家康の基本理念を崩せなかった八代吉宗① | 福永英樹ブログ

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 江戸時代の人口推移を見ていくと、初代将軍徳川家康の幕府開設時(1603年)には全国で1200万人だったものが、徳川吉宗の八代将軍就任時(1716年)には3000万人へ増加しています。ところが吉宗の治政が終盤(~1745年)に差し掛かかった頃から急に増加がストップし、以後幕末まで3000万人を越えることはありませんでした。人口だけが国家の繁栄を示す指標ではないとはいえ、この時期こそが家康以来の幕藩封建体制(厳格な身分制度保持)の分岐点だったのです。つまり家康の理念理想が時代の流れに合わなくなり、吉宗はこれと実際に目の当たりする現実とのギャップに苦悩したわけですが、結局は彼による「享保の改革」は中途半端(家康理念を踏襲)なものに終わってしまいます。そこで彼が苦心の末に打ち出した2つの政策について見ていこうと思います。まず今日は『身分が低い有能な幕臣を重要な役職に就かせる』ための「足高の制」です。


【足高の制】

 家康は『戦国乱世に至った諸悪の根源は下剋上だった』とし、自らの治政(関ヶ原・大坂の陣)で定まった各階級の厳格な身分区分は、永代に渡る固定的なものだと宣言しました。つまり士農工商におけるすべての仕事や役割は、身分に応じた「世襲」を基本とするよう命じたのです。例えば幕府旗本(200石以上で1万石未満)の役職は、次の基準石高によりすべてが決められました。

・側衆、大番頭、留守居 5000石

・書院番頭、小姓組番頭 4000石

・大目付、江戸町奉行、勘定奉行 3000石

・新番頭、普請奉行 2000石

・京都町奉行、大坂町奉行 1500石

・伊勢山田奉行、長崎奉行 1000石

・新番組頭、大番組頭 600石

 またもし世襲により支障(ボンクラな将軍・藩主などの登場)が出た場合は、組織の力や法とルールで補うよう申し渡したのです。これは100年くらいは非常に良く機能し、その成果が先に記した人口増加へも繋がっていきます。まだ商品経済や貨幣経済が成長途上にあったため、農民は耕作に専念し、武士は年貢徴収と行政に専念できる環境にあったからです。しかし吉宗が登場する頃になると日本人の暮らしが豊かになり、商品経済と貨幣経済が国民の85%を占める農民にも浸透していきます。こうなると大商人を中心とした商業資本が台頭し、米価がどんどん下がっていきます。吉宗を筆頭とする武家階級は年貢米だけが収入源でしたから、複雑になった流通の実態をしっかりと把握し、より高いレベルの財政手腕(米価対応)を発揮することが求められるようになります。しかし先に記した基準石高がありますから、能力が高くても身分家格が低い幕臣は重要な役職に就くことができません。逆に世襲で暖衣飽食してきた高級旗本には、無能で意欲のない者が少なくなかったのです。そこで吉宗が考案したのが「足高の制」です。


 例えば600石の旗本の中に、3000石が基準の江戸町奉行に就けたい人材がいたとします。家康以来の家格制度がありますから、異例の3000石への加増というわけにはいきませんが、600石の旗本は在職期間中に限って不足分の2400石を「足高の制」により支給されたのです。今でいう企業の役職手当のようなものです。この制度は明らかに家康の基本理念を否定する画期的なものでしたが、無能な高級旗本たちは依然として高い禄高が温存されましたから、幕府財政は益々苦しくなっていきます。いきなり欧米のような共和制は無理としても、吉宗はこの機に幕府直轄領だけでも中央集権化するべきでした。つまりかつて織田信長が各地にいた土豪たちを土地から引き離して城下町へ集めたように、重要な課題(信長時代は領地拡大)を何よりも優先できる組織やシステムへの転換が必要だったのです。しかし残念ながら「足高の制」はその場しのぎの政策にしかなりませんでした。最も象徴的だったのが吉宗の孫の代で足軽の子孫から老中まで出世した田沼意次で、彼は幕府行政を本格的に商業に参画させる大事業に踏み切る寸前に、既得権者である旧勢力(松平定信ら家格の高い大名や旗本)の手により失脚してしまいます。従来の農本主義にこだわった定信は別として、ほとんどの妨害者は、成り上がり者だった意次に対する嫉妬の念による仕返しでした。つまるところ身分制度や家格制度とは徳川将軍家を守る防波堤のようなものでしたから、さすがの吉宗も、それを捨ててまで家臣庶民のために大改革を断行する度胸や見識の深さが、残念ながらなかったということです。


※次回②は堂島米会所の設立です。