村井秀夫刺殺事件の真相を追って -13ページ目

村井秀夫刺殺事件の真相を追って

村井秀夫は何故殺されたのか?徐裕行とは何者なのか?
オウム真理教や在日闇社会の謎を追跡します。
当時のマスコミ・警察・司法の問題点も検証していきます。
(2018年7月6日、麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚らの死刑執行。特別企画実施中。)


週刊現代 平成十一年十月三十日号「オウム真理教と北朝鮮」の闇を解いた 第十回

「化学技術省長官」刺殺事件の全真相 中編

サリン開発の責任者だった「化学技術省長官」刺殺事件の全真相 中編
村井秀夫が極秘指令
「原発の機密をスパイせよ!」

 村井刺殺犯の徐裕行が、高度に訓練されたテロリストであることは、先週号で指摘した。では、村井はなぜ口封じをされなければならなかったのか。その謎を解くカギとなる驚くべき事実があった。村井は信者たちに、日本各地の原発に労働者として潜り込み、スパイ活動を行うように指示していたのである。


 


 村井が口をすべらせかけた秘密


 あまりにも多くの謎に満ちた、オウム真理教「科学技術省」のトップ・村井秀夫刺殺事件。実行犯・徐裕行は逮捕後の取り調べで「上祐(史浩)でも、青山(吉伸)でも誰でもよかった」と供述している。

 しかし、当日の徐の行動を詳細にたどってみると、この供述には多くの矛盾点が浮かび上がる。やはりこの暗殺者は、ターゲットを明確に村井秀夫「科学技術省」長官に置いていた。

 では、なぜ村井秀夫だったのか。村井でなければならなかったのか?

 刺殺事件の直前にテレビに出演した村井が、ふたつの重要な秘密について口をすべらせかけたことは前回の記事の中でも述べた。つまり一千億円という途方もない資金の所在についてと、地下鉄サリン事件で用いられた毒ガスは、じつはサリンではなかった、という驚くべき証言である。

 教団武装化を推進しはじめたオウム真理教の資金源に、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)のからむ偽ドル疑惑があることはこれまでにも指摘してきたが、第二の「サリンか、ほかの毒ガスか」という疑問については、もう少しだけ言葉を足しておかねばならないだろう。


 

 村井は、地下鉄の毒ガス事件で使われたガスの種類について「サリンではなく別のガスだ。アメリカの研究所でもそのことを証明してくれるはずだ」と、確信をもって話している。この言葉が本当に意味していたのは、どのような内容だったのだろうか。

 一九九四年六月二十七日、長野県松本市、午後十時四十五分、突然散布された毒ガスで住民はパニックに陥った。

 蒸し暑い夜で、窓を開けたまま眠りに入ろうとしていた人も多い。この事件では窓が開けらかていたかどうかが、生死の分岐点になっている。マンションの窓を開けたまま眠りに入ろうとしていた住民は、そのために命を落としたのである。

 この毒ガスは、空中を漂い、広がり、薄められてなお人の生命を奪った。その毒性が、きわめて強力だったことを、この「松本サリン事件」は教えている。

 


 別の「製造元」のサリンか?


 その事件発生の一時間半くらい前、事件の現場から二百五十メートルくらい南西に位置する開智二丁目付近で、帰宅途中の会杜員は奇妙な光景を目撃した。

「銀色の宇宙服のようなものを着ていました。夢を見ているようで、不思議な光景でした」


 

 この銀色をした宇宙服のようなものが、毒ガスに対する防護服であったことは明らかだが、このことは毒ガス(サリン)散布の実行犯たちが、あらかじめ毒ガスの強力な毒性について、正確に認識していたことを示している。

 純粋なサリンは常温では液体状だがきわめて揮発性が高く、ほぼ瞬時に拡散してしまう。その霧粒が呼吸器に入るとほぼ即死状態に近く、一粒の霧粒が肌に付着しただけでも、毛穴から体内に浸透し数十分以内に死亡する、とされている。

 ところが、翌年三月二十日に引き起こされた東京での「地下鉄サリン事件」では、複数の実行犯の誰もがこのような防護策を講じていない。さらに、散布方法についても傘の先で「サリン」を入れた袋を突き破るという杜撰な方法がとられている。

 また地下鉄車内の床に濡れたような痕跡すら残している。地下鉄の車内およびプラットホームという閉鎖空間では、松本サリン事件の例からすると、さらに被害の規模は大きくなるはずだった。

 ところが、数千人にのぼる被害者を出したとはいえ、地下鉄の事件では、その規模と程度には大きな隔たりがある。


 

 このことから分かることは、地下鉄事件で使用された毒ガスが、世間一般に伝えられているように「サリン」ではなく、まったく別種の毒ガスであった可能性が濃厚なのである。

 それがVXガスあるいはタブンなどの別種の毒ガスであったのかは、村井の口が封じられてしまった以上、オウム真理教側から証言をするものは誰もいない。

 しかし、少なくとも事件の状況から見ただけでも、松本市で散布された「サリン」と、地下鉄事件で使用された「サリン」は、まったく別の製造元でつくられた、あるいは純度に大きな隔たりがあった、と考えられるのである。

 刺殺される直前に、村井が語りはじめた「まったく別のガスだ」という言葉は、そのことを指し示していた。しかし、村井はそのことの詳細を語ることなく、一命を落とした。

 なぜなら、オウム真理教内で「サリン」製造責任者だった村井のその発言は、さまざまな不都合を関係各方面に呼び起こすことになるからだ。製造元が違うということが明らかにされれば、その製造元がどこか、どこの国かが問題にされるだろう。

 これは、当の製造国だけにとどまらず、日本政府にとっても利害関係は奇妙に一致していた、と考えざるを得ないのである。


 

 それが国内で製造されたものではない、とされれば、製造国、搬入ルート、入手ルート、さまざまな部分が一挙に複雑になり、国際謀略の壁にぶつかってしまうことは必至である。

 オウム真理教第七サティアンのサリン・プラント設備では、高純度のサリン製造が不可能とされつつも、この問題が曖昧な形で封印されているのは、どうやらそのあたりに原因がありそうである。村井の発言は、その封印されるべきストーリーを一挙に解きかねない危険性を持っていた。

 


 専門家も「すごい資料だ」


 しかし、村井が知っていた事実、語りすぎてしまうかもしれなかった事実はオウム真理教「科学技術省」トップという彼の立場を考えたときに、偽ドル、サリンだけにはとどまらず、さらに深い第三の秘密まで白日のもとにさらけ出す危険性を、じつははらんでいたのである。

 ここに取材班が入手した、膨大な機密書類の束がある。一枚一枚をめくっていくと、さまざまな図面、設計図、人員配置表、各種のメンテナンスのマニュアル、作業工程表などが混在しているのがわかる。

 表題の打たれていないものも多いが、いくつかの文書には次のような文字が見える。


 

「原子カプラント定検および増設・改良工事」
「原子カプラント主要工程表(社外秘)」
「五号機R/B地階サーベイ記録」
「原子炉PCV全体図」
「原子炉班体制業務分担表二号機」
「標準部品表示基準」

 実はこの書類は、現在稼働中の日本の原発についての、膨大な機密書類の束なのである。われわれが入手したのは、東京電カ福島第一原発、同第二原発と、中部電力浜岡原発(静岡県)、さらには、石川島播磨重工業原子力事業部などの研究施設のものだ。いずれも公開されているものではない。

 書類は、原子炉のボルトの位置、管の口径、内寸、メ一ターの位置、全体図におよぶ。民間の原発監視機関でもある原子力資料情報室(東京)の上澤千尋氏に、いくつかの資料を見てもらい、コメントを寄せてもらった。

「これはすごいですね。一般公開されているものでは、ここまで詳しく書かれているものはありません。しかし、これには部品の材料配分、どういうステンレスを使っているかが明記されています。私もはじめて見ました。

 また、ここに含まれている詳細な検査記録のようなものは、情報公開の対象にもなりません。


 

なぜなら、検査をして問題がなければ、問題がなかったという事実だけが重要であって、作業工程や数字を公開するのは意味がないという孝え方からです。もちろん、それは原発側、企業側の言い分なんですがね」

 一般の目にふれる原発関係の資料は、重要な部分はすべて真っ白なのだという。原子力資料情報室の所有する資料でも、枠取りだけが印刷されて、各原子力発電所の次のような文面の判が押されているものが多い。

『この資料はメーカーの未出版特許情報、ノウハウ等の機密情報を含んでおりますので、該当部分については非公開とさせて頂きます』と。

「要は、企業秘密なんですよ。寸法、計算プログラム、設計図面、材料の分量などは、すべて《白ヌキ》の対象になるんです」

 さらに目を通してもらう。

「これはBWR型。(東芝・日立・石川島播磨の三社産業グループのつくる沸騰水型原発)のものですね。作業過程のチェック・シートとか運転記録などは、運転技術レベルの低い国にとっては非常に参考になるでしょう。

 この資料を見ただけで、いつ、どこで、どの原発がどのような処理を施されたかがわかります。その上、配管とバルブの位置もわかります。どのバルブがどれだけ腐食していたのかが、記録に残っています」


 

 どうやら、かなりの機密資料であることだけは間違いがなさそうである。出所を明らかにしてしまえば、これらの機密書類は、オウム真理教の中から出てきたのである。

 オウム真理教「科学技術省」では、組織的に原発の機密資料を入手しようとしていた。九十年代のはじめ頃から、常時、各地の原発に下請け要員などの資格で作業員を潜入させていた。

 オウムの信者たちは、下請け作業員として各地の原発をまわり、あるいは研究員を教団に勧誘することを行っていた。

 そして、これらの原発、原子炉についての機密データの収集を命じたのは、他ならぬ「科学技術省」長官の立場にいる村井秀夫だった。

 


「カルマが落ちる」と言われ


 当時、その村井の指示のもとに、原発作業員として各地の原発に潜入していた元オウム信者の、次のような証言がある。

「ある時、村井さんとの雑談のなかで原発の話が出ました。私が原発で仕事をしたことがあると言うと、


 

『今度、行くときにはどんな資料でもいいから持ってこい。写真もとってこい。これはいいデータとして使える。持ってくれば、カルマが落ちるぞ。救済につながるから、頑張れ。行くときが決まったら直接、私に連絡しろ。具体的な原発の名前と仕事の内容も知りたい』

と言われました。原発は意外と管理が甘くて、資料などを外部に持ち出すことや出入りも簡単でした。

 私は結局、次に行く機会がなくて駄目でしたけど、村井さんはほかの信者にも『原発に働きに行く人間はいないか』と聞いたりしていました。原発で働くと給料がいいものですから、それだけ教団に多くのお布施もできるのです。

 私には原発のなにが役に立つのか、参考になるのか、まったくわかりませんでしたが、村井さんは 『オレは専門だから、たいていのことは見ればわかる』と話していました。

 これは、別の信者の話ですが、ある信者が『科学技術省』のスタッフに原発から持ってきた数枚の資料を渡したときに『よくやったぞ。功績があれば、ステージもあがるぞ』と村井さんに言われたそうです。

 村井さんは亡くなる三~四ヶ月前にも『原発にはもっと人を送ってもいいな』と言っていました」

 原発で働いていたもうひとりのオウム信者の証言は、さらに衝撃的である。


 

「オウムから原発に働きに行っていたのは、二百人はくだらないですね。きっかけは山口県の信者でUさんという人が、人材派遣業をやっており、その会社が原発からの仕事を受けていたからです。

 当時、信者の間では、お布施がたっぷりできる仕事がある、と噂になっていました。それが原発でした。

 近所の安いアパートとか下宿に泊まり込みで、仕事をします。一度行くと、三~四ヶ月働きました。給料は月に四十万~五十万円くらいになりましたね。Uさんは全国各地の原発に多くの人間を送り込んでいました。

 原発は、意外なことに管理がいい加減で、資料のコピーもとり放題でしたし、施設内の出入りも自由。原発の中心部のプールも、写真撮影できると思ったほどでした。

 また、その気になれば爆弾を仕掛けるくらいのことはいくらでもできました。金属探知機はあるにはあるのですが、プラスチック爆弾なら問題はないですし、そんなことをしなくても、金属探知機を通るときには、荷物は探知機の横からいくらでも手渡しできましたから。

 私はよく配管検査をやらされましたが、最初に赤い液体を塗ってから、次に白い液体を塗って配管の不備を調べます。ほんとうは資材とかが必要な部分もあるのでしょうが、まったく要求されたことはありません。


 

 もし、麻原がそのことを知り、目をつけていれば、大変なことになったのではないでしょうか」

 


 資料が北朝鮮に流れた可能性


 取材班は、この証言のなかにでてきたUという人材派遣会社および科学機器検査会社の社長であり、もとオウム信者とされている人物に何度か連絡をとろうとしたが、現在までのところ行方が不明である。

 しかし、ここに紹介した元オウム信考の証言と手もとの機密書類の束だけでも、オウム真理教が各地の原発の機密資料収集に手を染めていた事実は疑いえないだろう。

 九月末に茨城県東海村で起こった核燃料の臨界事故、その数日後にとなりの韓国・慶尚北道で起こった月城原子力発電所三号機の事故と同じような事件が、オウムの言う「ハルマゲドン」として実際に引き起こされたとしても不思議ではなかったことを、この事実は教えている。

 しかし、オウムはそのことを実行に移さなかった。このことはすべての資料と情報が村井「科学技術省」長官のもとに、留め置かれたことを示している。

 なぜか? 村井は、これらの資料を大量に収集し、どのように使おうとしていたのだろうか。


 

 ここで、思い出さねばならないのは、村井が早川紀代秀「建設省」長官とともに、たびたびロシアに出国していたという事実である。

 さらに早川はロシアを経由して、たびたび北朝鮮に渡り、その北朝鮮側の窓口が朝鮮労働党の「第二経済委員会」であったであろうことも指摘した。

 オウム真理教の総勢二百人にのぼる信者によって収集された日本の原発の機密資料が、じつは、この早川ルートによって北朝鮮に流出していた可能性が、ここに浮かび上がってきたのである。

 さらに、このルートを通じて流出した機密資料は、じつは原発の資料だけにとどまらず、さまざまなハイテク技術、最先端科学技術の膨大なデータであった可能性が、闇のなかから浮かび上がってきたのである。

 オウム真理教「科学技術省」長官・村井秀夫刺殺事件の背景には巨大な国際謀略が渦を巻いていた。

(文中敬称酪、以下次号)
■取材協力 今若孝夫、加藤康夫(ジャーナリスト

はじめに


 

これまで当ブログは、徐裕行が朝鮮学校出身で北朝鮮を支持者した男であること、朝鮮総連の会員であること、反日在日朝鮮人「うしお」のフォロワーであること、徐がシンガンス工作員と接点があったことを紹介してきた。

しかし、この他にも徐が北朝鮮と深い繋がりがある、とされる報道が週刊誌や一部の書籍で紹介されており、徐が”北朝鮮のスパイではないか”といった推測まで流れている。

これらの記事は断片的な情報が多く、信憑性に確信が持てないため筆者はあえてブログで取り上げるのを控えて来た。しかし、徐が朝鮮総連時代の活動を殆ど黙秘しており、未だその過去は闇に包まれたままだ。徐の過去が解明されないかぎり、北朝鮮陰謀論が解消される兆候はないといえる。

 

今回は「村井刺殺事件と北朝鮮の関係」について報じた雑誌記事を続けて紹介する。

これが事実であるかは読者の判断にゆだねたいと思う。

 


 

週刊現代 平成十一年十月二十三日号「オウム真理教と北朝鮮」の闇を解いた 第九回

「化学技術省長官」刺殺事件の全真相 前編

村井秀夫はなぜ口封じされたのか サリン開発の責任者だった「化学技術省長官」刺殺事件の全真相 前編

 

 犯人の徐裕行は、逮捕後「上祐、青山、村井の3幹部のうち、誰でもよかった」と供述していた。だが、これは明らかな嘘だった。やはり、村井こそを抹殺しなければならない、相当の理由があったのである。そこには、これまでの報道からは想像もできなかった、恐るべき国際陰謀が隠されていた---。

 

 村井だけを待ち続けた暗殺者


 

「あの事件だけは北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の仕業だ」関係者のほとんどすべての人間が、口を揃えて同じことを言う。法曹関係考、マスコミ、捜査関係者、再検証のために取材で接触した事件の周辺の人々。

 しかし、その「真実」はこれまで噂の領域を出ることはなかった。どこかで、真相が意図的に隠蔽されている、この事件にはそんな印象が圧倒的に強い。

 その事件とは、オウム真理教一連の事件のなかでも、もっとも不透明で謎に満ちた、村井秀夫刺殺事件のことである。

 村井「オウム真理教科学技術省」長官はなぜ殺されねばならなかったのか? 事件直後から噂が飛び交ったように、刺殺事件は村井にたいする口封じだったのだろうか? ただ、それだけだったのだろうか? 実行犯・徐裕行の背後には、事件直後から暴カ団関係者の介在と、北朝鮮工作組織の影が色濃く噂されてきた。

 オウム真理教の一連の事件を、北朝鮮工作組織との関係のなかで再検証しようとするこの連載のなかで、この村井刺殺事件はどうしても避けて通ることのできない事件のひとつである。


 

 さらに言えば、オウム真理教の一連の事件の背後に横たわる、これまで明らかにされてこなかったもうひとつの隠された真実を解明する、重要な手がかりを与えてくれる事件であった、と言うこともできる。

 事件の再検証をはじめるにあたって、あらかじめ述べておきたいのだが、一回の記事だけではそのすべてを書き尽くすことは難しい。

 何回かにわたって作業をつづけるが、この事件が、それだけ深い闇と陰謀に彩られているのだ、ということだけは冒頭に述べておいてもいいだろう。

 事件が起こったのは一九九五年四月二十三日、地下鉄サリン事件から、ほぼ一ヵ月後。東京・南青山にあった「オウム真理教総本部」前、多くの報道陣、関係者、さらに衆人環視の真っただ中で引き起こされた事件だった。

 事件前日の四月二十二日朝、徐裕行は足立区の自宅を出てタクシーを拾うと、まもなく運転手に「ここらへんで包丁が買えるところはないか」と聞いている。

 近くの金物屋で刃渡り二十センチの包丁を買った。値段は五千円だった。その足で南青山の教団総本部前を下見。渋谷に出て喫茶店に入り、アイスミルクを注文。しばらくして店を出るが、すぐに同じ店に入り、夜まで時間を潰す。その夜は渋谷・道玄坂のラブホテルにホテトル嬢と泊まった。

 

(徐が宿泊していたラブホテル)


 

 翌日午前十一時、そのラブホテルをチェック・アウト、南青山のオウム真理教総本部前に到着したのは、それから約二十分後のことである。

 近くのコンビニでパンを買い、ふたたび総本部前に。それから約九時間、徐は本部前でじっとひとりの男がそこから出てくるのを待ちつづけた。

 この間、徐がその場を離れたのは、夕方になって近くのラーメン屋に入ったときだけである。辛抱強く、この暗殺者はただひたすら「男」の出てくるのを待っていた。つまり、科学技術省トップ・村井秀夫が彼の前に姿を見せるのを、である。

 彼がたったひとりの男、村井を待ち続けている間に、午前十一時二十六分、上祐史浩緊急対策本部長が外出先から教団本部に戻ってきた。徐の前を通り過ぎるが、彼は手を出さない。徐が本部前に到着して数分後のことである。

 午後二時三十八分、これも教団の幹部だった青山吉伸弁護士が外出先から総本部へ戻ってくるが、徐は動こうとしない。その十分後、ふたたび上祐が外出のために姿を現す。しかし、徐は今度も動こうとしない。

 そして夜八時三十六分、村井秀夫が教団総本部かち姿を現した。この日、村井は普段つかっていた通用口が閉まっているのを知って、本部の正面玄関に姿を見せたのである。


 

 徐裕行の身体がゆっくりと動いた。手にしていたアタッシェケースから包丁を取り出すと、ゆっくりと向きを変えた。テレビクルーのまばゆいライトの中へ暗殺者は平然と入っていった。

 村井の腹部に、買ったばかりで値札がついたままの包丁が突き刺さっていったのは、その数秒後のことである。

 


 大きな隠すべき真実が存在した


 犯行後の徐は、興奮した顔色を見せるでもなく、平然と立っていた。駆けつけた警察官に身柄を押さえられても終始、その態度は変わらなかった。任務を果たし終えた暗殺者の、充実感と虚脱の中にいたような印象を受ける。

 この経過から、はっきりとすることは、暗殺者・徐が明らかに上祐でも青山でもなく、ただひたすら村井秀夫ひとりをターゲットにしていた、ということだった。逮捕直後の供述で徐裕行は、

「自分ひとりで考えてやった。テレビでオウムの報道を、見て義憤にかられた。このままオウムを放置しておくと危険だと思い、誰でもいいから幹部を痛めつけようと思った」


 

と言っている。しかし、この供述を信用した人間は、捜査関係者のなかにも誰一人としていないだろう。誰でもよかったというのは、明らかに事実と違う。犯行後しばらくして、徐は所属団体について供述を変える。

「所属団体は伊勢市の神洲士衛館」

 右翼団体である。しかし、この政治結社はなんの活動もしていなかった。前年、九十四年の十月に三重県選挙管理委員会を通じて自治省に政治団体の設立届が出されてはいたが、街宣車もなく、事件の五日後には解散届が出されていた。さらに供述は、

「山口組系暴力団・羽根組(三重県伊勢市)幹部の上峯憲司から指示されたものである」

という内容に変えられた。警視庁は事件から二十日ほどたった五月十一日、羽根組幹部上峯憲司の逮捕に踏み切る。しかし、上峯憲司の公判廷は一審、二審とも無罪。裁判所は次のような判断を明らかにした。

「徐の供述には主要な点で不自然、不合理なところがある。・・・・・・被告(上峯)が徐に殺害を指示したのであれば、それは絶対に組との関係が明るみに出ないように配慮すべき極秘指令であるはずである。刑事責任を免れようともくろんでいた被告が、わざわざこのような指示をする合理的な理由は見出しがたい。

 


 

・・・・・・(犯行を指示されたとする)日付に関する(徐の)供述変遷も非常に不自然で、被告からの話が徐にとってはさして重要なことではなかったのでは、との疑いをぬぐえない。・・・・・・徐の供述には重要な疑問点があり、ほかに被告の犯行への関与を推認させる有力な証拠もない・・・・・・」

 ここで裁判所が示した徐の供述にたいする疑問は、この事件の経過を検証したときに、まったく正当なものである。上峯は、この村井秀夫刺殺事件に、どうやらまったく関係していない。

 では、なぜ、徐は「指示された」という供述をし、羽根組との関係を強調したのだろうか。私がたちどころに思い当たる理由は、ふたつである。

 ひとつは取り調べにあたった捜査員による誘導。この「誘導」は、これまでにもいくつかの事件で大きな問題になったケースがある。人は自ら納得のいく絵しか描かない。

 逮捕直後の徐の供述、単独犯説に捜査陣がごく普通に疑問を持ったときに、この供述を引き出す土壌は用意されていたと言えるだろう。


 

 さらに、もうひとつ、徐がなぜその誘導にのったのかという点については、テロリスト・徐裕行に、もっと大きな隠すべき真実と事情が存在していた、ということにほかならないだろう。大きな隠すべき真実の前で、人は小さな嘘を罪の意識なく平然と言ってのけることができる。

 言葉で説明をはじめると何万言も費やさなければ、この事情を説明し切ることは容易ではないのだが、私は「よど号」のハィジャッカーたちの嘘と北朝鮮の虚構を解読する作業のなかで、なんどとなく同じようなケースに遭遇した。

 暴力団関係者に指示を受けた、という当局の誘導は、実行犯・徐裕行にとって、天の助け、とも思えたはずである。さて、では徐が本当に隠したかったことは何であったのか?

 


 親友の父親は朝鮮総連幹部


 実行犯・徐裕行の背後には、明らかに北朝鮮工作組織の影がある。私たちは、あらためて徐の生い立ち、周辺の事情を再検証した。

 関係者の話もできるかぎりの範囲で、あたり直した。さまざまな側面と複雑な背景、事情が浮き彫りにされてきたが、それらのひとつひとつをここでレポートしている余裕はもちろん、ない。


 

 私が知りたいのは、そして明らかにしておきたいのは、背後で蠢く北朝鮮工作組織の関わりだけである。

 徐の背景には、いくつかのあからさまな北朝鮮工作組織の人脈が配置されている。東京・五反田のコリアン・クラブ「M」に徐が何度か顔を出していた、という話。

 

(筆者注:五反田のコリアン・クラブ「M」とは、救う会全国協議会ニュースの情報によると「クラブ・ミラン」だとされる。)

 

 ここのママの姉にあたる人物が、北朝鮮の工作員・辛光洙と同居していた人物であるという事実。また、この店のママの所有していた家屋に、徐が仲間3人と同届し、住民票を移していたという事実。

 

辛光洙の愛人、朴春仙)

 

 しかし、これらの複雑に絡みあった事実の背後に、なにかが潜んでいるという予感はあるにはあるのだが、どうやら、それらはこの事件の本筋ではない、という印象がつきまとう。「M」のママはこう証言する。

 

 

「徐のことでは、うちは大きな損害を被った、事件が発覚するまで、徐の名前も知らないし、顔も見たことがなかった。店にも来たことはないですよ。空き家になっていた世田谷の家を、Mという息子の友人に貸していたのは事実です。家賃は十万円でした。

 それがひとりでは家賃を払いきれないというので、もうひとり、T(筆者注:高山英雄こと高英雄)という友人と二人で借りたいと言ってきた。断る理由もないでしょう。ところが徐のことになると皆目わかりません。


 

徐の同居人M

 

 あとから、MとT二人のうちのひとりが、徐を連れてきた、ということを知りました。しかも、住民票まで移していた、という・・・・・・。

 おかげで、世田谷の家がテレビに映し出されるわ、マスコミの人たちが押し寄せるわ、大変でしたよ。住民票が移されていたお陰で、大変な目にあいました。

 わからないことばっかりです。逆になにかに利用されたのかもしれません。公安が流した情報が書いてある雑誌をもって、公安が聞き込みにくる。マッチポンプみたいなものですよ」

 しかし、さらに取材と検証をすすめる過程で私たちは、徐が一緒に住んでいた友人Mの父親が、朝鮮総連の幹部だったという事実に突き当たった。

 さらにタクシーの運転手をしていた徐の父親もまた、朝鮮総連と関係の深い人物であったようである。

 しかし、だからといって、これらの登場人物が、徐の犯行の背後に直接なんらかのかたちで関係しているということはできない。

 ただ、私はこうした事実の積み重ねのなかで、徐裕行の生い立ちにおける北朝鮮との深い関わりを見る。

 

徐の父親(写真左)

 


 


 北朝鮮へ渡った形跡がある


 徐が世田谷で同居していた友人のひとりTは、その後別の事件で逮捕され、村井刺殺事件との関係を追及されている。そのTの弁護士の話は、大変興味深いものだった。

──徐は朝鮮学校の出身だという話があるのですが。

「そのはずです」

──足立区の工業高校出身という話もあるのですが。

「それは違うでしょう」

──親しくしていた友人のひとりの父親が、朝鮮総連の幹部だった、ということについてはどうでしょうか。

「あっ、やっぱりそうでしたか? じつはね、われわれもあの刺殺事件の裏には、なにかが絡んでいたのではないかと考えていたんです。いろいろな状況から考えると、ほぼ九十%はそうではないか、と」

──具体的には?

「上峯の裁判についてはご存じですね? 徐は他の誰かの名をかたることによってカモフラージュしたんだと思いますよ。


 

 私も函館(刑務所)に行って徐に会ってきましたが、凄い形相で睨みつけるような表情をしていた。大胆でしたたかな人物ですね。(筆者注:徐が収監されたのは旭川刑務所である。

 出廷したときも裏の関係については発言を拒否した。なぜ拒否してなにも言わないかというと、彼は役目を終えたからだと思います。目的を果たした以上、しゃべる必要はない。それに一度、上峯の名前を出してしまっているしね。

 ただ、まだ言うことができないことがたくさんあるんですよ。いずれ、あきらかにしなければならないことだとも思いますが・・・・・・」

徐の背後関係について、誰もが確信めいた疑惑を持っている。しかし、そのことは深い闇のなかに封印されたままで、あからさまに語ることを誰もが躊躇する。

 しかし、ここで私は、こうした回りくどい言い方をやめて、はっきりと書いてしまいたい。徐裕行は、北朝鮮工作組織の関与のなかて、村井刺殺という犯行におよんだ、と。

 いくつかの傍証は、これから徐々に出していくことができるだろう。ただここでひとつだけ明らかにしておけば、徐の経歴のなかで、一時期、まったく足取りがつかめない空白の部分が存在する。


 

 高校中退後からイベント関係の会社を設立するまでの数年間の空白である。この空白の数年間、そのうちの大部分を彼は北朝鮮に渡っていた形跡があることである。そこで、彼は北朝鮮の思想と工作の技術を学んだのではないだろうか。

 くり返すことになるが、この訓練と工作技術を学んだ人問は決して、自分の思想性を表面には表さない。それが金日成主義の原則であるからである。そして秘めやかに地下活動に従事する。工作員が自分の思想性を露にしてしまえば、それはもはや工作員たりえない。

 徐裕行も、イベント会社を設立してからの友人たちの描くプロフィールのなかに、微塵もその思想的な側面を滲ませていない。政治の話などしたことがなかった、という証言だけが集まってくるのである。

 しかし、その徐が、事件の数週間前から突然「オウムには気をつけろ」と語りはじめた、という証言が複数得られている。このとき、徐はすでに、ある密命を帯びていたと考えるのが分かりやすい。

 


 北朝鮮が危惧した「秘密」の暴露


 渋谷・道玄坂。事件の前日、徐は上峯被告と連絡を取り合ったことになっているが、北朝鮮工作員のやり方として、これはきわめて不自然なものにうつる。


 

 北朝鮮工作員のやり方から見て、すぐに足のつくような電話や接触による連絡などは、取るはずがないからである。

 徐は犯行直後の供述で「自分の考えでやった」と、単独犯行を匂わせる供述を行っている。私には、むしろこの供述のほうに、半分の真実が隠されているように見える。

 なぜなら金日成主義の工作員は、獲得すべき任務の内容を指示されるが、その具体的なノウハウについては、通常、指示を受けないものであるからである。

 そのために高度な工作技術──破壊工作の技術であれ殺人のための技術であれ、領導芸術と呼ばれる誘導の技術もふくめて、高度な訓練を受ける。自分の思想性、主義主張を隠したままで、実質のともなった工作を完了するために、この訓練は必須である。

 徐はその意味で、きわめて高度に訓練されたテロリストであり、工作員であったのである。彼の並はずれた忍耐力も、それを証明している。

 では、なぜ村井秀夫だったのか? ようやくこの謎を解くことをはじめなければならないだろう。九十五年四月、事件の数日前に村井「オウム科学技術省」長官は、テレビに出演し、次のようなことを語っている。

「使える金は一千億ある」


 

「地下鉄事件で使われたのはサリンではなく、別のガスだ。アメリカの研究所もそのことを証明してくれる」

 この放送を聞いていたある関係者は、一瞬、身が凍ったという。村井が秘密にせねばならないことを話してしまうのではないのか、と。

 村井は、周辺の人間の印象として、ひどく生真面目で、誠実な人柄だった、という証言がきわめて多い。それは村井という人間の気の弱さをも象徴しているだろう。

「村井がしゃべってしまう」その危機感をオウム幹部の誰もがいだいた。そして、その危慎をいだいたのはオウムの幹部たちだけではなかった。オウム事件の背後に蠢く北朝鮮工作組織も、そのことにきわめて強い危惧を持っただろうことは想像に難くない。

 まさに村井が話し出したふたつの事がらは、先週号で指摘した、偽ドルを含むオウム真理教の資金ルート、さらにはサリンの入手ルートにつながるものだった。

 そして、さらに、それらふたつ以外に、現在にいたっても秘匿されたままの第三の秘密、どうしても隠し通さなければならない、さらに深い秘密につながっていくものだった。その第三の秘密に村井がふれかねない危慎を、北朝鮮側にもいだかせるものだったのである。

(文中敬称略、以下次号)
■取材協力 今若孝夫、加藤康夫(ジャーナリスト

村井秀夫刺殺事件の犯人、徐裕行は世田谷区上祖師谷3丁目の貸家でM・T、高英雄ら3人で共同生活をしていた。この家の管理人女性の姉は朴春仙という女性である。そして、その愛人は日本人拉致事件の首謀者、辛光洙だったのである。

 

北朝鮮スパイ・辛光洙(シンガンス)

 

 

 

2016年7月23日、北朝鮮の記念式典にある老人が姿を見せた。

その男は、今も警視庁のホームページに国際指名手配犯として掲載されている。

そして最悪な事件を計画、実行した極悪非道の人物だった。

 

 

男の名は辛光洙。北朝鮮の大物スパイである。

原敕晁さん拉致事件の実行犯である。

 

日本に入り込み、日本人や在日朝鮮人を抱き込み、諜報活動を行うことである。

任務では暴力団や朝鮮総連関係者とも協力し、場合によってはテロ、拉致事件も実行する、いわゆる国家犯罪である。

 

 

2002年、小泉純一郎総理大臣ら日本政府関係者が北朝鮮を訪問し、日朝首脳会談を開いた。 この会談で金正日は日本人拉致を認め謝罪、同年10月に拉致被害者5人を帰国させた。

 

 

ところが帰ってきた拉致被害者は全員ではなかった。被害者の一部は災害や病で既に亡くなっていると北朝鮮が伝えてきたのである。

その中に、原敕晁さんの名前があった。

 

原敕晁さん

 

1980年6月、大阪。そこではある貿易会社の採用面接が行われていた。

最終面接と称した内定祝いだった。

 

 

原敕晁さん「本当に良い仕事と良い方にに巡り会えて良かったです!」

 

原敕晁さん(昭和12年8月2日生まれ)は当時43歳。口数が少なくおっとりとした性格だった。

中華料理店「宝海楼」から事務職員に転職が決まり喜んでいた。

 

 

 

男「おう…うまくいったな」

辛「まて、油断するな。まだ計画は始まったばかりだ」

 

 

男「しかし、まさかこの採用面接が偽装だとは奴も思うまい。ウェッハッハ…」

この最終面接は実は偽装だった。そしてこの面接の首謀者が辛光洙だった。

 

辛光洙は1929年、静岡県で朝鮮人の両親のもとに生まれた。終戦とともに家族で朝鮮へ移住。そして1950年、朝鮮戦争勃発により辛は北朝鮮の義勇軍に参加。

 

朝鮮労働党の命により、平壌でスパイ教育を受けた。

工作員は一般的に3000人の候補者から5人が選ばれるという。

辛光洙はエリート工作員なのだ。

 

 

 1973年、辛は、初めて日本へ密入国した。到着したのは石川県鳳至郡の猿山灯台。ここからスパイ活動が始まる。

辛が、まず取り組んだのは諜報活動に必要な拠点と協力者作りである。日本には北朝鮮を支持する在日朝鮮人が沢山いた。辛は彼らに”協力すれば祖国にいる肉親の待遇が良くなる”と吹き込み協力者に仕立て上げた。

辛は16年間日本で育ったため日本の生活に不自由しなかった。

 

1978年8月、富山県雨晴海岸で不気味な事件が起きた。

人気のない砂浜に、2人のカップルがいた。そこへ、ステテコ姿の4人の男性が近づき、タバコに火をつけてほしい、と要求した。

 

カップルの男性が火をつけようとした瞬間、4人組は突然カップルを殴りはじめた。

 

 

顔にゴム製の猿ぐつわを巻き付け、人が収まるほど大きな袋を二人に被せてきたのである。すると付近を散歩していた犬が吠えてきた。運良くカップルは逃走し、近所で暮らしていた高柳潔さんに助けを求めることができた。

高柳さんは、被害者の姿が「お化けのQ太郎」のようにみえたという。それほど異様な光景だったのだ。

 

 

被害者の一人は、4人組の中に、辛光洙らしき男がいたと証言している。

 

 

辛は、1973年7月から1981年9月までの間、在日朝鮮人女性、朴春仙と同居した。

 

(朴春仙)


朴春仙は1973年秋に朝鮮総連幹部Kの紹介で辛と初めて会っている。この時辛は北海道から来た在日朝鮮人で、本名ではなく「坂本」と自己紹介した。

 

当時、朴は夫と別居し、子供3人を連れて京都から東京に出て来たばかりだった。

千葉県の行徳で住み込みの賄い婦をしていた。

 

初めて会った日からほどなくして、辛は朴を訪ねた。

 

辛「東京で商売がしたいので、私の代わりに家を借りてくれないか」

 

朴は、会って間もない男と一緒に暮らすのは抵抗があったが、毎日のように通って来ては説得する辛に根負けしてしまった。辛は背も高く、きりっとした雰囲気があった。

 

1973年12月、朴は東京都目黒区中区の一軒家を借りた。生活費はすべて辛が出した。

朴春仙と三人の子供は一階に、辛は二階に下宿した。

この時の辛の荷物はボストンバック2つだけ。

 

 

辛は質素で規則正しい生活を送った。しかし辛には奇妙な習慣があった。

日中はけっして外出しようとはしなかった。外出する時は必ず夜。

夜中になると、決ってヘッドホンでラジオを聞いていたのである。

 

 

不思議に思った朴は辛に尋ねた。辛は落ち着いた様子で、イヤホンを渡して聴かせてくれた。女性が5行の数字を読み上げているだけの放送。朴は何をしているのか全く理解できなかったという。

 

朴春仙「子供の勉強をみてくれるなどやさしい人でした。昼間は部屋にこもりっきり。夜になると部屋から数字の番号だけが流れるラジオの音が聞こえてきました。新宿の書店に一緒に行ったとき、自衛隊の飛行機や武器に関する本を買ってきてほしいといわれ、買ったことがあります」

 

1976年夏、辛は「出張へ行く」と言い残して朴のもとを離れ、そのまま姿を消した。新たな命令を受けに富山県の海岸から北朝鮮へ戻ったのである。

 

巧妙な拉致計画は、1980年2月、平壌市龍城区域の龍城5号招待所で始まった。

 

金上官「基本任務として、日本に浸透し合法身分を獲得せよ。そのために日本人を拉致し、その人物に成りすまし、南朝鮮(韓国)の各種情報を収集報告せよ」

 

 

4月中旬、辛は北朝鮮西部の南浦市の海岸から工作船で出航した。

辛は工作船からゴムボートへ乗り換え、宮崎県日向市の沿岸へ上陸した。

 

北朝鮮は拉致するターゲットに細かな条件を課していた。

 

一、歳は45から50歳くらいで、辛と似通った歳であること、

二、独身で家族や親戚など寄る辺のないこと、

三、日本の警察に指紋や写真を登録したことのない者であること(前科があるか)

四、旅券発給および外国旅行した形跡のない人

 

条件に該当する人物を探すことから拉致計画ははじまる。

日本に潜伏した辛は、知人を通して条件に合う人物を探した。

 

辛は大阪市天王寺区下味原の知人に電話をかけた。

 

 

JR鶴橋駅前の中華料理店「宝海楼」。

 

 

李三俊「ああ、いる、いまも横で鍋をふっているよ、大丈夫だ」

店長の李三俊(リ・サムジュンは朝鮮籍の在日二世。朝鮮総連大阪商工会の元幹部だった。

 

辛光洙は原さんをターゲットに絞った。

 

辛は祖国へ暗号化した電報を送った。

 

辛光洙「身分盗用人物を物色したが、至急に帯同復帰(拉致)の組織を頼む」

 

同年5月、辛光洙はラジオのダイヤルを合わせはじめた。

辛(そろそろA-2指令の時間だ…)

 

ラジオ「ジジ・・・ジジジ…ブォォォン」



ラジオ「여기는 평양입니다!」

ラジオから朝鮮語が流れ始めた。

 

ラジオ(こちらは平壌放送です!1006番、電文を送ります。)

(1・7・8・2・5・98・21)

 

ラジオのアナウンサーは数字を読み上げ始めた。辛は数字を急いで書き始めた。

数字の羅列を書き取ると、一冊の本を取り出した。

書き取った数字を元に、本を見ながら文字を置き換え始める作業を始めた。

実は、ラジオから流れて来た数字は、特定のページ数や文字の位置を表す暗号解読の「乱数表」だった。

 

 

暗号文の解読作業を終えると、紙には北朝鮮からの指示書が書き出されていた。

 

「同志の活動成果を祝す。復帰日時は1980年6月××日21:00、場所は宮崎県青島海水浴場の北端の海岸とすること。時に血が切迫しているので警戒心を高め間違いなく接線に臨むこと」

 

「計画ヲ実行セヨ」

 

6月初旬、辛は共犯者の李三俊から原さんの戸籍謄本一通と戸籍抄本を入手。原さんの両親はいずれも故人で身寄りがないことを確認。

 

 

6月中旬、大阪料理店で3人の仲間を招集。そして仲間に具体的な拉致手口を伝えた。

 

辛光洙「新しい仕事を紹介するという設定です。李吉炳同志、貴方は社長役を演じてください。私は専務です。金吉旭同志、貴方には常務をお願いします」

 

 

金吉旭(キム・ウルク)「わかりました」

(専務役の金吉旭は大阪朝鮮民族学校の元校長で、衣類の小売商をしていた。)

 

社長役の李吉炳(リ・キルピョン)は朝鮮総聯系大阪府商工会会長。李三俊の上司だった。

 

辛光洙「ターゲットに対して就職の面接をし、”新入社員に見事採用”ということにします。そして…」

 

辛は原さんを架空の会社に入社させると騙して、目的の場所におびきよさせる計画だった。そして事件当日

 

辛「いやー、本当に良い人材に会えて良かった」

 

原さん「こちらこそ!ありがとうございます!」

 

貿易会社の最終面接と称して原さんをおびき寄せた辛光洙。その場で偽の内定を出し、お祝いとして必要以上に酒を振る舞った。

 

 

李吉炳(社長役)「私は時間がないので失礼するよ。おぉ、君たちだけで旅行して来たらどうだ?」

 

社長役の李吉炳から突然の旅行の提案。合流地点の宮崎県へ帯寄与させるための罠だった。

1980年当時、日本海側では失踪事件が相次いでいた時期。採用話は珍しいはなしではないが、旅行話は唐突な提案だった。

 

 

原さん「いきなり旅行なんてそんなうまい話…」

 

原「本当にありがとうございます!」

 

李吉炳(社長役)「ウェハハ!おう!数日後に私の別荘で会おう!」

 

李吉炳「これをとりなさい」

 

 

 

李吉炳は自分の鞄から数百万円の札束を取り出すと、原さんの前で専務役の辛光洙に差し出した。緻密な演技に確実な実行力。用意周到な手口はその場の状況によって変化する。相手の趣味や職業にあわせて演技も変わるのである。

 

辛「社長もいなくなったので、私たちだけで心ゆくまで飲みましょう」

辛は原さんに酒をたくさん飲ませた。

 

 

辛光洙は対外情報調査部に所属。大韓航空機爆破事件の金賢姫もおなじ部署に所属していた。

 

他にも朝鮮労働党の情報機関として、「対外連絡部」、「作戦部」、「対外情報調査部」などがあった。

 

原さんに考える時間を与えないようにすぐさま移動し、21時頃に大阪駅から夜行列車に出発、翌日5月に別府駅に到着。

 

別府市内のホテルにチェックインすると、辛光洙は持ち込んだラジオを用意し、乱数放送の数字をノートに書き始めた。「29 6 27」は辛光洙の生年月日、1929年6月27日を指す。生年月日を読むことで、どの工作員に向けて放送しているのかわかるのである。

 

 

宮崎県に移動した原さんはまた辛光洙と仲間たちに酒を飲まされた。

彼らの連係プレーで疑いもなく仕向けられていたのである。原さんは知らず知らずに泥酔状態に追い込まれていた。

 

辛光洙「原さん、寝るには早すぎるので、海岸に散歩に行こう」

 

原さん「あい」

 

工作員「イイネ!」「イキマショウ!」

 

 

拉致決行の場へ原さんを動かす。

宮崎県青島海岸。散歩へ行くと称し、予定通り原さんを海岸の岩場まで連れて行った。

 

 

辛光洙は立ち止まった。

 

原さん「専務?」

 

原さん「うっ、まぶしいですよぉ、専務」

 

 

「違うんですよ」

 

「違うって…」

 

辛「専務じゃないんです」

 

原さん「え?」

 

 

辛「私は専務じゃないんです。ハラサン」

 

すると物陰に隠れていた4人の男が原さんに襲いかかった。

 

原さん「!?」

 

原さん「なっ、なんだ?!た、助けてくれ!!」

 

 

 

 

男たちは大きな袋を原さんにかぶせようとしてくる。辛は悲鳴をあげる日本人をあざ笑った。

 

 

辛「ワカラナイ人ダナ。私ハ専務ジャナインデスッテ。해라!!」

 

原さん「やめてくれ!やめて!やめてーーーーー!!」

 

やがて海の彼方から工作船のエンジン音が聞こえて来た。

そして、原さんの悲鳴は深淵の彼方へ飲まれていった。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

事件から5ヶ月後の1980年11月。

男は東京にいた。

 

隣の住人女性「こんにちは」

 

男「…こんにちは」

 

 

隣の住人女性「先週引っ越して来たのね。ちょっと、免許証落としましたよ」

 

 

隣の住人女性「原さん?下の名前、なんて読むの?」

 

男「タダアキです」

 

男「原敕晁と言います」

 

 

隣の住人女性「でもこの写真の顔…」

 

 

隣の住人女性「写真よりイイ男ね!よろしくね!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1981年、辛は数年ぶりに朴春仙のもとへ戻った。

そして、朴の妹P・Kが経営する酒場で経理をまかされ、再び信頼を得た。

 

このP・Kが、9年後に徐裕行を世田谷の貸家へ居候させることになるのである。

 

 

そんなある日の夜、辛と朴は警察から職務質問を受けた。

 

 

警官「どちらに行かれるんですか」
辛光洙「仕事が終わって帰るところですが」
警官「こんなに遅くですか?」
辛光洙「飲食店で働いているから帰るのはいつもこんな時間ですが」
警官「何か身分証明書を見せてください」
警官「お名前は原さん、原敕晁さんですね?」

 

 

朴は驚いた。

辛光洙は朴の前では「坂本」という通名を名乗っていた。

ところが、「坂本」が突然「原」に変わっていたのである。

 

 

朴「何で原になっているの?」

 

辛光洙「日本へ帰化した」

 

しかし、辛光洙は嘘をついていた。

辛光洙は原さんの存在自体を乗っ取ってしまったのだ。

 

 

辛光洙の本当の目的は日本人の肩書きを手に入れることだった。

辛はコリアンパブの経営者、方元正の協力を得て、印鑑証明、年金手帳、健康保険証、パスポートまで取得した。そして北朝鮮に戻ると、金星政治軍事大学へ入学。原さんを連れ込み、個人情報を洗いざらいにさせると、原さんの学歴、経歴家族関係を暗記し、さらに料理人としての職業訓練を受けていた。(警察はこの行為を「背乗り」と呼んでいる。)

 

 

 

 

原さんに成り済ました辛光洙は、朴の元を離れモスクワ、香港、バンコク、チューリヒへ飛んだ。各国の工作員と連携する目的で、世界中を飛び回ったのだ。

 

 

ところが、1985年2月、韓国へ入国した辛は失態を犯す。方元正の親戚にあたる韓国の退役将校を仲間に加えようとしたところ、その親戚に通報されてしまった。協力者の方元正が自首し、26日には辛光洙も逮捕された。協力者の金吉旭も韓国へ入国したところを逮捕された。そして6月に入り韓国当局は事件を発表した。

 

当時、韓国は独裁体制を敷き、北朝鮮スパイには容赦なく取り締まりをしていた。

そしてメディアは「日本人偽装スパイ団3人検挙」と報道した。

 

 

(証拠品の中には自殺用の青酸カリカプセルもあった。)

 

辛光洙は裁判で死刑を言い渡されたが、その後無期懲役の有罪判決となった。

 

 

辛が逮捕されて間もなく、北朝鮮でも事件が起きた。

朴春仙の兄で北朝鮮のアナウンサーだった朴安復が銃殺刑にされた。

 

1970年後半、朴春仙の元に、同居していた辛から金の工面を求める書簡が届いた。しかしこれまでにも幾度か貸していた朴は、今回ばかりは自分の貯めたものだから自分の自由に使いたいと思い、北朝鮮にいる兄・安復の元に手紙を出し、兄を通して辛に断ってほしいと依頼した。しかしその手紙が兄の運命を変えてしまう。

 

安復が宛先に書かれた場所に行ったところ、そこが工作員の拠点だった。一般人が工作員の拠点にやってきたことで、スパイ容疑の疑いをかけられた安復は直後から北朝鮮当局の監視対象になり、1980年3月に突然強制収容所送りにされた。5年後、辛が逮捕された時に北朝鮮では一時工作活動が混乱する事態になり、「朴兄妹が母国を売ったのだ」と嫌疑をかけられ、安復は銃殺刑に処されたのである。(処刑は8月21日に執行されたという。)

 

 

辛光洙は長い拘留生活を過ごしていた。ある時を境に事態は急変する。

 

1989年7月、日本の政治家たちが、「在日韓国人政治犯釈放の要望書」を韓国に送りつけてきたのである。日本社会党・公明党・社会民主連合、無所属の議員133名の署名が提出された。(議員の一覧についてはWikipedia参照)

 

 

このとき釈放要望対象となった政治犯29名の中に辛光洙や北朝鮮スパイの名が複数含まれていた。この署名で安倍晋三は土井たか子、菅直人を名指しで極めてマヌケな議員と評した。また、テレビ討論で言い逃れしようとしている菅が安倍に責められる場面が放送された。(二人とも日本の総理大臣経験者である。)

 

1993年11月、辛光洙がスパイだと知った朴春仙は、自分が辛光洙と関わったために兄が殺されたのではないかと自身を責め、苛んでいた。そしてサピオの取材に応じ、同居していたことを告発した。

 

日本人からの協力を得た朴は1995年3月、兄が銃殺された本当の理由を聞くため、大阪ABC放送の取材スタッフと一緒に、全州の刑務所に収監されていた辛光洙を訪ねた。しかし辛は頑に面会を拒否した。

 

 

韓国はその後、左派政権が台頭し、金大中が大統領に就任。

南北統一を目標に太陽政策を押し進めた。

1999年、辛光洙はミレニアム特赦により釈放。南北首脳会談合意の影響により、工作員らは北朝鮮へ送還されることが決まった。同じく逮捕されていた金吉旭は北朝鮮へ渡らず、そのまま韓国済州島へ在住した。

 

釈放され、ソウルへ在留する辛光洙

 

韓国には辛光洙の兄や肉親が生活していた。兄は辛に自らの罪を悔い改める様言うと、辛は「北に家族がいるから、何も話せないのだ」と語ったあと、北朝鮮に忠誠心があることを伝えた。兄が死ぬと、辛は肉親との関係を絶った。

 

2000年1月10日、朴春仙は再び日本人記者と共に韓国へ渡り、ソウルで生活していた辛に面会しようとした。朴は兄の銃殺を辛に知らせ、北朝鮮が非情な国家だったことを伝えた。そして話が拉致事件に移った途端辛は逆上して朴春仙に罵声を浴びせた。

 

「馬鹿な事を言うな、このくそったれめ!」

 

「この安企部の手先! ばかなこと言うんじゃないよ。クソ野郎!」

(安企部…韓国の諜報機関)

 

そして同行していた日本人記者を見ると露骨な反日感情を見せつけ、朴を「民族反逆者」と呼んだ。そして詰め寄る日本人記者を殴り突き放すとドアを閉めてしまった。

 

北朝鮮は辛光洙を英雄として向かい入れた。辛光洙の切手も発行された。

 

 

 

釈放を祝う行事の中で、辛光洙は「金日成主席の写真を獄中で胸に抱いておりました」と語った。

 

(どんなに美辞麗句を並べても、醜い記録は誤摩化せない)

 

2004年。「宝海楼」を経営していた李三俊のもとに、家宅捜索が入った。

インターネットが普及した時期だけに、早くも日本人の間で悪評は広まった。店は閉鎖され、そのまま潰れた。

 

 

2016年7月23日、朝鮮中央テレビの映像に辛光洙の姿があった。辛の胸には祖国統一賞の勲章が飾られていた。

 

 

 

原さんの消息はいまもわかっていない。