村井秀夫の隠し子 | 村井秀夫刺殺事件の真相を追って

村井秀夫刺殺事件の真相を追って

村井秀夫は何故殺されたのか?徐裕行とは何者なのか?
オウム真理教や在日闇社会の謎を追跡します。
当時のマスコミ・警察・司法の問題点も検証していきます。
(2018年7月6日、麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚らの死刑執行。特別企画実施中。)

村井秀夫の隠し子


(号泣する村井の母、無言の父)

村井刺殺事件の最大の被害者は村井秀夫の両親だった。

1995年4月25日夜。大阪府吹田市内の実家に、一台のタクシーが到着した。
父親(当時65)は息子が入った白木の箱を大切に抱えていた。隣では母親(当時63)が顔を両手でおおい、号泣するのがみえた。



実家の前には80人の報道陣たちが待ち構えており、彼らを避けるように小走りで玄関に入っていった。(参考文献:読売新聞4月26日大阪朝刊27項)

そして、玄関近くのポストには、村井刺殺の新聞が挟まったまま放置されていた。

2人にオウム真理教家族の会のような支え合う仲間はいない。
母は精神を病み、家から出なくなった。父親はマスコミを扉の前で追い返した。
息子の悪行が露呈するたびに、世間の冷たい視線が2人に突き刺さった。
そして刺殺犯・徐裕行の横柄な態度がさらに2人を追いつめる。

そんな2人の前に、ある記者がこう尋ねた。「お孫さんのことですが……」
村井の父は驚いた。

サンデー毎日95年8月6日38号30~33項より抜粋する。


衝撃スクープ「この子の父親は故村井秀夫です」出生の秘密を明かした女性幹部信者の哀れ

何か哀れかな、その女性信者の「衝撃の告白」に触れる前に、故・村井秀夫氏について少し書いておきたい。というのも、この村井氏ほど虚実入り乱れた人物はいないし、隠された幼子がいるという話も、その落差とともにある出来事に思えるからだ。

 我々のイメージのなかにある村井氏は丸顔、下がった目じり、そして笑みを絶やさない口元ーとあくまでも穏やかだった。その容ぼうはテレビ向きの顔だった、という。
「あの顔と雰囲気は、視聴者に安心感を与える要素がみんなそろっています。弁護団やジャーナリストの皆さんにもブラウン管向きのキャラクターはいましたが、テレビ映りの面からいえば、村井氏が一番でしたね」
生前の村井氏を番組に出演させた、民放関係者の証言である。

 刺殺される前には、上祐史浩・緊急対策本部長、青山吉伸・元弁護士らとともにテレビ出演していたが、時に激怒する上祐氏や青山被告に比べ、あくまでソフトにとうとつと語っていた姿が記憶に蘇る。
阪大大学院、神戸製鋼研究所といった経歴に加え、「(出家した時は)カモメのジョナサンの心境だ」との言葉は、人々に理性的なイメージを与えるのに十分だった。また、テレビのインタビューで空中浮遊(原文ママ)について訪ねられた際には、「私は残念ながらできないんですよ」とあっさり認め、エリート臭とは無縁の、ざっくばらんな雰囲気も漂わせていた。
風ぼうや経歴、その言動からすれば、生前「オウム、最後の理性」ともいわれ、「善人」「哲学者」と周囲から見られていたのもうなずけるところだ。

 しかし、死後三ヵ月がたち、当局の捜査が進むにつて、そうした「像」は大きく崩れていった。
なにしろ、教団が引き起こした「サリン・テロ」の主導的役割を果たしていたのである。
 科学者としてサリンそのものの生成に深く携わったほか、松本サリン事件に関与し、落田耕太郎さん殺害の現場にも居合わせている。その際、落田さんの体を押さえるなど、外観のイメージとは掛け離れた行為を、むしろ冷静にやってのけたのだ。

 もちろん「死人に口無し」とばかりに、逮捕された信者が必要以上に村井氏の名前をあげつらっていると考えられなくもない。しかし、ある捜査幹部はこう断言するのである。
「生存していれば、逮捕、起訴は当然のこととして、裁判では極刑を求刑されるのは間違いない」

 さらに刺殺事件自体も、麻原被告の右腕として知り過ぎたゆえの結果、との見方も根強いのである。


(刺殺事件から一ヵ月後、南青山ビル。)

子供を保護されたくないから…

さて、その村井氏に隠された子が二人もいたことが、当局の調べで明らかになった。
 村井氏の身近にいたはずの女性幹部が、当局の事情聴取に対して、「私の子供たちの父親は、村井秀夫さんです」と、衝撃発言をしていたのである。
 ふっくらとした顔に、肩までかかる長い髪のこの女性は、典型的な「オウム美人」である。年齢は二十四歳と村井氏より一回り下になる。村井氏とのかかわりや出産状況は後に述べるとして、まず女性の人となりをみてみよう。

 京都市生まれの彼女はピアノを幼いころから学び、効率高校の音楽科に進学した。この時、先に出家していた兄の感化で十七歳で入信。名門市立大学に進学したものの、休学し出家してしまう。
 オウム真理教が東京都から宗教法人の認証を受けた直接の一九八九年に出家した彼女は、若いながらも教団の音楽部門の責任者を務め、麻原被告をたたえる教団歌「神聖賛歌」「打ち勝て悪魔に」の作曲を担当するなど頭角を現していった。そして、二十三歳で、幹部である正悟師に異例のスピードで昇進する。

 その彼女は一昨年八月と今年三月に、長男、二男を相次いで出産。ともに二八〇〇㌘で、名前は彼女自身が命名したというのである。
 出産場所はいずれも静岡県富士宮市の富士山総本部内、立ち会った医師、看護婦は地下鉄サリン事件に関与したとして逮捕された。中川智正被告と佐々木香世子被告だったという。
 本来なら、出生届は生後二週間以内に届けなければならない。しかし、彼女は村井氏が刺殺されてから、やっと届け出を出したのである。 それを受け、事実確認のため、当局の担当者が富士山総本部に出向いての事情聴取だった。
「出産の事実を村井氏は知っていたのですか」と尋ねると、彼女は視線を床にはわせながら、「ええ。知ってました」と言い切った。そして、出生届を遅れて提出した理由については「正式な結婚ではないため届けを出せないでいました。今ごろになって出したのは、子供を警察に保護されたくないから……」と答えたという。

 男女交際を禁じ、罰則を設けている教団だが、正悟師クラスになると、結婚はできる。しかし、妻とともに出家した村井氏は、幹部ではなかったため、二人は教団の決まりに従って協議離婚をしている。

 その村井氏の別離した妻(三〇)は「前夫」のもとでサリン生成にかかわったとして殺人容疑で逮捕されている。八七年、出家直前の村井氏は「夫婦でセミナーに参加できる幸せをかみしめ、修行に励みたい」と、妻とともに参加できる喜びを素直に口にしていた。
 そして、夫娼妻随の出家と別離。正大師まで順調に駆け上がり、教団科学技術者のトップとして麻原被告に仕える村井氏を、前妻はどんな思いで見つめていたのだろうか。
 前妻が逮捕容疑ともなったサリン生成に深くかかわったのは、やはり村井氏のそばにいたかった面があったのかもしれない。

 しかし、結婚を許される地位まで到達した村井氏が選んだのは、前妻よりも六歳若い別の女性だったようだ。

 教団幹部同士の詳細は、なぞの多い教団だけに容易に漏れ伝わってはこない。
 しかし、彼女は教団出版物のなかで、「(魂が)抜け出すと、わたしはあるサマナ(出家信者)おところに飛んでいき、いっそに遊んでしまいました」と、教団内に親しい信者がいたことを明かしている。厳しい修行の功徳と麻原被告をたたえる言葉ばかりが並ぶ教団出版物に「サマナと遊ぶ」という描写が出ること自体が珍しいのだが、このサマナが彼女にとって特別な存在だったことが十分うかがえる。さらに、彼女の兄が村井氏と同じ阪大生だったことも二人の会話のきっかけとなったことだろう。いずれにしろ、この文章に出てくる「サマナ」が村井氏であることをうかがわせてやまない。
この本が出版された九二年末には、すでに彼女は最初の子供を宿していたのである。


(殺害現場でしゃがむ都沢和子)

女性信者の敬愛を集めた村井氏

ところで、父親の名を堂々と名乗った彼女と対照的に、教団最高幹部の一人で、三人の女児を出産している石井久子氏は、父親に関して、「名前は言えない」と、かたくなに口を閉ざしている。

 女児の父親については、上祐氏が麻原被告の兄弟に面会した際、「(石井氏の子供は)尊師の子です」と語ったという情報もある。しかし、当の上祐氏が、「石井氏は昨年十月、教団幹部と結婚している」と報道陣に説明し、「麻原被告の子」説を否定している。

 麻原被告に最も寵愛されている石井氏の立場に立てば、例えそうであっても「尊師の子供」とは軽々に口にすることはできないのであろう。

 このため、当局内には、女性幹部が村井氏の名前を挙げたことについて、「石井氏と同様に、本当の父親を守るためだったのかもしれない。それでうそをついたのでは」との見方も一部にある。
またしても「死人に口無し」ということなのだろうか。しかし、そうならば、わざわざ村井氏の名前を出す必要はなく、石井氏にならって「言いたくない」と答えれば、それで済むはずだ。

 この点について、ある捜査幹部は、手元にそろえられた教団幹部の子供の顔写真を斜めに見やりながら、愛想のいい村井氏が女性信者の間でかなり人気があったことを明かしたうえで、しんみりと話した。

「教団内では村井氏の良い面ばかりが知られ、刺殺直後には『殉教者』となっていた。父親の名前を尋ねられ、女性独特の見栄で、敬愛を集めていた村井氏の名を口にしたのかもしれない。もし本当に村井氏の子なら、『凶悪事件の容疑者』としての実像を知らされないまま付き合い、出産したのでしょう。それではあまりに哀れです」

祝福の言葉さえもらえない母と子

 さて、村井氏の残された家族、そして、女性幹部の家族は「孫」の誕生を知っているのだろうか。
 大阪府内の村井氏の実家では「マスコミはお断り」とドアを固く閉じたままであった。
しかし「お孫さんのことですが……」と問い掛けると、「孫のこと?」とはじけたようにドアが開いた。困惑を満面に現した中年男性に、すかさず「教団にいらっしゃるお孫さんの件ですが……」と質問をした途端「そのことは一切関係ない」と、ドアはピシャリと閉められた。



村井氏が在命中、両親は、「孫の顔が見たい」と語っていたというが、この対応から、孫の「誕生」を知っていても口にできないつらさをかみしめていると受け取れないこともない。
一方、京都市内の女性幹部の実家では、「(出産の事実も)一切知らない。勘当していますから、関係ありません」

 二十四歳、ひっそりと二児の母となった女性幹部は、出産の事実を親族には全く連絡していない、という。
 本来ならば誰からも祝福されるべき誕生のドラマ。祖父や祖母からの喜びの言葉さえかけてもらえない母親と子供たち。そして、刃物によって命を奪われた父親、さらに獄中にいるその前妻。

 オウム真理教という教団のなかにあって、ここにもまた、えもいわれぬ人間の哀しさが、事件の陰影とはまた別に、色濃く伝わってくるのであるー。




事件後、村井家は近所付き合いを止め、自治会費用を支払わなくなった。
徐裕行や犯行を指示したと思われる「ある人」についてメディアが取材にくると、父親は「私どもには全く関係ありません」と繰り返すのみだった。麻原が逮捕された日には、村井家から線香のにおいが漂っていたという。



あれから20年以上の月日が経過した。
刺殺犯は相変わらず事件を捏造し、平然と子供を作り、暴力団仲間とともにパールレースを満喫している。村井家の悲劇など他人事だと割り切っているようだ。



村井の両親が健在であれば、父親は85、母親は83になる。
「日刊スポーツ」95年7月27日の報道の時点で長男は1歳11ヶ月、次男は4ヶ月。
今では成人して社会人になっている頃だ。
彼らは絶望を振り切って、家庭の絆を取り戻すことができたのだろうか。

徐裕行が罪を認めない以上、村井家の悲劇は延々に終わらない。