人事件ののち、当局はようやく詐欺の噂をかぎつけ、81年、警察と軍隊がマニラの南にある町の殺し屋要請キャンプに手入れをし、8人の容疑者を拘束し、射撃標的、弾丸、拳銃の小さな山を押収した。


(現地人がphotshopで制作したと思われる徐裕行の歓迎ポスター。スーパーマンも迷惑だ)

フィリピンではヤクザのもうけ口にこと欠くことはない。ヤクザとされている神戸のオオキという男は流暢なタガログ語と三八口径の連発ピストルを使ってフィリピンの移民局係官になりすまし、マニラの日本人投資家を恐喝したと報じられている。フィリピン闇社会のもう一つの魅力は偽造である。日本警察は、フィリピンで造られた偽の国際免許証、政府の使う照明用スタンプ、札を押収している。リゾートと日本への直行便を持つセブ島には別の魅力もあり、ここでヤクザは銃や女を買い、休養・気晴らしをすることもできる。90年代はじめには、あまりにも多数のヤクザがこの地を訪れたため、セックスツアーを再開しようとしていると避難された。

フィリピン当局は、何年にもわたって取り締り強化をしてきている。そこからヤクザ活動の広さがうかがえる。密輸船が押収され、逃亡者が追跡され、禁輸品が押収され、ヤクザが追放された。報道によると、75年から83年までのあいだに、警察は83人のヤクザを逮捕し、国外追放処分にしている。犯罪の例としては、麻薬取引、武器不法所持、不法滞在、女性人身売買などである。日本からあやしげな人物が流入して来ることを憂慮した当局は91年にヤクザの絵を作成し、移民係官に派手な洋服、高価な宝石、パンチパーマ、横柄な態度、切断された小指、目立つ刺青などに注意するよう呼びかけた。この年、100人以上が入国を拒否され、空港当局が刺青した小指のない16人の日本人グループを拒否した日もある。しかしまもなくして、日本人を入国させるよう圧力がかけられた。新しい移民責任者は、このようなやり方はフィリピンを訪れる日本人の人権侵害だと主張した。しかし、市民的自由よりも賄賂のほうに関心ある当局者が多すぎるようである。「腐敗が横行している」と、仕事に不満を覚えた移民当局者は説明した。「捜査官や高官らが賄賂を取り、空港警察は『エスコート』ビジネス(入国を円滑にすること)を副業にしている」。このエスコートは都合のいいことに、移民検査官を迂回するようになっている。
韓国が注目した村井事件



在日同朋がオウムの幹部を殺した!
村井事件の騒ぎは韓国(南朝鮮)でも伝わり、国中騒然となった。



文化放送(MBC)では徐裕行の顔がアップになって放送された。

映像では青山を無視してその場から離れる徐の姿や村井事件を過小評価する野中広務のインタビューが映し出されている。(以下、当時の映像)
http://imnews.imbc.com/20dbnews/history/1995/1951717_13447.html

別の映像では徐の実家を取材する韓国人記者の姿(徐裕行の実家は足立区興野にあり、ここから朝鮮第四初中級学校へ通っていた)
http://imnews.imbc.com/20dbnews/history/1995/1951649_13447.html

村井事件後、オウムのテロに警戒する韓国
http://imnews.imbc.com/20dbnews/history/1995/1951647_13447.html


韓国にとってのオウム事件

月刊誌「選択」では、当時の韓国とオウムの関係を次のように紹介している。


オウム・サリン事件は、隣の韓国でも大きなショックだった。韓国も新興宗教ブームで、オウム真理教が宗教を隠れミノにしたテロ団体だったことは、韓国の宗教団体にとっても他人事でない。宗教界全体のイメージ・ダウンになった。
(95年)六月六日、韓国警察はソウル市内のカトリック聖堂と仏教寺院で座り込みストライキをしていた韓国通信公社労働組合幹部を連行した協会や寺院境内は聖域とされ、軍事政権時代ですら警察は手出しできなかった。そのタブーが壊されたのだ。教団は治外法権ではない、との世論が韓国で高まったからだ。オウム真理教事件の影響といえる。

韓国は昔から新興宗教がはやる国だ。シャーマニズムの伝統が強い。日本植民地時代白白教というカルト教団が集団殺人事件を起こした。解放後も新興宗教が乱立している。特にキリスト教系が多い。朴泰善長老の復興教教団、原理運動の統一教会(文鮮明教主)などがその代表だ。87年8月、新興宗教団体が経営する「五大洋」という企業で、教主と教徒二十二人が変死する事件が起きた。企業の不渡り倒産による集団自殺といわれているが真相はいまだ不明で、集団自殺か他殺かも解明されていない。

最大の関心は北朝鮮との関係

一部でオウム真理教が韓国に上陸しているとのうわさがあったが、その証拠はない。オウムが韓国に密かに浸透していたとは考えにくい。理由は簡単だ。オウムのベースには原始仏教。韓国ではキリスト教が持てはやされるが、仏教は古くさいと敬遠されている。創価学会が韓国の布教に失敗したのもそのせいだ。
 韓国では建国神話の主、檀君を崇拝するハヌル教など国粋的な新興宗教団体からはじまって、その他ありとあらゆる類似の教壇がひしめいている。なにしろ財政会トップが占いによって決断することがよくある迷信社会だ。
 韓国はいま急激な経済発展で旧社会が解体し、新しいモラルが根づいていない、過度期社会である。新興宗教は変化に適応できず疎外された個人の不安を解消し、帰属意識を持たせてくれる。一種の心理的麻薬だ。マルクスは「宗教は阿片だ」といった。だが阿片を必要とする落ちこぼれはどの社会でもいる。

口先では、金銭は不浄なもの、この世の富は空しいなどと説教をたれる新興宗教団体教主だが、それとは裏腹にほとんどみんなカネもうけに血眼だ。信者はタダ働きでこき使われている。統一教会の日本人信者が韓国で機関誌「世界日報」の拡張員になって戸別訪問しているのがその好例だ。オウム真理教の正体がばれたことで、韓国で宗教といえばうさんくさく思われるようになり、新興宗教の信者は肩身が狭くなった。

 韓国がもっとも関心を持っているのはオウムと北朝鮮とのコネクションだ。オウムはロシアで武器を購入、軍事訓練までした。オウムの放送局があるウラジオストクは北朝鮮に隣接している。韓国の有力紙「中央日報」は、日本で流布しているオウムと北朝鮮のコネクション説を報道して大きな波紋をまきおこした。

 教祖・麻原彰晃の祖父が北朝鮮生まれで、父親は終戦の前後に日本に来たという説をとりあげ、麻原のルーツが北朝鮮という疑惑が持たれていると書いた。これに関連して統一教会の文鮮明も北と湯煎生まれで、しかも近年オウムが統一教会所有の建物を賃借していたこと、統一教会信者が統一教会からオウムに入信したことなどにも言及。オウムと統一教会がある時期まで結びついていたことから、両者の提携、さらには北朝鮮との関連を憶測する向きもいると報道した。

 またオウムの本拠地上九一色村から押収された十キロもの近海が北朝鮮産だったとの説も紹介した。この金塊は脱税容疑で逮捕された金丸氏から押収された金塊と同じものとの説があると指摘して、この金塊は金丸氏が九〇年、北朝鮮を訪問したときもらっていったといわれていると説明した。
 オウムの早川紀代秀が北朝鮮の自由貿易地帯である豆満江流域の土地を買おうとしていたことも報道。北朝鮮が資金難で困っていることと、オウムが一千億円の資産を持ち海外の土地買収に力を入れていたことが、この説を裏づけていると解説して韓国人を驚かせた。

 一方、オウム幹部の村井秀夫氏を刺殺した在日韓国人徐裕行が在日朝鮮人学校に通っていた点も、オウムと北朝鮮との結びつきを推測させるものだと報道した。
 この新聞は「日本国内には毒ガスの責任を海外に転嫁しようとする心理がある。オウムと北朝鮮との関係を取りあげれば、容易に推測をつくり出すことができるので、北朝鮮コネクションを煽っている」と結論づけた。しかしこの風説の真偽は全く確認されていない。

だが、韓国では、オウムと統一教会との関連について、事情通は一笑に付している。統一教会の文鮮明がロシアや北朝鮮にたびたび訪れたことは事実だ。原理運動はキリスト系でオウムのルーツでは仏教だ。いわば商売敵。両者が手を結ぶ可能性は少ない。もっとも当初運動を自称した教祖麻原は九一年十月、自分は救世主キリストだと宣言した。オウムはキリスト教でも仏教でも都合のいい宗教を手当り次第に利用する。そのやり方からすれば、ビジネスに限れば双方が提携する可能性は十分ある。


(村井事件後、オウムのテロに警戒する韓国警察)

「毒ガステロ」に怯える日々

一方オウムと北朝鮮との癒着は考えにくい。北朝鮮自体が神聖国家だ。金日成は生き神だった。まだ駆け出しの新米教祖の麻原なんかの権威を認めたりはしない。もっともオウムのカネには魅力があったはずだ。

韓国ではむしろ村井氏の刺殺犯人徐裕行の背後に関心がある。在日朝鮮人がオウム幹部を刺殺した時、韓国マスコミは肝をつぶした。オウムがその報復としてサリンをばらまくのではないかとゾッとした。韓国の空港や港湾で厳戒態勢がしかれた。この厳戒態勢はその後オウム捜査の進展により解除された。徐の犯行は村井氏の口封じのための犯行で、教団内部が、徐が関連している団体の指示、教唆によるものだとの分析が伝えられた。

韓国ではオウムと暴力団の関係に注目している。日本の暴力団に在日朝鮮人が少なからず加入している。これらは韓国の暴力団ともつながっているからだ。

韓国がオウム・サリン事件でもっとも衝撃を受けたのは毒ガスの脅威であるサリンは開発、製造も簡単で安上がりだ。ミサイルも必要ない。一人で運搬でき、しかも探知が難しい。ばらまけば大量殺戮ができる。北朝鮮にとってサリン事件はよいヒントになったはずだ。北朝鮮はカネのかかる核開発より、今後は毒ガスの開発に努めるだろう。いやすでに保有している可能性が高い。自力開発したかそれとも旧ソ連から供給されたか、いずれにせよ大量に備蓄されている可能性がある。備蓄された毒ガスではアメリカも手が出ない。査察も不可能だ。北朝鮮が最近核開発凍結をめぐる米朝間交渉で態度を軟化させた背景に核開発から毒ガス開発へ戦略を転換させたのではないか、という憶測が流されている。韓国は毒ガス作戦が宗教団体からテロ国家へ拡散する悪夢にいまもうなされている。

出典「選択」95年7月1日 120-121頁


*筆者注
・麻原朝鮮人説については根拠が乏しく、今も議論になっている。
麻原彰晃の祖父は熊本県出身の警官説、小作人説がある。
高山文彦著「麻原彰晃の誕生」によれば、麻原の父親は大韓民国全羅北道益山郡春浦面出身とされる。

・創価学会は当初韓国側から「倭色宗教」と呼ばれ、反日感情により排斥されていた。
90年代以降、韓国政府に宗教法人として正式登録されると急速に信徒数を増やし、150万人の信徒を獲得したと創価側は主張している。

・北朝鮮はサリンをはじめとしたBC兵器だけではなく、核開発にも積極的である。06年に核実験を実施し、一定の成果を挙げたとされ、その後も数回に渡り行っている。