豊臣兄弟の仲を修復した晩年の蜂須賀小六 | 福永英樹ブログ

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 豊臣秀長(1540~1591)が兄豊臣秀吉(1537~1598)の方針に断固反対したのは、明(今の中国)制服を見据えた朝鮮出兵(1592~1598)だと言われています。しかし実際に兄弟の仲がギクシャクし始めたのは意外にも早く、私は天正14年(1586年)初頭からだと考えています。その契機は秀長養子(仙丸)の実家である丹羽家を秀吉が急速に軽視して減退させたことで、決定的に意見が分かれたのは、秀吉が妹(旭・秀長の同母同父の妹)を離縁させて徳川家康へ嫁がせたことでした。この縁談を耳にした兄弟の母大政所(仲)は憤慨失望のあまり秀長居城がある大和国郡山へ引きこもり、秀長に秀吉への不満を激しく訴えたと言います。従って母と共に大和にいた秀長も、妹の縁談交渉にはまったく関与しなかったということになります。つまりこの件について彼は『勝手にしやがれ!』という姿勢だったわけですが、この間に旭と家康の縁談を進めながら豊臣兄弟の関係を見事に修復したのが、豊臣最古参重臣の蜂須賀小六正勝(1526~1586)でした。


 そもそも秀吉と家康が戦った小牧長久手の戦いに至った原因は、秀吉を憎む織田信雄(信長次男)が家康に加勢を懇願したからでした。しかし張本人信雄は早々に秀吉に屈して豊臣に臣従してしまったため、秀吉と家康の対立だけが残ったのです。小六は天正14年1月にこの責任の重さを強く信雄へ指摘し、家康との間に入って秀吉に臣従させるよう迫ります。信雄は早速家康と面会して豊臣への臣従を促しますが、慎重な家康はなかなか応じてくれません。困った秀吉が採った策が、妹旭と家康の縁談だったのです。しかし仲と秀長が反対したため、小六にこの面倒な役が回ってきます。小六は徳川家との交渉役に、豊臣家からは蜂須賀家親戚である浅野長政、織田の血筋である津田盛月、千利休の弟子である冨田左近を抜擢し、信雄の家老からは織田有楽斎と滝川雄利を出してもらいます。もちろん彼らにすぐに家康と直接交渉させたわけではなく、徳川家老の榊原康政などと実務レベルの根回しをさせたのです。秀長へは盟友前野長康を間に立たせ、天下のための忍耐を訴えたようです。しかし吉報を待っていた小六自身が重病に陥ってしまいます。それでもどうにか話がまとまり、5月14日に旭は浜松にいる家康と祝言を挙げたのです。この知らせを聞いた小六は、まるで安心したかのように5月22日に息を引き取りました。


 小六が秀長にどのような遺言を残したかは不明ですが、同年10月26日に大坂へ到着(豊臣家への臣従のため)した家康がまず訪ねたのが秀長の屋敷でしたから、小六の思いは伝わっていたのだと思います。秀長は秀吉以上に家康と親交を深め、翌年の九州平定でも、兄のために日向方面総大将として奮戦して大活躍しました。