家康の基本理念を崩せなかった八代吉宗② | 福永英樹ブログ

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【堂島米会所】

 ①で紹介させていただいたように、八代将軍徳川吉宗の頃から商品経済の発達により貨幣経済が一般庶民にも浸透し、武家と農民の収入源である米の市場価格が下落します。換金率が低下し、彼らは必要な現金を獲得することが困難になったのです。吉宗は新田開発による年貢増徴策で財政再建を図りますが、需要が増えぬままに供給を増やしたため、米価はますます下落します。また肥料だった秣(まぐさ)を育てる草地まで新田にしたため、農民たちは肥料を自給自足できなくなり、現金を払って金肥(油粕や千鰯)を求めなければならなくなります。困った江戸幕府は綿や菜種などの換金作物(商品作物)の栽培を農民に奨励し、それを販売させることにより彼らに必要な現金を獲得させます。しかしこれは三代将軍徳川家光の頃に制定された田畑永代売買禁止令(農地の流通化禁止)に反する政策であり、自作農を保護することにより安定的な年貢徴収を保てという徳川家康の基本理念を踏みにじるものだったのでした。

 そこで吉宗が人為的に米価を引き上げる手段として享保15年(1730年)に開設したのが、大坂堂島の米会所です。ここでは商人たちの空米取引(現物として存在しない先物取引による帳簿上の米)が公認され、実際の需要とは無関係な投機的な米の売買が行われます。その結果一時的に米価は吉宗の望みどおり上がりますが、あくまでも会所は商人たちの主導(儒教により武家は商業を蔑視していたため)でしたから、米相場は次第に彼らの都合の良いように操られていきます。こうなると凶作の時には商人たちの策動により米価が過剰に高騰し、貧しい庶民は飢えに苦しむことにやります。江戸後期の数々の大飢饉は天候不順による凶作が発端でしたが、幕府が米価高騰に歯止めを掛けられなかったことも、悲惨な状況を生み出した大きな要因だったのです。

 さらに大坂の大商人たちは諸藩の米の蔵元にもなって米相場を操ります。莫大な財力を得た彼らは、幕府や諸藩に金を貸す両替商も兼ねるようになり、公金の出納はもちろん、金銀の交換相場の調整権も握ります。また広大な地所の地主となり、その財は30万石の大名さえ遠く及ばない莫大なものになっていきます。吉宗の孫で十代将軍の徳川家治が田沼意次にさせた画期的な重商政策(幕府が商業に本格的に参画)とは、天下の財が大坂の大商人たちへ偏在してしまった悲惨な状況を打ち破るためのものだったのです。


 以上のように吉宗は非常に優秀な政治家でしたが、家康以来の儒教による商業蔑視からどうしても抜けきれなかったため、歴史を長い目でみた場合は中途半端でしかありませんでした。むしろ時代遅れの幕藩封建体制(徳川将軍家の治政)を無用に引引き延ばした張本人かもしれません。残念ながら彼が何よりも優先したのは、徳川という小さなものだったのです。