財政金融をめぐる豊臣兄弟の確執 #8 | 福永英樹ブログ

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【#8 利休切腹から金融疑獄事件まで】

 1588年の木材疑獄事件の責任を取らされた豊臣秀長は、翌1589年の年始挨拶を関白豊臣秀吉から断られ、代わりに妊娠中だった茶々(秀吉側室)のために淀城築城(山城国)を命じられます。鶴松の誕生に秀吉は歓喜しますが、これ以降秀長の大坂登城がまったくなくなります。そしてその秋に秀吉は北条氏重臣が真田昌幸の名胡桃城を奪い取ったと難癖をつけ、秀長や徳川家康が構築した対北条氏和平路線を潰しました。ちょうど同じタイミングで秀長が重病に陥り、翌1590年の小田原征伐にも参戦できませんでした。また千利休を茶頭とした秀吉の茶会も激減し、小田原攻めの途中には、秀吉の前に顔を出した山上宗二の耳と鼻が削ぎ落とされるという恐ろしい事件が起きています。武功夜話には『秀吉の利休に対する過酷な仕置きを生前の秀長が憂慮していた』と記録されていますので、秀長は自らの死後の利休の悲しい結末を予期していたようです。翌1591年に入ると遂に秀長が死去し、僅か2ヶ月後には利休が秀吉から切腹を命じられます。有名な大徳寺山門事件と共に、利休が茶器をめぐる取引で私服を肥やしたことが粛清の理由とされますが、この言い分には二人と親しかった大徳寺の古渓に連帯責任を問う目的と、秀長利休による金融人脈に圧力をかける意味があったと思われます。


 そして多聞院日記によれば、利休死去の3ヶ月後に京都で奈良の金融商人が殺されるという事件が勃発します。犯人は返済を迫られた借り手だという噂が流れますが、同じタイミングで秀吉が貸し倒れに遭った金融商人たちの損害を補償し、同時に借り手側の借金もすべて棒引きにしたといいます。何だか出き過ぎのように感じますが、次は秀長の重臣で奈良の代官だった井上源五が、借り手だった商人たちから秀吉に直訴される事件が起きています。奈良市史は、秀長の金融事業の実務を担っていた源五が不正な金貸しをしたと説明しています。すると秀吉は一転して金融商人たちをすべて逮捕し、彼らは2年半も牢に入ることになります。当代記によれば源五の金融事業に複数の有力大名も絡んでいたようですが、秀吉は彼らの名前をあえて明らかにしなかったそうです。とにかく秀長利休路線の重商主義をすぐにでも潰さなければ、自らが今や遅しと待っていた朝鮮出兵の弊害になると思っていたのでしょう。そのためには手段は選ばなかったというわけです。

(#9最終回へ続く)