
迷宮入り!―昭和・平成未解決事件のタブー (宝島社文庫) [文庫]
宝島社
徐裕行と「謎の男・T」
「どうしてる? 久しぶりに一杯やらないか」
一年半近くも会っていなかった警視庁の捜査員からこう声をかけられたのは、まだ日が陰るのが遅く、残暑が厳しい1995年9月下旬の夕暮れ時だった。
ちょうど関わっていた週刊誌の入稿日翌日ということもあって、気軽に応じた私が彼と落ち合ったのは、東京・新橋のとある居酒屋だった。以前に彼と2,3度入った店だが、料金が安くて美味しいからなのか、その日も会社帰りのサラリーマンたちでまずまずの賑わいだった。
「今は何を追っかけてんの?」
もう数年来のつきあいだが、面会して一番に彼が口にするセリフは昔から変わらない。
彼がカウンターの下に置いたバッグの中から一枚の紙片を取り出したのは、いつもの焼酎のお湯割りを注文したときだった。
「ほら、これ。君が作ったんだろ?」
目の前に置かれたB4判の紙片を見て、私は一瞬、言葉に詰まってしまった。というのも、彼が指摘した通り、それは私自身が数カ月前に作成した人脈チャート図だったからだ。それも、一連のオウム真理教に絡んだ凶悪事件の中でも背後関係がもっとも不透明で、多くの謎に満ちた村井秀夫刺殺事件に関する・・・・。
取材、執筆を生業にする者なら当然だろうが、関連資料は何よりも重要だ。まして取材が長期化すればするほど、その量は膨大になり、資料ファイルは数を重ねていく。しかし、そうした関連資料を常にバッグに入れて、取材先を回るのは億劫でしかたがない。そこで、なるべく私は、事件の当事者や関連企業、金の流れなどの背後関係を整理し、ワープロで1,2枚程度の関連チャート図を作成するようにしていた。
しかし、時としてそれが、自分でも思わぬところに流出することがある。取材の仲間内に見せたものなどが、人づてに伝わってしまったりするからだ。たまに怪文書に間違われることもあったが、本人はもとよりそんなつもりはないのである。
後で知ったことだが、その時、その警視庁捜査員が持っていた資料は、数週間前に旧知の警視庁詰め記者(当時)に参考資料として手渡していたもので、それを彼の上司か同僚が勝手に複写し、親しい捜査関係者に「こんなものがあるけど、持ってる?」と差し出してしまったということだった。しかも、オリジナルはワープロで印字したばかりのB5判のものだったはずが、かなり文字が薄れ、図形も歪んでおり、サイズもB4判。ご丁寧にマル秘の印まで押されていた。それは、一度流出した資料が、何度もコピー、FAX送付が繰り返されたことを物語っていた。
思いがけないところで”再会”したその資料だったが、それは、村井幹部刺殺事件の実行犯で、すでに懲役12年の実刑が確定して服役中の、徐裕行受刑囚をめぐる人脈図だった。
「なかなかよくできてるじゃないか。でも、この部分の関係を調べたら、きっと面白いはずだよ」
捜査員は人脈図の一部分を示しながら、話を続けた。
「徐は都立足立工業高校を中退した後の数年間、何をしていたのかが空白なんだ。私が聞いた話では、彼は足立区内の朝鮮総聯系の朝鮮第四初級学校に4年制まで在学しており、おまけに主体思想研究会のある支部の責任者だったことがあるらしい」
彼が指摘したのは、当時から捜査関係者やマスコミの間でささやかれていた、徐裕行の北朝鮮人脈にまつわる疑惑だった。それを聞いて、私はふと、以前に数度会ったことがある韓国人ブローカーの言葉を思い出していた。
「徐と接点を持つ北朝鮮人脈で、まだほとんど注目されていない男がいるらしい。Tという北朝鮮の対日工作員で、青森などから香港、ウクライナを経由し、何度も北朝鮮に渡航しているようだ」
村井幹部刺殺事件の数日後に面会したそのブローカーは、こう思わせぶりに言ったものだが、その時は気がつかなかったものの、実はこの話に登場するTなる男と、私は面識があった。
Tと私が初めて会ったのは、ある企業事件の取材をめぐる情報交換の場で、もう10数年前のことだった。当時、彼はやはり韓国籍の実業家のもとで働いていたが、どこにでもいる普通のサラリーマン風で特別な存在にはみえなかった。その時の私には、彼が差し出した名刺から、北か南かは不明だが「半島出身の人だな」という程度の認識しかなかった。
ほどなくして、Tは勤めていた会社を辞めたが、私はある取材の関係で彼との面会を期待していた時期があった。しかし、彼を紹介してくれた人物はおろか、共通の知人たちも一様に「行方がわからない」と繰り返すだけだった。
その時、おぼろげに記憶しているのは、知人たちが彼のことを「かなりの情報通だが、神出鬼没なところがあって正体がつかめない。しかし、たまにとんでもない裏社会の大物を連れてきたりと、交友関係がやたら幅広い。自分のことは極端に語りたがらないが、何かの宗教に凝っていた時期があったようだ」と、口々に評したことだった。
果たしてTは、噂されるように北朝鮮の対日工作員だったのか? 裏社会の大物たちとはどんな関係だったのか? 凝っていた宗教というのは、もしかしたらオウムではなかったのか? そして、本当に徐と接点があったのだろうか?
新橋の居酒屋で捜査員と焼酎をあおりながら、私はそんな思いにふけっていた・・・・。
見え隠れする北朝鮮人脈
95年4月、東京・青山のオウム真理教東京総本部ビル前には、24時間体制で張りつく報道陣でいつも大混雑の状況にあった。すでに有名人となった教団幹部が出入りするたび、テレビ・レポーターがマイクを突きだし、カメラのストロボが焚かれる。そんな光景が火に何度も繰り返されていた。
事件は4月23日の午後8:36に突然起こった。総本部ビルに入ろうとした教団幹部・村井秀夫を報道陣が取り囲むなか、ひとりの男がおもむろに接近すると、手にした牛刀で刺殺してしまったのだ。
群衆の面前で殺人を犯したこの男が、徐裕行だった。徐は犯行後、まったく悪びれる様子もなく、その場で逮捕された。確実に殺害を狙った手口といい、淡々と逮捕された様子といい、その犯行には、いかにも「プロが殺しの仕事をこなした」といった感じがみてとれた。
だが、どうしても不可解だったのは、その動機だった。彼はなぜこのような事件を起こしたのか? 犯行の背後関係はどのようなものだったのか? こうした疑問は、事件から5年以上が経過した現在でも、大きな謎として残されたままだ。
さらにいえば、なによりも、「徐裕行とは何者だったのか?」という点すらが、まったく解明されていないといっていい。彼の人生の軌跡には、確かに不明な部分が多いのである。
この事件の背後関係を取材していた当時、私がしばしば耳にしたのが、徐と暴力団や北朝鮮人脈との接点に絡む噂だった。そのなかで判明した事実は、だいたい以下の通りだった。
徐が社長を務めた催事企画会社「イベントダイヤル」が、折からのバブル崩壊で、総額2300万円の負債を抱えて倒産したのは92年10月。彼はその後、茨城県つくば市内の友人宅に身を寄せ、その兄が経営する古紙回収業の手伝いをしていたが、94年3月、再び都内足立区の実家に帰っている。
そして、小学校時代からの幼なじみであるKと、その友人Mが住む、世田谷区上祖師谷の二階建ての一軒家で共同生活をするようになるのは、同年11月頃のことだった。この家を所有するのはBという女性だが、その息子の友人が借り主のMで、ここに登場する3人はいずれも北朝鮮籍である。
その間、徐はKが経営する金融会社の事務所に顔を出すようになり、ここで複数の韓国籍の地人と出会うことになる。同時に、その人脈から山口組系羽根組の幹部Gを紹介され、ヤクザとして生きていく覚悟で入会するのだ。
大物スパイ・辛光洙との接点
ところで、徐が友人らと同居し、住民票まで移していた民家の所有者Bは、品川区五反田で「M」というコリアン・クラブを経営しているのだが、その姉は実に興味深い人物と結びつく。辛光洙ー85年6月、韓国国家安全企画部によって検挙された北朝鮮の大物スパイである。日本を拠点に暗躍していたこの男とBの姉はある機関、一緒に暮らしていたのだ。
事件の概要は次のようなものだった。
-辛光洙は、北朝鮮の金正日書記(当時)から「日本人を拉致し、日本人に完全に変装して対何工作任務を続けろ」との指示を受け、73年7月、石川県の海岸から日本に密入国し、スパイ活動を展開。その後も、北朝鮮に住む家族を”人質”に、脅迫して抱き込んだ在日同胞13人を使って、日韓米の軍事情報の収集にあたっていた。
80年4月には、宮崎県日向市の海岸から再び日本に密入国。オルグした工作員を利用して、中国料理店の日本人コック(男性、当時49歳)を拉致し、宮崎県青島海岸から北朝鮮に連れ去る。そのコックを本国の首都・平壌近郊に軟禁し、彼の性格や経歴、家族構成や過去の生活などすべての身上資料をマスターした辛は、当人に偽装して同年11月、再び密入国を果たし、以降、この日本人のパスポートや運転免許証、戸籍までも取得し、4年以上にもわたって大掛かりなスパイ工作を繰り広げたのだったー。
この北朝鮮の大物スパイ・辛光洙と、前述したように、徐が居住していた民家の所有者Bの姉が、73年冬から76年夏までの間、目黒区内の一軒家で同居していたのだ。
しかも、辛は82年7月から83年5月までの一時期、群馬県高崎市内のパチンコ店などで機械修理工として働く一方、かつての同居人の妹が経営するコリアン・クラブ「M」で、レジ係として勤務していたのである。
「ほんとにコリアン・クラブをやるつもりなんですか?」
「ああ」。坂本は即答しました。(筆者注:坂本は辛光洙の偽名の一つ。)
「どうして?」
「面白そうじゃないか。カネが現金でどんどん入ってくる」
坂本は妹の経営するクラブで経理を任されるようになっていました。妹は売上を誤魔化した従業員をクビにしたああと、その後釜に据えたのです。
坂本は抜群に数字に強く、すぐ店のカネの出入りを把握したようでした。二週間もすると、妹に「こんなに儲かるなら、私と一緒にもっと大きな店をやりませんか」と持ちかけてきたそうです。
そのことを妹は私に言いにきました。
「お姉ちゃん、あの人ちょっと気持ち悪くない? おカネ持ってるの?」
怪訝そうな顔で妹は何度も首を傾げた。
これは、当時の辛光洙とBの姉とのやりとりの一部である。坂本というのが辛で、妹がBである(ザ・マサダ刊『北朝鮮よ、銃殺した兄を返せ! ある在日朝鮮人女性による執念の告発』 より)。
徐裕行が住んでいた民家の所有者Bが経営するコリアン・クラブで、北朝鮮の大物スパイが偽装して働き、そのBの姉と約2年半同居していたという事実。果たして、これは何を物語るのか?
辛が逮捕されるまで、B姉妹はこの男の正体をまったく知らなかった様子だが、徐の背後に蠢く北朝鮮人脈は確かに気になるところだ。
しかも、B所有の民家で徐が同居した友人Mの父親は、朝鮮総聯西東京本部の委員長だったらしいとの証言もある。
国際レベルの疑惑や事件が浮上した際、その真相部分が解明されないまま放置されると、決まって飛び出すのが、こうした一見、荒唐無稽にもみえる諸話だろう。一連のオウム事件に関してもそうだった。しかし、衆人環視の中で起きた村井幹部刺殺事件の背後関係だけは、あまりにも闇の部分が奥深く、通常の論理ではどうにも理解できないのである。
B組→羽根組→徐裕行!?
「暴力団関係者以外に殺害の真の動機を持つものが存在したとすると、徐服役囚をめぐる人間関係のうち、組以外の者との関係はほとんど明らかにされていない。供述の信用性判断にあたっては、別のルートで徐服役囚と接触した人物が存在する可能性も視野に入れておかなければならない」
徐裕行に村井幹部殺害を指示したとされ、殺人罪に問われた元山口組系羽根組若頭の上峯憲司は、一審、二審とも無罪となったが、この控訴審判決で裁判長がこう指摘し、見えざる第三者の存在を匂わせたことは極めて異例なことにちがいない。
別のルートで徐に接触した人物が本当にいたとしたら、それは誰なのか?
村井幹部刺殺事件から丸一年経った96年5月のある日、旧知の企業経営者の息子の結婚式に出席するため、都内の有名ホテルに出向いた時のことである。
「やぁ、奇遇だねぇ。こんな席で会うとは」
こう言いながら歩み寄ってきたのは、東京のとある右翼団体の幹部だった。この人物はそのいかつい肩書とは裏腹に、普段はソフトで話題も豊富だったことから、多くの企業経営者と友好的なつきあいがあったようだ。
肝臓病を患っているとかで、彼はその時はほとんどアルコールを口にしなかったが、披露宴が終わった後、席を移したバーでさまざまな話をした。
「オウムが熊本県波野村の土地を取得しようとした時はね、地主は強く拒否したんだよ。しかし、オウムは売却を執拗に迫り、嫌がらせまでするようになったので、困り果てた地主は地元のA組に相談した。で、そこの親分がオウムに乗りこんで『波野村から手を引け』と迫ったんだ」
突然、彼がオウム事件に関した話を持ち出したので意外だったが、さすがに有力な右翼団体の幹部だけあって、裏社会の情報には強く、その内容は詳しいものだった。
彼は話を続けた。
「そこでオウムは、懇意にしていたB組に相談し、A組に話をつけてくれるように以来した。それで2つの組の親分同士が直に会うことになって、B組が九州に乗り込んでいったんだが、その時、A組みのほうは地主に対して『なんだ、オウムのバックにB組みがいるなんて一言も言わなかったじゃないか』と、ちょっと面食らった様子だったそうだ」
そして、結局、地主側は「地元ではトラブルはいっさい起こさない。万が一、起こったら金で解決する」という条件でやむなく了承し、オウムは波野村に進出できるようになったのだという。
「君がオウムのことに関心があるなら、私の知り合いに詳しいのがおるから、聞いてみたらいいよ。何だったら電話をしとくから・・・・」
別れ際にこの幹部が言ってくれたのを便りに、数日後、私はその人物と赤坂の日本料理屋でテーブルを挟むことになった。
その際、相手が差し出した名刺は「〇〇エンタープライズ代表取締役社長」。派手な格好といい、他を圧倒する雰囲気といい、とてもカタギの商売人には見えなかったが、強烈な関西弁ながら、話し始めるとなかなか気さくな人物だった。
「なんや、オウムとヤクザのこと聞きたいんかいな」
彼は、10数年前までは東京の有力組織で幹部を張っていたが、ある抗争事件で重傷を負ったのを機に家業から足を洗い、金融業に転身したとのこと。それでも、さすがにその筋への情報は強いようだった。
「オウムと関係が深いB組いうんは、ほら、徐の友達やら、上峯がいた羽根組に金を貸しとったわけや。そやけど、バブルがはじけてしもうて、借金も返せんようになってな。そんな矢先に、オウムの事件が次から次へと出てきて、B組のことも取り沙汰されるようになったやろ。そらぁ、B組としては、警察の目をそらす工作をしたい頃や。で、羽根組に対して『借金をチャラにするから、何か事件を起こして警察の目をひきつけろ。組の名前が出たら、組をやめてしまえ。その後のことは考えたる』いう話になったわけや」
その金融業者はこう話すと、いっきにビールを飲みほした。
彼によれば、その時にB組から羽根組に一億円が渡され、それで起きた事件が村井幹部刺殺事件だったというのだが・・・・。
当時は半信半疑だったが、私はその後も同じような話を各所で聞くことになった。銃刀法違反などの罪で何度も”塀の中”と外とを往復しているある暴力団関係者も、私に次のように話したことがある。
「当初はオウムの人間だったら、(狙うのは)誰でもよかったんだ。とにかく、羽根組を動かして、警察やマスコミの目をB組からそらせることが目的だった。その頃、B組はオウムとは関係なく、百億円単位の仕事を抱えていて、いつまでも警察の目が光っていてはやりにくくてしかたなかった、ということだろうな。それがなぜ村井になったかというと、奴はオウムとB組に関係する金の動きを細かく知っていたうえに、口が軽くて信用できん、ということやったな」
こうした危ない話が渦巻く”濁流”の中で、徐は単なる”捨てゴマ”にすぎなかったのだろうか? それとも、キッチリとした大きなシナリオがあり、その構図の中で用意された任務を果たしたということなのだろうか?
闇が闇を呼ぶ”別の顔”
経営していた催事企画会社「イベントダイヤル」が倒産してから約1年後の2カ月間ほど、徐裕行は東京に舞い戻っていた。
「再会した彼が、仕事を探しているようなので、うちの会社にきてもらったんです。『力を合わせて再起しよう』と誓い合ってね。彼に任せられる大きな仕事もできそうだったし、声をかけたんですよ。会ってみると健康そうだし、屈託もない以前のままの田中(徐の日本名)でした。つくばでは肉体労働をしていたようですね」
こう話してくれたのは、徐が勤めていた会社のかつての上司だった。
ところが、93年12月中旬のある日、突然、徐は無断欠勤をする。当時、彼は足立区内の実家から通っていたが、机の上も仕事中のまま、鞄も会社に置きっぱなしで3日も4日も連絡がなかった。この上司が約10日後に会社に来てみると、机の上がきれいに整理され、かばんもなくなっていたという。
「どうしてあんなことになってしまったのか、私にはサッパリわかりません。あえて推測するなら、彼の内面には二つの相反するものの葛藤があったのかもしれません。ご両親のように、地道にコツコツ働いて自己実現をはかる部分と、それを拒否する部分とね。でも、宗教などにはまったく関心がなかったはずです。生い立ちを通じた交流関係で何かあったのでしょう。そちら(北朝鮮籍)の友人を酒の席に呼ぶということは一度もなかったですし」
ごく近しい仕事仲間ですら知らない”別の顔”を、徐裕行は持っていた。それはいったいどんな世界に通じるものだったのか? 現在、服役中の彼は、いまだにその点だけは語っていない。







