村井秀夫刺殺事件の真相を追って -11ページ目

村井秀夫刺殺事件の真相を追って

村井秀夫は何故殺されたのか?徐裕行とは何者なのか?
オウム真理教や在日闇社会の謎を追跡します。
当時のマスコミ・警察・司法の問題点も検証していきます。
(2018年7月6日、麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚らの死刑執行。特別企画実施中。)

徐と北朝鮮を深追いすると声明の保証はできない

 

田村建雄氏

 

オウム真理教科学技術省長官だった村井秀夫氏が刺殺されて以来、オウム真理教は様々な噂に取り囲まれた。オウムになぜ、それだけの噂が出るのかを考える上でも、敢えて、”タレ流”された情報と取材の過程をジャーナリスト・田村建雄氏にレポートしてもらった。

 

 

連日のように出てくる一連のオウム報道のベースは警視庁からの公安情報であり、一体どこまで事実なのか検証しきれない。

 

その一方では貝のように閉ざされてしまった公安情報がある。最初の一報で続報がピタリと途絶えた情報だ。それは主にオウムの「闇側」と囁かれてきた人脈、関連事項に圧倒的に多い。例えば巷間囁かれた暴力団関係筋、他宗教との関わり、そしてオウムと諸外国との接点などなどだ。深い闇の中に吸い込まれていくように消えてしまった公安情報。その背景にはいったい何があるのか。

 

その典型的な例にオウムと朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の関係がある。

例えばオウム科学技術省長官の村井秀夫氏刺殺犯、徐裕行容疑者である。徐容疑者は当初オウムの行動に義憤を感じ村井氏を刺殺したと供述。しかし、その後、指定暴力団山口組系羽根組(解散)幹部が徐容疑者の共犯として逮捕されるや同容疑者の供述は額面どおりには受け止め難くなっている。村井氏刺殺のみを企画した誰かが差し向けたヒットマンという見方が強まっている。一部オウム説も流れた。が情報もここまで。同容疑者に関しては、事件当初の情報を除けば、なぜか、続報はプツリと途絶えたままだ。

 

徐容疑者とは一体何者なのか。この疑問にもとづき同容疑者を丹念にたどっていくと、そこには「北朝鮮」というキーワードで結ばれる不思議な符合に気付かされる。

 

(徐が生まれたとされる群馬県桐生市)

 

徐容疑者は韓国籍である。同容疑者は65年群馬県桐生市に生まれている。68年、親が朝鮮籍から韓国籍に変更した。

 

さらに徐容疑者が事件当時、寝泊まりしたとされる貸し手に繋がる人物のひとりは、かつて日本を部隊にした北朝鮮の大物スパイ辛光洙と何年か生活を共にした女性、朴春仙氏の一族でもあった。

 

もちろんオウム事件にもスパイ事件にも、前記の断片的事柄がストレートに繋がっていると断定できない。ただ、このようにオウム事件の点を追っていくだけで必ずといってよいほど「北朝鮮」の人脈に交差する。これをどう受け止めればいいのだろうか。

 

いくつかこの他の例を挙げてみよう。

 

私は数字が羅列され英文字の頭文字、人名が詳細に記された奇妙なB5判サイズの数枚のペーパーを入手した。そこには一連のオウム報道で見慣れた氏名が続々と登場する。

 

例えば次のようだ。

 

93.11.21 SU576。F松本智津夫…松本知子、村井秀夫etc。(成田ーモスクワ)

 

「松本智津夫」は麻原彰晃容疑者の本名である。このペーパーは明らかにここ3〜4年のオウム真理教信者の海外渡航記録の一部であることは間違いない。

 

注目すべきは一覧表からも読み取れる早川容疑者の海外渡航歴のすさまじさである。92年から今年3月(筆者注:1995年)までの海外渡航歴は29回、出発は93年9月2日に大阪からシンガポールに一度飛んだ以外は全て成田発。トータル257日。中でもロシアへの渡航歴は21回を数える。

 

「調査したところ、この21回のうち実は13回、ウクライナ経由で北朝鮮に入っている」とある公安関係者は証言した。

 

そしてウクライナ。同国は今、武器マフィアの間では密かに「ウクライナに行けば政府管理の行き届かない旧ソ連時代の残滓ともいえる数万発の中距離核弾頭、核燃料となるウラン鉱、そしてロシアから流れたAK74型自動小銃などあらゆる武器が金次第で調達できる」といわれている。早川容疑者がこのウクライナを経由し北朝鮮に入国していたのだ。まさに刮目すべき情報だ。いわゆる早川ノートにも次のような記述が見える。”政府高官tp接触 武器ひとつに40万ルーブル”。当時のウクライナの通貨はルーブルだ。さらに早川容疑者のロシア行きの行動を再チェックしてみると奇妙なずれに気付く。

 

94年3月15日SU(アエロフロート)576便のビジネスクラスでモスクワ発で帰国予定だった。が実際帰国したのはそれから一週間後の3月26日。この1週間の帰国延期は何を意味するのか。

 

このように早川容疑者の渡航には当初の予定と実際の帰国が突然1週間ぐらい大幅にずれることがしばしばである。

 

私は前出の公安関係者に、モスクワに入った早川容疑者が突然帰国延期する時期が北朝鮮への入国時期か、と問うた。しかし、彼は一切答えなかった。

 

 

オウムは北東アジアの武器商人になろうとしていたのか

(オウム真理教と中国共産党)

 

(当時の上海。開発が始まって間もない頃)

 

94年2月22日のことである。肌をつきさすような寒風。中国の上海港。そこに成田発の便から奇妙な服装をした一行がゾロゾロと降り立った。オウム服に身を包んだ麻原彰晃容疑者一行だった。

 

95年6月某日。ある日本の中国関係者A氏が次のような驚くべき証言をした。

 

「私がある中国の政府関係者と電話でやりとりしていた。そうすると……」

以下、その会話である。

 

ー「日本にはオウム騒ぎで大変。彼らがロシアに行ったことであそこも大変だ。」

 

「フフフ……」

 

ー「何を笑っているのですか。」

 

「彼らは中国にも入ってる」

 

ーエーッ。いつ、誰が!

 

「麻原彰晃たちだ」

 

ーどこが招聘したのか。

 

「表向きは観光だが実際は招聘先があったようだ。あそこですよ、あそこ。中国側では布教活動は市内という一札を取って入国させたようだ」

 

ー中国国際友好連絡会?

 

「フフフ……献金もしたようですよ。3000万円と聞いていますがね」

 

ー彼らの目的は。

 

「鄧小平の三女に会い鄧小平に会いたいと申し出たそうだ。がそれは断られた」

 

ー三女は確か友好連絡会の副会長?

 

「これくらいで勘弁してくださいよ」

 

A氏の会話は概ね以上だ。

その後の調べで、この時の上海ツアーは表向きは明の初代皇帝、朱元璋の足跡をたどるツアーだった。参加者は麻原容疑者に早川、井上嘉浩、林郁夫の各容疑者とサリンを持って逃亡中とされる林泰男容疑者だった。彼らは鄧小平に会えないと分かると上海市内をブラブラ、予定を早めて同月26日帰国。

 

 

A氏は彼らの動きをこう分析する。「友好連絡会は中国政府対外連絡機関。バックには中国解放軍など軍関係者が多い。鄧小平の二女の夫はやはり軍関係のビジネス機関、新興公司の総経理、つまり社長をしている。どう考えても麻原たちは何らかの形で中国の軍関係者と接触を図ろうとしていたのは否定できない」

 

このA氏との話の直後、某防衛庁関係者と接触する機会を得た。仮にT氏とする。T氏は独自のルートで得た情報をもとに早川容疑者の狙いを喝破、次のように断言した。

 

「早川の狙いはズバリ、北東アジア、ウクライナなどを中心に第三国への武器輸出など武器商社のようなものを作ることだった。ウクライナをベースに北朝鮮には核関係のウランなどを持ち込み、物々交換で北の武器また他国に流して利鞘を稼ぐ。中国はすでに、ある大物の親族関係の商社と武器を介在して深い関わりを持ちつつあった。そしてロシアはロシアで、その武器をテコにある勢力がオウムを利用して日本の中に一定の政治勢力を築こうとしていた。それが早川の度重なる海外渡航、北朝鮮入国の基本的動きと見て間違いない」

 

(北京五輪・長野聖火リレーに現れた中国人。手元には麻原とダライラマの写真。)

 

一連の取材後、ある公安関係者に、なぜオウムと北朝鮮との関係が閉ざされてしまったのかと質した。しばしの沈黙の後、やっと彼は重い口を開いた。

 

「……もう、それは当局としてはやる気はないという感じだ。国の問題もあるし。・……それに、すこしスパイもどきの荒唐無稽の話が多すぎる……」

 

ーそれじゃ、早川容疑者は何のために北朝鮮へ入ったのか、それとも本当は入ってないのか。

 

「……」

 

ロシア、中国にみられるように、90年代に入って旧社会主義圏は国家がらみの犯罪が横行している。その理由として、国家財政の破綻によって各組織が独立採算になり、どんなことでもするようになったからである。数年前より国民はおろか軍隊の食料も賄えなくなった北朝鮮においては推して知るべしである。

 

だが、点と点を結ぶために取材を続ける私に公安関係者はささやく。

 

「徐と北朝鮮を深追いすると生命の保証はできない」

 

こうして浮かび上がった点もまた闇の中に消えて行くのかー。

 

(参考文献:SAPIO 1995.7.26号)

 

 

 

李 鍾植著「朝鮮半島最後の陰謀―アメリカは、日本・韓国を見捨てたのか?」

 

 

世界の諜報機関員周知の「対日テロ戦争」と「サリン計画」
「どうやって持ち込んだんだ?」
「持ち込む?そんなことは簡単だ。覚醒剤を持ち込めるのに、どうしてサリンを持ち込めないというんだ?それに日本国内で製造したモノもある」
 私は耳を疑いました。
 日本国内で製造した・・・・とは?
 サリンの製造には大掛かりな施設が必要なはずです。そんな施設を造ればオウム真理教のように、捜査当局の追及を免れることは不可能ではありませんか。
「だから・・・・オウム真理教の連中が製造したサリンだよ」
 実は、このことについても、ずいぶんと以前から囁かれていたことなのです。在日北朝鮮工作員がオウム真理教と接触、あるいは信者として内部に潜り込み、「サリン」製造に深く関与していたという、ある種の都市伝説は、世界中の諜報機関員の間で半ば公然と話されていました。
 私自身がこの都市伝説を耳にしたのは、オウム真理教による「地下鉄サリン事件」直後のことでした。
 ある公安警察OBにこの話題を差し向けたところ、「限りなく事実に近い」との回答を得たこともありました。
 また、親交のあるアメリカ国務省の極東担当者に同様の質問をしたときも、「ほぼ間違いのない事実だ」と顔を曇らせたものです。
 どちらの証言もAの告白で折り紙をつけられた恰好です。
 顔面蒼白となった私は、さらに件の「対日サリン攻撃」による被害予想を問い質してみました。
「首都圏は壊滅する」
 Aの回答は確信に満ちていました。
 すなわち、最悪の事態を想定すれば二千数百万人の死者が累々とすることになるのです。
 さらにAは、「地下鉄サリン事件の詳細は平壌に報告している」とつづけ、「あの事件の計画にも北朝鮮の特殊工作員が関わっていた」と結んだのです。
 つまり、反社会的、破壊的なカルト教団であったオウム真理教にいち早く目をつけた北朝鮮の特殊工作員が、これを「対日テロ計画」に利用するべく平壌と謀り、専門の科学者による技術供与などの面を含めて、「サリン」製造に積極的な支援をしたということなのです。
 だからこそAは、「アメリカに行きたい・・・・」と願っていたのです。
「首都圏には何百、何千という同志・同胞がいる。在日韓国・朝鮮人も何万人といるではないか。それなのに本国は皆殺しにすると息巻いている。祖国と呼べるはずがないだろう」
 Aのように何十年も日本や韓国に長期滞在している工作員は、「固定間諜」と言われ、結婚して家庭を築いている例もあります。あるいはAもそうではないかと思い、訪ねてみたところ答えはありませんでした。
 ただ、「日本人には大切な友人もたくさんいる」と俯くだけでした。
 自分が提供した情報が本国でどのように活用されたか知らないと、Aは言います。それは末端の工作員として知る由もなければ、知る必要もないことなのです。工作員とは歯車の一つにすぎないことをAも承知していました。
 それでも、祖国に忠誠を尽くした挙句、虫けらのように「サリン」で殺されることに、どうしても我慢がならなかったのでえしょう。
 私には、Aの心情が痛いほど、まさに手に取るようにわかったのです。

オウム真理教と北朝鮮の「暗黒の関係」
 これまで耳にした数々の噂話とAの供述・・・・これらが一致したとしても、俄かに信じることはできません。
 ましてや、オウム真理教との関係が本当だとすれば、「地下鉄サリン事件」そのものが、北朝鮮によるテロ事件という側面を帯びてくるのです。
「村井という幹部を覚えているだろう?」 
 Aが名指しした「村井」とは、オウム真理教のサリン製造の最高責任者といわれた人物で、「地下鉄サリン事件」(1995年3月20日)からおよそ一か月後の1995年4月23日に、教団東京総本部(東京都港区南青山)の玄関先で、指定広域暴力団「山口組」傘下の暴力団組員で、自称「右翼団体構成員」の男に刺殺された「村井秀夫」のことです。
「村井を刺した実行犯の徐裕行が韓国籍だったことも知っているな?」
 犯人が韓国籍だったことや、すでに北朝鮮との「闇取引」を噂されていたオウム真理教の背後関係などから、この刺殺事件が北朝鮮の示唆によるものと、一部マスコミに取り沙汰されていたのですが、それが「真相」であるとAは話をつなぎました。
 あの事件の裁判では、犯人の所属する組織の幹部が「殺害を指示した」として逮捕・起訴されたのですが、結局、証拠不十分で無罪判決が確定しています。
 さらに、ある捜査当局者の話によると「暴力団幹部は本当に何も知らなかったようだ」ということです。
 そもそも、「村井秀夫刺殺事件」にはいくつもの謎がありました。
「幹部なら誰でもよかった」との犯人の供述とは裏腹に、犯行当日、教団東京総本部を取り巻いていた多くのマスコミが撮影した写真や映像から、犯人が村井秀夫以外の幹部の出入りには無関心だった様子が明らかで、当初からターゲットを村井秀夫に絞っていた疑いが持たれているのです。
「当時、山梨県上九一色村にあった教団本部施設の異臭騒動について、オウム真理教は一切の関与を否定していた。しかし、マスコミに対する談話の中で村井秀夫が、”教団が製造した農薬が原因”と関与を認めたことで麻原影晃の怒りを買い、暴力団組員を使って処刑されたのではないかという話もあるが・・・・」
 私の疑問にAは、せせら笑いながら言葉をさえぎりました。
「そもそも犯人が村井を殺したところで、所属する暴力団組織にいったいなんの得があるというんだ」
 たしかに、組織の掟からすれば、末端の組員が、独断であのような事件を引き起こすのは、絶対にあり得ないことなのです。
 そう考えれば、犯人には所属する組織とは「別の力学」が作用したと考えるのが当然ではないでしょうか。
「犯人の父親はバブル崩壊によるビジネスの失敗で、億単位に上る莫大な借金を抱えていた。しかも、父親は朝鮮総連(在日本朝鮮人総合連合会)と深い関係にあった。ヤクザ者とはいえ儒教思想に呪縛された朝鮮人の犯人は、その借金を清算するため、そして祖国を守るために引き受けたんだ」
「依頼主は?」
「平壌」
「担保(資金の出所・仲介者)は?」
「朝鮮総連」
「それなら裏書(共犯者)が麻原影晃と側近たちだと?」
「いや・・・・連中は何も知らされていない」 
 Aの説明は概ね次のような内容でした。

武器調達のパイプ、ロシア・コネクション
 オウム真理教が武器弾薬を調達できたのは、「ロシア・コネクション」があったからなのですが、それは大幹部である早川紀代秀が一手に担っていました。
 ロシアの「闇社会」に太いパイプを持つ早川紀代秀は、麻原影晃を叱責するほどの教団内実力者であり、陰の尊師とも呼ばれていたというのです。
 一方、若手実力者の筆頭株であった村井秀夫は、サリン製造で構築した北朝鮮とのパイプを独占することで、早川紀代秀に対する政治的均衡を保っていたのだといいます。
 村井秀夫が指揮するサリン製造と、サリンによる「終末(ハルマゲドン)テロ」が成功すれば、教団内での地位は確固たるものとなり、ゆくゆくは名実ともに教団ナンバー2として君臨することも可能だったでしょう。
 当時、オウム真理教は官僚体質の悪癖に侵されていて、それぞれの幹部が、それぞれの分野で功名を競い、自分の既得権は決して他の信者に公開しようとしなかったので、まさに「たて割り行政」そのものだったそうです。
 そこに北朝鮮の特殊工作員が村井秀夫の側近としてはべり、様々な便宜を図り、秘密を共有し、派閥意識を煽り、「有能なトカゲの尻尾」に仕立て上げたということです。
 実際、一万人もの信者を有した「オウム真理教」ほどの大所帯を利用しようとする場合、計画が失敗したときのことを考えれば、重要機密はたった一人とだけ共有し、いざというときには「尻尾を切る」のが諜報機関の常套手段です。
 北朝鮮が当初から、オウム真理教を利用してサリンによる大規模テロを計画していたとするなら、事件後、容易に証拠隠滅できる仕組みを整えるのが当然です。
 これらのことを総合して考えれば、Aの供述は相当に信憑性の高いものと言わざるを得ません。
 また、一連の「オウム真理教関係特別手配被疑者」 である平田信、高橋克也、菊池直子らが、タイで逃亡生活を送っているとの情報がありますが、これについてAは、「北朝鮮とタイは30年以上も前から国交関係にある。覚醒剤取引など闇の関係も深い。あの三人がいまも生きているとは思えないが、いずれにしても北朝鮮の手引きで逃亡したことは間違いない」と、やはり北朝鮮工作員の関与をにおわせたのでした。
 それでもAの話を鵜呑みにすることはできません。
 もっとも、「証拠を見せろ」と迫ったところで、事件が事件、内容が内容なだけに「証拠」が残っているはずもないのです。
 同業者としての私が、当たり前の疑いを抱いていることはAも察したところでしょう。 
 Aはブリーフケースから小さな金属片のようなものを取り出し、掌に乗せて私に示したのです。
「オウム真理教のバッジ”プルシャ”だ」
 驚きを隠せないでいる私に、それを放り投げました。そして、Aは驚くべきことを口走ったのです。
「オウム真理教の内情を平壌に報告するのも、我々の部隊の仕事のひとつだった・・・・」
  もはや言葉を失った私は、Aの顔をまじまじと見つめるしかありませんでした。
 彼の言うことには、Aが所属する部隊というのは、日本企業に対する産業スパイが主な任務で、A自身も大手光学機器メーカーの研究室や大学の研究室に「協力者を飼っている」というではありませんか。
「オービス(自動速度違反取締装置)の技術を収集するのが目的だった。日本製のオービスはジェット戦闘機が通過しても、パイロットの顔がはっきり撮れるといわれている。だから、そのカメラとセンサーの技術を平壌は欲しがっていたんだよ」
 

 

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徐裕行と「謎の男・T」

「どうしてる? 久しぶりに一杯やらないか」
 一年半近くも会っていなかった警視庁の捜査員からこう声をかけられたのは、まだ日が陰るのが遅く、残暑が厳しい1995年9月下旬の夕暮れ時だった。
 ちょうど関わっていた週刊誌の入稿日翌日ということもあって、気軽に応じた私が彼と落ち合ったのは、東京・新橋のとある居酒屋だった。以前に彼と2,3度入った店だが、料金が安くて美味しいからなのか、その日も会社帰りのサラリーマンたちでまずまずの賑わいだった。
「今は何を追っかけてんの?」
 もう数年来のつきあいだが、面会して一番に彼が口にするセリフは昔から変わらない。


 彼がカウンターの下に置いたバッグの中から一枚の紙片を取り出したのは、いつもの焼酎のお湯割りを注文したときだった。


「ほら、これ。君が作ったんだろ?」


 目の前に置かれたB4判の紙片を見て、私は一瞬、言葉に詰まってしまった。というのも、彼が指摘した通り、それは私自身が数カ月前に作成した人脈チャート図だったからだ。それも、一連のオウム真理教に絡んだ凶悪事件の中でも背後関係がもっとも不透明で、多くの謎に満ちた村井秀夫刺殺事件に関する・・・・。


 取材、執筆を生業にする者なら当然だろうが、関連資料は何よりも重要だ。まして取材が長期化すればするほど、その量は膨大になり、資料ファイルは数を重ねていく。しかし、そうした関連資料を常にバッグに入れて、取材先を回るのは億劫でしかたがない。そこで、なるべく私は、事件の当事者や関連企業、金の流れなどの背後関係を整理し、ワープロで1,2枚程度の関連チャート図を作成するようにしていた。


 しかし、時としてそれが、自分でも思わぬところに流出することがある。取材の仲間内に見せたものなどが、人づてに伝わってしまったりするからだ。たまに怪文書に間違われることもあったが、本人はもとよりそんなつもりはないのである。


 後で知ったことだが、その時、その警視庁捜査員が持っていた資料は、数週間前に旧知の警視庁詰め記者(当時)に参考資料として手渡していたもので、それを彼の上司か同僚が勝手に複写し、親しい捜査関係者に「こんなものがあるけど、持ってる?」と差し出してしまったということだった。しかも、オリジナルはワープロで印字したばかりのB5判のものだったはずが、かなり文字が薄れ、図形も歪んでおり、サイズもB4判。ご丁寧にマル秘の印まで押されていた。それは、一度流出した資料が、何度もコピー、FAX送付が繰り返されたことを物語っていた。


 思いがけないところで”再会”したその資料だったが、それは、村井幹部刺殺事件の実行犯で、すでに懲役12年の実刑が確定して服役中の、徐裕行受刑囚をめぐる人脈図だった。


「なかなかよくできてるじゃないか。でも、この部分の関係を調べたら、きっと面白いはずだよ」


 捜査員は人脈図の一部分を示しながら、話を続けた。
「徐は都立足立工業高校を中退した後の数年間、何をしていたのかが空白なんだ。私が聞いた話では、彼は足立区内の朝鮮総聯系の朝鮮第四初級学校に4年制まで在学しており、おまけに主体思想研究会のある支部の責任者だったことがあるらしい」


 彼が指摘したのは、当時から捜査関係者やマスコミの間でささやかれていた、徐裕行の北朝鮮人脈にまつわる疑惑だった。それを聞いて、私はふと、以前に数度会ったことがある韓国人ブローカーの言葉を思い出していた。


「徐と接点を持つ北朝鮮人脈で、まだほとんど注目されていない男がいるらしい。Tという北朝鮮の対日工作員で、青森などから香港、ウクライナを経由し、何度も北朝鮮に渡航しているようだ」


 村井幹部刺殺事件の数日後に面会したそのブローカーは、こう思わせぶりに言ったものだが、その時は気がつかなかったものの、実はこの話に登場するTなる男と、私は面識があった。


 Tと私が初めて会ったのは、ある企業事件の取材をめぐる情報交換の場で、もう10数年前のことだった。当時、彼はやはり韓国籍の実業家のもとで働いていたが、どこにでもいる普通のサラリーマン風で特別な存在にはみえなかった。その時の私には、彼が差し出した名刺から、北か南かは不明だが「半島出身の人だな」という程度の認識しかなかった。


 ほどなくして、Tは勤めていた会社を辞めたが、私はある取材の関係で彼との面会を期待していた時期があった。しかし、彼を紹介してくれた人物はおろか、共通の知人たちも一様に「行方がわからない」と繰り返すだけだった。


 その時、おぼろげに記憶しているのは、知人たちが彼のことを「かなりの情報通だが、神出鬼没なところがあって正体がつかめない。しかし、たまにとんでもない裏社会の大物を連れてきたりと、交友関係がやたら幅広い。自分のことは極端に語りたがらないが、何かの宗教に凝っていた時期があったようだ」と、口々に評したことだった。


 果たしてTは、噂されるように北朝鮮の対日工作員だったのか? 裏社会の大物たちとはどんな関係だったのか? 凝っていた宗教というのは、もしかしたらオウムではなかったのか? そして、本当に徐と接点があったのだろうか?
 新橋の居酒屋で捜査員と焼酎をあおりながら、私はそんな思いにふけっていた・・・・。

見え隠れする北朝鮮人脈

 95年4月、東京・青山のオウム真理教東京総本部ビル前には、24時間体制で張りつく報道陣でいつも大混雑の状況にあった。すでに有名人となった教団幹部が出入りするたび、テレビ・レポーターがマイクを突きだし、カメラのストロボが焚かれる。そんな光景が火に何度も繰り返されていた。


 事件は4月23日の午後8:36に突然起こった。総本部ビルに入ろうとした教団幹部・村井秀夫を報道陣が取り囲むなか、ひとりの男がおもむろに接近すると、手にした牛刀で刺殺してしまったのだ。


 群衆の面前で殺人を犯したこの男が、徐裕行だった。徐は犯行後、まったく悪びれる様子もなく、その場で逮捕された。確実に殺害を狙った手口といい、淡々と逮捕された様子といい、その犯行には、いかにも「プロが殺しの仕事をこなした」といった感じがみてとれた。


 だが、どうしても不可解だったのは、その動機だった。彼はなぜこのような事件を起こしたのか? 犯行の背後関係はどのようなものだったのか? こうした疑問は、事件から5年以上が経過した現在でも、大きな謎として残されたままだ。


 さらにいえば、なによりも、「徐裕行とは何者だったのか?」という点すらが、まったく解明されていないといっていい。彼の人生の軌跡には、確かに不明な部分が多いのである。


 この事件の背後関係を取材していた当時、私がしばしば耳にしたのが、徐と暴力団や北朝鮮人脈との接点に絡む噂だった。そのなかで判明した事実は、だいたい以下の通りだった。


 徐が社長を務めた催事企画会社「イベントダイヤル」が、折からのバブル崩壊で、総額2300万円の負債を抱えて倒産したのは92年10月。彼はその後、茨城県つくば市内の友人宅に身を寄せ、その兄が経営する古紙回収業の手伝いをしていたが、94年3月、再び都内足立区の実家に帰っている。


 そして、小学校時代からの幼なじみであるKと、その友人Mが住む、世田谷区上祖師谷の二階建ての一軒家で共同生活をするようになるのは、同年11月頃のことだった。この家を所有するのはBという女性だが、その息子の友人が借り主のMで、ここに登場する3人はいずれも北朝鮮籍である。


 その間、徐はKが経営する金融会社の事務所に顔を出すようになり、ここで複数の韓国籍の地人と出会うことになる。同時に、その人脈から山口組系羽根組の幹部Gを紹介され、ヤクザとして生きていく覚悟で入会するのだ。
 
大物スパイ・辛光洙との接点

 ところで、徐が友人らと同居し、住民票まで移していた民家の所有者Bは、品川区五反田で「M」というコリアン・クラブを経営しているのだが、その姉は実に興味深い人物と結びつく。辛光洙ー85年6月、韓国国家安全企画部によって検挙された北朝鮮の大物スパイである。日本を拠点に暗躍していたこの男とBの姉はある機関、一緒に暮らしていたのだ。


 事件の概要は次のようなものだった。


 -辛光洙は、北朝鮮の金正日書記(当時)から「日本人を拉致し、日本人に完全に変装して対何工作任務を続けろ」との指示を受け、73年7月、石川県の海岸から日本に密入国し、スパイ活動を展開。その後も、北朝鮮に住む家族を”人質”に、脅迫して抱き込んだ在日同胞13人を使って、日韓米の軍事情報の収集にあたっていた。


 80年4月には、宮崎県日向市の海岸から再び日本に密入国。オルグした工作員を利用して、中国料理店の日本人コック(男性、当時49歳)を拉致し、宮崎県青島海岸から北朝鮮に連れ去る。そのコックを本国の首都・平壌近郊に軟禁し、彼の性格や経歴、家族構成や過去の生活などすべての身上資料をマスターした辛は、当人に偽装して同年11月、再び密入国を果たし、以降、この日本人のパスポートや運転免許証、戸籍までも取得し、4年以上にもわたって大掛かりなスパイ工作を繰り広げたのだったー。


 この北朝鮮の大物スパイ・辛光洙と、前述したように、徐が居住していた民家の所有者Bの姉が、73年冬から76年夏までの間、目黒区内の一軒家で同居していたのだ。


 しかも、辛は82年7月から83年5月までの一時期、群馬県高崎市内のパチンコ店などで機械修理工として働く一方、かつての同居人の妹が経営するコリアン・クラブ「M」で、レジ係として勤務していたのである。

「ほんとにコリアン・クラブをやるつもりなんですか?」
「ああ」。坂本は即答しました。(筆者注:坂本は辛光洙の偽名の一つ。)
「どうして?」
「面白そうじゃないか。カネが現金でどんどん入ってくる」


 坂本は妹の経営するクラブで経理を任されるようになっていました。妹は売上を誤魔化した従業員をクビにしたああと、その後釜に据えたのです。


 坂本は抜群に数字に強く、すぐ店のカネの出入りを把握したようでした。二週間もすると、妹に「こんなに儲かるなら、私と一緒にもっと大きな店をやりませんか」と持ちかけてきたそうです。
 そのことを妹は私に言いにきました。
「お姉ちゃん、あの人ちょっと気持ち悪くない? おカネ持ってるの?」
 怪訝そうな顔で妹は何度も首を傾げた。

 これは、当時の辛光洙とBの姉とのやりとりの一部である。坂本というのが辛で、妹がBである(ザ・マサダ刊『北朝鮮よ、銃殺した兄を返せ! ある在日朝鮮人女性による執念の告発』 より)。


 徐裕行が住んでいた民家の所有者Bが経営するコリアン・クラブで、北朝鮮の大物スパイが偽装して働き、そのBの姉と約2年半同居していたという事実。果たして、これは何を物語るのか?


 辛が逮捕されるまで、B姉妹はこの男の正体をまったく知らなかった様子だが、徐の背後に蠢く北朝鮮人脈は確かに気になるところだ。


 しかも、B所有の民家で徐が同居した友人Mの父親は、朝鮮総聯西東京本部の委員長だったらしいとの証言もある。


 国際レベルの疑惑や事件が浮上した際、その真相部分が解明されないまま放置されると、決まって飛び出すのが、こうした一見、荒唐無稽にもみえる諸話だろう。一連のオウム事件に関してもそうだった。しかし、衆人環視の中で起きた村井幹部刺殺事件の背後関係だけは、あまりにも闇の部分が奥深く、通常の論理ではどうにも理解できないのである。

B組→羽根組→徐裕行!?

 「暴力団関係者以外に殺害の真の動機を持つものが存在したとすると、徐服役囚をめぐる人間関係のうち、組以外の者との関係はほとんど明らかにされていない。供述の信用性判断にあたっては、別のルートで徐服役囚と接触した人物が存在する可能性も視野に入れておかなければならない」


 徐裕行に村井幹部殺害を指示したとされ、殺人罪に問われた元山口組系羽根組若頭の上峯憲司は、一審、二審とも無罪となったが、この控訴審判決で裁判長がこう指摘し、見えざる第三者の存在を匂わせたことは極めて異例なことにちがいない。


 別のルートで徐に接触した人物が本当にいたとしたら、それは誰なのか?
 村井幹部刺殺事件から丸一年経った96年5月のある日、旧知の企業経営者の息子の結婚式に出席するため、都内の有名ホテルに出向いた時のことである。


「やぁ、奇遇だねぇ。こんな席で会うとは」
 こう言いながら歩み寄ってきたのは、東京のとある右翼団体の幹部だった。この人物はそのいかつい肩書とは裏腹に、普段はソフトで話題も豊富だったことから、多くの企業経営者と友好的なつきあいがあったようだ。


 肝臓病を患っているとかで、彼はその時はほとんどアルコールを口にしなかったが、披露宴が終わった後、席を移したバーでさまざまな話をした。


「オウムが熊本県波野村の土地を取得しようとした時はね、地主は強く拒否したんだよ。しかし、オウムは売却を執拗に迫り、嫌がらせまでするようになったので、困り果てた地主は地元のA組に相談した。で、そこの親分がオウムに乗りこんで『波野村から手を引け』と迫ったんだ」


 突然、彼がオウム事件に関した話を持ち出したので意外だったが、さすがに有力な右翼団体の幹部だけあって、裏社会の情報には強く、その内容は詳しいものだった。


 彼は話を続けた。


「そこでオウムは、懇意にしていたB組に相談し、A組に話をつけてくれるように以来した。それで2つの組の親分同士が直に会うことになって、B組が九州に乗り込んでいったんだが、その時、A組みのほうは地主に対して『なんだ、オウムのバックにB組みがいるなんて一言も言わなかったじゃないか』と、ちょっと面食らった様子だったそうだ」

 

 そして、結局、地主側は「地元ではトラブルはいっさい起こさない。万が一、起こったら金で解決する」という条件でやむなく了承し、オウムは波野村に進出できるようになったのだという。
「君がオウムのことに関心があるなら、私の知り合いに詳しいのがおるから、聞いてみたらいいよ。何だったら電話をしとくから・・・・」

 

 別れ際にこの幹部が言ってくれたのを便りに、数日後、私はその人物と赤坂の日本料理屋でテーブルを挟むことになった。

 

 その際、相手が差し出した名刺は「〇〇エンタープライズ代表取締役社長」。派手な格好といい、他を圧倒する雰囲気といい、とてもカタギの商売人には見えなかったが、強烈な関西弁ながら、話し始めるとなかなか気さくな人物だった。


「なんや、オウムとヤクザのこと聞きたいんかいな」


 彼は、10数年前までは東京の有力組織で幹部を張っていたが、ある抗争事件で重傷を負ったのを機に家業から足を洗い、金融業に転身したとのこと。それでも、さすがにその筋への情報は強いようだった。


「オウムと関係が深いB組いうんは、ほら、徐の友達やら、上峯がいた羽根組に金を貸しとったわけや。そやけど、バブルがはじけてしもうて、借金も返せんようになってな。そんな矢先に、オウムの事件が次から次へと出てきて、B組のことも取り沙汰されるようになったやろ。そらぁ、B組としては、警察の目をそらす工作をしたい頃や。で、羽根組に対して『借金をチャラにするから、何か事件を起こして警察の目をひきつけろ。組の名前が出たら、組をやめてしまえ。その後のことは考えたる』いう話になったわけや」


 その金融業者はこう話すと、いっきにビールを飲みほした。


 彼によれば、その時にB組から羽根組に一億円が渡され、それで起きた事件が村井幹部刺殺事件だったというのだが・・・・。


 当時は半信半疑だったが、私はその後も同じような話を各所で聞くことになった。銃刀法違反などの罪で何度も”塀の中”と外とを往復しているある暴力団関係者も、私に次のように話したことがある。


「当初はオウムの人間だったら、(狙うのは)誰でもよかったんだ。とにかく、羽根組を動かして、警察やマスコミの目をB組からそらせることが目的だった。その頃、B組はオウムとは関係なく、百億円単位の仕事を抱えていて、いつまでも警察の目が光っていてはやりにくくてしかたなかった、ということだろうな。それがなぜ村井になったかというと、奴はオウムとB組に関係する金の動きを細かく知っていたうえに、口が軽くて信用できん、ということやったな」


 こうした危ない話が渦巻く”濁流”の中で、徐は単なる”捨てゴマ”にすぎなかったのだろうか? それとも、キッチリとした大きなシナリオがあり、その構図の中で用意された任務を果たしたということなのだろうか?

 


闇が闇を呼ぶ”別の顔”


 経営していた催事企画会社「イベントダイヤル」が倒産してから約1年後の2カ月間ほど、徐裕行は東京に舞い戻っていた。


「再会した彼が、仕事を探しているようなので、うちの会社にきてもらったんです。『力を合わせて再起しよう』と誓い合ってね。彼に任せられる大きな仕事もできそうだったし、声をかけたんですよ。会ってみると健康そうだし、屈託もない以前のままの田中(徐の日本名)でした。つくばでは肉体労働をしていたようですね」


 こう話してくれたのは、徐が勤めていた会社のかつての上司だった。
 ところが、93年12月中旬のある日、突然、徐は無断欠勤をする。当時、彼は足立区内の実家から通っていたが、机の上も仕事中のまま、鞄も会社に置きっぱなしで3日も4日も連絡がなかった。この上司が約10日後に会社に来てみると、机の上がきれいに整理され、かばんもなくなっていたという。


「どうしてあんなことになってしまったのか、私にはサッパリわかりません。あえて推測するなら、彼の内面には二つの相反するものの葛藤があったのかもしれません。ご両親のように、地道にコツコツ働いて自己実現をはかる部分と、それを拒否する部分とね。でも、宗教などにはまったく関心がなかったはずです。生い立ちを通じた交流関係で何かあったのでしょう。そちら(北朝鮮籍)の友人を酒の席に呼ぶということは一度もなかったですし」


 ごく近しい仕事仲間ですら知らない”別の顔”を、徐裕行は持っていた。それはいったいどんな世界に通じるものだったのか? 現在、服役中の彼は、いまだにその点だけは語っていない。