村井秀夫刺殺事件の真相を追って -12ページ目

村井秀夫刺殺事件の真相を追って

村井秀夫は何故殺されたのか?徐裕行とは何者なのか?
オウム真理教や在日闇社会の謎を追跡します。
当時のマスコミ・警察・司法の問題点も検証していきます。
(2018年7月6日、麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚らの死刑執行。特別企画実施中。)

李 鍾植著「朝鮮半島最後の陰謀―アメリカは、日本・韓国を見捨てたのか?」

 

 

世界の諜報機関員周知の「対日テロ戦争」と「サリン計画」
「どうやって持ち込んだんだ?」
「持ち込む?そんなことは簡単だ。覚醒剤を持ち込めるのに、どうしてサリンを持ち込めないというんだ?それに日本国内で製造したモノもある」
 私は耳を疑いました。
 日本国内で製造した・・・・とは?
 サリンの製造には大掛かりな施設が必要なはずです。そんな施設を造ればオウム真理教のように、捜査当局の追及を免れることは不可能ではありませんか。
「だから・・・・オウム真理教の連中が製造したサリンだよ」
 実は、このことについても、ずいぶんと以前から囁かれていたことなのです。在日北朝鮮工作員がオウム真理教と接触、あるいは信者として内部に潜り込み、「サリン」製造に深く関与していたという、ある種の都市伝説は、世界中の諜報機関員の間で半ば公然と話されていました。
 私自身がこの都市伝説を耳にしたのは、オウム真理教による「地下鉄サリン事件」直後のことでした。
 ある公安警察OBにこの話題を差し向けたところ、「限りなく事実に近い」との回答を得たこともありました。
 また、親交のあるアメリカ国務省の極東担当者に同様の質問をしたときも、「ほぼ間違いのない事実だ」と顔を曇らせたものです。
 どちらの証言もAの告白で折り紙をつけられた恰好です。
 顔面蒼白となった私は、さらに件の「対日サリン攻撃」による被害予想を問い質してみました。
「首都圏は壊滅する」
 Aの回答は確信に満ちていました。
 すなわち、最悪の事態を想定すれば二千数百万人の死者が累々とすることになるのです。
 さらにAは、「地下鉄サリン事件の詳細は平壌に報告している」とつづけ、「あの事件の計画にも北朝鮮の特殊工作員が関わっていた」と結んだのです。
 つまり、反社会的、破壊的なカルト教団であったオウム真理教にいち早く目をつけた北朝鮮の特殊工作員が、これを「対日テロ計画」に利用するべく平壌と謀り、専門の科学者による技術供与などの面を含めて、「サリン」製造に積極的な支援をしたということなのです。
 だからこそAは、「アメリカに行きたい・・・・」と願っていたのです。
「首都圏には何百、何千という同志・同胞がいる。在日韓国・朝鮮人も何万人といるではないか。それなのに本国は皆殺しにすると息巻いている。祖国と呼べるはずがないだろう」
 Aのように何十年も日本や韓国に長期滞在している工作員は、「固定間諜」と言われ、結婚して家庭を築いている例もあります。あるいはAもそうではないかと思い、訪ねてみたところ答えはありませんでした。
 ただ、「日本人には大切な友人もたくさんいる」と俯くだけでした。
 自分が提供した情報が本国でどのように活用されたか知らないと、Aは言います。それは末端の工作員として知る由もなければ、知る必要もないことなのです。工作員とは歯車の一つにすぎないことをAも承知していました。
 それでも、祖国に忠誠を尽くした挙句、虫けらのように「サリン」で殺されることに、どうしても我慢がならなかったのでえしょう。
 私には、Aの心情が痛いほど、まさに手に取るようにわかったのです。

オウム真理教と北朝鮮の「暗黒の関係」
 これまで耳にした数々の噂話とAの供述・・・・これらが一致したとしても、俄かに信じることはできません。
 ましてや、オウム真理教との関係が本当だとすれば、「地下鉄サリン事件」そのものが、北朝鮮によるテロ事件という側面を帯びてくるのです。
「村井という幹部を覚えているだろう?」 
 Aが名指しした「村井」とは、オウム真理教のサリン製造の最高責任者といわれた人物で、「地下鉄サリン事件」(1995年3月20日)からおよそ一か月後の1995年4月23日に、教団東京総本部(東京都港区南青山)の玄関先で、指定広域暴力団「山口組」傘下の暴力団組員で、自称「右翼団体構成員」の男に刺殺された「村井秀夫」のことです。
「村井を刺した実行犯の徐裕行が韓国籍だったことも知っているな?」
 犯人が韓国籍だったことや、すでに北朝鮮との「闇取引」を噂されていたオウム真理教の背後関係などから、この刺殺事件が北朝鮮の示唆によるものと、一部マスコミに取り沙汰されていたのですが、それが「真相」であるとAは話をつなぎました。
 あの事件の裁判では、犯人の所属する組織の幹部が「殺害を指示した」として逮捕・起訴されたのですが、結局、証拠不十分で無罪判決が確定しています。
 さらに、ある捜査当局者の話によると「暴力団幹部は本当に何も知らなかったようだ」ということです。
 そもそも、「村井秀夫刺殺事件」にはいくつもの謎がありました。
「幹部なら誰でもよかった」との犯人の供述とは裏腹に、犯行当日、教団東京総本部を取り巻いていた多くのマスコミが撮影した写真や映像から、犯人が村井秀夫以外の幹部の出入りには無関心だった様子が明らかで、当初からターゲットを村井秀夫に絞っていた疑いが持たれているのです。
「当時、山梨県上九一色村にあった教団本部施設の異臭騒動について、オウム真理教は一切の関与を否定していた。しかし、マスコミに対する談話の中で村井秀夫が、”教団が製造した農薬が原因”と関与を認めたことで麻原影晃の怒りを買い、暴力団組員を使って処刑されたのではないかという話もあるが・・・・」
 私の疑問にAは、せせら笑いながら言葉をさえぎりました。
「そもそも犯人が村井を殺したところで、所属する暴力団組織にいったいなんの得があるというんだ」
 たしかに、組織の掟からすれば、末端の組員が、独断であのような事件を引き起こすのは、絶対にあり得ないことなのです。
 そう考えれば、犯人には所属する組織とは「別の力学」が作用したと考えるのが当然ではないでしょうか。
「犯人の父親はバブル崩壊によるビジネスの失敗で、億単位に上る莫大な借金を抱えていた。しかも、父親は朝鮮総連(在日本朝鮮人総合連合会)と深い関係にあった。ヤクザ者とはいえ儒教思想に呪縛された朝鮮人の犯人は、その借金を清算するため、そして祖国を守るために引き受けたんだ」
「依頼主は?」
「平壌」
「担保(資金の出所・仲介者)は?」
「朝鮮総連」
「それなら裏書(共犯者)が麻原影晃と側近たちだと?」
「いや・・・・連中は何も知らされていない」 
 Aの説明は概ね次のような内容でした。

武器調達のパイプ、ロシア・コネクション
 オウム真理教が武器弾薬を調達できたのは、「ロシア・コネクション」があったからなのですが、それは大幹部である早川紀代秀が一手に担っていました。
 ロシアの「闇社会」に太いパイプを持つ早川紀代秀は、麻原影晃を叱責するほどの教団内実力者であり、陰の尊師とも呼ばれていたというのです。
 一方、若手実力者の筆頭株であった村井秀夫は、サリン製造で構築した北朝鮮とのパイプを独占することで、早川紀代秀に対する政治的均衡を保っていたのだといいます。
 村井秀夫が指揮するサリン製造と、サリンによる「終末(ハルマゲドン)テロ」が成功すれば、教団内での地位は確固たるものとなり、ゆくゆくは名実ともに教団ナンバー2として君臨することも可能だったでしょう。
 当時、オウム真理教は官僚体質の悪癖に侵されていて、それぞれの幹部が、それぞれの分野で功名を競い、自分の既得権は決して他の信者に公開しようとしなかったので、まさに「たて割り行政」そのものだったそうです。
 そこに北朝鮮の特殊工作員が村井秀夫の側近としてはべり、様々な便宜を図り、秘密を共有し、派閥意識を煽り、「有能なトカゲの尻尾」に仕立て上げたということです。
 実際、一万人もの信者を有した「オウム真理教」ほどの大所帯を利用しようとする場合、計画が失敗したときのことを考えれば、重要機密はたった一人とだけ共有し、いざというときには「尻尾を切る」のが諜報機関の常套手段です。
 北朝鮮が当初から、オウム真理教を利用してサリンによる大規模テロを計画していたとするなら、事件後、容易に証拠隠滅できる仕組みを整えるのが当然です。
 これらのことを総合して考えれば、Aの供述は相当に信憑性の高いものと言わざるを得ません。
 また、一連の「オウム真理教関係特別手配被疑者」 である平田信、高橋克也、菊池直子らが、タイで逃亡生活を送っているとの情報がありますが、これについてAは、「北朝鮮とタイは30年以上も前から国交関係にある。覚醒剤取引など闇の関係も深い。あの三人がいまも生きているとは思えないが、いずれにしても北朝鮮の手引きで逃亡したことは間違いない」と、やはり北朝鮮工作員の関与をにおわせたのでした。
 それでもAの話を鵜呑みにすることはできません。
 もっとも、「証拠を見せろ」と迫ったところで、事件が事件、内容が内容なだけに「証拠」が残っているはずもないのです。
 同業者としての私が、当たり前の疑いを抱いていることはAも察したところでしょう。 
 Aはブリーフケースから小さな金属片のようなものを取り出し、掌に乗せて私に示したのです。
「オウム真理教のバッジ”プルシャ”だ」
 驚きを隠せないでいる私に、それを放り投げました。そして、Aは驚くべきことを口走ったのです。
「オウム真理教の内情を平壌に報告するのも、我々の部隊の仕事のひとつだった・・・・」
  もはや言葉を失った私は、Aの顔をまじまじと見つめるしかありませんでした。
 彼の言うことには、Aが所属する部隊というのは、日本企業に対する産業スパイが主な任務で、A自身も大手光学機器メーカーの研究室や大学の研究室に「協力者を飼っている」というではありませんか。
「オービス(自動速度違反取締装置)の技術を収集するのが目的だった。日本製のオービスはジェット戦闘機が通過しても、パイロットの顔がはっきり撮れるといわれている。だから、そのカメラとセンサーの技術を平壌は欲しがっていたんだよ」
 

 

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徐裕行と「謎の男・T」

「どうしてる? 久しぶりに一杯やらないか」
 一年半近くも会っていなかった警視庁の捜査員からこう声をかけられたのは、まだ日が陰るのが遅く、残暑が厳しい1995年9月下旬の夕暮れ時だった。
 ちょうど関わっていた週刊誌の入稿日翌日ということもあって、気軽に応じた私が彼と落ち合ったのは、東京・新橋のとある居酒屋だった。以前に彼と2,3度入った店だが、料金が安くて美味しいからなのか、その日も会社帰りのサラリーマンたちでまずまずの賑わいだった。
「今は何を追っかけてんの?」
 もう数年来のつきあいだが、面会して一番に彼が口にするセリフは昔から変わらない。


 彼がカウンターの下に置いたバッグの中から一枚の紙片を取り出したのは、いつもの焼酎のお湯割りを注文したときだった。


「ほら、これ。君が作ったんだろ?」


 目の前に置かれたB4判の紙片を見て、私は一瞬、言葉に詰まってしまった。というのも、彼が指摘した通り、それは私自身が数カ月前に作成した人脈チャート図だったからだ。それも、一連のオウム真理教に絡んだ凶悪事件の中でも背後関係がもっとも不透明で、多くの謎に満ちた村井秀夫刺殺事件に関する・・・・。


 取材、執筆を生業にする者なら当然だろうが、関連資料は何よりも重要だ。まして取材が長期化すればするほど、その量は膨大になり、資料ファイルは数を重ねていく。しかし、そうした関連資料を常にバッグに入れて、取材先を回るのは億劫でしかたがない。そこで、なるべく私は、事件の当事者や関連企業、金の流れなどの背後関係を整理し、ワープロで1,2枚程度の関連チャート図を作成するようにしていた。


 しかし、時としてそれが、自分でも思わぬところに流出することがある。取材の仲間内に見せたものなどが、人づてに伝わってしまったりするからだ。たまに怪文書に間違われることもあったが、本人はもとよりそんなつもりはないのである。


 後で知ったことだが、その時、その警視庁捜査員が持っていた資料は、数週間前に旧知の警視庁詰め記者(当時)に参考資料として手渡していたもので、それを彼の上司か同僚が勝手に複写し、親しい捜査関係者に「こんなものがあるけど、持ってる?」と差し出してしまったということだった。しかも、オリジナルはワープロで印字したばかりのB5判のものだったはずが、かなり文字が薄れ、図形も歪んでおり、サイズもB4判。ご丁寧にマル秘の印まで押されていた。それは、一度流出した資料が、何度もコピー、FAX送付が繰り返されたことを物語っていた。


 思いがけないところで”再会”したその資料だったが、それは、村井幹部刺殺事件の実行犯で、すでに懲役12年の実刑が確定して服役中の、徐裕行受刑囚をめぐる人脈図だった。


「なかなかよくできてるじゃないか。でも、この部分の関係を調べたら、きっと面白いはずだよ」


 捜査員は人脈図の一部分を示しながら、話を続けた。
「徐は都立足立工業高校を中退した後の数年間、何をしていたのかが空白なんだ。私が聞いた話では、彼は足立区内の朝鮮総聯系の朝鮮第四初級学校に4年制まで在学しており、おまけに主体思想研究会のある支部の責任者だったことがあるらしい」


 彼が指摘したのは、当時から捜査関係者やマスコミの間でささやかれていた、徐裕行の北朝鮮人脈にまつわる疑惑だった。それを聞いて、私はふと、以前に数度会ったことがある韓国人ブローカーの言葉を思い出していた。


「徐と接点を持つ北朝鮮人脈で、まだほとんど注目されていない男がいるらしい。Tという北朝鮮の対日工作員で、青森などから香港、ウクライナを経由し、何度も北朝鮮に渡航しているようだ」


 村井幹部刺殺事件の数日後に面会したそのブローカーは、こう思わせぶりに言ったものだが、その時は気がつかなかったものの、実はこの話に登場するTなる男と、私は面識があった。


 Tと私が初めて会ったのは、ある企業事件の取材をめぐる情報交換の場で、もう10数年前のことだった。当時、彼はやはり韓国籍の実業家のもとで働いていたが、どこにでもいる普通のサラリーマン風で特別な存在にはみえなかった。その時の私には、彼が差し出した名刺から、北か南かは不明だが「半島出身の人だな」という程度の認識しかなかった。


 ほどなくして、Tは勤めていた会社を辞めたが、私はある取材の関係で彼との面会を期待していた時期があった。しかし、彼を紹介してくれた人物はおろか、共通の知人たちも一様に「行方がわからない」と繰り返すだけだった。


 その時、おぼろげに記憶しているのは、知人たちが彼のことを「かなりの情報通だが、神出鬼没なところがあって正体がつかめない。しかし、たまにとんでもない裏社会の大物を連れてきたりと、交友関係がやたら幅広い。自分のことは極端に語りたがらないが、何かの宗教に凝っていた時期があったようだ」と、口々に評したことだった。


 果たしてTは、噂されるように北朝鮮の対日工作員だったのか? 裏社会の大物たちとはどんな関係だったのか? 凝っていた宗教というのは、もしかしたらオウムではなかったのか? そして、本当に徐と接点があったのだろうか?
 新橋の居酒屋で捜査員と焼酎をあおりながら、私はそんな思いにふけっていた・・・・。

見え隠れする北朝鮮人脈

 95年4月、東京・青山のオウム真理教東京総本部ビル前には、24時間体制で張りつく報道陣でいつも大混雑の状況にあった。すでに有名人となった教団幹部が出入りするたび、テレビ・レポーターがマイクを突きだし、カメラのストロボが焚かれる。そんな光景が火に何度も繰り返されていた。


 事件は4月23日の午後8:36に突然起こった。総本部ビルに入ろうとした教団幹部・村井秀夫を報道陣が取り囲むなか、ひとりの男がおもむろに接近すると、手にした牛刀で刺殺してしまったのだ。


 群衆の面前で殺人を犯したこの男が、徐裕行だった。徐は犯行後、まったく悪びれる様子もなく、その場で逮捕された。確実に殺害を狙った手口といい、淡々と逮捕された様子といい、その犯行には、いかにも「プロが殺しの仕事をこなした」といった感じがみてとれた。


 だが、どうしても不可解だったのは、その動機だった。彼はなぜこのような事件を起こしたのか? 犯行の背後関係はどのようなものだったのか? こうした疑問は、事件から5年以上が経過した現在でも、大きな謎として残されたままだ。


 さらにいえば、なによりも、「徐裕行とは何者だったのか?」という点すらが、まったく解明されていないといっていい。彼の人生の軌跡には、確かに不明な部分が多いのである。


 この事件の背後関係を取材していた当時、私がしばしば耳にしたのが、徐と暴力団や北朝鮮人脈との接点に絡む噂だった。そのなかで判明した事実は、だいたい以下の通りだった。


 徐が社長を務めた催事企画会社「イベントダイヤル」が、折からのバブル崩壊で、総額2300万円の負債を抱えて倒産したのは92年10月。彼はその後、茨城県つくば市内の友人宅に身を寄せ、その兄が経営する古紙回収業の手伝いをしていたが、94年3月、再び都内足立区の実家に帰っている。


 そして、小学校時代からの幼なじみであるKと、その友人Mが住む、世田谷区上祖師谷の二階建ての一軒家で共同生活をするようになるのは、同年11月頃のことだった。この家を所有するのはBという女性だが、その息子の友人が借り主のMで、ここに登場する3人はいずれも北朝鮮籍である。


 その間、徐はKが経営する金融会社の事務所に顔を出すようになり、ここで複数の韓国籍の地人と出会うことになる。同時に、その人脈から山口組系羽根組の幹部Gを紹介され、ヤクザとして生きていく覚悟で入会するのだ。
 
大物スパイ・辛光洙との接点

 ところで、徐が友人らと同居し、住民票まで移していた民家の所有者Bは、品川区五反田で「M」というコリアン・クラブを経営しているのだが、その姉は実に興味深い人物と結びつく。辛光洙ー85年6月、韓国国家安全企画部によって検挙された北朝鮮の大物スパイである。日本を拠点に暗躍していたこの男とBの姉はある機関、一緒に暮らしていたのだ。


 事件の概要は次のようなものだった。


 -辛光洙は、北朝鮮の金正日書記(当時)から「日本人を拉致し、日本人に完全に変装して対何工作任務を続けろ」との指示を受け、73年7月、石川県の海岸から日本に密入国し、スパイ活動を展開。その後も、北朝鮮に住む家族を”人質”に、脅迫して抱き込んだ在日同胞13人を使って、日韓米の軍事情報の収集にあたっていた。


 80年4月には、宮崎県日向市の海岸から再び日本に密入国。オルグした工作員を利用して、中国料理店の日本人コック(男性、当時49歳)を拉致し、宮崎県青島海岸から北朝鮮に連れ去る。そのコックを本国の首都・平壌近郊に軟禁し、彼の性格や経歴、家族構成や過去の生活などすべての身上資料をマスターした辛は、当人に偽装して同年11月、再び密入国を果たし、以降、この日本人のパスポートや運転免許証、戸籍までも取得し、4年以上にもわたって大掛かりなスパイ工作を繰り広げたのだったー。


 この北朝鮮の大物スパイ・辛光洙と、前述したように、徐が居住していた民家の所有者Bの姉が、73年冬から76年夏までの間、目黒区内の一軒家で同居していたのだ。


 しかも、辛は82年7月から83年5月までの一時期、群馬県高崎市内のパチンコ店などで機械修理工として働く一方、かつての同居人の妹が経営するコリアン・クラブ「M」で、レジ係として勤務していたのである。

「ほんとにコリアン・クラブをやるつもりなんですか?」
「ああ」。坂本は即答しました。(筆者注:坂本は辛光洙の偽名の一つ。)
「どうして?」
「面白そうじゃないか。カネが現金でどんどん入ってくる」


 坂本は妹の経営するクラブで経理を任されるようになっていました。妹は売上を誤魔化した従業員をクビにしたああと、その後釜に据えたのです。


 坂本は抜群に数字に強く、すぐ店のカネの出入りを把握したようでした。二週間もすると、妹に「こんなに儲かるなら、私と一緒にもっと大きな店をやりませんか」と持ちかけてきたそうです。
 そのことを妹は私に言いにきました。
「お姉ちゃん、あの人ちょっと気持ち悪くない? おカネ持ってるの?」
 怪訝そうな顔で妹は何度も首を傾げた。

 これは、当時の辛光洙とBの姉とのやりとりの一部である。坂本というのが辛で、妹がBである(ザ・マサダ刊『北朝鮮よ、銃殺した兄を返せ! ある在日朝鮮人女性による執念の告発』 より)。


 徐裕行が住んでいた民家の所有者Bが経営するコリアン・クラブで、北朝鮮の大物スパイが偽装して働き、そのBの姉と約2年半同居していたという事実。果たして、これは何を物語るのか?


 辛が逮捕されるまで、B姉妹はこの男の正体をまったく知らなかった様子だが、徐の背後に蠢く北朝鮮人脈は確かに気になるところだ。


 しかも、B所有の民家で徐が同居した友人Mの父親は、朝鮮総聯西東京本部の委員長だったらしいとの証言もある。


 国際レベルの疑惑や事件が浮上した際、その真相部分が解明されないまま放置されると、決まって飛び出すのが、こうした一見、荒唐無稽にもみえる諸話だろう。一連のオウム事件に関してもそうだった。しかし、衆人環視の中で起きた村井幹部刺殺事件の背後関係だけは、あまりにも闇の部分が奥深く、通常の論理ではどうにも理解できないのである。

B組→羽根組→徐裕行!?

 「暴力団関係者以外に殺害の真の動機を持つものが存在したとすると、徐服役囚をめぐる人間関係のうち、組以外の者との関係はほとんど明らかにされていない。供述の信用性判断にあたっては、別のルートで徐服役囚と接触した人物が存在する可能性も視野に入れておかなければならない」


 徐裕行に村井幹部殺害を指示したとされ、殺人罪に問われた元山口組系羽根組若頭の上峯憲司は、一審、二審とも無罪となったが、この控訴審判決で裁判長がこう指摘し、見えざる第三者の存在を匂わせたことは極めて異例なことにちがいない。


 別のルートで徐に接触した人物が本当にいたとしたら、それは誰なのか?
 村井幹部刺殺事件から丸一年経った96年5月のある日、旧知の企業経営者の息子の結婚式に出席するため、都内の有名ホテルに出向いた時のことである。


「やぁ、奇遇だねぇ。こんな席で会うとは」
 こう言いながら歩み寄ってきたのは、東京のとある右翼団体の幹部だった。この人物はそのいかつい肩書とは裏腹に、普段はソフトで話題も豊富だったことから、多くの企業経営者と友好的なつきあいがあったようだ。


 肝臓病を患っているとかで、彼はその時はほとんどアルコールを口にしなかったが、披露宴が終わった後、席を移したバーでさまざまな話をした。


「オウムが熊本県波野村の土地を取得しようとした時はね、地主は強く拒否したんだよ。しかし、オウムは売却を執拗に迫り、嫌がらせまでするようになったので、困り果てた地主は地元のA組に相談した。で、そこの親分がオウムに乗りこんで『波野村から手を引け』と迫ったんだ」


 突然、彼がオウム事件に関した話を持ち出したので意外だったが、さすがに有力な右翼団体の幹部だけあって、裏社会の情報には強く、その内容は詳しいものだった。


 彼は話を続けた。


「そこでオウムは、懇意にしていたB組に相談し、A組に話をつけてくれるように以来した。それで2つの組の親分同士が直に会うことになって、B組が九州に乗り込んでいったんだが、その時、A組みのほうは地主に対して『なんだ、オウムのバックにB組みがいるなんて一言も言わなかったじゃないか』と、ちょっと面食らった様子だったそうだ」

 

 そして、結局、地主側は「地元ではトラブルはいっさい起こさない。万が一、起こったら金で解決する」という条件でやむなく了承し、オウムは波野村に進出できるようになったのだという。
「君がオウムのことに関心があるなら、私の知り合いに詳しいのがおるから、聞いてみたらいいよ。何だったら電話をしとくから・・・・」

 

 別れ際にこの幹部が言ってくれたのを便りに、数日後、私はその人物と赤坂の日本料理屋でテーブルを挟むことになった。

 

 その際、相手が差し出した名刺は「〇〇エンタープライズ代表取締役社長」。派手な格好といい、他を圧倒する雰囲気といい、とてもカタギの商売人には見えなかったが、強烈な関西弁ながら、話し始めるとなかなか気さくな人物だった。


「なんや、オウムとヤクザのこと聞きたいんかいな」


 彼は、10数年前までは東京の有力組織で幹部を張っていたが、ある抗争事件で重傷を負ったのを機に家業から足を洗い、金融業に転身したとのこと。それでも、さすがにその筋への情報は強いようだった。


「オウムと関係が深いB組いうんは、ほら、徐の友達やら、上峯がいた羽根組に金を貸しとったわけや。そやけど、バブルがはじけてしもうて、借金も返せんようになってな。そんな矢先に、オウムの事件が次から次へと出てきて、B組のことも取り沙汰されるようになったやろ。そらぁ、B組としては、警察の目をそらす工作をしたい頃や。で、羽根組に対して『借金をチャラにするから、何か事件を起こして警察の目をひきつけろ。組の名前が出たら、組をやめてしまえ。その後のことは考えたる』いう話になったわけや」


 その金融業者はこう話すと、いっきにビールを飲みほした。


 彼によれば、その時にB組から羽根組に一億円が渡され、それで起きた事件が村井幹部刺殺事件だったというのだが・・・・。


 当時は半信半疑だったが、私はその後も同じような話を各所で聞くことになった。銃刀法違反などの罪で何度も”塀の中”と外とを往復しているある暴力団関係者も、私に次のように話したことがある。


「当初はオウムの人間だったら、(狙うのは)誰でもよかったんだ。とにかく、羽根組を動かして、警察やマスコミの目をB組からそらせることが目的だった。その頃、B組はオウムとは関係なく、百億円単位の仕事を抱えていて、いつまでも警察の目が光っていてはやりにくくてしかたなかった、ということだろうな。それがなぜ村井になったかというと、奴はオウムとB組に関係する金の動きを細かく知っていたうえに、口が軽くて信用できん、ということやったな」


 こうした危ない話が渦巻く”濁流”の中で、徐は単なる”捨てゴマ”にすぎなかったのだろうか? それとも、キッチリとした大きなシナリオがあり、その構図の中で用意された任務を果たしたということなのだろうか?

 


闇が闇を呼ぶ”別の顔”


 経営していた催事企画会社「イベントダイヤル」が倒産してから約1年後の2カ月間ほど、徐裕行は東京に舞い戻っていた。


「再会した彼が、仕事を探しているようなので、うちの会社にきてもらったんです。『力を合わせて再起しよう』と誓い合ってね。彼に任せられる大きな仕事もできそうだったし、声をかけたんですよ。会ってみると健康そうだし、屈託もない以前のままの田中(徐の日本名)でした。つくばでは肉体労働をしていたようですね」


 こう話してくれたのは、徐が勤めていた会社のかつての上司だった。
 ところが、93年12月中旬のある日、突然、徐は無断欠勤をする。当時、彼は足立区内の実家から通っていたが、机の上も仕事中のまま、鞄も会社に置きっぱなしで3日も4日も連絡がなかった。この上司が約10日後に会社に来てみると、机の上がきれいに整理され、かばんもなくなっていたという。


「どうしてあんなことになってしまったのか、私にはサッパリわかりません。あえて推測するなら、彼の内面には二つの相反するものの葛藤があったのかもしれません。ご両親のように、地道にコツコツ働いて自己実現をはかる部分と、それを拒否する部分とね。でも、宗教などにはまったく関心がなかったはずです。生い立ちを通じた交流関係で何かあったのでしょう。そちら(北朝鮮籍)の友人を酒の席に呼ぶということは一度もなかったですし」


 ごく近しい仕事仲間ですら知らない”別の顔”を、徐裕行は持っていた。それはいったいどんな世界に通じるものだったのか? 現在、服役中の彼は、いまだにその点だけは語っていない。

 

 

 

 


週刊現代 平成十一年十一月六日号「オウム真理教と北朝鮮」の闇を解いた 最終回

「化学技術省長官」刺殺事件の全真相 後編

サリン開発の責任者だった「化学技術省長官」刺殺事件の全真相 後編
村井秀夫は「北朝鮮の核」機密保持のために殺害された

 

村井秀夫の指示でオウム信者たちが原発に労働者として潜り込み、内部資料を持ち出していたことは、先週号で報じた。では村井はなぜ、原発資料を集めていたのか。それは彼が、北朝鮮が密かに進めていた「核開発」と接点をもっていたからなのだ。そして村井が口封じされた原因も、まさにそこにあった!


 


 物理学の専門家だった村井


 材井秀夫は《知りすぎた男》だった。

 オウム真理教をめぐる一連の事件のなかでも、もっとも深い謎に包まれている「科学技術省長官」刺殺事件──複雑に絡み合った謎の周辺をほぐしていくと、これまでマスコミで報道されてきたオウム真理教の顔だけではなく、もうひとつ別の顔をもった教団の姿が、浮かび上がってくる。

 教団武装化を唱えはじめたオウム真理教の突然の転換の背後には、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の影が濃厚に見え隠れしはじめる。

 さらに、偽ドル、サリン事件の謎と毒ガスの入手ルート、北朝鮮工作組織の介在、流出した原発の極秘データとその行方という、新たな疑惑が露出してきた。

 そして、それら教団内部の最高機密に属していたであろう事がらを、彼=村井秀夫はことごとく知り得る立場にあったのである。

 その村井が不用意に口を開きかけたとき、陰の工作者たちは戦慄した。村井の発言がもたらす波及力は、教団という組織内部にとどまるものではなかったからである。


 

 しかし、たぶん村井秀夫がそのことを完全に自覚していたとは言いがたい。村井は自分が知っている事実が白日のもとに曝されたとき、国内外にどのような波及カ、破壊力をおよぼすかについて、無自覚であっただろう。

 村井秀夫刺殺事件は、オウム真理教および村井個人の思惑などを越えたところで、大きな闇の世界の力学によって引き起こされた事件であったように思える。この事件の背後には、国際的な陰謀と謀略、政治が渦を巻いて存在していた。

 村井は、各地の原子カ発電所にオウム信者を送り込むにあたって「今度、行くときにはどんな資料でもいいから持ってこい、これはいいデータとして使える」と、語っていた。

 また、どこが参考になるのかわからない、と言う信者に対して「オレは専門だから、たいていのことは見ればわかる」と語っていたという元信者の証言もある。

 ここで村井の経歴と専門分野、プロフィールを、少しだけ辿っておく必要がありそうである。

 村井は一九五八年十二月、京都市で生まれた。一九七七年四月、大阪の府立高校を経て大阪大学理学部物理学科に入学、大学卒業とともに大学院修士課程に進み、宇宙物理学を専攻。このときの研究テーマは、惑星から出るX線の研究だった。


 

 修士課程を修了後、一九八三年四月、神戸製鋼に就職。機械研究所の研究員として、航空機関係の研究に従事。熱心な学究肌の研究者だった。

 その村井にわずかな変化の兆しがあらわれるのは、一九八五年頃、彼は次第にヨガに夢中になるようになり、神秘主義にあこがれるようになる。この年、職場の同僚だった女性とネパールにおもむき結婚式を挙げる。

 オウム真理教との出会いはそれからほぼ二年後、彼がたまたま麻原彰晃の著作を読んだことからはじまる。村井は麻原の著書に非常な感銘を受け、研究所を退職し、妻とともに出家を決意。

 その後の村井は一九九五年四月二十三日、東京・南青山のオウム真理教総本部前で、徐裕行によって刺殺される運命の日まで、オウム真理教という教団と運命をともに、一気に短い人生を駆け下りていった。

 この経歴からわかるように、村井は物理学徒として、きわめて専門的な知識を身につけ、実際に民間企業での研究の最先端の場に身を置いていた人間であったのである。「オレは専門だから・・・・・・」という村井の発言には、誇張も衒いもなかった。


 


 究極の教団武装化は「核」開発


 先週号で指摘したような、国内各地の原発の機密データも、村井の目には研究所で日常的に目にしていた多数の書類と同じものに見えていただろう。彼は、そこに現在稼働中の原発の状態、点検工程、不備などを手に取るように見ていたはずである。

 村井についての印象的な写真が残されている。教祖・麻原の横にいる村井が、麻原と一緒にいることで喜びを隠し切れないという表情を浮かべ、天真爛漫な笑顔で写っている写真である。

 その村井が、信者たちに原発の機密データの持ち出しを指示し「持ってくればカルマが落ちる」と言っていたことは、村井自身もまた、そのことを信じていただろうことを、容易に窺わせる。

 一方では自分自身も宗教的な存在として「ハルマゲドン」におののき、一方では冷静な科学者の目で、村井は手元に集められてくるデータの集積を見続けていたに違いない。

 彼に、そのことに対する罪の意識は、たぶん、なかった。だから、彼=村井にとって、それらの資料が国外に流出することについても、危険の感覚は存在していなかったに違いない。村井の人生を私なりに辿る作業をしてみて、なぜかそんなふうに思えてくるのである。


 

 村井がオウム真理教の活動のなかで、これら原発の機密資料を収集するだけではなく、さらにそれを越える途方もないことを考えていたらしいことを、私はいま、リアルに感じ取っている。

 村井は、オウム真理該「科学技術省長官」として、サリンをはじめとする毒ガスの生産研究、生物化学兵器の研究とほぼ同時に、教団自らが独自に「核」開発に手をそめることを、真剣に考えていた痕跡があるのである。

 村井が核開発のことを、たびたび周辺の信者たちに語っていた、という証言がいくつかある。周辺の信者たちにとって「核」開発の話は、原発の機密データと同じく、ある種のブラックホールであり、理解不可能なただの話にすぎなかったかもしれない。

 しかし、村井秀夫についてのみ考えてみれば、あながちそれが単なる空想、夢想にすぎなかったとは思えないのである。

 オウム真理教のもつ豊富な資金と北朝鮮コネクション、そしてそれらを背景にして教団武装化を至上命令として考えたときに、村井「科学技術省長官」の脳裏をよぎったものは、究極の教団武装化としての「核」開発であった。


 


 一致したオウムと北の利益


岡本武

 

 オウム真理教「科学技術省」が究極の獲得目標として「核」武装を射程に入れていたのだとすれば、ここに不気味な国際政治の裏面が浮かび上がってくる。その構図は次のようなものである。

 一九八二年五月六日、金正日による「よど号」のハイジャッカーに宛てた「親筆指令」から始まった日本国内の破壊・攪乱工作指令は「よど号」グループのいくつかの試みを経ながらも成功することはなかった。

 この工作をいかに実現するかで「よど号」グループは組織内部に路線対立を生じ、メンバーのひとり岡本武の粛清問題にまで発展していく。(筆者注:北朝鮮の発表によると岡本武の死因は落盤事故だとされる。)

 彼らは日本国内に潜入し、さらにヨーロッパ各地で人員獲得のために「拉致」事件を引き起こす。しかし、八十年代の末にいたって逮捕者が相次ぐなか、この企ては挫折する。

 そこに代わって登場してきたのがオウム真理教だった。オウム真理教は、それまでの「オウム神仙の会」のころのヨガ道場的な存在から、一挙に教団武装化を唱えはじめ、世界各地で宗教を隠れみのにした活動を開始する。

 


 

 この段階で、相当大量の資金導入が外部から行われたことは、元幹部の証言にも詳しい。そして、どうやらこのときの導入資金の大半が、いわゆる偽ドルだったらしいことも指摘した。

 ちょうど、この時期は、北朝鮮による偽ドル疑惑がさかんに取り沙汰されはじめた時期の直前にあたっている。

 当時、教団が北朝鮮の工作組織とヨーロッパを中心とする各地で接触を図っていたらしい痕跡がいくつか残されている。教団はこれらをきっかけとして徐々に、北朝鮮との関係を深めていった。

 村井秀夫「科学技術省長官」と、同じ教団幹部、早川紀代秀「建設省長官」がともに頻繁にロシアに渡航し、さらにウクライナにも入国していたことがわかっている。さらにウクライナの首都キエフやハリコフから、ハバロフスク経由で北朝鮮に入国していた痕跡が多数残されている。

 この段階で、オウム真理教の北朝鮮コネクションは、ふたつの軸を中心に動いていた。ひとつは、かねてからの宿題である日本国内の攪乱工作。もうひとつは、北朝鮮側が必要としていた日本のハイテク技術、ソフト、製品の需要である。同時にロシア、ウクライナ・ルートによるプルトニウム輸入などの「核」開発関連である。


 

 ところが、ここに北朝鮮とオウム真理教を結ぶ第三の軸が、先のふたつの軸を発展させた形で浮上してきた。オウム真理教自身の武装化としての「核」開発が、村井秀夫「科学技術省長官」の教団武装化構想のなかで、課題にのぼりはじめたことである。

 偶然というか、奇妙なことに両者の利益がこのとき一致した。オウム真理教の「核」武装化は、北朝鮮が狙う日本撹乱・破壊工作の上では、原発のデータ流出とともにきわめて重要な位置を占める。

 さらにオウム真理教側にとって、北朝鮮という新興の「核」開発をめざす国家の存在は、有形無形の大きな意味を持っていた。

 オウム真理教側は、この構想にもとづいて北朝鮮に食い込もうとし、北朝鮮側は、オウム真理教を可能な限り利用しようとした。これが、一九九〇年代中頃、地下鉄「サリン」事件が引き起こされる直前までの構図である。

 


「よど号」犯の妻に接近した狙い


 しかし、実際にはどうであったのだろうか。これらのお互いの思惑と構想は、どこまで有効に結びついたのだろうか。


 

 結果は、どうやらその大半が実現されることなく終わったとしな言いようがないのである。いくつかの傍証がある。

 日本本の「核」技術開発の中心のひとつである、筑波研究学園都市、ここの関連研究施設に、オウム真理教の幹部たちが幾度か接触を試みたことがあった。しかし、この試みはどうやらあまりうまい結果を生んでいない。

 さらにちょうどこの時期、ピョンヤンにいた「よど号」グループのリーダー・田宮高麿は、日本から合法的に多くの人材を北朝鮮に招請する計画を立てていた。

 それは民族派の人間であったり貿易関係者であったりしたが、その中に科学技術関係者も含まれていたのである。

 このことは、オウム「科学技術省」の村井秀夫が意図し構想していたであろうようには、北朝鮮側の核開発関連技術導入の「筋」が、まだ確定したものではなかったことを示している。

 これと関運して、一九九一年十月二十日、東京・練馬区の練馬文化センターで開かれたオウム真理教主催の「真の自由と平等を求める市民の集い」という集会に「よど号」グループの「妻」のひとり、八尾恵がパネリストとして出席したことで、オウムと北朝鮮の関係が「赤旗」紙上や週刊誌などで取り上げられたことがあった。

 

(北朝鮮日本人工作員・八尾恵。後に著書「謝罪します」で自身の犯罪を自白。)

 


 

(オウム真理教幹部・青山吉伸)

 

(鹿島とも子)

 

 この集会については、オウム側から青山吉伸弁護士鹿島とも子などが出席し、人権派として千代丸健二、救援連絡センターの事務局長・山中幸男などが参加した。

 八尾恵はこの当時、報道被害などを訴えてマスコミ訴訟をつづけており、救援連絡センターの事務局員として働いていたことから、この集会に参加している。

 この集会に「よど号」の「妻」のひとりが参加していたということをもって「赤旗」は疑惑に満ちた記事を書いたが、実際にはなんの根拠もないうがった記事だった。

 しかし、問題は彼女がこの集会に参加したことにあったのではなく、じつはこれ以前から八尾の裁判支援にも、オウム側から青山弁護士を含む複数のアプローチが行われていたことである。

 当初はオウム側が、一種の「広告塔」として八尾を利用しようとしているのではないか、とも考えられたが、グループのリーダー田宮は、私が訪朝したおりに直接、その理由を尋ねたとき、じつに明快な答え方をした。

「オウムは八尾さんを介してわれわれとコンタクトを取ろうとしているのではないか」と。さらに「オウムはわれわれを通して共和国とコンタクトを取りたがっているのではないか」と。


 

 これらのことを考えあわせると、オウム真理教にとってもこの時期にはまだ、明確に北朝鮮側の窓口が一定していなかった、ということがわかってくる。

 そして、オウム真理教と北朝鮮側の窓口がまだ不安定であったが故に、オウムの「核」による究極の教団武装化計画は実現するにはいたらなかった。

 幸運なことに、オウム真理教が自作自演しようとした「ハルマゲドン」計画は、回避されたのである。

 


 核査察問題で野望は挫折した


 ではなぜ、北朝鮮の「核」開発にとって、ロシアではなく日本の一宗教団体がそこに食い込む余地があったのだろうか。この答えは簡単である。

 北朝鮮は自国の「核」開発のために、ロシアから多数の学者、研究者をピョンヤンに招請していた。その担当部署が朝鮮労働党第二経済委員会であったことも、今では周知の事実となっている。

 しかし、北朝鮮の工業技術、ハイテク技術の技術体系には、明らかにもうひとつの「筋」が存在していた。それが、日本の工業技術でありハイテク技術であったのである。


 

 朝鮮総連をはじめ、その傘下の在日朝鮮人科学技術協会(科協)などの団体が、これまでに極めて大量の技術、研究成果、および資材を日本から「祖国」北朝鮮に輸出していることは紛れもない事実であり、これが合法的・非合法的な領域を問わずに、これまでつみ重ねられてきたことは多くの指摘がある。

 いわば北朝鮮には、ロシア型の技術体系と日本型の技術体系が混在していると言ってよい。その上、現在のハイテク技術の分野では、圧倒的に日本型の方が部品等の製品事情を含めて優位にたっている。

 北朝鮮のミサイルや潜水艇の部品に、多くの日本製品が使われていることがマスコミで問題視されることの理由もそこにある。

 この日本型の技術体系下で行なわれる研究や開発にとっては、小さな部品やIC機器のひとつにいたるまで日本製品の方が便利であることは言うまでもないだろう。

 そこに、日本からの研究とデータが北朝鮮に求められる意昧が存在している。北朝鮮側がオウム真理教を利用して、日本の原発の資料をはじめとする研究レポートを入手しようとした理由の大半も、そこにこそあった。

 また、オウム真理教側にとっては、国内では所有不可能な研究施設や研究体制が、北朝鮮側から提供されれば、それに越したことはなかったのである。しかし、このオウム真理教「科学技術省」の構想は挫折した。


 

 一九九三年三月、北朝鮮のNPT(核不拡散条約)脱退宣言から、核査察の受け入れと拒否をめぐる一九九四年六月のIAEA(国際原子カ機関)脱退という、一連の北朝鮮核開発疑惑をめぐる国際政治の荒波のなかで、この構想は着手されなかった。

 むしろ、あの朝鮮有事に向けた一触即発の状況のなかで、このオウム真理教の構想に、北朝鮮がどんな些細な部分においても関与していることは、どうしても闇に葬らねばならない「事実」だったのである。

 村井秀夫「科学技術省長官」刺殺事件の背後には、そうした国際政治の闇の部分が、ブラックホールのようにうず巻いていた。

 オウム真理教が引き起こした一連の事件への北朝鮮の関与、工作組織の存在は、村井の命を奪ってもなお、死守しなければならない機密に属していた。

 サリン事件をはじめとした多くのオウム真理教によるテロ事件、これらの事件の犠牲者の数は多い。さらに親兄弟を失った家族の悲しみもいまだにいやされることがない。

 一連のオウム真理教の事件の背景になにがあったのか、その真相を明らかにすることが、犠牲となった人々への何よりの鎮魂、手向けであるのではないだろうか。日本政府は、これらの事件の真相と背景について、そろそろ明らかにするべき時期が来ていると思うのだが。


 

 最後に一言。この連載は今回でひとまず終わらせて頂くことにしたい。短期の集中連載という形で始まったこの記事も今回で十一回目を数えた。

 鈴木哲編集長の「ライブでやれ!」との一言で始めさせていただいた記事だったが、いくつかは新しい事実、真相を提示することができただろうと考えている。

 あらためて取材の態勢をとりなおした上で、再開できる日を待ちたい。このテーマはオウム真理教と北朝鮮という国家が存在するかぎり、私にとってのネバー・エンディング・ストーリーである。

(文中敬称略)
■取材協力 今若孝夫、加藤康夫(ジャーナリスト)