有田芳生と蜷川正大 | 村井秀夫刺殺事件の真相を追って

村井秀夫刺殺事件の真相を追って

村井秀夫は何故殺されたのか?徐裕行とは何者なのか?
オウム真理教や在日闇社会の謎を追跡します。
当時のマスコミ・警察・司法の問題点も検証していきます。
(2018年7月6日、麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚らの死刑執行。特別企画実施中。)

有田芳生



2013年6月17日、新宿ロフトプラスワンで鈴木邦男、徐裕行と上祐の対談ショーが開催された。



サプライズの飛び入りゲストは有田芳生。
トークショーは一部、二部に分けられた。有田は時間の都合上一部のみの出演。徐は2部に出演。徐裕行と入れ替わる形でのショーとなった。(すれ違い時、有田は徐に挨拶したという。)


(有田のツイート。現在削除済み。)

有田芳生と北朝鮮



オウム事件当時、ジャーナリストとして活動した有田ヨシフは、2010年に第22回参議院議員に当選。現在は反レイシズム運動の筆頭として活動している。有田は、在日本大韓民国民団や朝鮮総連の幹部層との交流をTwitter上で公にしており、拉致被害者家族会を批判する声明を出している。

極左暴力団「しばき隊」や「男組」のデモに参加しては「在日特権を許さない市民の会」と対立し、保守層から激しい批判を受けている。

2015年5月12日、朝鮮総連議長の息子らがマツタケ不正輸入の疑いで逮捕された件に対し、「この事件捜査の背景には、外務省主導の日朝交渉を妨害しようとする者たちの意図が隠されていると判断しています。拉致問題を解決したくないというのが本音です。」とツイートした。

訪朝

2012年10月24日、中国視察後、北朝鮮の平壌を訪問していたことが判明。北朝鮮への渡航は政府によって自粛が求められていた中でのことだった。これについて外務大臣の玄葉光一郎は記者会見で「政府・与党に相談なく、与党議員が訪朝するのは残念だ」と不快感を示した。

2013年4月27日、「北朝鮮に拉致された日本人の早期救出を求める国民大集会」が、日比谷公会堂で開かれた。



「出て行け!」「帰れ、有田!」
「場違いだよ、お前は!」

加害者側に立つ者が拉致被害者から歓迎されるはずはない。


また有田は江川紹子との対談の中でオウムと北朝鮮は無関係だと主張し続けている。「週刊朝日」(95年6月2日)

「最近は捜査員が、僕のところにも問い合わせてきますが、変なのは北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)との関係をしきりに聞くんだよね。よほど、そこに結びつけたいらしいんだな。接点が皆無というわけじゃないけど、そのわずかな点と点を強引に結びつけようとする。自分たちの存在意義にかかわるからね。」



有田は新右翼団体と親密な関係を築いている。
「一水会を鼓舞する会」では発起人名簿に名を載せている。
ところがそんな有田に災難がふりかかった。
新右翼団体の象徴、野村秋介を「暴力団幹部」と呼び、新右翼の怒りを買ったのだ。



(Facebookで有田芳生に抗議する徐)


その中でも野村秋介の門下生、蜷川正大はブログで以下の声明文を表明し怒りをあらわにした。一部抜粋。

…昨日の参議院の予算質問の場において民主党の有田芳生という男が、毎日新聞が報道した長谷川三千子先生の記事に関して、こういう質問をした。

「委員長(山崎力君) 次に、有田芳生君の質疑を行います。有田芳生君。」

「有田芳生です。一九九三年に朝日新聞の社内で野村秋介さん、暴力団の幹部ですが、拳銃で自殺をしました。そういう事件、記憶におありの方もいらっしゃると思いますけれども、今朝の毎日新聞に、「新聞社拳銃自殺事件」、「NHK経営委員が礼賛 対メディア圧力黙認」と、新聞社に対する暴力行為それに対してNHKの経営委員が礼賛していると、そういう大きな記事が出ております。」(平成26年2月5日 予算 【未定稿】参議院記録部)

この有田という男は、野村先生を「暴力団幹部」と発言をしたのだ。どういった意図があるのかは分からないが、言語道断。国会議員と言うよりも人間の資質を疑ってしまう。

長々と、野村先生や私たちと一水会との関わりを書いたのにはわけがある。有田芳生は、一水会の会合や式典には必ずと言ってよいほど出席している。例えば、平成12年の2月26日に行われた「一水会を鼓舞する会」では、長谷川先生や私たちと一緒に発起人に名を連ねている。

「一水会を鼓舞する会」 発起人名簿(略)

発起人
有田芳生(ジャーナリスト)

その他、有田は一水会の機関紙「レコンキスタ」に原稿を載せている。勘違いしないでほしいのは、有田と一水会との交際をけしからんと言っているのではない。そんなことに目くじらを立てるほど器量は狭くない。問題は、恐らく有田は、野村先生と一水会、すなわち鈴木邦男さんや木村三浩会長との関係を知っていて、野村先生を「暴力団関係者」と言ったのだ。とするならば一水会と野村先生及び我々一門とどう違うのか有田の見解を聞いてみるつもりでいる。野村先生が、河野邸焼き討ち事件、経団連事件、朝日新聞社での自決事件を引き起こしているから「暴力団」とするならば、一水会も様々な非合法事件を引き起こしているし、木村三浩会長も「Wikipedia」での紹介欄に、「昭和59年に東郷健襲撃事件において傷害罪にて逮捕される」とある。

自分の付き合いのある右翼は良くて、付き合いのないのは「暴力団関係者」では筋が通らないだろう。そうじゃないかい有田さん。




蜷川に呼応するように、徐裕行をはじめ暴力団関係者や新右翼関係者も有田を名指しで非難。
追いつめられた有田は発言を撤回し、騒ぎはなんとか収拾した。


蜷川正大(にながわまさひろ)とは



1951年3月21日、神奈川県横浜市生まれ。
私立横浜高等学校在学。20代の頃に「三島事件」に触発され民族派運動に参加、野村秋介の門下生となる。1985年、野村が主宰した「大悲会」の第二代会長になるが、1987年に住友不動産会長宅襲撃事件を引き起こし逮捕される。1990年出所。その後大悲会を後継者に譲り、野村が設立した出版企業「株式会社二十一世紀書院」の代表を務める。

住友不動産会長宅襲撃事件
1987年1月13日、蜷川は住友不動産を狂乱地価の元凶と主張し、中台一雄、針谷大輔と共犯して安藤太郎会長宅を襲撃、占拠する事件を起こした。その結果網走刑務所に5年服役した。


蜷川の獄中生活

蜷川「私が逮捕されたのは、日本がバブルに突入していく1987年です。当時の住友不動産会長・安藤太郎さんの自宅へ行って、拝金主義・マネーゲームを先導していると抗議したんです。ちょうど『地上げ』などが社会問題化している時期。逮捕されることは前提の上での行動でした。逮捕されたあと、私は裁判で控訴をする気はまったくなかったので、早々に刑が確定しました。その時の裁判官の言葉をよく覚えています。久保真人さんという裁判官でした。判決の時に、こう言ってくれたんです。
『これは私見ですが、君たちはこれからも運動を続けなさい。ただし、合法的に!』

こう言ってもらえたのが印象的でした。私たちの抗議活動を理解してくれていると思いましたね。

 拘置所に入ると、しばらくして「刑務所はどこがいいか希望を聞くと言われたので、私は網走刑務所を希望しました。

その理由は、野村秋介先生(民族派活動家。1935~1993年。朝日新聞社社長室で自殺)が、最初に服役したのが網走だったからです。師の追体験をしたいということもあって、極寒の地を希望しました。あと、関東の刑務所だと知り合いの民族派活動家の街宣車が来て、『蜷川くん頑張れ!』みたいなことやりかねないから、それを避けたいというのもありましたね。応援してくれるのはありがたいけど、刑務所にも周囲の住民にも迷惑になってしまう。網走なら知り合いの右翼はほとんどいないから、静かに務めができると思ったわけです。

 網走では夜間独居(昼間は一般受刑者と作業をし、夜は独居房に入る)でした。思想犯はそうなんでしょうが、知らない人と生活を共にするのは嫌だったので、私には快適な空間でしたね。

赤落ち(刑が確定して刑務所に行くこと)すると、まず最初に『新入工場』というところで『基礎行動』で作業することになりました。解放農場で塀もないところです。25人ぐらいの模範囚が農作業を行う。けっこうつらい作業だけど、仮釈放も近くなるところです。夏と秋、そこで主に作ったのはビート大根。砂糖大根というやつでグラニュー糖の原料になる。あとはジャガイモだとかカボチャも作りましたね。網走は農園刑務所として有名なんです。

 冬になると雪が降って畑仕事ができなくなるので、山奥の『住吉農場』ってところに移って木こりをやるんです。枝払いをやったり間伐したり木を削ったり、伐採の仕事ですね。アノラックの上下を着て、フードをかぶって、耳あてをして、手袋も二重の防寒装備です。それでも寒いから、作業で体を動かすしかない。いちばん寒いときは零下27度くらいです。山の上に行く時には腰の上ぐらいまで雪が積もっている道を、私みたいな体の大きいのが4人ぐらい並んで、人間ラッセル車みたいになって先頭を行くわけです。後ろに続く人が、雪を踏み固めて道を確保していく。汗びっしょりになるので、寒さを忘れるには最高でしたね。樹氷やダイヤモンドダストも初めて見ました。ロマンチックでしたよ(笑)

網走には750人ぐらい受刑者がいたんだけれど、私みたいな政治犯は1人か2人しかいなかった。というのも刑務所は、暑さ寒さや作業もつらいんだけど、もっとつらいのは『言葉が通じないこと』なんです。

 私のような民族派と対立する左翼であっても、公安事件で捕まった人なら言葉が通じる。思想は違っても同じ政治運動をしていれば価値観が重なる部分は多いからです。でも、窃盗犯だとか密輸犯だとか、そういう人たちに天下国家のことを話しても通じないわけです。

受刑者に話しかけられて、私が一番ショックだったことがあります。

『蜷川さん、あの事件やって、いくらになったの?』

『いや、一銭にもならないですよ」と答えたけど、まったく信じてくれない。
『嘘でしょ。それで、なんであんなことするの』と言ってくる。結局、カネのことしか考えていない。まったく言葉が通じないんですね。だいたい7割強ぐらいが覚せい剤関連の受刑者でした。うったり買ったり密輸したり、覚せい剤がらみの窃盗犯などが多かったです。

 あと、嫌だなあと思ったことがあります。昭和天皇の体調が心配されていた時期に、みんなが『恩赦区』を話題にしはじめたんです。私が服役している時に昭和天皇は崩御されたんですが(1989年1月7日)、その前から周囲の受刑者がみんな『恩赦があるぞ』と言い出した。知ったかぶりする人物もいて、「サンフランシスコ条約の時には刑務所がカラになった」だとか言い出すわけです。それをみんな信じて、なかには家族から洋服を送ってもらって出る準備をしている受刑者もいた。

 私はそういう話が聞こえてくるのが、とにかく嫌だった。恩赦目当てで、天皇陛下の死を期待しているわけです。まあ、何か言ったらケンカになっえつぃまうので、わたしは黙っていましたが。結局、平成になった時、恩赦で出た人は網走では一人もいなかったんじゃないかと。

 受刑者で印象に残っているのはヤクザの幹部の人たちですかね。そういった人たちは、入って来るとどこの組の誰なのかすぐにわかっちゃうんです。だから上のクラスは半端なことはしない。新入工場にいた時に、組長クラスの人に新しい作業服を渡そうとしたら『いや蜷川さん、私はションベン刑ですぐに出るんだから古いので大丈夫です。それよりうちの若い者が来たらよくしてやってください』と言うもんです。だから、そういう人がいる工場ってのはあんまり違反がない。睨みをきかせているし、おのずと周囲もその人の顔を立てようということになるんです。

刑務所では読書が何より楽しみでした。
 私は服役中の3年半の間に870冊ぐらい読みましたね。ゴールデンウィークとか連休の前には独房に5冊とか持っていくんだけど、面白い本だとあっという間に読んでしまう。そうすると読むものがなくなって、無聊を託つことになる。だから、なるべく難しい本を選ぶとうにするんです。分厚い宗教書や巻数の多い歴史書だとか。『史記』や『十八史略』など、中国の古典はほとんど読みました。今の中国じゃなくてかつての中国の奥行きの深さとか、中国で使われていた故事来歴は、現代の我々の知恵に繋がっている。なんでもっと早く勉強しなかったのかなあと思ったもんです。
 私の座右の書は野村先生の獄中句集『銀河蒼茫』ですが、いろんなことを教わったという意味では、伝記作家の小島直記さん。彼は「男たちシリーズ」というものを書いていて、たとえば『逆境を愛する男たち』や『志に生きた先師たち』という作品がある。その本の中に紹介されているものを次々富みました。あとは高橋和己さん。彼は中国史に造詣がとても深い。それに惹かれました。「左の高橋、右の三島」って言われてたのに、右の私が『邪宗門』などを読んで感銘を受けていたんです。高橋和己さんには野村先生に通じる『亡びの美学』みたいなものがあると思いましたね。
読書していろいろ学ぶ前までは、赤いものを見たら許さない、単なる反共青年だった(笑)。半分冗談ですが、消防車や郵便ポストを見ても「このアカ野郎!」って感じだったんです。でも思想書や宗教書を独房で読んで視野が広くなった。かつてのテロは「一人一殺」でしたが、刑務所での私は「一日一冊」だったんです。

食べることも楽しみでしたね。「ひもじさと、恋を寒さを比べれば、恥ずかしながら、ひもじさが勝ち」……というわけで、食事時間は待ち遠しかった。メニューだけ見ると「悪さをした奴らがこんなにいいもの食って」と思うかもしれないけど「用等を揚げてく肉を売る」の類です。実際に出てくるものをみたら「まあ……このぐらいで勘弁してやるよ」という程度のもの。
 入ってすぐの時に「ニシンの塩焼き大根おろし添」ってメニューがあった。さすが北海道だと思っていたら、真っ黒な小さな魚が出てきてたまげましたね。それが大根おろしの汁でびちゃびちゃなわけです。『これ、なんすか……?』と刑務官に聞いたら『ニシンだよ』と。ああ……二度と悪いことしないようにしようと思ったもんです(笑)。
私が好きだったのはカレーですね。あと、お汁粉がうまかった。酒を飲まなくなると、なぜか『甘シャリ』(甘味)が欲しくなるんです。作業するところによって食事の量が違うのですが、私がいた農場は重労働だから量が多かった。お汁粉もラーメンどんぶり一杯ぐらい出るんです。食べ終わった瞬間から、次のお汁粉の日が待ち遠しくなるくらい、中毒性がありましたね。

 私は出所する時、当時でいう『一級』だったんです。今は一類、二類……って言うみたいだけど、一番の模範囚だった。当時、750人の中で一級は5人だけ。宝くじに当たるくらいすごいって言われたもんです。
 今でも、刑務所に入ったことにまったく後悔はないです。志があれば刑務所なんてなんともないし、もし若かったらまた10年ぐらい入って勉強したいと思ったりしますよ。シャバは誘惑が多すぎて、なかなか勉強に集中できませんからね(笑)

出所当日、蜷川を迎えに野村秋介ら200人近くの仲間が網走刑務所まで訪れた。この後、蜷川はホテルでお茶漬けの饅頭を30個ほど一気に食したという。

株式会社二十一世紀書院
神奈川県横浜市南区平楽148-3-312
民族派運動における情報発信を目的に、野村秋介が創設した出版社である。
主に野村の著書や機関誌「燃えよ祖国」を販売する他、野村の命日に、追悼集会「群青忌」を開催している。前身は大悲会機関誌の「大悲ジャーナル」。



徐裕行と蜷川