私は、「言葉」にちょっと思い入れがあります。
というのは、
私は、在日朝鮮人で祖父や祖母は日本語がほとんど話せませんでした。
子供のころから、家の中は、韓国語・日本語のミックス状態。
ですが、私の母は話せません。
私は、小さいころ、韓国語が上手だったと聞きますが、小学校から日本教育になってからは、そんな機会もなく、
話せなくなりました。
でも、家では、韓国語が使われていたので、話せない自分がちょっとコンプレックスにも感じていました。電話やお客様・・・
隠れたいと思ったこともしばしば。
祖母はほとんど日本語は話せませんでした。(文字も読めない。韓国語の字も読めないようでした)
私が小さい時(3歳くらい?)祖母とバスに乗り、叔母の家に行ったときの話です。
バスを乗り間違えたのですが、
運転手さんとうまくコミュニケーションが取れず、そのまま降りることになりました。あまり状況は覚えていないのですが、その時の
情けないやら、ツライ・・・悲しい祖母の感情だけが私に伝わり、ずっとその感覚を覚えています。
今は、大丈夫ですが、30歳くらいまで、その道を通れませんでした。
祖母はどれほどつらかったか・・・・
確か、そこから家まで一緒に泣きながら歩いて帰ったと記憶しています。
小さい私には、言葉の壁をかんじ、なんともやるせない気持ちがあり、今でも思い出すたびにつらい悲しい気持ちになります。
祖母や祖父と、私は、なんとなくコミュニケーションは取れていました。今から考えると不思議だけど。
しっかり理解していなくても、まあまあ言いたいことはわかるもので。
そんなコミュニケーションの取り方をしていたからか、話さない会話に慣れてしまって、
自分の気持ちを深く話すことには、
苦手意識があるのかもしれません。
その時の祖父・祖母のことをちょっと恥ずかしいと思っていた時期もあるけど、
今は、誇らしくも感じています。
異国で言葉もわからないのに、住んで子育てして・・・なんとすごい人たちなんだろうと。
私にそんな勇気はない。それに比べれば・・・・今の私なんてなんにも成し遂げていない・・・
いまだにコンプレックスは克服できていないけど、しっかり向き合いチャレンジしています。
ただ、言葉がすべてだとは思わない。
それは、変わりません。
言葉は一つのコミュニケーションツール。
想いを伝えるのに、手っ取り早くではあるけど、
もっと深いところには、言葉はいらないという気持ちもあります。
言葉は嘘もある。いくらでも言うだけでも言える。本当でなくても・・・・
でも、行動は現実。
動きは事実
私の一番嫌いなことは、「いった・・・言わない・・・・」の喧嘩。この論議に何の発展性も生まれない。
行動で示せる人でいたいし、言葉だけでの言い回しで満足したくない。
なんだか、すごく祖母や祖父に会いたくなりました。
