石井紘基刺殺事件と村井秀夫刺殺事件の類似性 | 村井秀夫刺殺事件の真相を追って

村井秀夫刺殺事件の真相を追って

村井秀夫は何故殺されたのか?徐裕行とは何者なのか?
オウム真理教や在日闇社会の謎を追跡します。
当時のマスコミ・警察・司法の問題点も検証していきます。
(2018年7月6日、麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚らの死刑執行。特別企画実施中。)

石井紘基刺殺事件

 

2002年10月25日午前10時35分頃、民主党の衆議院議員・石井紘基が、世田谷区沢一の自宅駐車場において柳刃包丁で左胸を刺された。

石井は目黒区内の病院に運ばれたが死亡した。

 

犯行時の状況

目撃者の証言によると、石井は迎えの車に乗るため、自宅玄関を出た所を、公用車の後ろにいた男が無言で石井に近づき、襲いかかってきた。

石井は「何するんだよ」と逃げたが、うつぶせに転んだ。

男は馬乗りになり刃渡20センチ程の刃物を水平に構え、左胸の上部一か所を突き刺した。石井は大声で絶叫した。あごの骨も刃物の一撃で砕かれていたという

 

男はグレーのジャンバー姿で、頭にはバンダナのようなものをまいていた。

 

男は現場から逃走し、警視庁捜査一課と公安部は殺人事件として北沢署に捜査本部を設置。

 

翌10月26日朝、指定暴力団の山口組系右翼団体(“構成員即ち代表”の一人団体で、いわゆる「右翼標榜暴力団」)代表の伊藤白水が警視庁本部に出頭、逮捕される。

 

関係者の証言によると、伊藤は昨年秋ごろから、石井議員の世田谷区内の事務所や永田町の議員会館の部屋を頻繁に訪れ、秘書らに「(石井議員に)金を貸している。仕事を紹介しろ」などと執ように迫っていた。また、今年春ごろからは、「都庁幹部を紹介しろ」などと要求をエスカレートさせ、そのたびに石井議員側に断られていたという。

 

 

犯行動機

 

 

伊藤は「石井に多額の金銭を用立てたことがあるにもかかわらずその恩を仇で返された」「家賃の工面を断られたため、仕返しでやった」と供述した。

 

検察側も「被害者にたかり行為を繰り返していた被告人が2002年ごろ、引っ越し費用など無心したが断れたことから激情して本件犯行に及んだ」と主張。

 

2004年6月18日、東京地裁で被告に無期懲役判決が言い渡されたが、判決では被告が主張する「金銭トラブル」という動機を信用することができないとした。2005年11月15日、最高裁で無期懲役の判決が確定した。

 

 

石井紘基議員とは

 

”国会の爆弾発言男”と呼ばれた男、石井紘基。

 

石井は1940年11月6日東京市世田谷区出身。世田谷区立池之上小学校、成城学園中学校高等学校卒業、中央大学法学部に入学後、安保闘争に参加。

 

国会に突入するデモ隊の先頭にいた石井は、すべての国会議員が逃げ出す中、騒乱の最前線に出向き警官を抑えようとする日本社会党書記長の江田三郎を見、このことを契機として政治家を目指した。

 

早稲田大学院を卒業した石井は、1965年にソ連へ渡り、モスクワ大学院法学部に就学。6年間留学した。

 

石井はそこで、「ソ連における国家意思の形成」というテーマで研究に取り組み、社会主義の構造に触れたが、中央集権・官僚制・計画経済の問題点、閉鎖的な構造について知る。

 

1971年に帰国した石井は友人に「とにかくあの国(ソ連)は駄目になる。一部の特権階級がやっているということでこれは早晩崩壊する」

 

「国民に大切な情報を流さず、一部の政治家と経済をあやつる社会、日本。社会主義国ソ連と日本はよく似ている。なんとかしないと。」

 

石井はソ連と日本の官僚制度の類似性に注目、閉鎖的な官僚制度や特殊法人を”日本病”と呼び、暗部にメスを入れようとした。

 

「政・官・業」の癒着を暴くことを政治活動の中心に据え、99年には「政治と行政の不正を監視する民主党有志の会(通称・国会Gメン)」の室長に就任。2002年4月の衆院内閣委員会で、北海道別海町などの国道工事をめぐり受注企業の7~8割が鈴木宗男衆院議員に政治献金していた実態を暴いたり、防衛庁の会計検査院報告書偽造問題で、中谷元長官(当時)から「閣僚給与返上」の答弁を引き出すなど、党の論戦の柱でもあった。

 ライフワークである道路公団や特殊法人の無駄遣いについては一貫して政府与党の姿勢を厳しく追及し、「民間の不良債権ばかりが問題にされているが、特殊法人や公的金融機関が抱える不良債権は350兆円にものぼる。しかも、その特殊法人に毎年10兆円以上の税金が流れ込んでいる。これらの組織をすべて解体して、公権力による民業圧迫をなくせば、市場は必ずよみがえる」と持論を展開していた。

 

 

「日本の政治はいかにこの、利権の仕組みの中ではじめて存在しているか…まさしくその天下りのためと民間の仕事を奪うためのもので、詐欺集団ではないか」

 

 

1995年、オウム真理教事件が発生。当時週刊誌やスポーツ誌で注目されていたオウムと統一教会の関連性を取り上げ、さらにオウムと暴力団の覚醒剤取引について指摘していた。

 

 

■石井紘基とオウムと統一教会
『オウム事件は終わらない』 (石井議員 談)

僕の地元の成城で、最近統一教会が建物を借りて改装工事を始めたのです。それで地域住民はこぞってピケをはり、統一教会が建物の中に入れないようにしていますが、こんなことにしても、始まってから何ヶ月経っても政治家はさっぱり表に出てこないんですね。いろいろアプローチしていくと、どうも統一教会の息のかかった政治家というのが随分といるようだと、地元の人も言っていました。
未来に向けて社会をどのように改革していくか、ということを政治家が真剣に考えないものだから、その間に経済活動や政治活動を通じて宗教団体にどんどん侵食されているという面がありますね。
錦織:「ともかく私には、オウムは統一教会をラジカルにしたものだという感じがするのです。オウムの原型というのは、つまりオウムの初期の活動形態は、統一教会がやってきたことときわめて類似しているのです。」
石井:「ロシアにオウムが進出していきましたね。ロシアには五万人もオウムの信者がいたそうですが、オウムが行く前に統一教会が、ロシアに進出していました。ところが、そういう連中が、どうも何時の間にかオウム信者とすりかわってしまった。
石井:捜査についてですが、日本ではオウムの全容が明らかにされません。オウム事件というのは、いったいどういうことだったのか。僕は、岡崎さんがおっしゃったように、オウム真理教は、宗教法人制度をうまく利用してアンダーグラウンドで儲けようという要素を非常に強く持っていたのだと思います。それが暴力団と結びつき、国際的に密貿易をしたり、薬物を流したりしたのはいったい何のためだったのか。

 

 

石井は地元である宗教団体の進出計画が浮上したことがあり、反対運動が巻き起こると、その先頭に立った。その際、「殺してやる」などと脅迫状が舞い込んだことがあった。オウム真理教もまた、波野村や上九一色村で進出に反対する住民にたいし、暴力的な行為をみせている。

 

また石井と対談している議員の一人、錦織淳議員は、1995年6月17日に行われた第132回国会予算委員会第33号の中で、「オウム真理教の印刷施設は山口組系暴力団後藤組から借りたもの」と指摘している。

 

警察や検事がオウムと暴力団の闇に迫る中、一部の国会議員も真相を解明しようと動いていたのだ。

 

 

なぜ石井は命を落としたのか

 

 

石井が国会議員や官僚の腐敗を徹底追及していたことから「暗殺された」という見方がある。

 

2002年10月28日に予定されていた国会質問を前に、石井は「これで与党の連中がひっくり返る」と発言していた。だが、その直前に石井は刺殺された。

 

事件当日、石井の鞄には国会質問のために国会へ提出する書類が入っていた。

 

ところが、事件現場の鞄からは書類がなくなっており、いまだに発見されていないのだ。

 

 

実行犯・伊藤白水とは何者なのか

世田谷区出身。東京都世田谷区奥沢のアパートで生活しており、50ccのスクーター1台を所有していた、落ちぶれた暴力団員だった。

 

1985年、右翼団体「守皇塾」を立ち上げ、塾長を名乗った。しかし構成員は石井一人だけだった。民族派右翼の間では「一匹狼的な武闘派」としてそこそこ知られていた。

 

1988年1月には、登山ナイフを持って日本共産党政府に押し入り、現行犯逮捕されている。

 

『刑務所を出たり入ったりしている』と前科を自慢したり、機嫌が悪いと早朝からスクーターをぶんぶん空ぶかしして、注意した男性を殴り合いになったり、ヌンチャクで階段とか看板など鉄の部分をカンカンたたいて歩いていたという。

 

 伊藤が暮らしていたアパートは2Kで、6畳と4畳にキッチンがあり、風呂はなかった。部屋にはテレビとマットレース1枚、本が少しあるだけで、がらんとしていた。窓には大きな日の丸が飾ってあった。

 

アパートの隣に住む男性は、伊藤についてこう語る。「エアコンはなくて、銭湯にも行かない。洗面器で体を拭いていたようだ。ダンベルを両手に歩いていたり、空手のまねをしていることもあった。金が入るとスーパーで買い物をして、台所でうれしそうに料理していたね」

 

伊藤の存在は、世田谷区議の間でも有名だった。自民党のある若手区議によると「当選して間もなく自宅に来て、『伊藤白水』という名前と住所だけ書かれた名刺を渡されました。『ちょっと話をしたい』と言われましたが、作務衣姿で見るからに怪しかった。その後も会議の控室に無断で入ってきて、女子事務員に怒鳴りつけたりするので出入り禁止にしたんですが、区役所のロビーで区議を”ちゃん”づけで呼んで本を売りつけてくるんです。もっとも自分で書いた本なんて一冊もなかったですけどね」

 

伊藤は、隣に住む男性に「おれは本を書いているんだが、なかなか売れない」とこぼしていた。

 

アパートでの生活では、最初の数ヶ月間は家賃を月6万円ほど払っていたが、その後3年間で200万円を滞納し、裁判所の強制執行で追い出された。退去後は新宿で寝泊まりしていたという。

 

 

事件の謎

 

石井の家族の証言によると、事件前から周囲で不審なトラブルが相ついでいたという。

 

・事件から6日前の10月19日、石井議員は「車に追われている」と言って知人のところへ駆け込んでいた。ちなみに伊藤は原付バイクのみ所有。

・また同月23日、石井議員が何者かにリンチに遭った様子で帰ってきた、と妻が話している。

・事件前日午前9時ごろ、石井宅に植木業者の営業マンが訪れた。娘のターニャさんが断っている。

・石井議員が病院へ運ばれる時、妻が救急車に乗せてもらえなかった。

・石井議員の手帳と、鞄の中身の資料が押収品目録から消えていること。手帳があったと遺族側から何度も警察に申し出ても、調査してもらえなかったという。

 

 

村井秀夫刺殺事件との類似性

 

 

犯人の伊藤白水と、村井刺殺事件の徐裕行は類似点が多い。

 

まず、以下の例があげられる。

 

1.犯人が右翼を自称

伊藤白水、徐裕行は右翼を自称している。

豊田商事会長刺殺事件の飯田篤郎、矢野正計も自称右翼と名乗った。

 

 

2.待ち伏せ

伊藤は石井を確実に仕留めるよう、はじめから自宅の側で待機していた。

徐は、南青山総本部前に午前11時から午後8時半まで現場で待機し、村井が玄関前に来るところを狙っていた。

 

3.「刺殺の手際の良さ」

伊藤は、石井を仕留める際、刃物を水平に構え、左胸を突き刺し、さらにあごの骨も砕いている。

 

徐は、村井に致命傷を与える前に2回急所を外しているが、最期に刃物を水平に構え、脇腹を突き刺し、抉るように回転させて殺害している。また、致命傷を与えたあと、村井をしとめた確信があったのかそれ以上追撃していない。


4.目立つ衣装

伊藤は普段からバンダナに作務衣で外出するのが常だったという。

一方で徐は、豹柄のセーター姿で、事件直前に美容院でパーマをかけていた。

彼らの姿は目立って周囲に印象を残しやすい。暗殺者にしては異様な姿である。


5.被害者が狙われた背景

石井紘基は官僚や特殊法人、政治家の汚職事件を追求していた。

村井秀夫はオウム真理教最高幹部であり、オウム事件の重要事項や覚醒剤密造の鍵を握っていた。

煙たがる者がいてもおかしくない状況である。

 

6.世田谷区で貧しい生活を過ごす

伊藤はスクーターを一台所持していたが、風呂も冷房も使えず、家賃200万円を滞納して世田谷のアパートを追い出されている。

徐裕行は上祖師谷3丁目の知人宅に居候しており、引っ越して来たときには殆ど所持品は持っていなかったという。


7.すぐに出頭、逮捕される

犯行後、伊藤はなぜか京王線で高尾山駅に向かった後、翌日警視庁に出頭している。

徐裕行は村井刺殺後、現場に留まり警察に確保。パトカーに乗せられる際「車の中へ入れろ」と発言。

 

豊田商事事件の飯田篤郎、矢野正計も犯行後、「警察を呼べや。俺が犯人や」と報道陣に語り、 そのまま逃亡せずに逮捕されている。


8.主張の変化、黒幕の示唆

伊藤白水は判決まで単独犯を主張。

無期懲役が確定した後、2008年6月にテレビ朝日「ドキュメンタリ宣言」との文通で「当方の事件は色々と政治の裏側で動く金や人脈が関係していたこともあり、当方一人に全部背負わせて刑務所で死んでくれれば一番良いという結論が出た結果だと思っています」と背後関係の存在を初めて明らかにした。

 

さらに刑務所で取材者と面会し、次のやり取りをしている。

 

「結局殺害の動機は何だったのですか?」

「複雑な事情があってね」

「殺害の理由は?」

「殺害を頼まれた」

「手紙にあった金とは?幾ら動いたのですか?」

最初に3000万円、次に1500万円

「殺害が目的ですか?それとも資料ですか?」

「資料という話がでたらめ、中身は空だった」

「かばんの中を調べたんですか?」

「調べていない」

「どうして空だったんですか?」

「とにかく資料なんて知らない」

「なぜ裁判で嘘の動機を主張し続けたのですか?」

「でたらめを言わざるを得なかった」

「どうしてですか?」

本当のことを言えば頼んだ人が誰かを言わなくてはいけなくなる

「殺害を頼んだ人って誰ですか?」

それを言えばその人の顔に泥を塗ることになる

「正解の裏側で動く金と人脈、金とは何ですか?」

頼んだ人も分かってしまうから言えない

 

 

伊藤受刑者は、裁判の主張が出鱈目だったこと、犯行が誰かに依頼したものと証言。

しかし、後日テレビ朝日側からの取材では面会時に、伊藤がドアの小窓から取材者を見つめた後刑務官に「私はこの人を知らない」と答え、面会拒否をした。

 

(2016年頃の徐)

 

徐裕行は当初単独犯を主張したが裁判では「若頭上峯憲司からの指示でやった」と証言。出所後は週刊誌のインタビュー記事で再び単独犯と主張。

そういった行動に至る経緯の詳細に関してはお話しできません」「すでに裁判が終わっていることと、僕の発言で迷惑をかける人がいるかもしれないということです」と伊藤と同じく背後の関係者を庇う

 

徐は懲役12年で自由の身となったが、伊藤は無期懲役であるため、仮釈放できたとしても30年以上服役し続けなくてはならず、一生獄中生活のまま終わる可能性もある。

 

7.成功報酬

徐裕行は事件直前に借金2300万円を抱えていたが、出所後、戸建て住宅、自家用車、ヨットクルーザーを購入している。殺人犯であれば社会復帰は非常に困難なものであるが、中産階級以上の贅沢な暮らし、今も続く暴力団との関係から何らかの支援があったというのが自然である。

 

伊藤白水も報酬の存在について示唆しているが、無期懲役であるため背後関係者からの支援を受けることが出来ず、自暴自棄になっていると思われる。それでも依頼者の名前を語らないのは仮釈放という僅かな望みに賭けているいるからではないだろうか。

 

 

余談だが2007年に伊藤一長長崎市長が山口組系水心会幹部の城尾哲弥に射殺されている。城尾は死刑判決を求刑された後、無期懲役が確定した。ヤクザ、似非右翼が白昼堂々殺人事件を起こすのは厳しくなりつつある。今後は餃子の王将事件のようにヒットマンが逃走する方法が主流になるだろう。

 

もしオウム事件の発生が遅く、村井刺殺事件も遅れていれば、徐も今頃刑務所で惨めに過ごしていたことだろう。本当に悪運の強い殺人犯である。