極悪非道!北朝鮮工作員・辛光洙と徐裕行 | 村井秀夫刺殺事件の真相を追って

村井秀夫刺殺事件の真相を追って

村井秀夫は何故殺されたのか?徐裕行とは何者なのか?
オウム真理教や在日闇社会の謎を追跡します。
当時のマスコミ・警察・司法の問題点も検証していきます。
(2017年12月、『吉田悠軌…オウム真理教幹部・村井秀夫刺殺事件の真犯人と対峙して』の記事を紹介。)


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村井秀夫刺殺事件の犯人、徐裕行は世田谷区上祖師谷3丁目の貸家でM・T、高英雄ら3人で共同生活をしていた。この家の管理人女性の姉は朴春仙という女性である。そして、その愛人は日本人拉致事件の首謀者、辛光洙だったのである。

 

北朝鮮スパイ・辛光洙(シンガンス)

 

 

 

2016年7月23日、北朝鮮の記念式典にある老人が姿を見せた。

その男は、今も警視庁のホームページに国際指名手配犯として掲載されている。

そして最悪な事件を計画、実行した極悪非道の人物だった。

 

 

男の名は辛光洙。北朝鮮の大物スパイである。

原敕晁さん拉致事件の実行犯である。

 

日本に入り込み、日本人や在日朝鮮人を抱き込み、諜報活動を行うことである。

任務では暴力団や朝鮮総連関係者とも協力し、場合によってはテロ、拉致事件も実行する、いわゆる国家犯罪である。

 

 

2002年、小泉純一郎総理大臣ら日本政府関係者が北朝鮮を訪問し、日朝首脳会談を開いた。 この会談で金正日は日本人拉致を認め謝罪、同年10月に拉致被害者5人を帰国させた。

 

 

ところが帰ってきた拉致被害者は全員ではなかった。被害者の一部は災害や病で既に亡くなっていると北朝鮮が伝えてきたのである。

その中に、原敕晁さんの名前があった。

 

原敕晁さん

 

1980年6月、大阪。そこではある貿易会社の採用面接が行われていた。

最終面接と称した内定祝いだった。

 

 

原敕晁さん「本当に良い仕事と良い方にに巡り会えて良かったです!」

 

原敕晁さん(昭和12年8月2日生まれ)は当時43歳。口数が少なくおっとりとした性格だった。

中華料理店「宝海楼」から事務職員に転職が決まり喜んでいた。

 

 

 

男「おう…うまくいったな」

辛「まて、油断するな。まだ計画は始まったばかりだ」

 

 

男「しかし、まさかこの採用面接が偽装だとは奴も思うまい。ウェッハッハ…」

この最終面接は実は偽装だった。そしてこの面接の首謀者が辛光洙だった。

 

辛光洙は1929年、静岡県で朝鮮人の両親のもとに生まれた。終戦とともに家族で朝鮮へ移住。そして1950年、朝鮮戦争勃発により辛は北朝鮮の義勇軍に参加。

 

朝鮮労働党の命により、平壌でスパイ教育を受けた。

工作員は一般的に3000人の候補者から5人が選ばれるという。

辛光洙はエリート工作員なのだ。

 

 

 1973年、辛は、初めて日本へ密入国した。到着したのは石川県鳳至郡の猿山灯台。ここからスパイ活動が始まる。

辛が、まず取り組んだのは諜報活動に必要な拠点と協力者作りである。日本には北朝鮮を支持する在日朝鮮人が沢山いた。辛は彼らに”協力すれば祖国にいる肉親の待遇が良くなる”と吹き込み協力者に仕立て上げた。

辛は16年間日本で育ったため日本の生活に不自由しなかった。

 

1978年8月、富山県雨晴海岸で不気味な事件が起きた。

人気のない砂浜に、2人のカップルがいた。そこへ、ステテコ姿の4人の男性が近づき、タバコに火をつけてほしい、と要求した。

 

カップルの男性が火をつけようとした瞬間、4人組は突然カップルを殴りはじめた。

 

 

顔にゴム製の猿ぐつわを巻き付け、人が収まるほど大きな袋を二人に被せてきたのである。すると付近を散歩していた犬が吠えてきた。運良くカップルは逃走し、近所で暮らしていた高柳潔さんに助けを求めることができた。

高柳さんは、被害者の姿が「お化けのQ太郎」のようにみえたという。それほど異様な光景だったのだ。

 

 

被害者の一人は、4人組の中に、辛光洙らしき男がいたと証言している。

 

 

辛は、1973年7月から1981年9月までの間、在日朝鮮人女性、朴春仙と同居した。

 

(朴春仙)


朴春仙は1973年秋に朝鮮総連幹部Kの紹介で辛と初めて会っている。この時辛は北海道から来た在日朝鮮人で、本名ではなく「坂本」と自己紹介した。

 

当時、朴は夫と別居し、子供3人を連れて京都から東京に出て来たばかりだった。

千葉県の行徳で住み込みの賄い婦をしていた。

 

初めて会った日からほどなくして、辛は朴を訪ねた。

 

辛「東京で商売がしたいので、私の代わりに家を借りてくれないか」

 

朴は、会って間もない男と一緒に暮らすのは抵抗があったが、毎日のように通って来ては説得する辛に根負けしてしまった。辛は背も高く、きりっとした雰囲気があった。

 

1973年12月、朴は東京都目黒区中区の一軒家を借りた。生活費はすべて辛が出した。

朴春仙と三人の子供は一階に、辛は二階に下宿した。

この時の辛の荷物はボストンバック2つだけ。

 

 

辛は質素で規則正しい生活を送った。しかし辛には奇妙な習慣があった。

日中はけっして外出しようとはしなかった。外出する時は必ず夜。

夜中になると、決ってヘッドホンでラジオを聞いていたのである。

 

 

不思議に思った朴は辛に尋ねた。辛は落ち着いた様子で、イヤホンを渡して聴かせてくれた。女性が5行の数字を読み上げているだけの放送。朴は何をしているのか全く理解できなかったという。

 

朴春仙「子供の勉強をみてくれるなどやさしい人でした。昼間は部屋にこもりっきり。夜になると部屋から数字の番号だけが流れるラジオの音が聞こえてきました。新宿の書店に一緒に行ったとき、自衛隊の飛行機や武器に関する本を買ってきてほしいといわれ、買ったことがあります」

 

1976年夏、辛は「出張へ行く」と言い残して朴のもとを離れ、そのまま姿を消した。新たな命令を受けに富山県の海岸から北朝鮮へ戻ったのである。

 

巧妙な拉致計画は、1980年2月、平壌市龍城区域の龍城5号招待所で始まった。

 

金上官「基本任務として、日本に浸透し合法身分を獲得せよ。そのために日本人を拉致し、その人物に成りすまし、南朝鮮(韓国)の各種情報を収集報告せよ」

 

 

4月中旬、辛は北朝鮮西部の南浦市の海岸から工作船で出航した。

辛は工作船からゴムボートへ乗り換え、宮崎県日向市の沿岸へ上陸した。

 

北朝鮮は拉致するターゲットに細かな条件を課していた。

 

一、歳は45から50歳くらいで、辛と似通った歳であること、

二、独身で家族や親戚など寄る辺のないこと、

三、日本の警察に指紋や写真を登録したことのない者であること(前科があるか)

四、旅券発給および外国旅行した形跡のない人

 

条件に該当する人物を探すことから拉致計画ははじまる。

日本に潜伏した辛は、知人を通して条件に合う人物を探した。

 

辛は大阪市天王寺区下味原の知人に電話をかけた。

 

 

JR鶴橋駅前の中華料理店「宝海楼」。

 

 

李三俊「ああ、いる、いまも横で鍋をふっているよ、大丈夫だ」

店長の李三俊(リ・サムジュンは朝鮮籍の在日二世。朝鮮総連大阪商工会の元幹部だった。

 

辛光洙は原さんをターゲットに絞った。

 

辛は祖国へ暗号化した電報を送った。

 

辛光洙「身分盗用人物を物色したが、至急に帯同復帰(拉致)の組織を頼む」

 

同年5月、辛光洙はラジオのダイヤルを合わせはじめた。

辛(そろそろA-2指令の時間だ…)

 

ラジオ「ジジ・・・ジジジ…ブォォォン」



ラジオ「여기는 평양입니다!」

ラジオから朝鮮語が流れ始めた。

 

ラジオ(こちらは平壌放送です!1006番、電文を送ります。)

(1・7・8・2・5・98・21)

 

ラジオのアナウンサーは数字を読み上げ始めた。辛は数字を急いで書き始めた。

数字の羅列を書き取ると、一冊の本を取り出した。

書き取った数字を元に、本を見ながら文字を置き換え始める作業を始めた。

実は、ラジオから流れて来た数字は、特定のページ数や文字の位置を表す暗号解読の「乱数表」だった。

 

 

暗号文の解読作業を終えると、紙には北朝鮮からの指示書が書き出されていた。

 

「同志の活動成果を祝す。復帰日時は1980年6月××日21:00、場所は宮崎県青島海水浴場の北端の海岸とすること。時に血が切迫しているので警戒心を高め間違いなく接線に臨むこと」

 

「計画ヲ実行セヨ」

 

6月初旬、辛は共犯者の李三俊から原さんの戸籍謄本一通と戸籍抄本を入手。原さんの両親はいずれも故人で身寄りがないことを確認。

 

 

6月中旬、大阪料理店で3人の仲間を招集。そして仲間に具体的な拉致手口を伝えた。

 

辛光洙「新しい仕事を紹介するという設定です。李吉炳同志、貴方は社長役を演じてください。私は専務です。金吉旭同志、貴方には常務をお願いします」

 

 

金吉旭(キム・ウルク)「わかりました」

(専務役の金吉旭は大阪朝鮮民族学校の元校長で、衣類の小売商をしていた。)

 

社長役の李吉炳(リ・キルピョン)は朝鮮総聯系大阪府商工会会長。李三俊の上司だった。

 

辛光洙「ターゲットに対して就職の面接をし、”新入社員に見事採用”ということにします。そして…」

 

辛は原さんを架空の会社に入社させると騙して、目的の場所におびきよさせる計画だった。そして事件当日

 

辛「いやー、本当に良い人材に会えて良かった」

 

原さん「こちらこそ!ありがとうございます!」

 

貿易会社の最終面接と称して原さんをおびき寄せた辛光洙。その場で偽の内定を出し、お祝いとして必要以上に酒を振る舞った。

 

 

李吉炳(社長役)「私は時間がないので失礼するよ。おぉ、君たちだけで旅行して来たらどうだ?」

 

社長役の李吉炳から突然の旅行の提案。合流地点の宮崎県へ帯寄与させるための罠だった。

1980年当時、日本海側では失踪事件が相次いでいた時期。採用話は珍しいはなしではないが、旅行話は唐突な提案だった。

 

 

原さん「いきなり旅行なんてそんなうまい話…」

 

原「本当にありがとうございます!」

 

李吉炳(社長役)「ウェハハ!おう!数日後に私の別荘で会おう!」

 

李吉炳「これをとりなさい」

 

 

 

李吉炳は自分の鞄から数百万円の札束を取り出すと、原さんの前で専務役の辛光洙に差し出した。緻密な演技に確実な実行力。用意周到な手口はその場の状況によって変化する。相手の趣味や職業にあわせて演技も変わるのである。

 

辛「社長もいなくなったので、私たちだけで心ゆくまで飲みましょう」

辛は原さんに酒をたくさん飲ませた。

 

 

辛光洙は対外情報調査部に所属。大韓航空機爆破事件の金賢姫もおなじ部署に所属していた。

 

他にも朝鮮労働党の情報機関として、「対外連絡部」、「作戦部」、「対外情報調査部」などがあった。

 

原さんに考える時間を与えないようにすぐさま移動し、21時頃に大阪駅から夜行列車に出発、翌日5月に別府駅に到着。

 

別府市内のホテルにチェックインすると、辛光洙は持ち込んだラジオを用意し、乱数放送の数字をノートに書き始めた。「29 6 27」は辛光洙の生年月日、1929年6月27日を指す。生年月日を読むことで、どの工作員に向けて放送しているのかわかるのである。

 

 

宮崎県に移動した原さんはまた辛光洙と仲間たちに酒を飲まされた。

彼らの連係プレーで疑いもなく仕向けられていたのである。原さんは知らず知らずに泥酔状態に追い込まれていた。

 

辛光洙「原さん、寝るには早すぎるので、海岸に散歩に行こう」

 

原さん「あい」

 

工作員「イイネ!」「イキマショウ!」

 

 

拉致決行の場へ原さんを動かす。

宮崎県青島海岸。散歩へ行くと称し、予定通り原さんを海岸の岩場まで連れて行った。

 

 

辛光洙は立ち止まった。

 

原さん「専務?」

 

原さん「うっ、まぶしいですよぉ、専務」

 

 

「違うんですよ」

 

「違うって…」

 

辛「専務じゃないんです」

 

原さん「え?」

 

 

辛「私は専務じゃないんです。ハラサン」

 

すると物陰に隠れていた4人の男が原さんに襲いかかった。

 

原さん「!?」

 

原さん「なっ、なんだ?!た、助けてくれ!!」

 

 

 

 

男たちは大きな袋を原さんにかぶせようとしてくる。辛は悲鳴をあげる日本人をあざ笑った。

 

 

辛「ワカラナイ人ダナ。私ハ専務ジャナインデスッテ。해라!!」

 

原さん「やめてくれ!やめて!やめてーーーーー!!」

 

やがて海の彼方から工作船のエンジン音が聞こえて来た。

そして、原さんの悲鳴は深淵の彼方へ飲まれていった。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

事件から5ヶ月後の1980年11月。

男は東京にいた。

 

隣の住人女性「こんにちは」

 

男「…こんにちは」

 

 

隣の住人女性「先週引っ越して来たのね。ちょっと、免許証落としましたよ」

 

 

隣の住人女性「原さん?下の名前、なんて読むの?」

 

男「タダアキです」

 

男「原敕晁と言います」

 

 

隣の住人女性「でもこの写真の顔…」

 

 

隣の住人女性「写真よりイイ男ね!よろしくね!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1981年、辛は数年ぶりに朴春仙のもとへ戻った。

そして、朴の妹P・Kが経営する酒場で経理をまかされ、再び信頼を得た。

 

このP・Kが、9年後に徐裕行を世田谷の貸家へ居候させることになるのである。

 

 

そんなある日の夜、辛と朴は警察から職務質問を受けた。

 

 

警官「どちらに行かれるんですか」
辛光洙「仕事が終わって帰るところですが」
警官「こんなに遅くですか?」
辛光洙「飲食店で働いているから帰るのはいつもこんな時間ですが」
警官「何か身分証明書を見せてください」
警官「お名前は原さん、原敕晁さんですね?」

 

 

朴は驚いた。

辛光洙は朴の前では「坂本」という通名を名乗っていた。

ところが、「坂本」が突然「原」に変わっていたのである。

 

 

朴「何で原になっているの?」

 

辛光洙「日本へ帰化した」

 

しかし、辛光洙は嘘をついていた。

辛光洙は原さんの存在自体を乗っ取ってしまったのだ。

 

 

辛光洙の本当の目的は日本人の肩書きを手に入れることだった。

辛はコリアンパブの経営者、方元正の協力を得て、印鑑証明、年金手帳、健康保険証、パスポートまで取得した。そして北朝鮮に戻ると、金星政治軍事大学へ入学。原さんを連れ込み、個人情報を洗いざらいにさせると、原さんの学歴、経歴家族関係を暗記し、さらに料理人としての職業訓練を受けていた。(警察はこの行為を「背乗り」と呼んでいる。)

 

 

 

 

原さんに成り済ました辛光洙は、朴の元を離れモスクワ、香港、バンコク、チューリヒへ飛んだ。各国の工作員と連携する目的で、世界中を飛び回ったのだ。

 

 

ところが、1985年2月、韓国へ入国した辛は失態を犯す。方元正の親戚にあたる韓国の退役将校を仲間に加えようとしたところ、その親戚に通報されてしまった。協力者の方元正が自首し、26日には辛光洙も逮捕された。協力者の金吉旭も韓国へ入国したところを逮捕された。そして6月に入り韓国当局は事件を発表した。

 

当時、韓国は独裁体制を敷き、北朝鮮スパイには容赦なく取り締まりをしていた。

そしてメディアは「日本人偽装スパイ団3人検挙」と報道した。

 

 

(証拠品の中には自殺用の青酸カリカプセルもあった。)

 

辛光洙は裁判で死刑を言い渡されたが、その後無期懲役の有罪判決となった。

 

 

辛が逮捕されて間もなく、北朝鮮でも事件が起きた。

朴春仙の兄で北朝鮮のアナウンサーだった朴安復が銃殺刑にされた。

 

1970年後半、朴春仙の元に、同居していた辛から金の工面を求める書簡が届いた。しかしこれまでにも幾度か貸していた朴は、今回ばかりは自分の貯めたものだから自分の自由に使いたいと思い、北朝鮮にいる兄・安復の元に手紙を出し、兄を通して辛に断ってほしいと依頼した。しかしその手紙が兄の運命を変えてしまう。

 

安復が宛先に書かれた場所に行ったところ、そこが工作員の拠点だった。一般人が工作員の拠点にやってきたことで、スパイ容疑の疑いをかけられた安復は直後から北朝鮮当局の監視対象になり、1980年3月に突然強制収容所送りにされた。5年後、辛が逮捕された時に北朝鮮では一時工作活動が混乱する事態になり、「朴兄妹が母国を売ったのだ」と嫌疑をかけられ、安復は銃殺刑に処されたのである。(処刑は8月21日に執行されたという。)

 

 

辛光洙は長い拘留生活を過ごしていた。ある時を境に事態は急変する。

 

1989年7月、日本の政治家たちが、「在日韓国人政治犯釈放の要望書」を韓国に送りつけてきたのである。日本社会党・公明党・社会民主連合、無所属の議員133名の署名が提出された。(議員の一覧についてはWikipedia参照)

 

 

このとき釈放要望対象となった政治犯29名の中に辛光洙や北朝鮮スパイの名が複数含まれていた。この署名で安倍晋三は土井たか子、菅直人を名指しで極めてマヌケな議員と評した。また、テレビ討論で言い逃れしようとしている菅が安倍に責められる場面が放送された。(二人とも日本の総理大臣経験者である。)

 

1993年11月、辛光洙がスパイだと知った朴春仙は、自分が辛光洙と関わったために兄が殺されたのではないかと自身を責め、苛んでいた。そしてサピオの取材に応じ、同居していたことを告発した。

 

日本人からの協力を得た朴は1995年3月、兄が銃殺された本当の理由を聞くため、大阪ABC放送の取材スタッフと一緒に、全州の刑務所に収監されていた辛光洙を訪ねた。しかし辛は頑に面会を拒否した。

 

 

韓国はその後、左派政権が台頭し、金大中が大統領に就任。

南北統一を目標に太陽政策を押し進めた。

1999年、辛光洙はミレニアム特赦により釈放。南北首脳会談合意の影響により、工作員らは北朝鮮へ送還されることが決まった。同じく逮捕されていた金吉旭は北朝鮮へ渡らず、そのまま韓国済州島へ在住した。

 

釈放され、ソウルへ在留する辛光洙

 

韓国には辛光洙の兄や肉親が生活していた。兄は辛に自らの罪を悔い改める様言うと、辛は「北に家族がいるから、何も話せないのだ」と語ったあと、北朝鮮に忠誠心があることを伝えた。兄が死ぬと、辛は肉親との関係を絶った。

 

2000年1月10日、朴春仙は再び日本人記者と共に韓国へ渡り、ソウルで生活していた辛に面会しようとした。朴は兄の銃殺を辛に知らせ、北朝鮮が非情な国家だったことを伝えた。そして話が拉致事件に移った途端辛は逆上して朴春仙に罵声を浴びせた。

 

「馬鹿な事を言うな、このくそったれめ!」

 

「この安企部の手先! ばかなこと言うんじゃないよ。クソ野郎!」

(安企部…韓国の諜報機関)

 

そして同行していた日本人記者を見ると露骨な反日感情を見せつけ、朴を「民族反逆者」と呼んだ。そして詰め寄る日本人記者を殴り突き放すとドアを閉めてしまった。

 

北朝鮮は辛光洙を英雄として向かい入れた。辛光洙の切手も発行された。

 

 

 

釈放を祝う行事の中で、辛光洙は「金日成主席の写真を獄中で胸に抱いておりました」と語った。

 

(どんなに美辞麗句を並べても、醜い記録は誤摩化せない)

 

2004年。「宝海楼」を経営していた李三俊のもとに、家宅捜索が入った。

インターネットが普及した時期だけに、早くも日本人の間で悪評は広まった。店は閉鎖され、そのまま潰れた。

 

 

2016年7月23日、朝鮮中央テレビの映像に辛光洙の姿があった。辛の胸には祖国統一賞の勲章が飾られていた。

 

 

 

原さんの消息はいまもわかっていない。

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