鈴木邦男「村井事件は単独犯」??? | 村井秀夫刺殺事件の真相を追って

村井秀夫刺殺事件の真相を追って

村井秀夫は何故殺されたのか?徐裕行とは何者なのか?
オウム真理教や在日闇社会の謎を追跡します。
当時のマスコミ・警察・司法の問題点も検証していきます。
(2018年7月6日、麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚らの死刑執行。特別企画実施中。)



徐裕行に手を差し伸べた新右翼活動家、鈴木邦男。さらにその取り巻きとして蜷川正大、山平重樹、植垣康博らが現れた。彼らは何故平然と支援するのだろうか?
まずは鈴木邦男の人物像に迫る。


鈴木邦男


1943年8月2日、福島県郡山市で生まれた。
税務署勤務だった父親の都合で高校生の頃まで東北地方を転々とした。

17歳の時、浅沼稲次郎暗殺事件をテレビで見たことをきっかけに右翼思想に興味を持ち、春休みに大日本愛国党を訪ね、総裁の赤尾敏と対面する。1961年東北学院榴ヶ岡高等学校卒業。但し、卒業間際に聖書を読む時間中に読んでいた英単語帳を先生にストーブで燃やされたことに怒り、職員室に乗り込んでその先生を殴りその場で退学になる。その後半年間、教会に通って懺悔の生活を送り、翌年の9月、一人だけで卒業を迎えた。1967年、早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。
学生時代は、生長の家学生会全国総連合(以下生学連)に所属し書記長として活動(母親の影響で小学生の頃より生長の家とはかかわっていた)。生学連もその結成に協力した民族派学生組織「全国学生自治体連絡協議会」(全国学協。後の全国学生協議会連合)の初代委員長を務めた。しかし、当時の書記長らとの対立が原因で短期間で組織を去っている。

1970年3月、早稲田大学大学院政治学専攻修士課程中退。学生仲間の森田必勝(元日学同活動家。楯の会に入会したため日学同を除名された)の誘いで教育学部に転部したが、左翼運動の退潮と共に自らの運動も敵を失い、大学を中退して仙台の実家に帰り、書店の店員を経て、同年4月、産業経済新聞社に入社。主に産経新聞の販売局や広告局に在籍し、一旦は政治活動から離れていたが、1970年11月の三島事件で森田が三島由紀夫と共に自決したことに衝撃を受け、1972年、犬塚博英や四宮正貴、阿部勉ら生学連や学協時代の仲間などを中心に「一水会」を創設し会長に就任。さらに1973年、防衛庁に乱入する事件を起こして逮捕され、懲戒解雇となる。



1981年12月22日、ソ連大使館への暴力行為の容疑で警視庁大崎署から家宅捜索を受けた際、捜査令状を破ったとして現行犯逮捕され、公文書毀棄と公務執行妨害の容疑で23日間の留置生活を送るが、嫌疑不十分で不起訴処分となる。この事件について鈴木自身は「令状の要点をメモしようとしたら警察官に令状をひったくられ、そのせいで破れた」、「独立義勇軍と一水会の関係を疑われたための別件逮捕」と主張している。

1999年には一水会代表を退任。代表在任中より河合塾現代文・小論文講師、日本ジャーナリスト専門学校講師等も務めた。河合塾では同じく現代文講師で左翼思想家の牧野剛と「左右討論」などの企画も行った。

構成員が自決をも辞さぬ態度を示した東アジア反日武装戦線に「戦前の血盟団のようだ。先を越された」と衝撃を受け、右翼系の『やまと新聞』に『〈狼〉たちと右翼武闘派』という連載を始める。それが左翼系の三一書房社長の目にとまり、『腹腹時計と<狼>-<狼>恐怖を利用する権力』として出版され、「右翼武闘派が新左翼を評価した」と注目された。また、「左右を弁別せざる」として竹中労、牧田吉明、塩見孝也ら左翼、アナキストとも交流し、たとえ反対陣営に対しても、学べること、共闘できることを模索した。

また、昭和60年前後には、現在は廃刊となった『朝日ジャーナル』に真面目な政治論文を度々執筆し、これに刺激されて多くの人々が一水会の運動へ参画した。この後次第に鈴木の文章は現在に近い形へと変化していく。

冷戦終結後は、「宿敵・左翼の崩壊を危惧する」、「左右の超越を訴える」など既成右翼とは違った主張を展開している。現在では、左翼組織と付き合い、左翼団体の賛同人まで務めているため、左翼思想に転向したと言われ「似非右翼」「右翼の皮を被った左翼」などの批判もある(一水会代表辞任の一因でもある)。

選択的夫婦別姓制度に関しては、「左右関係ない問題として議論するべき」と述べる。

人物
清美応援団の1人。応援団には菅伸子、崔洋一、辛淑玉、湯浅誠、石坂啓も参加している。左翼系マスコミの紙面に、主張が取り上げられる機会が多い。また、JR東日本の主流・最大労働組合JR東労組の松崎明とも親交があるなど左翼の友人が多い。2012年東京都知事選挙では「宇都宮けんじさんキックオフ集会」に参加するなど前日弁連会長の宇都宮健児を積極的に支援した(落選)。元社会党議員の上田哲等各党現職・元職議に人脈がある。

2010年に日本で公開された映画『ザ・コーヴ』の公式ホームページ上に「勇気のある映画だ。この映画を見て、イルカ漁のことを初めて知った。 日本人の多くが全く知らないのに、「日本の伝統・文化だ」と言われても困る。」との意見を寄せている。



2013年、「2013年反韓デモ」を厳しく批判。自身のブログでもデモ隊に抗議する勢力に混じって声を上げる姿が確認されている。3月14日に排外・人種侮蔑デモに抗議する国会集会に参加した際には「映像を見て非常に悲しくなりました。(彼らに掲げられている)日の丸の旗が可哀想だと思いました。日の丸は日本の優しさ、大和の国の寛容さを表すもの。それが排外主義的なものに使われている。日の丸が泣いていました。血の涙を流していました」と語った。


鈴木は外国人参政権支持者


鈴木邦男とテロ
赤報隊事件との関係を疑われ、当局から家宅捜索を受けた。直接関与は否定しながらも、真犯人の情報を握る旨を匂わせ、沈黙を守り続けている(事件に絡み、2002年3月、放火被害に遭った経験もある)。また、真犯人を庇っているとの指摘を元公安警察からされた際には、不敵にも「鋭い読み」と評している。
ペルー日本大使館占拠事件の際、大使館を占拠した犯人たちが、突入したペルー当局によって射殺された際、TBSのインタビューに答えてこれを「虐殺」と呼び、批判された。


鈴木邦男と北朝鮮

また既存の左派勢力でさえも北朝鮮支持を公言出来なくなったあとも金正日政権への支持を表明し、渡朝を繰り返し経済制裁に反対、北朝鮮拉致事件の被害者は北朝鮮に返すべき等と公言し強い批判を浴びた事もある。








又、鈴木は北朝鮮に渡ったよど号グループに好意的である事についても批判がある。




よど号事件とは
1970年3月31日に共産主義者同盟赤軍派が起こした日本航空便ハイジャック事件。



羽田空港発板付空港(現福岡空港)行きの日本航空351便(ボーイング727-89型機、愛称「よど号」)が赤軍派を名乗る9人によってハイジャックされた。犯人グループは朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)へ亡命する意思を示し、同国に向かうよう要求した。よど号は福岡空港と韓国の金浦国際空港での2回の着陸を経た後、4月3日に北朝鮮の美林飛行場に到着。犯人グループはそのまま亡命した。運航乗務員を除く乗員と乗客は福岡とソウルで順次解放されたものの、運輸政務次官山村新治郎が人質の身代わりに搭乗し、運航乗務員と共に北朝鮮まで同行した後に帰国した。

犯人グループのその後
北朝鮮に渡った実行犯らは、当初は「世界革命を進める同志」として北朝鮮から手厚い歓迎を受け、主体思想による徹底的な洗脳教育を受けたといわれている。さまざまな証言から日本人拉致事件への関与が確実視される者もおり、現在、実行犯らは警察庁により国際指名手配されている。

実行犯が関わったとされる拉致事件

石岡亨さん松木薫さん拉致事件
福留貴美子氏拉致疑惑




若林盛亮(よど号事件実行犯)、鈴木邦男、小西隆裕(よど号事件実行犯)


小西隆裕(よど号事件実行犯)と植垣康博(連合赤軍)


植垣と鈴木邦男、徐裕行


鈴木邦男と植垣、徐裕行。


鈴木邦男と植垣、徐裕行、山本重樹

よど号グループ(拉致実行犯)と写真撮影をする鈴木邦男。
拉致被害者の人生など棚に上げて、犯人たちと仲良しこよしという訳だ。
こんな男と親密なのが徐裕行なのだ。



徐裕行「北朝鮮による日本人拉致事件の責任は在日コリアンも負うべきだという持論から、拉致問題解決を求める署名を集め、朝鮮総連に持参することを目的として、このブログを立ち上げました。」

ブログで拉致問題署名活動を呼びかける徐裕行。


ここまで書いて来たが、
鈴木邦男がオウム事件直後から徐裕行の支援をしていたことはほとんど知られていない。

「北海道新聞95年4月24日」では、鈴木は次のコメントをしている。

組織的な背景はないと思う。愛国者を自任している人は、「いつかは国のために死ななければならない」と考えている。マスコミが、「オウム真理教は国家を否認する存在だ」「内乱罪を適用すべきだ」といった情報を流せば、「『国賊』をほおっておけない」と、そう思い込ませたマスコミの責任は重い。熊本の波野村や山梨の上九一色村にも、右翼団体が凱旋に来ていた。警備を十分にしていなかった警察の体制も甘い



更に東京スポーツ4月25日号でも以下のコメントをしている。



ジャーナリストで右翼思想かの鈴木邦男氏は、徐容疑者が入会しているという『神州士衛館』なる団体は「初耳」だとした。
徐容疑者の組織は、有名な右翼団体ではなく”潜在右翼”だと推測している。「右翼団体というのは、無数に存在している。その中にあって”潜在右翼”というのは、純粋に国を憂え国を考えているといったたぐいの人が”右翼だ”などと名乗っているのを指す。多分、徐容疑者の団体もごく小さなもので名刺に『神州ー』なんて書いてあるだけで、目立った活動はしていないと思う」と鈴木氏は指摘した。

オウム真理教の山梨上九一色村の施設などに、右翼団体が街宣車で現れるなどしていたが、鈴木氏は「いつかこのようなこと(刺殺事件)になるんじゃないかと、いやな予感はしていた」と言う。
「世の中は、ことオウムに関して完全に冷静な判断ができなくなっている。サリンをバラまいたのが、オウムとほぼ断定してテレビなど大マスコミが報道している中で、純粋に国を憂う人間が、国民に変わって”やってやる”と思い、こんなことをやってしまったのでは?徐容疑者はある意味でオウム=サリンとテレビにマインドコントロールされていたのでは。オウム、村井氏は非常にかわいそうだ」と鈴木氏は語っていた。


外国人なのに徐を「国を憂う人間」と言い張る鈴木。
「徐容疑者はテレビに洗脳された」といっていた主張も後年「テロリストというより始皇帝を暗殺しようとした「刺客」荊軻のような気がした」と手のひらをかえし英雄視までした。

鈴木は朝ナマAREA増刊号でも徐を庇っていた。
(ゴーマニズム宣言 第9巻 小林よしのり 双葉社 1996年3月発行より引用)








鈴木「徐は右翼だ単独犯だかわいそうに!!」
小林「ちがいます」

刺殺事件直後から単独犯説をゴリ押ししていた鈴木邦男。

鈴木は神州士衛館を潜在的右翼、小さな愛国集団であると主張しているが、三重県警の調べで事務所の所有者が無関係な企業だったことが判明し、羽根組が暴力団対策法の監視の目を逃れるためにつくったダミー団体だったことがわかっている。



さらに徐が裁判で「若頭の指示」と供述しており、小林よしのりからも批判を受けている。
この時点で鈴木の主張に正当性はない。
それでも鈴木は事件発生から十数年間、単独犯説をゴリ押しし続けた。

では鈴木が徐を援護する裏に何があるのだろうか?


サンデー毎日(95年8月13日号36項)に興味深い記事がある。



「ある暴力団を破門され、現在は羽根組と親しいA氏という人物が、上峯被告から『もしおれが捕まったらB氏のところに連絡してくれ』と告げられていたというのです。この事実は捜査当局の資料にも記載されています」

捜査関係者が名を挙げたB氏とは、ある右翼団体の代表を務める人物である。学生時代から右翼活動に身を投じ、「思想家を持って任ずる民族派の大物(関係者)」といわれている。


上峯憲司が、かつて所属していた九州雷鳴社の命名者は野村秋介だった。
鈴木は野村の弟子にあたる。更に、鈴木は学生時代から民族派活動に関わり、右翼団体の代表も務めている。



上峯の依頼先が鈴木と断定するのは極論だが、このB氏が思想的、経歴的、恩師が野村秋介であることから、「鈴木に非常に近い人物」であることも十分ありえる話である。

刺殺事件から十数年、再び現れた黒いライン。
鈴木邦男も、村井秀夫刺殺事件の深い事情を知っているのだろうか。